Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

2023年10月9日、上野の藝大アートプラザでの冒涜の償いのための御聖体降福式

2023年10月24日 | お説教・霊的講話

2023年10月9日、上野の藝大アートプラザでの冒涜の償いのための御聖体降福式

【LIVE】イエズス・キリストへの冒涜の償い_御聖体降福式_2023年10月9日
Benediction of the Blessed Sacrament for the Reparation of Blasphemy in Tokyo on 9th October 2023 SSPX

愛する兄弟姉妹の皆様

この御聖体降福式は、特にイエズス様に対してなされる侮辱を償うために行いたいと思います。
上野の藝大アートプラザというところで、イエズス様の愛の行いである十字架の犠牲を冒涜する物が展示されています。9月30日から11月27日まで展示されるとのことです。

私たちを愛する主が、こうやって侮辱されて、人々が殴ったり嘲弄したり馬鹿にするのを私たちはそのまま見ることはできません。ベロニカのように、イエズス様に少なくとも慰めのタオルを、慰めの祈りをお捧げしたいと思います。償いの祈りを捧げたいと思います。

そこで今日の御聖体降福式は、特に償いの意向で行います。
このいわゆるアートと呼ばれるものを主催者が早く撤回するように、私たちイエズス・キリストを愛する人々がどれほどそれによって悲しむか傷つけられるかということを理解してくれることができるように祈りましょう。

それにもましてイエズス様がどれほどお悲しみになっているか、どれほど苦しまれるかということも考えて、この御聖体降福式をお捧げいたしましょう。マリア様の御取り次ぎを願いましょう。そこで、皆さんの、特に御一緒に御聖体の前でロザリオを唱えることができればと思っています。

罪の償いのために特に藝大アートプラザに展示されているイエズス様に対する冒とくを償うためにこのロザリオをお捧げいたします。
イエズス様の傷ついた聖心をお慰めいたしましょう。イエズス様が私たちを憐れんでくださいますように。聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
(使徒信経)(主禱文)(天使祝詞三回)(栄誦)

苦しみの玄義
第一玄義  この一連を捧げて主がゲッセマニの園にて、死するばかり憂い給いたるを黙想し、聖母の御取り次ぎによりて、罪を痛悔する恵みを請い願わん。
特にイエズス様が、未信者あるいは信者、イエズス・キリストから愛を受けるべき聖職者から受ける罪とその侮辱を償う恵みを請い求めましょう。

第二玄義 この一連を捧げて主が鞭打たれたるを黙想し、聖母の御取り次ぎによりて、罪を償う恵みを請い願わん。
イエズス様は特に私たちが肉体で犯す貞潔に反する罪の償いのためにこのむち打ちを打たれました。それと同時に今回その私たちを私たちの代わりに罪を償おうとされたイエズス様にボクシングで殴らせようとする招いている人々のためにこの罪を償うためにもこれをお捧げいたしましょう。

第三玄義 この一連を捧げて主がいばらの冠を被せられたるを黙想し、聖母の御取り次ぎによりて、侮辱を恐れざる御恵みを請い願わん。
イエズス・キリストは王であるにもかかわらず、ローマ人たちはそれを信ぜようとせず、いばらの冠という即興の戴冠式を行いました。イエズス様に嘲弄と屈辱を与え、葦の王笏を与え、ユダヤ人の王、挨拶しますと馬鹿にしました。イエズス様はどれほどの屈辱をお受けになったことでしょう、しかしこれは私たちの傲慢を償うために、あえて愛に満ちてお受けになりました。いばらの冠から流れる血潮は眼に溢れて眼は血潮でいっぱいになり、眼は見ることができなかったかもしれません。いばらは、一つは眼にも刺さったと伝えられています。それにもかかわらず愛のまなざしをもって私たちを憐れんでくださいます。私たちがイエズス様に、謙遜になります、とそのお恵みを請い求めましょう。特にこの犠牲を捧げてイエズス様に屈辱を与えようとする作家あるいは藝大アートプラザの人たちの回心を請い願いましょう。

