「助産婦の手記」
13章
『小さな幼いキリスト様が、私のところへお出でになるんですよ。リスベートさん! どうか、その時のために、忘れないように私のことを書きつけて置いて下さい!』 と、或る土曜日のこと、私がちょうど校舎を自転車に乗って通り過ぎたとき、教頭の奥さんが私に呼びかけた。
私は自転車から飛びおりて、庭の垣根のところにいる彼女のもとへ行った。私が世紀の変り目に、一台の自転車を買い求めたことは、この村での最先端を行ったものである。この村の女で自転車に乗ったのは、私が初めてだった。初めのうちは、子供も大人も、すべての人々が道に立ちどまって私を眺めた。あたかも私が、時々村を引っぱられて通る歳の市の駱駝か、踊りを仕込まれた熊ででもあるかのように。男たちは、もうよほど以前から、自転車に乗って他所から工場に通っている。『今日では、もう我々の村にないようなものはないね、』と人々はからかった。『今に赤ちゃんは、自転車に乗っかって生れて来るよ。』
そんなことは、私には何ともなかった。他人が、このことを面白がるのは勝手だ。私にとっては、この新式な乗物は、非常に実用的だった。私は、時間を大へん節約した、そして必要なところへ早く行くことができた。合理的な事物に関しては、人は、どうして時代と共に進んで行ってはいけないだろうか?
電燈もまた、引き入れられた。ただ、それを全部の人々が使っていたら、どんなによかろうに! とにかく、あの粗末な、悪い臭いのする石油ランプを用いてするよりも、全く違った仕事ができる。実に、赤ちゃんというものは、特に好んで、夜分に生れて来る奇妙な習慣をもっているから。
で私は自転車から飛びおりると、全く驚いて叫んだ。『それは、ほんとですか、教頭の奥さん?』
『ほんとじゃありません。これは日曜日の冗談なんですよ。宅の主人は、このことをまだ全く知りません。あんたは、もうお家へ帰るんですか? それなら、暫らく内へおはいりになりませんか? コーヒーを一緒に飲みましょう。我々婦人たちは、そんなものは、いつでも用意がありますからね。』
そこで、私は朝の十時半というのに、コーヒーを飲みながらの無駄話をするために、校舎の中にはいりこんだ。一体、私はこういうことは、しない主義にしている。私が一年中、 婦人たちを利用して、お八つを食べていて、人々が私を必要とするときには探し廻らねばならぬ、というような陰口は、私のある一人の同僚に対してならいざ知らず、私に対しては、してもらいたくないのである。とにかく人は好ましい主義に関しても、場合によっては自由に取捨することができるようでなければならない。風呂水と一緒に赤ちゃんを流し捨てるように、何でもかでも捨てしまってはならないのである。もし赤ちゃんの母親が、ある特別な喜びを持つのであるなら、なぜ私も一緒にそれを喜んではいけないであろうか? 私たち助産婦は、ある意味では、すべての赤ちゃんの母である。
お産は、まだやっと七月になってからのことである。しかし、裁縫台の上には、もうその幼いキリストが使うことのできるとても可愛らしい小さな物が載っていた。『お産が近づくまで、とても待っていられないんです。すぐもう今朝から、全部作って置こうと取りかったんですよ……』
『あなたは、もう二回も難産だったのですから、心配しはしませんか?』
『そんなことは考えませんよ! お産のときの母の苦しみぐらい早く忘れてしまうものは、一つもありません。その苦しみは早く過ぎ去ってゆきます。それなのに、赤ちゃんは残っています。その上そんなにちっちゃな物は、全くこの世の中で一番美しいものですね。』
そこで、私は救世主のお言葉を再び思い出した。『女は、その苦しい時間が来たときには悲しむ。しかし、子供を生み終ったときは、女は一人の人間がこの世に生れて来た喜びのために、その悲しみを、もはや思い出さないのである。』と。救世主は、いかによく女というものをお知りになっていたことであろう! 今までもう何度も、私は、そのことを考えざるを得なかった。
『そうです。人は時々、母親たちをどこかへ連れていってしまいたいと思うぐらいです。』
『ウイレ先生は、七ヶ月の終りには、出産を起させることができるだろうと、おっしゃいました。その頃には、もう子供は生きる能力があるそうです。しかし、私はそんなことはしない方がよかろうと思います。もし子供を、あまり早く無理やりに、その温かい小さなベッドから、もぎ離すなら、それは子供に害を与えはしないかと、私は心配なのです。そこで、私は子供に害を加えるよりも、むしろ二三時間のつらい時間を自分で引き受けたいと思うんです! ――多分、子供の一生のために。』
