Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

私たちには天主が必要であり、私たちの主イエズス・キリストを通して、光の父なる天主から来る恩寵が必要である

2022年05月17日 | お説教・霊的講話

2022年5月15日 東京での説教 御復活後第四主日

レネ神父様

親愛なる兄弟の皆さん、

今日の書簡について、簡単な解説をしたいと思います。

天主のみ言葉は、いつも、私たちの霊魂のための、霊的な糧や恩寵に満ちています。ですから、聖ヤコボは、まず、教義と道徳に関する、美しく、非常に重要な原理を示すことから始めます。「すべてのよい贈り物と、すべての完全な贈り物は、変わることなく、変化の影さえもない光の父から、上からくだる」(ヤコボ1章17節)。

言い換えれば、すべての善は天主から来るものであり、天主はすべての善の第一の原因なのです。天主を第一の原理としない善は、あり得ません。自然の善と超自然の善の両方において、すべての善は天主から来るのです。私たちの存在も、私たちの内にあるあらゆる善も、すべて天主から来るのです。私たちは、まさに天主に依存することによって存在しており、私たちの行動は、天主に依存してのみ、善いものとなり得ます。私たちは、善の第二の原因にはなれますが、善の第一の原因にはなれません。私たちは、天主への依存を認めることによって、正しい謙遜(けんそん)の状態になり、それによって、霊魂は恩寵へと開かれるのです。「天主はおごる者に逆(さか)らい、へりくだる者を恵(めぐ)まれる」(ヤコボ4章6節)。

この原理は、私たちの本性が、善にして高潔(こうけつ)な人生を送るのに十分であり恩寵は必要ない、と主張するペラギウス主義に対する反駁(はんばく)です。これは、「私たちには天主は必要ない」と主張するすべての人々に対する反駁(はんばく)です。

私たちには天主が必要であり、私たちには、私たちの主イエズス・キリストを通して、光の父なる天主から来る恩寵が必要である、というのが真理です。私たちの主が、「私がいないとあなたたちには何一つできぬ」(ヨハネ15章5節)と言うことがおできになるのは、そのためです。

ですから、祈りは必要であり、祈りによって、私たちは、私たちが必要とするすべての恩寵を得るのです。さらに、天主は、私たちが求めるもの以上のものさえも、与えてくださるのです!

この聖ヤコボの一節の中の、次の部分に注意してください。天主は永遠に生きておられるのであり、私たち人間の時間の中で恩寵を与えてくださいますが、天主ご自身は、時間を超越(ちょうえつ)しておられます。「(天主は)、変わることなく、変化の影さえもない」(ヤコボ1章17節)。

聖ヤコボは続けて、父なる天主からの偉大な賜物(たまもの)を指摘しています。父なる天主は、洗礼によって、私たちを、キリストにおけるご自分の子とされました。「天主は、私たちを被造物の初穂(はつほ)とするために、み旨(むね)のままに、真理のみ言葉をもって私たちを生み出された」(ヤコボ1章18節)。

実際、私たちは洗礼を受け、「水を注(そそ)ぐことと、それに伴う(命の)み言葉によって清め」(エフェゾ5章26節)られるのです。この「真理のみ言葉」、「命のみ言葉」が、御父のみ言葉である私たちの主イエズス・キリストであり、洗礼の秘跡の言葉によって、私たちを清めてくださったのは、主イエズス・キリストです。すべての秘跡において、その形相(けいそう)はいくつかの聖なる言葉から成っていますが、洗礼(とご聖体)における言葉は、私たちの主イエズス・キリストご自身によって制定されたものです。

天主の恩寵は、自由に与えられることに注意してください。聖ヤコボは、「み旨(むね)のままに」、と言っています。それはつまり、天主からの最初の賜物(たまもの)は、常に、私たちが受けるに値(あたい)しないものである、ということです。この真理はまた、私たちが天の御父に対していつも謙遜(けんそん)で、感謝を忘れないための助けとなります。聖ヨハネが、「天主が、先に私たちを愛し給うた!」(ヨハネ第一書4章10、19節)と言うのも、このことです。

聖ヤコボが、「私たちを被造物の初穂(はつほ)とするために」(ヤコボ1章18節)と言うとき、聖ヤコボは、初期のキリスト教徒たち、特に聖ヤコボが司教であったエルザレムのキリスト教徒たちを指しています。