第四玄義 この一連を捧げて主が十字架を担い給いたるを黙想し、聖母の御取り次ぎによりて、苦難を甘んじ受くる恵みを請い願わん。
特にこの十字架の道行きの時に、あるかよわい女性が一人立ち上がって、イエズス様のもとに近寄り、きれいなタオルを渡してイエズス様をお慰めしようとしました。聖女ベロニカです。イエズス様をお慰めするには、罪を償うためには、私たちは当局の許可は要りません。あまりにも当然であって、あまりにもしなければならないことであるからです。イエズス様はこの女性の聖ベロニカの勇気ある償いの業を見て、この非常に感動され、特別のお恵みを与えました。それはご自分の似姿、御顔をそのタオルにお写しになって、お返しになったことです。ベロニカはイエズス様のその聖なるお顔を決して一生忘れることがなかったでしょう。今では、天国で、その御顔を永遠に観て、幸福になっておられることでしょう。私たちも聖ベロニカに倣って、ぜひイエズス様をお慰めしたいと思います。

第五玄義 この一連を捧げて主が十字架につけられ、死し給いたるを黙想し、聖母の御取り次ぎによりて救霊の賜物を請い願わん。
イエズス・キリストが十字架につけられたのは、私たちが地獄に陥らないために、私たちの永遠の滅びを免がせるために、愛のいけにえでした。友人のために命を捨てるほど大きな愛はない。私たちを友として、ご自分の命を打ち投げてくださいました。最初におっしゃったことは「父よ、赦し給え、彼らはそのなすところを知らざればなり。」私たちの赦しをのみ、求めた行為でした。
主の十字架を見て、二つの態度があります。
一つは冒涜です。左にいた盗賊は、「もしもお前がキリストならお前が救われて十字架から降りて俺も救え」。そして冒涜の言葉を投げかけました。
右にいた盗賊聖ディディマスは、この左の盗賊をたしなめてこう言います。「私たちは当然の苦しみを受けている。しかし一体この方はどんな悪いことをしたのか。主よ、御国に至らん時、わたしのことを思い出してください」。この言葉によって右の盗賊は、永遠の福楽を約束されました。
私たちも聖母の御取り次ぎによって、イエズス様の近くに居りたいと思います。使徒たちが皆逃げて逃亡してしまってもマリア様と聖使徒ヨハネそしてマグダレナ・マリア、サロメ、その他少数の弟子たちとともにイエズス様をお慰めしたいと思います。そして私たちのことを思い出してくださいとお祈りいたしましょう。


【ブラントミュラー枢機卿 バーク枢機卿 イニゲス枢機卿 サラ枢機卿 陳日君枢機卿】再作成して教皇フランシスコに提出された質問(Dubia)

2023年10月24日 | カトリック・ニュースなど

【参考資料】再作成してローマ教皇に提出した Dubia (2023年8月21日付)

Reformulated Dubia

フランシスコ教皇聖下

教皇聖下、

私たちは、聖下が私たちに提供しようとお望みになったお答えにとても感謝しております。私たちが最初に明確にしたいと思っておりますことは、私たちが聖下にこのような質問をいたしましたのは、私たちが生きる現代の人々との対話を恐れてのことでも、キリストの福音について彼らが私たちに質問することを恐れてのことでもないということです。実際、私たちは、聖下と同様に、福音が人間の生活に充満をもたらし、私たちのあらゆる質問に答えてくれると確信しております。私たちを動かす懸念は、それとは別のものです。私たちが懸念しておりますのは、福音が人の心を変容させる能力を疑い、もはや健全な教理ではなく「耳に快い教え」(ティモテオ後書4章3節参照)を提案することに終始する司牧者たちがいるのを見ていることです。私たちにはもう一つ懸念があります。天主の御あわれみとは、私たちの罪を覆い隠すことにあるのではなく、それよりもはるかに偉大なこと、つまり、私たちが天主の掟を守ることによって天主の愛にお応えできるようにさせてくれること、すなわち、私たちが「悔い改めて福音を信じる」(マルコ1章15節参照)ことができるようにさせてくれることにある、と私たちが理解することです。

