2021年5月3日(月)秋田巡礼
聖ピオ十世会司祭 ドモルネ神父 霊的講話1
「ポンマンのマリア様の御出現の出来事:力ある聖母」
同時通訳:小野田圭志神父
今年は、ポンマン(Pontmain)の御出現の150周年で、私はこの3回の講話の時に、この御出現についてお話したいと思っています。
その意味や、それから私たちが引き出すべき教訓、あるいはこの秋田のマリア様とポンマンのマリア様の関係や、その関連性についてお話したいと思っています。ポンマンの事を知る事によって、秋田の意味を深く理解できると思っています。
この話は3つの部分に分けられます。
1つは、どのようにしてマリア様が御出現なさったのか?
第2は、その御出現の時の間のお祈り、そしてそのお祈りに対して、マリア様はどのような反応をされたのか?どのような態度を取られたのか?
そして最後に3番目に、マリア様がどのようにして十字架の、真っ赤な朱の血に染まった十字架像を私たちにお見せになって下さったのか?その「贖いの力」について、話したいと思っています。
そしてこの3つの部分にタイトルを付けるとしたら、第1の部分は「力あるマリア様」、第2が「希望なるマリア様」、第3は「憐れみのマリア様」というタイトルを付けたいと思います。
では、どうやって御出現があったか?という事を話します。
まず、「ポンマン」という所ですけれども、ポンマンというのは、フランスの北西ノルマンディーとブルターニュの間の方にあって、小さな小さな村でした。寒村です。そこでそこの住民は500名を数えるか否かで、そしてそのポンマンの住んでいる人たちの状況は、本当にもう哀れで惨めなものでした。
なぜかというと、革命、また戦争によって疲れてきっており、非キリスト教化というものが非常に進んでいました。ですから村のほとんどの人にとっては、宗教を実践するという事もなく、お祈りもする事もなく、荒廃した生活をしていました。
ところが1886年、新しい神父様が主任司祭が任命されました。この司祭は非常に熱心で、そしてお祈りをよくする方で、そして深いマリア様に対する信心がありました。
そしてこのマリア様の信心をこの他の村人に伝えようとして、そしてその結果、この村の人たちの生活が、信仰生活がガラリと変わりました。この村は信心深い村に、また立ち戻って行きました。
特にこの神父様は、マリア様の御影がどんな家にも飾られるように、もちろん私たちの心にも飾られて、そして至る所にマリア様の御姿があるように、としていました。特に教会の一番上の高い所にもマリア様の御影を付けて、「マリア様がこの村全てを祝福して下さるように」とされました。
1870年のフランスの状況は非常に散々たるものでした。まずプロシアと戦争して、そして負けました。フランス軍は敗退し、そしてプロシアの侵略が始まっていました。人々は、一体どうなってしまうのか、という事で恐れていました、恐怖がありました。特にその冬は非常に寒いものであって、人々には苦悩がありました。
特にポンマンでも同様でした。ポンマンのすぐ隣の町、ラヴァル(Laval)という所では、もう既にプロシア軍が来て到着していて、次はポンマンの番でした。
特にその小さな村でしたけれども、38名の若い青年たちは既に徴収されていて村にはいませんでした。残された両親は、この自分の子供が生きて帰って来るのか、戦死するのではないか、という事で非常に心配していました。子供たちの身を心配していました。
そしてフランス全体、そしてポンマンには、「絶望」がその雰囲気となっていました。
その翌年、1871年1月17日、毎週主日に「希望の聖母」という聖歌をミサの後に歌うのですけれども、村の人はそれを歌う事さえもできないほど、希望を失っていました。
1871年1月17日の夕方でした。17時30分頃。その時、ユージンという12歳の子供と、ジョゼフ10歳の子供、そしてそのお父さんは、馬小屋で牛に餌を与える為に準備をしていました。
ところが、何かユージンは、何か外の事が気になって、「あれ、今、天気はどうだろうか?」と思って、馬小屋のドアの方に行きました。実はこれは、マリア様からの呼びかけでした。
ドアの外に出て外の風景を見ようと思ったところ、ユージンは馬小屋の屋根の上に、非常に美しい女性が、貴婦人がおられるのを見ます。
彼らの後に言うには、「これほど美しい方を見たことは、今まで1度もない」と言います。
この御婦人は青いガウンを着ておられて、そして青いスリッパあるいは靴のようなものを履いておられて、それには金の飾りが付いていました。それから黒いベールを被っておられて、そして金の王冠を被っておられました。
そしてこの方は、優しく微笑んでおられて、そしてその方の上と左右には、合計3つの星が現れていて、あまりにも美しいその御姿に、ユージンは15分間、何もせずに、動く事もできずに、それをずっと見守って見つめていました。
すると、15分見つめていたユージンは、大人に言います、「ねぇねぇ、この綺麗な方が見えない?」すると外に出て見ると、見えません。3つの星は見えるのですけれども、何も見えません。「見えない。」「えぇ~。」他の人にも聞いてみると、「見えない。」