このような美しい原理を示した後、聖ヤコボは、この原理を日々の道徳に当てはめます。
「人はすべて、聞くに早く、語るに遅く、怒るに遅い者でありなさい」(ヤコボ1章19節)。天主のみ言葉を「聞くに早く」とは、つまり、私たちの主イエズス・キリストに従順で、天の教理を学ぶことに熱心であることです。
「語るに遅く」とは、つまり、批判するのが遅いことです。天主のみ言葉をすぐに批判し、自分が理解しなかった内容を非難する人々がいます。そのような人々はむしろ、沈黙のうちに理解しようとすべきです。

この聖ヤコボの言葉は、私たちの隣人についても、当てはまります。私たちは、隣人の話を「聞くに早く」、その人を批判するのに遅くなければなりません。私たちは、しばしば、その人の本当の状況や、動機や、事情を知らないからです。ですから、私たちは、「怒るに遅く」あるべきなのです。この「遅く」という単純な言葉は、怒りを避けるのにとても良い言葉です。憤(いきどお)りや怒りで自分の心臓の鼓動(こどう)が速くなっていると感じたら、いつでも、「遅く」行動することにしましょう。遅く話し、遅く呼吸をしましょう。

話す前に、批判する前に、心の中で小さなお祈りをする時間を取りましょう。これは誰にでも有効なことですが、特に子どもに対しては、そうです。まず、子どもに罰を与える前に、皆さんが子どもに何を期待しているかを、子どもが理解していることを確認しましょう。そうしないと、皆さんの矯正(きょうせい)は、たいしてうまくいきません。それから、子どもに、自分の間違いを直す時間を与えましょう。私の知り合いに、「3まで数える」ということした人がいます。その人は、子どもが何か悪いことをしたら、まず自分の期待を口に出すのです。「これをしてはいけません、『イチ』――これをしてはいけません、『ニ』――…」と。子どもは、「これをしてはいけません、『サン』」になったら自分が罰を受けると分かっていたため、たいていはその前にやめるのです。さて、親が望んでいたのは、子どもが悪いことをするのをやめることです。遅く行うことによって、親は子どもの矯正(きょうせい)を成し遂(と)げたのです。「怒るに遅くあれ」、これを忘れないでください。

聖ヤコボは、こう説明します。「人の怒りは、天主の正義を実現させないからである」(ヤコボ1章20節)。怒りは、しばしば私的な復讐(ふくしゅう)を求めますが、それは天主のなさり方ではありません。天主のなさり方は、「悪に悪を返すことなく、…善をもって悪に勝て」(ローマ12章17、21節)です。聖パウロもまた、テサロニケ人にこう言っています。「誰も他の人に対して悪に悪を返さぬように気をつけよ。いつも互(たが)いに、すべての人に善をすることを目指せ」(テサロニケ前書5章15節)。また、聖ペトロはこう言っています。「悪には悪を、侮辱(ぶじょく)には侮辱(ぶじょく)を返すことなく、むしろ祝福せよ。あなたたちは祝福の世継(よつ)ぎとなるために、そう召(め)されたからである」(ペトロ前書3章9節)。これが、真の柔和(にゅうわ)です。

柔和(にゅうわ)は、弱さではなく、逆に、まず自己に対する勝利、次に、やがて善が打ち砕く悪に対する勝利です。私たちの主ご自身が、怒りを避けることは第五戒の完成である、と教えておられます(マテオ5章21-22節)。

次に、聖ヤコボは、すぐに第六戒について語ります。「だから、すべての汚(けが)れや、あふれる悪を捨て去り、あなたたちの心に植えつけられたみ言葉を、柔和(にゅうわ)に受け入れなさい。み言葉には、あなたたちの霊魂を救う力がある」(ヤコボ1章21節)。言い換えれば、肉体の快楽ではなく、霊魂の快楽を求めなさい、ということです。

