Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

「愛である」天主は人々から愛されていません。「愛である」天主をまことに愛しましょう

2024年06月05日 | お説教・霊的講話

聖霊降臨後第二の主日 ― ご聖体にまします天主への愛

ワリエ神父 2024年6月2日

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

親愛なる兄弟の皆さま、

アッシジの聖フランシスコは、イエズスがこの世のために命を捧げられたその愛を体験できるようにと天主に願いました。聖フランシスコが十字架刑について観想したとき、「愛が愛されていない」と嘆いて泣いたものでした。13世紀、アッシジの聖フランシスコはカトリック信者に囲まれていました。今日も同様に、「愛である」天主は、カトリック信者にもカトリック信者でない人にも愛されていません。

そうです、私たちはカトリック信者として、ご聖体への信仰を持っています。言い換えれば、私たちは、ミサのいけにえの間、私たちの主がご聖体に本当に現存しておられ、そして聖体拝領のときに私たちは主をお受けしている、と信じています。私たちの主が「これは私の体である」、また「私は命のパンである。私が世の命のために与えるパンは、私の肉である。私の肉はまことの食べ物であり、私の血はまことの飲み物である」(ヨハネ6章)と断言して言われたことを、私たちは信じています。

異教徒だけでなくプロテスタントも、私たちの主が本当に現存しておられることを信じていません。ですから、ご聖体の神秘に対する私たちの信仰は良いものであり、称賛に値するものであるのは確かです。

しかし、それで十分なのでしょうか。なぜ私たちは、私たちの主に対してしばしば冷淡なのでしょうか。私たちは、主に対する尊敬を欠いていないかもしれませんが、主が私たちに求めておられるのは尊敬だけでしょうか、それとも尊敬と愛の両方でしょうか。私たちは、ただ主のしもべにすぎないのでしょうか、それとも主のしもべであると同時に主が愛される子どもなのでしょうか。「愛が愛されていない」。私たちは、少し、(祭壇の上にあるような)聖人の遺物を扱うように、主を扱っているのです。聖遺物とはラテン語でいわゆる「遺物」を意味し、通常は聖人の衣服か骨です。私たちは聖遺物を敬い、接吻したり、香をたいたりします。聖遺物は私たちのために恩寵や奇跡さえ、もたらしてくれるかもしれませんが、聖人たちは天にいるのであって、ここ地上にはいないという意味で、言ってみれば、これらは死んだもの、あるいは、静物です。ご聖体は単なる聖遺物でしょうか。そうではありません! 私たちの主は生きておられ、私たちの間に住んでおられます! 私たちの主は、二千年前にパレスチナにおられ、今天におられるのと同じように、祭壇の上に存在しておられます。主がこの愛の秘跡をおつくりになったのは、「私たちを孤児(みなしご)にしないため」ばかりではなく、最後の晩餐での聖ヨハネのように、私たちが主の胸に憩うことができるようにするためでした。主は、私たちが「途中で倒れること」を望まない良き父のようなお方であり、そのため主は私たちに「日用の糧」を与えてくださるのです。

私たちはこのことについて真剣に考え、黙想することがあるでしょうか。私たちは天主を愛することに時間を費やしているでしょうか。まことに愛すべき天主を…。それとも、私たちの宗教は単なる形だけのものなのでしょうか。「今日は主日だ。私はミサに行く必要がある。そうしたら、するべきことを一つ終えることができる。完了だ!」

親愛なる兄弟の皆さま、ご聖体は、何かではなく何者かなのです。

ご聖体の祝日を機会に、私たちの聖体拝領の質を高めましょう。私たちの天主である「愛」と親密になるその瞬間のために、より良い準備をしましょう。

「愛である」天主をまことに愛しましょう。アーメン。



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