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「キリストは、死ぬまで、十字架上に死ぬまで、自分を卑しくして従われた」主イエズスはなぜこれほどまでに謙遜だったのか?

2022年06月26日 | お説教・霊的講話

第一のアダムは天主のようになろうとして罪を犯した。第二のアダムは、私たちの救いのためにご自分の神性を隠された。「天主の力ある御手の下にへりくだれ!」(聖ペトロ)

2022年6月26日 聖霊降臨後第三主日の説教

レネ神父様

親愛なる兄弟の皆さん、

聖ペトロは本日の書簡を、「天主の力ある御手の下にへりくだれ!」で始めています。これは、金曜日にお祝いした聖心の祝日、さらには昨日の洗者聖ヨハネの祝日と、とてもよくマッチしています。実際、聖心は「柔和で謙遜」で、あわれみ深いのです。さて、聖心の謙遜さを正しく理解するためには、聖心がどなたなのか、まさに天主の御子であることを思い起こす必要があります。

聖パウロはフィリッピ人に対して、この点を非常にうまく述べています。「互いにイエズス・キリストの心を心とせよ。キリストは天主の形であったが、天主と等しいことを固持しようとはせず、かえって奴隷の形をとり、人間に似たものとなって、自分自身を無とされた。その外貌(がいぼう)は人間のように見え、死ぬまで、十字架上に死ぬまで、自分を卑しくして従われた」(フィリッピ2章5-8節)。「天主の形であった」とは、つまり、天主の本性(形相因)を持つという意味です。「天主と等しいことを固持しようとはせず」とは、福音の中で、私たちの主が、例えば罪をお赦しになったように、天主のように話し、天主のように行動されましたが、主にとって、そのような行動は天主と等しいことを固持なさったのではありません。すでに天主と等しいお方だったのですから、固持なさったのではないのです。

ですから、まことの天主、まことの天主の御子である主にとって、人間の本性をお取りになるということは、まさに「かえってしもべ/奴隷の形をとり、…自分自身を無とされた」ということなのです。しかし、まるでそれだけでは不十分であるかのように、主は「死ぬまで」、さらには「十字架の死に至るまで…従われた」のです! 私たちの主イエズス・キリストのその謙遜の深さを、いったい誰が理解できるというのでしょうか?

主は、なぜこれほどまでに謙遜だったのでしょうか? 第一に、主は真理であり、謙遜とは、被造物がふさわしい場所にいることだからです。そのため、天主の御子が人間の本性、被造物の本性をお取りになったとき、主は、「愛において真理を宣言」(エフェゾ4章15節)することの模範を示されたのです。高慢は恐ろしい嘘であって、悪魔に典型的なものです。悪魔は、高慢の権化(ごんげ)であり、私たちの最初の父祖をだまして、高慢という大きな罪を犯させたのですから。第一のアダムにとって、天主のようになると主張することは、実際に天主と等しいことを固持することでした。第二のアダムにとって、それは天主と等しいことを固持するのではなく、また高慢によってそれにしがみつくことでもなく、むしろ、私たちの救いのためにいけにえとなることができるように、「その神性を隠された」のです。

第二に、私たちの主は、私たちを罪から救うために来られたため、十字架の死に至るまで謙遜でいらっしゃいました。聖書は、「高慢のもとは罪」(集会書10章16節)と言っています。私たちの主イエズス・キリストは、謙遜によって私たちを高慢から救われるのです。「天主はおごる者に逆らい、へりくだる者を恵まれる」(ヤコボ4章6節)。実際、「主はこの上なく気高く、小さな者をかえりみ、遠くから高慢な者を見分けられる」(詩篇137篇6節)のです。天主はすべての被造物よりはるかに気高いお方ですから、天主の照らしのもとでは、高慢な被造物は愚かな者なのです。