聖下が私たちにご回答くださったのと同じ誠意をもって、私たちが付け加えなければならないのは、聖下のご回答が、私たちが提起した疑問を解決しておらず、どちらかといえば疑問を深めていることです。ですから、私たちは、ペトロの後継者として、兄弟たちを信仰において固めるよう主から使命を受けておられる聖下に対して、これらの質問を再提出し、再整理しなければならないと感じております。まさにこのことが、今度のシノドスの観点から言えば、もっと緊急を要することです。多くの人々が、私たちの「dubia」(質問)が懸念しているまさにその問題について、カトリックの教理を否定するためにこのシノドスを使おうと望んでいるのですから。それゆえ、私たちの質問を、簡単に「はい」か「いいえ」でお答えいただけるようにして、聖下に再提出させていただきます。

1.聖下は、教会が信仰の遺産についての理解を深めることができると主張しておられます。これは確かに「啓示憲章」(Dei Verbum)8条が教えていることであり、カトリックの教理に属するものです。しかし、聖下のご回答は、私たちの懸念を捉えてはおりません。司牧者たちや神学者たちを含む多くのキリスト信者は、私たちの時代の文化的かつ人間学的な変化は、教会が常に教えてきたこととは正反対のことを教えるよう、教会を後押しすべきだと主張しております。このことは、信仰告白、秘跡を受けるための主観的条件、道徳律の遵守といった、私たちの救いにとっては、二次的な問題ではなく本質的な問題に関わるものです。
ですから、私たちの「dubium」(質問)をこう言い換えましょう。教皇の「教皇座宣言」(ex Cathedra)によるにせよ、公会議の定義によるにせよ、世界中に散在している司教たちの通常の普遍的教導権によるにせよ(「教会憲章」[Lumen Gentium]25条参照)、信仰と道徳の事柄において、今日の教会が、教会が以前に教えてきたことと反対の教理を教えることが可能なのでしょうか。

2.聖下は、結婚と他の形態の性的な性質を持つ結合との間に混同があってはならず、それゆえに、そのような混同を生じさせるような同性カップルの儀式や準秘跡の祝福は避けるべきであるという事実を主張しておられます。しかし私たちの懸念は、それとは異なるものです。私たちが懸念しておりますのは、同性カップルの祝福が、結婚に類似しているように思わせるだけでなく、同性愛の行為が実質的に一つの善として、あるいは、少なくとも天主が人々に天主への旅において求める善の可能性のあるものとして提示されるのではないかという点で、いずれにしても混同を生み出す恐れがあるということです。
ですから、私たちの「dubium」を言い直しましょう。状況によっては、司牧者が同性愛者同士の結合を祝福し、同性愛の行為が天主の法やその人の天主への旅に反しないかのようにほのめかすことは可能でしょうか。
この「dubium」と関連して、もう一つの「dubium」を提起する必要があります。普遍的な通常教導権が支持する教え、すなわち、結婚外のあらゆる性的行為、特に同性愛の行為は、それが起こる状況やそれが行われる意向にかかわらず、天主の法に反する客観的に重大な罪を構成するという教えは、有効であり続けるのでしょうか。

3.聖下は、信徒を含むすべての人が参加し、声を上げるよう求められているという点で、教会にはシノドスの次元があると主張してこられました。しかし、私たちの困難は別のところにあります。今日、これからの「シノダリティー」に関するシノドスは、教皇との交わりにおいて、あたかも教会の最高権威を代表するかのように提示されています。しかし、司教シノドスは教皇の諮問機関であり、司教団を代表するものではなく、シノドスの決定を批准する義務を負うローマ教皇が、場合によってはシノドスに決議権を明示的に付与しない限り(教会法343条を参照)、シノドスで扱われる問題を解決することも、それに関する教令を発することもできません。これは、次のシノドスが提起しようとしているような、まさに教会の構造そのものに触れるような問題に司教団を関与させないということは、まさにシノドスが促進させたいと主張しているシノダリティー【共に歩むこと】の根幹に反することになるという点で、決定的なポイントです。
ですから、私たちの「dubium」をこう言い換えましょう。牧者や信徒の中から選ばれた代表者だけしかいない、ローマで開催される司教シノドスは、自らを表現するよう求められる教義的あるいは司牧的な事柄において、独占的にローマ教皇および「かしらとともに」(una cum capite suo)司教団に属する教会の最高権威を行使するのでしょうか(教会法336条を参照)。

