2019年5月31日(金)元后なる童貞聖マリアの祝日のミサ
小野田神父 説教
「元后憐れみ深き御母, Salve Regina Mater misericordiae.」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2019年5月31日、元后であるマリア様の祝日を祝っています。
そこで今日、「マリア様が私たちの元后、女王様である」という事の意味を一緒に黙想致しましょう。そして私たちはその元后であるマリア様の神秘を黙想した後に、一体何が求められているのか、私たちは何をするべきなのかを黙想致しましょう。
まず、マリア様は、「元后、女王様」であります。これはどういう意味でしょうか?「女王様」というのは一体何なのでしょうか?一体マリア様はなぜ女王様になったのでしょうか?マリア様がそんなに偉いのは、そんなに高貴なのは、一体何故なのでしょうか?
つい最近、5月1日には新しい天皇陛下を迎えて、皇后様を日本が頂きましたけれども、では天の元后であるマリア様の地位というのは、一体どのようなものなのでしょうか?
ピオ十一世教皇様は、「イエズス・キリストが、真の天主、真の人である、私たちの贖い主であるという事から、私たちの王である。キリスト、王」という、王たるキリストの祝日を定めました。ピオ十一世教皇様です。
「イエズス様はまず天主であるから、その天主の威厳によって王である。またイエズス様はダヴィドの王家の血統によっても王である。それのみならず、イエズス様は真の天主として、御自分の御血を流して私たちを贖ったから、私たちの霊魂を悪魔の手から奪い返したから、征服したから、私たちはイエズス様の下にあるしもべだから、王である」と宣言しました。
それと全く同じ意味で、その後継者であるピオ十二世教皇様は、1948年10月11日、天主の御母であるマリア様の祝日に、「マリア様は元后であって、私たちはその祝日を5月の終わりに祝わなければならない」と宣言しました。
「なぜかというと、マリア様は天主の御母であって、ただ天主の御母という地位を得た、イエズス様をお生みになったお母様のみならず、無原罪の御宿りであって、罪の汚れを全く知らない者であって、そしてイエズス様と共に、イエズス様の十字架の下に佇んで、共に贖いの苦しみを捧げたから、私たちの霊魂をイエズス様と共に悪魔の手から奪い取った、征服の王の伴侶であるから、マリア様は女王だ」と宣言しました。
今日アレルヤ誦では、その事が非常に美しく説明されています、歌われています。
「あぁ、マリア様、あなたは何と幸せな事でしょうか。なぜかというと、あなたはイエズス様と、十字架に付けられたイエズス様の足元に佇んでおられたので、今はイエズス様と共に、天国を支配しておられる、天で君臨しておられるから。」
マリア様の高貴さ、生まれの素晴らしさ、天主の御母であるという地位もさる事ながら、その地位によってマリア様は、「イエズス様と共に、罪無くして私たちの為に苦しまれた」「イエズス様と共に、全ての苦しみを御父に愛を以て御捧げした」そこにこそ、マリア様の偉大な王冠の基があります、源があります。
マリア様が、「私は主の婢女です。私は主の女奴隷です」と言って、そのそれを実行したが故に、天での女王となる事ができました。天で最も高い地位を占める事ができました。
全ての天使たち、そして聖人たちは、マリア様の下に、支配に、君臨の下にあるのです。たった一人の天使でも、人間をはるかに超えた素晴らしい存在です。何千何億何百兆という数々の天使が、マリア様を讃美して、マリア様を天使諸聖人、全ての天使諸聖人の元后として、女王様として、全ての人類の選ばれた諸聖人たちが、マリア様を女王様として誉め讃えています。
なぜかというと、マリア様がイエズス様とそのように、ぴったりと緊密に苦しまれたからです。イエズス様と共に、私たちの霊魂の贖いの為に、苦しみの涙を流されたからです。
ですからピオ十二世教皇様は、5月、マリア様の聖なる月の終わりに、特に世界中で、この子供たちが、あるいは大人も子供も老人も、5月のきれいな花をマリア様に御捧げする、そしてその最後の日には、教会で、世界中の教会で花冠をマリア様に御捧げする、この5月の最後の日を、「マリア様は本当に私たちの女王であって、元后であって、私たちはそのマリア様のその素晴らしい地位を讃美するのが相応しい」と定められたのでした。
では私たちは一体今日何を、遷善の決心で取ったら良いでしょうか?