どの社会にも、実に素晴らしい母親がいるものである。教頭のお宅では、いま子供が二人である。一人は八つ、も一人は四つだ。奥さんは、いつも非常な難産で、殆んど止めどもない出血をした。『二三時間』では、それは実際、済まなかった。それは、いつも生死に関し、そして長い病弱がそれに続いた。それなのに、彼女は再びそれを敢えてしようとしているのだ……
『私は、よい夫を持っています、リスベートさん。こんな人は、あまり多くいませんわ。最初の子のとき、医者は言いました。「あまり早く次の子が出来てはいけません。あなたは、奥さんが健康を回復するまで、よくいたわって上げねばなりませんよ。」
「先生の御指定の期間中は、」と主人は直ぐ言いました。お医者さんと主人は、隣りの部屋にいました。そして私が寝入っていると信じて、そのことについて自由に腹蔵もなく話し合っていました。
「このことは、あなたのお年で、そんなに若い御結婚では、さぞや、つらいことでしょう。しかし、そうせねばいけないのです。そこで、他の事柄は……」
「先生、その話は止めましよう。私は、そのことを決して妻に要求しないつもりです。ところで、ほかに何か御注意をいただくことはありませんか?」
「そうですね。ニコチンとアルコールは大いに差し控え、肉食は少量にし、強い香辛料は避けるようにされたいものです。そして特にできるだけ気を外らすことです。ほかの事柄に興味を向けてゆくこと、例えば何かの試験のために勉強するとか、音楽に没頭するとか、そのほか、あなたのお好みになることをすることです。庭の仕事とか、総じて肉体的に疲労させることを、忘れてはいけません。
そして、特に特に、教頭さん、妄想を支配し、そして行きつくところまで行く惧れのある情事は、避けることです。真に断固たる決心を要するような場合には、いささかでも譲歩してはいけません。このようにすれば、より確実に、そして、よりたやすく、目的が達せられます。
ただ正しい全き人だけが、必要な期間中、自分の力を保存し、それを他のエネルギーに転換できるのです。そして、もし我々の力が足りない場合には、力をお与え下さる一人のお方が、なお我々の上にいらっしゃるのです。」
リスベートさん、あなたは非常に沢山のお家へ行かれるんです。そこで、私は、私たちのような結婚生活が、ほかにまだもっとあると思いますし、子供が暫くの間、生れて来てはいけないことが、しばしばあろうと想像できます。ですから、私はあなたにこの話をしたのです。あなたは、それでもって、ほかの人たちを助けてお上げになることができるでしょう。』
『ただ、残念なことには、大抵の人は、すべてを自然のままにして置くべきだと信じており、そして、もしも都合よく行かないと、忽ちあきらめてしまうのです。その人たちは、自分勝手なことをし、自分自身に対して、何の予防策も講じないのです。そして、いと高い所からの力を、もはや信じようとはしないのです。』と私は言った。
『こんな苦しい時代というものは、天主からのお助けがなければ、うまい具合には過ぎて行きませんね。私の宅でも、残念ながら、つらい時がありました。すると、篤と考えて、お互いに言いました。さあ一緒にお祈りしましようと、すると嵐はいつも衰えて行きました。』
『そのことを、人々に再び教え込むことができねばいけませんね。天主の力に対する信仰と、それを求めるための祈りとを。もう何度、私はそのことを考えねばならなかったことでしょう。』と、私はそれに対して言った。
『でも、私たち人間としても、合理的なことをせねばなりませんね。私は、お医者さんの勧めを、こっそり聞き、そしてそれに協力できたことが大変嬉しかったのです。このことは、非常にいいことでした。私は、それを知っていたということは、主人にちっとも言いませんでした。男の人というものは、そのような事柄にしては、非常に敏感で、自分の腹の中を読まれることを好まないのです。主人も、今後どういうようにするということは、私に何も言わなかったのです。ところが、お産から三週間後に、こう言いました。夜分、君と子供の邪魔になるといけないから、当分のうちまだ別室に寝ることにするよ、と。私は献立表を変え、そして言いました。乳呑児のある母親のためには、野菜を多く、肉を少なくし、そして香辛料はほんの少しにして料理するのがよいのですと。それから私たちは、主人が肥満の傾向があるため、何か作業をせねばならないということを確かめたので、宅の庭にそえて、さらにわずかばかりの庭地を借り受けました。そして私たちは、おのおの相手に気づかれないで、相手を助ける喜びを持ったのでした。