そこでユージンはジョゼフに「来い」と言って、「見えるか?」と言うと、「こういう、こうだろ、こうだろう。」「うん、そうだ、そうだ。」ジョゼフには見えるのです。
そしてお父さんを呼んできて、「お父さん、見えますか?」「見えない。何も見えない。星はあるけど、見えない。」そうこうしているうちにお母さんも来て、「お母さん見えますか?」「見えない。星は見えるけど、見えない。」
子供たちに、「そんな下らない冗談はやめにして、早く牛にご飯を与えなさい。」子供たちは仕方なくこの場を離れて、牛に餌をやるのですけれども、それが終わるとすぐに外に出て、「あぁ、きれい。」その女性を見るのです。
それから、お父さんとお母さんが、「早く家に帰って夕食を食べなさい」と言って夕食を食べさせるのですけれども、今まで見た事のないほどのスピードでご飯を食べて、食べ終わったらまたすぐにその場所に戻って、同じ事をするのです。それでその時には雪が降っていて、非常に寒くて、夜で、それにもかかわらず、この子供はそこに跪いて、ずっとその方を見ていました。
そしてこの子供たちがそうやっていると、跪いてずっと空を見つめているのを見ると、近くの人たちも、隣近所の人たちも、「何の事だ?」「子供は何でこんな事をしているのか?」という事で、興味を持って集まってきます。「子供たちは空に何か見ているのだそうだ」という話をすると、「見えない。」「あぁ、見えない。」
しかし中には、子どもたちの中には、ユージンが描写する通りの女性がいる、という事が分かる子供たちがいました。何人かの子供たちは、その女性を見て、他の人たちは何も見えません。美しい女性。
するとそのお母さんが、今度は村にいたシスターを呼びに行きます、「シスター、来て下さい。こんな事があるのです。」シスターがやって来て、「シスター、見えますか?」「見えません。」
でも、シスターはその時に子供たち、皆に、「お祈りをするようにしましょう」と言って、お祈りに招きました。そこで、『日本26聖人のコンタッツ』(チャプレット)を祈り出したのです。
では、この『26聖人のコンタッツ』というのはどういうものかというと、これは赤い数珠で出来ていて、そのお祈りにはこんなものがあります。
「聖マリアの柔和なる御心よ、我が救いとならせ給え。」
「我がイエズスよ、憐れみ給え。」
「永遠の聖父よ、我が罪の償いと教会の意向の為、イエズス・キリストの尊き御血を捧げ奉る。」
という事をチャプレットでお祈り致します。
そして、そのお祈りをコンタッツをし出している内に、教区の主任司祭も呼ばれてきました、「神父様、こういう話があります。」
その話しを聞いて非常にびっくりした司祭は、空を見るのですけれども、何も見えません。
司祭が到着するや否や、子供たちが見ていたそのマリア様の御姿が変化します。それまではマリア様は、青い服を着ておられて、そして両手を広げておられて、笑っておられました。あたかも招いておられるかのようにしておられたのですけれども、司祭が到着すると、今度はマリア様の周りに楕円形の姿が現れて、そしてマリア様の肩の高さに、そして膝の高さに、それぞれ2つずつ合計4つのローソクが、火が灯されていないまま出てきました。そして胸には、赤い十字架像が現れました。
そしてこの「姿が変わった」という事で、皆がどうやって変わったのかと一生懸命見ようとしたりするのですけれども、何も見えません。そしてある者は冗談を言ったり、何か笑い出したり、馬鹿にしたりしました。
すると、マリア様の表情が悲しい顔になります。すると子供たちはそれを見て、「マリア様の表情が今、悲しくなりました」という事を言います。
それを聞いて理解した主任司祭ゲラン神父様は、「子供たちに見えて私たちに見えないのは、これは冗談を言っているのではなくて、私たちが見るに相応しくないからだ」と言ってから、「私たちはお祈りをしよう」と、祈りに招きました。
では今ここで、御出現の出来事から、「何か意味があった」という事で、その教訓を得る事にしましょう。なぜかというと、マリア様がこのようなお姿をしていた、あるいはこのような事をされたという事は、それは全く意味がなかったのでなくて、それには深い意図があったからです。
まず第1に、「マリア様の周りに現れた楕円形、そしてそれから4つのローソク」というのは、実はそのポンマンの礼拝の教会に似ていました。
それでこれは、「マリア様が、そこの教会で、あるいはそこの礼拝堂でなされたお祈りを、よく聞いている」という事を示しています。
また、「黒いベールを被っておられた」という事は、これは喪に服している印であって、「マリア様が、その人々の苦しみに同情を抱いて、共に苦しんでおられて、連帯感を持っておられた」という事です。
このポンマンの御出現をよく見ると、マリア様の持っていた『特権』というものを表わしています。
「マリア様が非常に美しい御姿で現れた」という事は、その「聖母が聖寵充ち満ちておられた御方である」という事を意味しています。
「3つの星」というのは、「三位一体のペルソナ」の事を意味します。つまり、「マリア様の栄光や、その尊厳というのは、三位一体から由来する」という事です。
そして三位一体のそれぞれのペルソナは、マリア様に特別の関係性を持っています。