4.ご回答の中で、聖下は、聖ヨハネ・パウロ二世の「オルディナーチオ・サチェルドターリス」(Ordinatio Sacerdotalis)での決定が確定的に保持されるべきものであることを明確にされ、また、司祭職を権力という観点ではなく、奉仕という観点で理解することが、司祭職を男性のみに限定するという主の決定を正確に理解するために必要であることを正しく付け加えられました。他方で、ご回答の最後の点で、この問題はまだ検討の余地があると付け加えられました。私たちは、この発言によって、この問題がまだ決定的な形で決定されていないことを意味すると解釈する人がいることを懸念しております。実際、聖ヨハネ・パウロ二世は「オルディナーチオ・サチェルドターリス」の中で、この教理は通常の普遍的な教導権によって不可分に教えられてきたものであり、したがって、この教理は信仰の遺産に属するものであると断言しています。これは、この使徒的書簡について提起された「dubium」に対する教理省の回答であり、この回答はヨハネ・パウロ二世自身によって承認されました。
ですから、私たちの「dubium」を再定義しなければなりません。つまり、教会は将来、女性に司祭叙階を授ける権限を持つことができるのでしょうか。そうする結果として、叙階の秘跡が洗礼を受けた男性だけに独占的に留保されることが、叙階の秘跡の本質そのもの――これについて教会は変更することができない――に属していることに、反することになるのではないでしょうか。

5.最後に、聖下は、トリエント公会議の教えを確認されました。この教えによれば、秘跡による赦しが有効であるためには、もう二度と罪を犯さないという決意を含む罪人の悔い改めを必要とします。そして聖下は、天主の無限の御あわれみを疑わないよう、私たちを招かれました。私たちの質問は、天主の御あわれみの偉大さを疑うことから生じているのではなく、逆に、この御あわれみがあまりに偉大であるがゆえに、私たちは天主に立ち返り、罪を告白し、天主の教えに従って生きることができるのだという自覚から生じているのだということを、改めて申し上げたいと思います。次に、罪の告白と悔い改めが暗黙のうちに含まれている可能性がある以上、単に告白に近づくことが赦しを受けるための十分な条件であると、聖下のご回答を解釈する人もいるかもしれません。
ですから、私たちの「dubium」をこう言い直したいと思います。罪を認めながら、二度と罪を犯さないという意向をいかなる形でも拒否する悔悛者は、秘跡による赦免を有効に受けることができるでしょうか。

2023年8月21日、バチカン市にて

Walter Card. BRANDMÜLLER         Raymond Leo Card. BURKE
Juan Card. SANDOVAL ÍÑIGUEZ      Robert Card. SARAH
Joseph Card. ZEN ZE-KIUN

ヴァルター・ブラントミュラー枢機卿   レイモンド・レオ・バーク枢機卿
フアン・サンドヴァル・イニゲス枢機卿  ロペール・サラ枢機卿
ジョゼフ陳日君枢機卿

この写しはルイス・フランシスコ・ラダリア・フェレール枢機卿猊下(イエズス会)にも送った。


【ブラントミュラー枢機卿 バーク枢機卿 イニゲス枢機卿 サラ枢機卿 陳日君枢機卿】教皇フランシスコに提出された「Dubia」(質問)に関するキリストの信者への告知

2023年10月24日 | カトリック・ニュースなど

【参考資料】教皇フランシスコに提出された「Dubia」(質問)に関するキリストの信者への告知

Notification to Christ’s Faithful (can. 212 § 3) Regarding Dubia Submitted to Pope Francis