第三に、私たちの主は良き羊飼いであり、失った羊を探すために来られました。主は、旧約でなさったような、ご自分の力をお見せになることで、罪によって傷ついた霊魂を恐れさせたいと思ってはおられません。むしろ、柔和さと謙遜さによって、罪人を引き寄せたいと思っておられるのです。ですから、主はこう言われました。「人の子が来たのも、仕えられるためではなく仕えるためであり、多くの人の贖いとして自分の命を与えるためである」(マテオ20章28節)。

実際、良き羊飼いはあわれみ深いお方です。あわれみとは、良い人物が人の不幸を癒やすために、その不幸に注意を向けるという聖徳です。さて、不幸には2種類あります。苦難と罪です。苦難とは意志に反する不幸であり、罪とは意志の内にある不幸、つまり、意志そのものが悪い場合の、意志による不幸のことです。もし罪がなかったならば、この世に苦難は全くなかったことでしょう。しかし時には、ある人の罪が、その人のせいで苦しむ他人に影響を与えることがあります。例えば、一家の父親が大酒飲みで、給料を酒に使ってしまい、妻と子どもたちを不幸にしてしまう場合です。あるいは、泥棒が罪のない人から盗みを働く場合です。このような例はたくさんあります。

誰かが他人の罪による被害者になっている場合、その被害者に同情し、あわれむことは簡単です。事実、そうすることは良いことであり、そうすることは愛徳による義務です。「あわれみのある人は幸せである、彼らもあわれみを受けるであろう」(マテオ5章7節)。また、「父に祝された者よ、来て、世の始めからあなたたち備えられた国を受けよ。あなたたちは、私が飢えていたときに食べさせ、渇いているときに飲ませ、旅にいたときに宿らせ、裸だったときに服をくれ、病気だったときに見舞(ってくれた)」(マテオ25章34-36節)。

しかし、実際のところ、罪による悪は、苦難による悪よりも、さらに深刻なことであり、罪人を癒やすためにあわれむことは、より一層困難なことなのです。しかし、これこそが聖心のあわれみなのです。「誰に対しても悪に悪を返すな」(ローマ12章17節)、「善をもって悪に勝(て)」(ローマ12章21節)。天使ガブリエルが聖ヨゼフに、「彼は罪から民を救う方」(マテオ1章21節)と言ったようにです。

このあわれみの極みにおける大きな困難は、罪人が自分の罪に愛着を持ち、それをあきらめようとしないことです。罪人は自分の罪の結果が見えないか、あるいは単にそれを見ることを拒否するのです。たとえ罪人が他人の苦しみに気づいていたとしても(大酒飲みの父親が自分の家族の苦しみに気づいていたように)、罪人には、自制してより良い生活に戻るという力がありません。この罪人はまだアルコールに愛着を持ち、もっとアルコールが欲しいと思っているのです。では、天主の御あわれみは、どのようにして、この地獄のような悪循環を断ち切り、罪人の頑固さに打ち勝つのでしょうか?

第一の方法は、天主の法を、その報いおよび罰とともに、明確に提示することです。旧約では、簡単に知ることができて、すぐに当てはめられる、数多くのこの世の報いとこの世の罰がありました。しかし、いつもそうだったわけではありません。天主は、当時でさえも、「悔い改めの時間」をお与えになりました。「天主の仁慈があなたを悔い改めに導くことを知ら(ぬのか)」(ローマ2章4節)。罪人の中には、聖書が「悪を行う人への判決がすぐ実施されなかったので、人の子らの心は悪を行いたい望みにかられた」(集会書8章11節)と言うように、この天主の忍耐を悪用する者がいるのです。天主はもう一度、こう言われます。「私は悔い改めの機会を彼女に与えたが、彼女はその淫行を改めようとしなかった」(黙示録2章21節)。