この世は、昔からあらゆる種類の汚(けが)れに満ちてきましたが、今日(こんにち)は、かつてないほどの状況です。そのようなものをすべて捨てない限り、誰も真のキリスト信者になることはできません。同じように、聖パウロはコロサイ人にこう言っています。「したがって、地上にあるあなたたちの肢体(したい)、淫行(いんこう)、汚(けが)れ、情欲(じょうよく)、邪欲(じゃよく)、貪欲(どんよく)を抑(おさ)えよ。これは、偶像崇拝(ぐうぞうすうはい)である。これらのことのために、天主の怒りが不信仰の子らの上に来るのである。その中に暮らしていたあなたたちも、しばらくはそのようにおこなっていた。しかし、今はすべてこれらのこと、怒り、憤(いきどお)り、悪意、冒涜(ぼうとく)、あなたたちの口から出る不潔(ふけつ)な言葉をすべて捨てよ。互いにうそを言うな。あなたたちは古い人間とその行いを脱(ぬ)ぎ、新しい人間をまとった。この新しい人間は、自分を造ったお方の姿に従い、ますます新しくなって深い知識に進む」(コロサイ3章5-10節)。そして、エフェゾ人に対してはこう書いています。「淫行(いんこう)の者、汚(けが)れた者、貪欲(どんよく)な者はみな、(これは偶像崇拝者(ぐうぞうすうはいしゃ)と同じであり)、キリストと天主の国を継(つ)がない。人のむなしい言葉にだまされるな。不従順な者の上に天主の怒りを呼ぶのは、それらの事柄(ことがら)である。だから、彼らと交わるな。もとあなたたちは闇(やみ)であったが、今は主において光である。したがって、光の子として歩め」(エフェゾ5章5-8節)。

聖パウロと聖ヤコボが対立している、という人々がいますが、これでお分かりの通り、この二人のいうことは、非常によく一致しています。聖ヤコボは、こう続けます。「ただみ言葉を聞くだけではなく、それを行うように努(つと)めよ。そうしなければ自分を欺(あざむ)くのである。み言葉を聞いてそれを行わぬ人は、鏡の中で生まれつきの自分の顔をながめる人に似ている。その人は自分を映(うつ)したが、去ってしまえば自分がどんな姿であったかすぐに忘れてしまう。しかし、自由の完全な法を一心(いっしん)に見つめて離れぬ人とは、聞いて忘れる人ではなく、実際に行う人であって、それを守れば幸せになる」(ヤコボ1章22-25節)。

ルターはこの一節に我慢できず、これが聖パウロのいうことと対立していると考えましたが、それは、間違っています。実際、聖パウロは、こう言っています。「天主のみ前に義とされるのは、律法を聞く人ではなく、律法を守る人である」(ローマ2章13節)。これでお分かりのように、両者のいうことは非常によく一致しています。どちらも、ルターの主張に反するものです!両者とも、天主の恩寵と、人間の行いの価値を、同時に肯定しています。ルターの異端(いたん)は、このふたつを対立させ、あたかも天主の恩寵が私たちの行いの価値をなくすかのように、そして、あたかも私たち人間の行いの価値を認めることが天主の恩寵に反するかのように、主張することにあるのです。 教会は、使徒ヤコボと使徒パウロの両者とともに、むしろ、私たちが善を行うには天主の恩寵が必要であり、天主の恩寵は私たち人間の行いに価値を与える、と教えています。

ですから、私たちが天主の掟(おきて)を忍耐強く守り続けるのを助けてくださるよう天主の恩寵を祈り求めつつ、天主のみ言葉に従順(じゅうじゅん)に、そして心をこめて、み言葉を忠実に実践しましょう。聖ヤコボが、「自分は宗教を行っていると考える人が、自分の舌(した)を抑(おさ)えず心を欺(あざむ)くなら、その宗教の行いはむなしい」(ヤコボ1章26節)と言うように、ルターの異端(いたん)は、まことに人を欺(あざむ)くものなのです。

「父なる天主のみ前に、清く汚(けが)れのない宗教とは、すなわち、貧(まず)しい孤児(こじ)や、やもめを見舞い、世の汚(けが)れに染まらないこと(である)」(ヤコボ1章27節)。悪を避け、善を行い、この世の腐敗(ふはい)を避け、あわれみを実践すること、これこそが真のキリスト教の道徳、真のカトリックの道徳であり、祈りの生活の実りなのです。

私たちが、使徒の元后(げんこう)たる童貞聖マリアが、聖ヤコボとすべての使徒たちとともに、この偉大な使徒聖ヤコボが今日私たちに語ったことを私たちが実践するのを助けてくださり、それによって、私たちがその実りを豊かに刈(か)り取ることができますように。アーメン。


【参考情報】ヴィガノ大司教:「ロー対ウェード」判決に関するリークされた米最高裁の草稿についての宣言

2022年05月17日 | プロライフ

【参考情報】ヴィガノ大司教、米最高裁、中絶、リークについて語る

Viganò. The U.S. Supreme Court, Abortion, and the Pronunciation Leak.