もちろん今日天使たちと、天国の天使たちと諸聖人たちと共に、マリア様がどれほど素晴らしい、荘厳な地位におられる方か、という事を讃美致しましょう。5月1日の令和の新しい今上天皇陛下、皇后陛下を拝見しようと、多くの人たちが、日本人も外国人も皇居に集まって日の丸を振って祝った、というニュースがありますけれども、天国の天使たち聖人たちと私たちも声を合わせて、この私たちの元后であるマリア様を讃美致します。なぜかというと、マリア様は私たちの元后、憐れみの御母であるからです。
イエズス様と共に十字架で勝ち取った全ての御恵み、祝福、功徳、罪の赦し、奇跡的な超自然の御恵みの数々、私たちの想像を超えるような天主様からの御恵みの無限の功徳、無限の御恵み、祝福、聖寵、それらをマリア様は全て、自分のものとして持っておられるのです。女王様、元后としてお持ちであるからです。マリア様はこれを自由に分配する権利を持っています。御自分のものですから、イエズス様と共に勝ち取ったものですから。
ただマリア様は苦しんだだけではありません。イエズス様と共に、イエズス様の御母として、人類の、贖われた人類の母として、愛を込めて、御自分の苦しみを天主に、イエズス様と共に捧げたからです。
イエズス様は正義の天主ですけれども、そしてその正義の王国を、天主の正義を支配しておられますけれども、神学者たちによると、「イエズス様は、憐れみを全て、御母に任せた。憐れみの母に任せた。」
ですから私たちは、本当ならば、厳格な正義によれば、それほどの御恵みを受けるに値しないものであったとしても、マリア様は憐れみによって、自由に御恵みをばらまいて下さいます。今も、そして将来も、ばらまき続けて下さいます。そして「ばらまき政策だ!何でそんなに浪費するのか!」と文句を言う人は誰もいません。マリア様のものですから。
「憐れみ」と「御恵み」は全て、マリア様を通して私たちに、イエズス様の聖心から来ます。
ですから私たちは、マリア様のその憐れみの元后、憐れみの御母であるマリア様を今日讃美します。それと同時に私たちは、そのマリア様をますますお喜ばせる為に、マリア様の良きしもべとして、マリア様の御下にあるものとして、マリア様に似通った者となりたいと思います。マリア様が天主の御母として、イエズス様と共に苦しみを捧げて、そして功徳を勝ち取ったのであれば、私たちも天主の子して、マリア様の子供として、罪人でありながら御憐れみの力を受けて、私たちの苦しみや祈りを、マリア様を通してイエズス様に御捧げする、贖いの業に協力する、という事が、マリア様は私たちから求めています。これがファチマでの神秘であり、ファチマでマリア様が私たちに要求した事でもあります。
今日、マリア様が元后であるというその神秘を深く讃美して、黙想して、私たちも良きしもべとして、マリア様の道具として、私たちの祈りと苦しみを捧げる御恵みを乞い求めましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
小野田神父 説教
「元后憐れみ深き御母, Salve Regina Mater misericordiae.」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2019年5月31日、元后であるマリア様の祝日を祝っています。
そこで今日、「マリア様が私たちの元后、女王様である」という事の意味を一緒に黙想致しましょう。そして私たちはその元后であるマリア様の神秘を黙想した後に、一体何が求められているのか、私たちは何をするべきなのかを黙想致しましょう。
まず、マリア様は、「元后、女王様」であります。これはどういう意味でしょうか?「女王様」というのは一体何なのでしょうか?一体マリア様はなぜ女王様になったのでしょうか?マリア様がそんなに偉いのは、そんなに高貴なのは、一体何故なのでしょうか?
つい最近、5月1日には新しい天皇陛下を迎えて、皇后様を日本が頂きましたけれども、では天の元后であるマリア様の地位というのは、一体どのようなものなのでしょうか?