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教皇フランシスコに提出された「Dubia」(質問)に関するキリストの信者への告知(教会法212条3項)

キリストにおける兄弟姉妹の皆さま、

私たち聖なる枢機卿会のメンバーは、「教会の善益に関し、自己の意見を教会の牧者に表明する」(教会法212条3項)全信徒の義務に従って、また何よりもまして「個別的に…特に普遍教会の日常的な関心事について、ローマ教皇を援助する」(教会法349条)べきである、枢機卿の責任に従って、次の司教シノドス――これは、教会の不変の教理と規律に公然と反しており、信徒やその他の善意の人々の間に大きな混乱と誤謬への転落をこれまで生み出しましたし、また生み出し続けています――の挙行に関わる高い地位にある高位聖職者のさまざまな宣言を考慮して、ローマ教皇に深い懸念を表明しました。

2023年7月10日付の私たちの書簡によって、私たちは、教会の教理と規律を「responsa」(回答)によって明らかにする機会を長上に提供するために、長上への「dubia」(複数の質問)の提出という実績ある慣行を用いて、教皇フランシスコに五つの「dubia」(下の部分を参照)を提出しました。教皇フランシスコは、2023年7月11日付の書簡によって、私たちの書簡に回答されました。

教皇の書簡を読むと、これは「Responsa ad dubia」(質問に対する回答)の慣例に従っておらず、私たちは、教会の永代にわたる教理と規律に基づく明確な回答を引き出すために、「dubia」を再作成しました。2023年8月21日付の書簡によって、私たちはローマ教皇に再作成した「dubia」(日本語訳)を提出しました。現在までのところ、私たちは再作成された「dubia」に対する回答を受け取っていません。

「dubia」のテーマの重大性、特に司教シノドスの総会が間近に迫っていることを考慮すると、私たちは、信徒の皆さんにお知らせすることが私たちの義務であると判断します(教会法212条3項)。それは、皆さんが、混乱、誤謬、落胆に陥ることなく、むしろ、福音がこれまで以上に明確に教えられ、これまで以上に忠実に守られるよう、普遍教会、特にローマ教皇のために祈ることができるようにするためです。

キリストにおいて、
ヴァルター・ブラントミュラー枢機卿
レイモンド・レオ・バーク枢機卿
フアン・サンドヴァル・イニゲス枢機卿
ロベール・サラ枢機卿
ジョゼフ陳日君枢機卿

2023年10月2日、ローマにて

同封物:2

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「質問事項」(DUBIA)

1 文化的・人類学的な流行の変化に応じて天主の啓示を再解釈すべきだという主張についての質問(Dubium)。

数人の司教の発言は訂正も撤回もされていませんが、私たちは次のことを問います。教会において、天主の啓示は私たちの時代の文化的変化と、この変化が促す新しい人間学的展望に従って再解釈されるべきなのでしょうか、それとも、天主の啓示は永遠に拘束力を持ち、不変であり、それゆえ、矛盾してはならないものなのでしょうか。第二バチカン公会議の宣言に従えば、啓示を垂れる天主に「信仰の服従」(「啓示憲章」[Dei Verbum]5条)をするのが当然であること、また、すべての人の救いのために啓示されたものは「完全に、代々にわたって」生き生きと留まらなければならず、かつ「あらゆる世代に伝達され」(7条)なければならないこと、また、信仰は「永久に一度だけ伝えられ」(8条)ているがゆえに、【信仰に関する】理解の進歩は、事や言葉の真理のいかなる変化も意味しないこと、また、教導権は天主の言葉に優越するものではなく、伝えられてきたものだけを教えること(10条)を述べています。