2022年5月12日

マルコ・トサッティ
親愛なる「Stilum Curiae」の友人と敵の皆さん、カルロ・マリア・ヴィガノ大司教のこの声明を受け取りましたので、喜んで公開します。どうぞ、お読みください。

§§§

「ロー対ウェード」判決に関するリークされた米最高裁の草稿についての宣言

米最高裁から出てきた草案に従って、最高裁判事たちが、1973年1月22日の「ロー対ウェード」判決は違憲であり、破棄されなければならないと宣言しようとしているというニュースを、ここ数日、メディアがリークしています。

第一に、広がっている誤解を解いておかなければならないのは、この最高裁が出す可能性のある判決は、中絶の道徳的正当性を論じるものではなく、むしろ1973年の判決が、個々の州が持っている主権に関して、合衆国憲法に適合しているかどうかを論じるものだということです。したがって、中絶の正当性に関する倫理的、道徳的な問題を扱っているのではなく、憲法の下での最高裁の管轄権に関する問題なのです。

「ロー対ウェード」判決が連邦州の主権に与えた「vulnus」(傷)は憲法上の問題であり、判事たちはそれについて判決を下さなければならないでしょう。

今回の判決のこの側面をメディアは意図的に語ってきておらず、その代わりに判決の具体的な内容を強調して、それをイデオロギーの旗じるしとしたのは重要なことです。また、ディープ・ステートが悪意を持って行ったこのプロパガンダ作戦には、このニュースが世論に巻き起こす議論を先鋭化させ、判事たちがまだ最終決定していない判決の動機づけに影響を与えさせる意図があることは明らかです。判決文の草稿が早々とリークされたことで、中絶推進派やアンティファが組織する暴力的な抗議デモが引き起こされ、同時に礼拝中のカトリック教会に対するスキャンダラスな挑発や冒涜的な攻撃が多発していることに、誰も気づかないでいることはできないでしょう。カトリック信者が勇気ある証しをすることは、キリストの教会の譲れない権利であると同時に、憲法修正第一条の下でのすべての米国人の譲れない憲法上の権利でもある、まさに礼拝と説教の自由の名の下に、教会の牧者たちが励まし支持すべきことです。

今は、疑似パンデミックの犯罪的管理に関して浮上しつつあるスキャンダルや、製薬多国籍企業と管理機関によって罪深く隠蔽されてきた、依然として未知の長期的なダメージと深刻な副作用が、まだ不明なヒトゲノムを不可逆的に変更する実験的治療の押し付けに関してのスキャンダルを、米国人がまだ完全に理解していないときです。また、ジョン・ダーラム特別検察官が「ロシアゲート」の調査を終了させる準備をしていて、オバマ、ヒラリー・クリントン、バイデン(その共犯者には当時のイタリア政府の最高レベルのメンバーが含まれています)がトランプの大統領選挙キャンペーンの抑圧に果たした役割について調査を受ける(そしてできれば反逆罪と政府機関への攻撃で断罪される)のがまもなく見られるであろうときです。さらには、ジョー・バイデンが、息子のハンターがウクライナで関わった汚職事件を必死に隠蔽しようとしていますが、この事件は遺憾なことにもバイデン自身のウクライナの生物学研究所への関与を含み、そこではSARS-CoV-2ウイルスの「機能獲得」の研究が行われ、その病原性と感染性を変化させたことが知られつつあるときです。しかも、ホワイトハウスが、インフレと原材料価格の上昇という米国経済の問題を、ロシア・ウクライナの危機のせいにしようと必死になっているときです。NATOが、米国のロビーに仕える武器商人として行動し、プーチンとゼレンスキーの和平交渉を何としてでも妨げようとしているときでもあります。

さあ、今こそ、世論の目をそらし、中絶反対派のプロライフと中絶推進派の「プロチョイス」の間の衝突を過激化させるための作戦が用意されているのです。その前には、パンデミックの茶番劇の間に、さらにその前には、ジョージ・フロイド事件と「ブラック・ライブズ・マター」運動が引き起こした鬱憤によって、同じ手法で大衆操作の実験を行い、成功させていました。

最高裁に非難されるべき点があるとすれば、それは、1973年に連邦各州で中絶が当然禁止されていたにもかかわらず、合法化を各州に押し付けようとしたためです。この権力の濫用が容認されたのは、最高裁が民主党のイデオロギー的な偏見にまみれていたからです。そのために、正義を求めて天に向かって叫ぶ、罪なき子どもたちの大虐殺を生んでしまったのです。「ロー対ウェード」判決は、自然法や天主の法だけでなく、合衆国憲法に謳われている原則そのものに違反する、意図的な偏見による操作だったのです。もし判事たちがこの傷(vultus)を癒やそうとするならば、自分たちが守ることを誓った法[合衆国憲法]を適用することだけに自分をとどめるでしょう。このことは、50年前の彼らの先任者たちが行う方法を知らなかったか、あるいは行いたくなかったことなのです。