産後、たっぷり一年経ってから、私は医者のところへ行きました。希望に充ち満ちて。しかし、医者は言いました。「いえ、もっとお待ちにならなければいけません。」と。その晩、私は大へん泣きました。「あなたは、私と結婚なさってお気の毒でしたね、」と、私は夫に言いました。「自分の妻から全く何も得られないで――ほかの男の方とは違って。」
「それだからこそ、僕は君を今までと同じように愛するのだよ。君は、本当に自分の健康を、僕によって子供のために、失ったのだ。我々の腕白のために。もし僕が、君だけに子供を持つことに対する償いをさせたとしたら、僕はどんな馬鹿者であろうか! 我々の生活も、子供があるために、非常に豊かで、美しいものじゃなかろうか?」
出産後、三年たってから――とうとう医者は、満足しました。それから一年後に、私たちのマインラードが生れました。その子は、あなた御自身よく御存知です。ところが、私たちは、またもや最初のときと同じことをせねばなりませんでした。それなのに、いま私たちは、三番目の男の子が生れるのを待っているのです……』
幼いキリストは、クリスマスの前夜生れた。今度も非常な難産であった。しかし、生れた。そしてそれは本当に、男の子であった。母親がその子を抱いたとき、彼女は夫に言った。『あなた、四年後には、女の子が生れるに違いないわ。これで私たちも、老後に、支えを持つわけですね。』
『そう、僕の可哀そうなハセール、そうなるのを待つこととしょう。まず何よりも、健康を回復して丈夫になることだね。」
家の外で、医者が言った。『どちらの方が、偉大なのか判らないですね、あなたの自制力か、奥さんの勇気か。』
『そりや、家内の方ですよ、』と教頭が考えもしないで答えた。『私としては、それはあまりつらいことはありませんよ。このことは、私は母から教わったのです。自制、克己――いつもいつも変わることなく。「お前はいつかは一人前の男にならねばならないのですよ、女々しいものになるのではないよ。そしてお前は、そうなることができるにちがいない、フランツ。」
もう三つ四つになったとき、私はこう言われました、「お前、砂糖なしコーヒーを飲まないの? バターのつかないパンを食べないの? 待降節だからね。(または四旬節だからね。) お前は、何度それがやり通せるか、まあ試して御覧。そしてお前がそのようにして節約して貯めたものを、この貧しい病人にやりなさい……」と。
後に、学校時代には、「お前のお金をポケットに入れて、歳の市の仮小屋のところへ、トルコ蜂蜜屋などのところへ行って来なさい。自分のためには何も買わないで、三グロッシェンを、あす、ヤコプか、またはゼップへ贈りなさい。本当の男の子というものは、自分の希望に対して否と言い、そして喜ばしそうな顔をして、口笛を吹くことができねばいけないのだよ。」 と。
母自身も、その通りにして来たのでした。
我々腕白が喧嘩をしたとき、母が言いました。「お前、ミヘルをもう、あすはなぐるんじゃないよ。あれは、ほんとに嫌な悪い子だよ。でも御覧、あの子を正しく教育するものは、あの子の家には誰もいないのだからね。お前は自分のやるべきことをして、あの子には何も手出しをしないようになさい。どんな馬鹿な若者でも、ただワァワァののしり騒ぐことはできるものだ。でも、自分を制することは、遙かにむずかしいものですよ……」
そして、その後も、やはりその通りでした。「娘たちと一緒にぶらつき廻って、みんなと同じようなことをするのは、たやすく、また安っぽいものだよ。そんなことは、一番馬鹿なおしゃれでもできるよ。しかし、いつまでも、お前は純でなければならない。どんな娘に対しても、ちょうどそれがお前の姉妹ででもあるかのように、清いつきあいをなさい――でも、お前が結婚してしまうまでは、どの娘とも愛情が濃やかになってはいけない。お前がいつかは結婚して、ほんとうに健康な、そして十分値打ちのある子供を作ることができるように、お前の父親としての力を濫費してはいけないよ。男というものは、自分自身の信念に従って、自分の道をまっ直ぐに、しっかりと、進んで行くものですよ。意志の弱い人は、無人格なルンペンの大群と一緒に走るようなものですよ……」
御覧下さい、この教育のお蔭で、私の結婚生活が、とにもかくにも、太陽に満ち、そして私たち二人が喜ばしく、幸福であるということを、私は母に感謝しているのです。私は、今日でも、私の希望に対して否ということができるのです。しかし、子供のとき、それを学ばなかった他の人々は、それがどうしてもできないのです。道德的な力を養うこともまた、長くかかる骨の折れる仕事ではありますが、人々に教えこまねばなりません。このようにして、男の人も純潔を保ち、純潔のままで結婚し、忠実に結婚生活をつづけることができるのです。困難な時代においても――もし、そうしようと思うならば。』