新約では、天主はさらに多くの時間をお与えになり、さらに多くの回心の機会を提供なさいますが、永遠の報いと永遠の罰という段階まで強調して、法をさらに強いものとしてお定めになります。この報いについて、聖パウロは次のように言っています。「目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心にまだ思い浮かばず、天主がご自分を愛する人々のために準備されたこと」(コリント前書2章9節)。また、聖ヨハネは次のように言っています。「考えよ、天主の子と称されるほど、御父から計りがたい愛を受けたことを。この世は私たちを認めないのは御父を認めないからである。愛する者たちよ、私たちはいま天主の子である。後にどうなるかはまだ示されていないが、それが示されるとき、私たちは天主に似た者となることを知っている。私たちは天主をそのまま見るであろうから。主が清いお方であるように、主に対するこの希望を持つ者は清くなる」(ヨハネ第1書3章1-3節)。

しかし、この罰についても、聖パウロはこう言っています。「生きる天主の御手に落ちるのは恐ろしいことである」(ヘブライ10章31節)、「ただ審判の恐るべき待機と、反逆者を焼き尽くす復讐の火だけが残る」(ヘブライ10章27節)。そして私たちの主ご自身が、罪人に対して「ゲヘナの不滅の業火に入る。そこではうじが失せず、その火は消えぬ」(マルコ9章43-44節)と恐ろしいことを言っておられます。「あなたたちの恐れねばならぬのは誰かを教えよう。殺したのちにゲヘナに投げ入れる権威あるお方を恐れよ。私は言う、そうだ、そのお方を恐れよ」(ルカ12章5節)。

しかし、天主は、単に恐れからではなく、また私欲を求める愛からでもなく、完全な愛から、仕えられることを望んでおられるのです。ですから、報いと罰のある律法では不十分なのです。聖パウロは、「律法は何事も完成させなかった」(ヘブライ7章19節)と言っています。そこで、天主の御子は、贖いというこの驚くべき愛を成し遂げられました。主が天からくだって来られたのは、罪人に近づくためでしたが、それでも主に罪はありませんでした。良き羊飼いのように、主は、この人生の砂漠で、いばらとアザミの中で、失った羊を追いかけ、私たちの罪による罰を御自らお受けになったのです。さあ、罪人の心に触れるべきものがあるとするならば、これこそがそうです。罪人が怒らせた罪なきお方が、天からくだって来られ、罪人が受けるべき罰を御自らお受けになったのです! 御あわれみは愛の極みであり、贖いは御あわれみの極みなのです!

また、主を別にして、罪のない人がいるでしょうか? 私たちには全員、多かれ少なかれ自分の罪があり、あまりにも多くの罪があります! ですから、私たちは聖パウロとともに、「私を愛し、私のためにご自身を渡された天主の子」(ガラツィア2章20節)と言うことができるのです。私たちは失った羊であり、主は、来て私たちを連れ戻すために99匹を置いたままにされたのです。私たちはどれほどの感謝をもって、どれほどの愛をもって、主を愛し返さなければならないでしょうか! 私たちはもはや自分のものではなく、「自分のために死んでよみがえったお方」(コリント後書5章15節)のものなのです。

聖ヨハネは、さらに一歩進んで、こう言っています。「愛する者よ、天主がこれほどに私たちを愛されたのなら、私たちもまた互いに愛さねばならない」(ヨハネ第1書4章11節)。私たちは、このあわれみを他人に対して、被害者に対してだけでなく、罪人に対しても実践し、彼らのために祈り、彼らが私たちの主イエズス・キリストに回心し、彼らの生き方が主に従うように、助けようとしなければなりません。そして、そのために、私たちは、「私たちを愛し、私たちのために芳しい香りのいけにえとして天主にご自分を渡されたキリストの模範に従って」(エフェゾ5章2節)、自分をいけにえとしなければなりません。

やはり罪のないお方であり、私たちの救いのために十字架のふもとでキリストとともに自らをお捧げになった「あわれみの御母」である童貞聖マリアが、私たちが聖母の模範に従い、今度は私たちが、多くの霊魂の永遠の救いのために、そのあわれみを他人にまで広げていくことができるよう助けてくださいますように。

アーメン。







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