5月11日に、米上院が(「女性の健康保護法」を阻止する投票によって)中絶推進派に足並みをそろえずに反対投票をしたのが本当なら、自称「カトリック」の政治家たち、とりわけジョー・バイデンやナンシー・ペロシが、スキャンダルを与えたことを知らされます。彼らは、社会的・立法的領域で自分たちが守るべき道徳を、良心のとがめもなく踏みにじっているのですから。

聖座と米国カトリック司教協議会は、断固たる中絶非難を行うべきです。それとともに、米国のカトリック信者が、教会の教導権と一致しない立場にある選出された下院議員には、投票できず、また投票してはならないことと、そのような教導権と一致しない者たちは破門されるということを再確認すべきです。位階階級の恥ずべき沈黙が明らかにしているのは、自分たちの世話に委ねられている人々を賢明に導くべき人々の持つ劣等感を裏付けるものです。

彼らは、そうする代わりに、前回の選挙キャンペーンで司教たちが支持した政治家たちと一緒になって、崖っぷちから落ちるまで従っているところなのです。ジョー・バイデンが、「女性の健康保護」という偽善的な婉曲表現の下に、中絶を「基本的権利」として主張するのを聞くことは、カトリックの社会的公約の意味を全く理解していないことの証明であり、そのことについての責任は、位階階級だけではなく、その指針を求めて位階階級を見ているカトリック教育制度全体にもあるのです。もし、卒業生がその道徳的重大性を理解することなく、中絶を支持すると宣言することができるならば、カトリックの高校や大学ではどのような教えがなされているのでしょうか? 無罪の被造物(人間の赤ちゃん)を殺すことを、自分の命よりも子どもの命を守るべき母親が決めることができると、どうして言えるのでしょうか? これが、米国人が支持し、広めたい「文明」なのでしょうか? これが、米国人が未来の世代に伝えたい価値観なのでしょうか?

私は、米国人がこのような大衆の注意をそらす作戦に乗せられたり、衝突や暴力的反応を煽るために意図的に行われた中絶賛成派の抗議行動に刺激されたりすることはないと確信しています。子どもの殺害を宣伝する人々は、安楽死、LGBTQイデオロギー、ジェンダー論、グレート・リセット、パンデミックの茶番劇、欧州の国々を弱めてディープ・ステートの犯罪を隠蔽するためのロシア・ウクライナ危機の利用を同様に支持していることを忘れてはなりません。

ですから、私たちが「上智の座」(Sede Sapientiæ)として崇敬する聖母が、最高裁判事たちの心を照らし、正義の感覚を起こさせ、胎児の命の神聖さと不可侵性を認識できるように祈りましょう。そして、創世記で予言された「女(のすえ)」が、中絶という恐るべき罪を引き起こさせる最初の者である蛇のかしらを踏み砕くことができますように。

2022年5月12日

+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ

Photo Credit


ヨゼフ陳枢機卿が香港で逮捕されたことに関するヴィガノ大司教の声明

2022年05月17日 | カトリック・ニュースなど

ヨゼフ陳枢機卿の逮捕に関するヴィガノ大司教の声明

The Arrest of Card. Joseph Zen. A Statement by Msgr. Viganò

2022年5月13日

マルコ・トサッティ
親愛なる「Stilum Curiae」の読者の皆さん、私たちは、ヨゼフ陳枢機卿が香港で逮捕されたことに関する、このヴィガノ大司教の声明を受け取りましたので、喜んで紹介します。どうぞ、お読みください。

§§§

ヨゼフ陳枢機卿猊下の逮捕に関する宣言

昨日、ヨゼフ陳枢機卿が香港当局に逮捕されたことが発表されました。この捜査と逮捕は、中国の国家安全保障を監視するために、つまり中国の独裁政権が関与した人権侵害に対するあらゆる形の反対意見や抗議を弾圧するために、北京政府が設置した特別警察部門によって行われたものです。