2 いま広がっている同性の結合を祝福することが、啓示および教導権と一致するとされる主張(カトリック教会のカテキズム2357条)についての質問(Dubium)。

聖書で確認された、天主の啓示――これを教会は「天主の命令と聖霊の援助によって、…天主の言葉を敬虔に聞き、聖く保存し、忠実に説明する」(「啓示憲章」10条)のですが――によると、「初めに」天主は人をご自身の像にしたがって創造され、男と女を創造され、彼らが増えるように祝福されました(創世記1章27-28節参照)。このことについて使徒パウロが教えているのは、性別を否定することは創造主を否定することの結果であること(ローマ1章24-32節)です。そこでこう問います。教会は、啓示された教理を裏切ることなく、この「原理」から逸脱し、「真理の輝き」103条が教えたことに反して、それを単なる理想とみなし、"同性の結合"のような客観的に罪深い状況を「可能な善」として受け入れることができるでしょうか?

3 シノダリティーは「教会の構成要素」(使徒的憲章「エピスコパーリス・コムーニオ」[Episcopalis Communio]6条)であり、教会はその本質からしてシノドス的であるという主張についての質問(Dubium)。

司教シノドスは司教団を代表するものではなく教皇の諮問機関に過ぎない――何故なら司教たちは信仰の証人として、真理の告白を委任することはできないからです――ことを考えて、私たちは次のことを問います。シノダリティーは、教会の創立者【イエズス・キリスト】が意志した教会の構成秩序を歪めることなく、教会の永続する統治における最高の規定基準でありうるのでしょうか。主の意志によれば、教会の最高かつ完全な権威は、教皇がその職責の力によって、また、その長であるローマ教皇とともにある司教団によって、行使され(「教会憲章」22条)ます

4 「教会の神学は変わった」、したがって女性に司祭叙階を授けることができるという説を牧者や神学者が支持していることについての質問(Dubium)。

第二バチカン公会議によって教会の神学とミサの意味が変わったとする、訂正も撤回もされていない一部の高位聖職者の発言の後で、第二バチカン公会議の次の発言がまだ有効であるのか否かを問います。すなわち、(信徒の共通司祭職と役務的または位階的司祭職が)本質的に異なるものであって、程度においてのみ異なるものではない」(「教会憲章」10条)、また、「いけにえをささげ、罪を赦すという叙階の聖なる権能」(「プレスビテロールム・オルディニス」[Presbyterorum Ordinis]2条)の力により、司祭は、仲介者キリストの名とそのペルソナにおいて行動し、キリストを通して、信徒の霊的犠牲が完全なものとされる、ということの有効性です。

さらに問うべきことは、聖ヨハネ・パウロ二世の使徒的書簡「オルディナーチオ・サチェルドターリス」(Ordinatio Sacerdotalis)の教えは、女性に司祭叙階を授けることは不可能であることを決定的に保持すべき真理として教えていますが、これはまだ有効であるのでしょうか。なお有効ならば、この教えはもはや変更されることなく、司牧者や神学者の自由な議論の対象でもありません。

5 「赦しを得るのは人間の権利である」という声明と、告解の秘跡で痛悔が必要な条件ではなく【司祭は告解で無条件に】すべての人に常に赦しを与える義務があるとする教皇の主張についての質問(Dubium)。

トリエント公会議の教えによれば、もう罪を犯さないという意向をもって犯した罪を憎むことからなる悔悛者の痛悔(第十四総会第四章:DH1676)が、秘跡としての告解が有効であるために必要です。この条件が満たされていないことが明らかな場合、司祭は赦しを延期しなければならないと、トリエント公会議は教えています。ここで私たちの質問はこれです。このトリエント公会議の教えは、今でも有効であるのでしょうか。

2023年7月10日、バチカン市にて

Walter Card. BRANDMÜLLER           Raymond Leo Card. BURKE
Juan Card. SANDOVAL ÍÑIGUEZ        Robert Card. SARAH
Joseph Card. ZEN ZE-KIUN, S.D.B.

ヴァルター・ブラントミュラー枢機卿   レイモンド・レオ・バーク枢機卿
フアン・サンドヴァル・イニゲス枢機卿  ロベール・サラ枢機卿
ジョゼフ陳日君枢機卿(サレジオ会)


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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