Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

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すべての存在するものの源は、聖三位一体です。この世の終わりの後も、聖三位一体は存在し続けられます。

2021年06月01日 | お説教・霊的講話

聖三位一体についての短い説教

ドモルネ神父

はじめに

今日は、至聖なる三位一体をお祝いしています。聖三位一体は、すべての実在するもののうちで第一にして最も重要なものです。この世が存在する前に、聖三位一体は存在しておられました。すべての存在するものの源は、聖三位一体です。この世の終わりの後も、聖三位一体は存在し続けられます。天国の諸聖人の永遠に続く、かつ比べようのない幸福は、聖三位一体の命にあずかることからきているのです。今日は、聖三位一体に関する私たちのカトリックの信仰について、少し復習したいと思います。

1.天主は唯一

私たちは、すべてのものの第一の原因を「天主」と呼びます。存在するものはみな、その存在を究極的には天主から得ています。生きているものはみな、その命を究極的には天主から得ています。動くものはみな、その動く能力を究極的には天主から得ています。善いものはみな、その善さを究極的には天主から得ています。美しいものはみな、その美しさを究極的には天主から得ています。完璧なものはみな、究極的には天主に由来しています。

天主は第一の存在ですから、第一の原因です。天主は、ご自身の存在、命、完璧性を、他の誰からも得られることはありません。天主はご自身で、存在、命、すべての完璧性を持っておられます。天主はご自身によって存在されており、天主が存在されないことはあり得ません。

私たちは、第一の原因、第一の存在を「天主」と呼びます。ですから、天主は必ず唯一です。なぜ「必ず」なのでしょうか。では、二つの神がいると想像してみてください。その二つの神は、互いに異なる存在でなければなりません。つまり、一方の神は、もう一方の神が持っていない何かを持っていなければならないことを意味します。しかし、もしこのようにこのもう一方の神に何かが欠けているのであれば、その神は存在の完璧性を持っておらず、第一の存在ではないので、私たちが「天主」と呼ぶものではないことになります。存在するのは、唯一の天主であり、それ以外はありえません。その昔、ギリシャの異教の哲学者たちの中にさえ、このことを理解していた人々がいました。多神教、つまり複数の神々の存在を信じることは不条理です。複数の神の存在を信じることは、「1+1=5である」と言うのと同じくらい不条理でばかげているのです。

2.聖三位一体の啓示

人間の理性の働きによって、私たちは天主が唯一であることを知っています。人間の理性の働きによって、天主は考え、また愛されるお方であることも知っています。なぜなら、天主から、私たちが考えたり愛したりする能力を得ているからです。ですから、人間の理性の働きによれば、天主は唯一であり、天主は一つのペルソナ(位格)であるという結論を得ます。しかし、この結論は間違っているのです。唯一の天主がおられますが、天主は三つのペルソナなのです。どのようにして私たちがそれを知っているのでしょうか。啓示によってです。私たちは、啓示以外の方法でこのことを知ることはできませんでした。天主ご自身が、イエズス・キリストを通して、このことを私たちに啓示されたのです。聖ヨハネはこう言っています。「実に証明するものは三つある。天においては御父とみ言葉と聖霊であり、この三つは一致する」(ヨハネ第1書5章7節)。聖マテオは、私たちの主イエズスが使徒たちに最後に命じられたことを、こう伝えています。「行け、諸国の民に教え、聖父と聖子と聖霊の名によって洗礼を授け(よ)」(マテオ28章20節)。

一つの天主の内に三つのペルソナ。どうしてそんなことがありうるのか、私たちには理解できません。地上では、一人の人間に一つのペルソナ(人格)があります。三つのペルソナを持つ人間はいません。ですから、私たちは、どのようにして三つのペルソナが一つの天主の内におられるのかを理解することはできません。これは玄義(神秘)です。私たちはこれを「聖三位一体の玄義」と呼んでいます。

3.聖三位一体における各ペルソナの区別

唯一の天主に、三つの互いに別のペルソナが存在します。三つのペルソナは等しく天主でいらっしゃいますが、実際互いに別の存在です。三つのペルソナを互いに分けるものは何でしょうか。それは、お互いに対する特定の関係性です。少し説明してみましょう。

天主は知性でいらっしゃいますから、お考えになります。何をお考えになるのでしょうか。天主は最も完璧かつ最高の存在、つまりご自身のことをお考えになります。ご自身のことをお考えになることで、天主はご自身のイメージ(似姿)を生み出されます。私が自分のことを考えるとき、自分の心の中に自分自身のイメージが生まれるように、天主がご自分のことをお考えになるとき、ご自分のイメージを生み出されます。天主においては、このイメージは全く完璧ですから、それは何者かとなり、それがひとつのペルソナなのです。つまり、天主においては、イメージを生み出すペルソナが存在するとともに、そのイメージであるペルソナが存在するのです。論理的な順序にしたがって、私たちはイメージを生み出すペルソナを「第一のペルソナ」と呼び、そのイメージであるペルソナを「第二のペルソナ」と呼びます。生まれる順序に従って、私たちは生み出すペルソナを「父」と呼び、生み出されるペルソナを「子」と呼びます。御子は、生み出されるという方法によって、御父から発出するのです。

天主はお考えになるだけでなく、また愛されます。天主は誰を愛されるのでしょうか。天主は最高の善、つまりご自身を愛されるのです。天主はご自身を愛され、ご自身を愛することによって、新しいペルソナを生み出されます。実際、私たちが誰かを愛するとき、私たちは自分の心の中にそのペルソナの感情的な存在を生み出します。私たちの愛が破れると、そのペルソナは私たちの心から引き裂かれたようになり、そのために私たちは苦しみを感じるのです。ですから、天主がご自身を愛されるとき、天主はご自身の感情的な存在を生み出されます。この存在はまったく完璧かつ完全であるため、それは何者かとなり、それがひとつのペルソナなのです。このように、天主においては、「発出」と呼ばれる愛の動きがあります。その愛の動きにおいては、愛するペルソナは御父と御子ご一緒であり、愛されるペルソナは「聖霊」と名づけられます。 また、聖霊は、論理的に御父と御子の後に来られますから、私たちは聖霊を「第三のペルソナ」とも呼びます。聖霊は、発出という方法で、御父と御子から出られるのです。

聖三位一体の三つのペルソナの区別について今述べたことを要約すると、次のように言うことができるでしょう。「聖三位一体とは、天主を理解して愛する天主である」。

結論

今日は特に、次の二つのことを行いましょう。

第一に、聖三位一体の御稜威(みいつ)と超越性をあがめましょう。天主の存在と命は、私たち人間の理解力をはるかに超えています。聖三位一体には、命の限りない強さ、知識と愛の限りない完璧性があります。ですから、聖三位一体には、絶対的な幸福があります。このように偉大なるお方の前では、私たちは最も深い敬意と恐れをもって頭を下げることしかできません。

第二に、今日、非常に多くの人々が聖三位一体に礼拝と尊敬をお捧げしていないことを恥じましょう。多くの人々は、天主が存在しないかのように生きており、聖三位一体を軽んじたり、あるいは否んだりさえもしています。このように天主を軽んじることは、人々の間で起こるあらゆる殺戮や不正よりも、はるかに深刻なことです。ですから、今日は特に、そのような罪の償いのために、聖三位一体に私たちの礼拝をお捧げしましょう。



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