高齢の枢機卿は、過去に中国政権と聖座の間で締結された秘密協定に強い批判を表明しており、尋問を受けた後、保釈されました。彼のパスポートも没収されました。今回起こったことは、すべての人間が享受する自由と権利に対する非常に重大な侵害であり、聖なるローマ教会の枢機卿の場合は、なおさら嘆かわしいものです。バチカン広報局は、明らかに困惑しながらも、北京政府に正式な抗議をすることなく、「懸念」を表明するにとどめました。その数日前には、地下教会に属する保定市の共同体の他の10人の司祭が拉致され、愛国会(天主教愛国会)に加わるのを嫌がったため、中国共産党によって強制的に「再教育」へと送られ、この事件は地下教会に忠実なカトリック信者に対する虐待と弾圧のリストに加えられました。

中国・バチカン協定の毒入りの実が今、明らかになりました。ベルゴリオの教会は、地下教会に属するカトリック信者を愛国会と中国共産党との手による報復へと引き渡した後、その迫害について沈黙することを好んでいます。その代わりに、北京は聖座に毎年相当な資金を提供しています。つまり、傭い人たちは、沈黙の教会の殉教者たちの血がしみ込んだ銀貨30枚で自分たちを買い取らせているのです。

2020年9月、その悪名高い協定の更新の前夜、陳枢機卿はベルゴリオに会うためにローマを訪れましたが、この中国人枢機卿がこの協定とその度重なる違反についてよく知られた立場であるために、ベルゴリオは憤慨して会うのを拒否するという屈辱を与えたのです。このような教会のプリンス(枢機卿)に対する侮辱は、中国の独裁政権に明確なシグナルを送ったため、その後、この独裁政権は、結果を恐れず自由に行動できると考えたか、あるいは、バチカンも立場を取るだろうと考えたのでしょう。

しかし、バチカンに住むあの人は、新世界秩序(New World Order)の高位の代表たち、グローバリズムと高利貸し金融の代表たち、独裁者と戦争犯罪者たち、さらにはネオナチのアゾフ大隊で戦う兵士の妻たちを迎えるためなら時間をつくりました。アゾフ大隊はこの数日間、ロシアがアゾフスタン製鉄所を包囲している間に民間人を人間の盾として使いました。ロシア系カナダ人の活動家ピョートル・ベルジロフが、2人のウクライナ人の妻を教皇謁見に同伴したことを指摘する人がいました。彼はフェミニスト集団「プッシー・ライオット」(Pussy Riot)の創設者兼スポークスマンであり、西側の「フェメン」(Femen)に倣ってロシアの正教会に対して冒涜と涜聖を実行することで知られている人物です。冒涜を破壊活動の中心とする反キリスト教運動の代表者がバチカンで謁見を許されたことに、私たちは当惑を覚えます。

まったく曖昧なものではない、この二枚舌の態度は、ベルゴリオのディープ・チャーチが、サイコ・パンデミックの物語(ナラティブ)だけでなく、ディープ・ステートによるロシア・ウクライナ危機の狂ったような取り扱いにも完全に足並みをそろえていることを示しています。陳枢機卿は、ベルゴリオがまったく回答も謁見もしなかった人々のリストにいる「ドゥビア(dubia)の枢機卿」に加えられました。ベルゴリオは、ジェームズ・マーティン(イエズス会)のためなら、個人的に手書きで支援の手紙を書いてさえいるにもかかわらず、です。その何度目か分からないほど多くの支持をして、ベルゴリオは、カトリック教会内の悪名高いLGBTQイデオロギーの汎性愛を正常なものとし、それと一緒に多くの霊魂の永遠の破滅という結果になるのを意図していることを裏付けました。

バチカン外交の知恵と慎重さ、何世紀にもわたる経験による貴重な遺産は、かつて世界中のすべての裁判所によって賞賛されましたが、今日、ピエトロ・パロリンの指導の下、遠い記憶となっています。つまり、宮廷の利益、経済的な収益、犯罪の共謀は、天主と人間の両方の目の前で恥知らずにも優先されます。聖座が盗人の巣(ルカ19章46節)と化してしまったことを、信者たちはあきれて見ているのです。

私は、兄弟である司教、司祭、そして信者たちが、この困難な時期に、枢機卿猊下を祈りで支え、猊下への親密さと連帯感を表明するように呼びかけます。陳枢機卿が受けておられる試練が、聖なる教会に忠実に仕え、この世の精神に汚染されることを許すことなく、信仰に堅固であり続ける人々に主が約束された報いを、天から受けるに値するものでありますように。

+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ

2022年5月13日
ファチマの童貞聖マリアのご出現の記念日

Photo Credit

https://catholic.org.hk/en/media-20220512/

 


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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