マリア様は天主聖父の娘であります。なぜかというと、マリア様は聖父の創造された最高の被造物であるからです。
またマリア様は聖子の御母であります。イエズス・キリストという人間の本性における御母であります。
またマリア様は、聖霊の働きによって天主の御言葉を胎内に宿した、という事で、聖霊の浄配でもあります。
そこで、三位一体の中間に位置付けられるという位置におられます。
そしてこの「楕円形」ですけれども、フランス語では特別な言葉があって、“マンドール”と言って、それは「栄光を表わす」という意味があります。ロマネスクのカテドラルに行ってみると、キリストはこの楕円形の中に栄光を以って描かれていますが、これが栄光を意味する“マンドール”という事です。マリア様も、他の全ての被造物には与えられなかった特別の栄光が与えられました。
またある意味では、「マリア様は閉ざされた天主の秘密の花園、庭であって、マリア様は天主だけがその中に入る事ができる方である」という事も意味しています。これによってこの楕円形は、「マリア様の終生童貞である」という事を意味します。
「青」という事にも意味があります。青には二重の意味があって、まず1つは、青空からも分かるように、被造物の巨大さ、はかり知れる事のできない大きさ、というものが分かります。また青空というところから、この地上から見ると、天主に最も近い、という事で、「天主の本性に参与している」という事も意味します。
ところで、マリア様はなぜ「青」かというと、マリア様こそ、全ての被造物の中で最も巨大な、最も崇高な被造物であって、そしてその尊厳の意味で大きな被造物であって、そして天主の全くその近くにまで高められた方であって、天主のすぐ限界までの方であるので、あたかも青空であるかのように、この青の服を着ておられました。
ですから「青」が、マリア様の色である、という事の理由の一つです。
「星」については、マリア様の特権を表しているという事で、また星は天にあるという事で、「マリア様が天におられる御母である」という事も意味します。
「王冠」は、「マリア様が女王である」という事を意味します。
また、胸にある「赤い十字架」は、マリア様の同情と、マリア様がイエズス様と共に苦しんだという事で、「共贖者」という事を意味します。
これらのマリア様の色々な意味ある御姿やその要素で、マリア様の色々な特権の事が意味されています。
またこのマリア様は、「=教会」だ、と言う事ができます。それは、こういう意味においてです。
つまり、教会は、罪の汚れのない、シミもない、キリストの花嫁である。そしてマリア様も、罪の汚れも、シミもない、浄い御方であるから、同じであります。
また聖金曜日・聖土曜日には、マリア様だけが、イエズス様を信じていました。ところで教会は、イエズス様の開かれた脇から生まれました。水と血が流れた時に生まれましたけれども、ところでその時に、イエズス様を信じていたのはマリア様だけでした。ですから、その時にはマリア様=教会でした。
私たちは、マリア様の子供として、教会の一員です。
そしてマリア様の服にある「星々」は、それは、「遂に永遠の命に到達した、教会のメンバーたち、成員たち」の事を意味しています。
では今日は最後に、マリア様のその偉大さを感嘆して、それを見て、それを讃美して、そしてそれを愛する事にしましょう。ちょうどこの子供たちがマリア様を見て、そしてマリア様の美しさをただ見つめるだけだったように、私たちもそのマリア様の美しさと、その多くの特権を見て、それを讃美して、それを愛するその心がますます燃え立つようにお祈り致しましょう。
また、マリア様に対して尊敬を欠くような人々に対して、悲しみの表情をされました。現代、マリア様に対して冒涜の言葉を吐く人や、あるいはその他マリア様を侮辱するような事をする人々がいます。そのような人たちに私たちは無関心でいる事ができずに、そのマリア様と共に悲しみ、そしてそれに代わって罪を償うように致しましょう。
また、マリア様=教会です、という事も見ましたので、私たちはマリア様によって、マリア様と共に、マリア様において生きるように、生活するようにしなければなりません。ですから私たちはマリア様の仲介を求めて、何を求めるにも、何をするにも、マリア様を通して、御捧げ致しましょう、またマリア様を通して、何かを求めましょう。
ちょうど聖ベルナルドが言ったように、マリア様は教会の神秘体の「首」であるからです。頭と体が、首によって繋がっているからです。
またマリア様と共に、マリア様と一緒に、何をするにも行ないましょう。また、マリア様において行なう事にしましょう、というのはどういう事かというと、「マリア様の意向と、私たちの意向が全く同じであるように、あたかも私たちがマリア様の体の一部であるかのように行なう」という事です。
ちょうどマリア様が、ポンマンの子供たちからマリア様の方に注意を向けるように望まれたように、マリア様は私たちに個人的な、一人一人の関係を大切にされます。私たちがマリア様の方に注目して、マリア様に注意を向けるように、マリア様は望んでおられます。
そこで今日、マリア様の現存の中に生きるように努めましょう。