ピオ十一世教皇様は、「イエズス・キリストが、真の天主、真の人である、私たちの贖い主であるという事から、私たちの王である。キリスト、王」という、王たるキリストの祝日を定めました。ピオ十一世教皇様です。
「イエズス様はまず天主であるから、その天主の威厳によって王である。またイエズス様はダヴィドの王家の血統によっても王である。それのみならず、イエズス様は真の天主として、御自分の御血を流して私たちを贖ったから、私たちの霊魂を悪魔の手から奪い返したから、征服したから、私たちはイエズス様の下にあるしもべだから、王である」と宣言しました。
それと全く同じ意味で、その後継者であるピオ十二世教皇様は、1948年10月11日、天主の御母であるマリア様の祝日に、「マリア様は元后であって、私たちはその祝日を5月の終わりに祝わなければならない」と宣言しました。
「なぜかというと、マリア様は天主の御母であって、ただ天主の御母という地位を得た、イエズス様をお生みになったお母様のみならず、無原罪の御宿りであって、罪の汚れを全く知らない者であって、そしてイエズス様と共に、イエズス様の十字架の下に佇んで、共に贖いの苦しみを捧げたから、私たちの霊魂をイエズス様と共に悪魔の手から奪い取った、征服の王の伴侶であるから、マリア様は女王だ」と宣言しました。
今日アレルヤ誦では、その事が非常に美しく説明されています、歌われています。
「あぁ、マリア様、あなたは何と幸せな事でしょうか。なぜかというと、あなたはイエズス様と、十字架に付けられたイエズス様の足元に佇んでおられたので、今はイエズス様と共に、天国を支配しておられる、天で君臨しておられるから。」
マリア様の高貴さ、生まれの素晴らしさ、天主の御母であるという地位もさる事ながら、その地位によってマリア様は、「イエズス様と共に、罪無くして私たちの為に苦しまれた」「イエズス様と共に、全ての苦しみを御父に愛を以て御捧げした」そこにこそ、マリア様の偉大な王冠の基があります、源があります。
マリア様が、「私は主の婢女です。私は主の女奴隷です」と言って、そのそれを実行したが故に、天での女王となる事ができました。天で最も高い地位を占める事ができました。
全ての天使たち、そして聖人たちは、マリア様の下に、支配に、君臨の下にあるのです。たった一人の天使でも、人間をはるかに超えた素晴らしい存在です。何千何億何百兆という数々の天使が、マリア様を讃美して、マリア様を天使諸聖人、全ての天使諸聖人の元后として、女王様として、全ての人類の選ばれた諸聖人たちが、マリア様を女王様として誉め讃えています。
なぜかというと、マリア様がイエズス様とそのように、ぴったりと緊密に苦しまれたからです。イエズス様と共に、私たちの霊魂の贖いの為に、苦しみの涙を流されたからです。
ですからピオ十二世教皇様は、5月、マリア様の聖なる月の終わりに、特に世界中で、この子供たちが、あるいは大人も子供も老人も、5月のきれいな花をマリア様に御捧げする、そしてその最後の日には、教会で、世界中の教会で花冠をマリア様に御捧げする、この5月の最後の日を、「マリア様は本当に私たちの女王であって、元后であって、私たちはそのマリア様のその素晴らしい地位を讃美するのが相応しい」と定められたのでした。
では私たちは一体今日何を、遷善の決心で取ったら良いでしょうか?
もちろん今日天使たちと、天国の天使たちと諸聖人たちと共に、マリア様がどれほど素晴らしい、荘厳な地位におられる方か、という事を讃美致しましょう。5月1日の令和の新しい今上天皇陛下、皇后陛下を拝見しようと、多くの人たちが、日本人も外国人も皇居に集まって日の丸を振って祝った、というニュースがありますけれども、天国の天使たち聖人たちと私たちも声を合わせて、この私たちの元后であるマリア様を讃美致します。なぜかというと、マリア様は私たちの元后、憐れみの御母であるからです。
イエズス様と共に十字架で勝ち取った全ての御恵み、祝福、功徳、罪の赦し、奇跡的な超自然の御恵みの数々、私たちの想像を超えるような天主様からの御恵みの無限の功徳、無限の御恵み、祝福、聖寵、それらをマリア様は全て、自分のものとして持っておられるのです。女王様、元后としてお持ちであるからです。マリア様はこれを自由に分配する権利を持っています。御自分のものですから、イエズス様と共に勝ち取ったものですから。
ただマリア様は苦しんだだけではありません。イエズス様と共に、イエズス様の御母として、人類の、贖われた人類の母として、愛を込めて、御自分の苦しみを天主に、イエズス様と共に捧げたからです。
イエズス様は正義の天主ですけれども、そしてその正義の王国を、天主の正義を支配しておられますけれども、神学者たちによると、「イエズス様は、憐れみを全て、御母に任せた。憐れみの母に任せた。」
ですから私たちは、本当ならば、厳格な正義によれば、それほどの御恵みを受けるに値しないものであったとしても、マリア様は憐れみによって、自由に御恵みをばらまいて下さいます。今も、そして将来も、ばらまき続けて下さいます。そして「ばらまき政策だ!何でそんなに浪費するのか!」と文句を言う人は誰もいません。マリア様のものですから。
「憐れみ」と「御恵み」は全て、マリア様を通して私たちに、イエズス様の聖心から来ます。
ですから私たちは、マリア様のその憐れみの元后、憐れみの御母であるマリア様を今日讃美します。それと同時に私たちは、そのマリア様をますますお喜ばせる為に、マリア様の良きしもべとして、マリア様の御下にあるものとして、マリア様に似通った者となりたいと思います。マリア様が天主の御母として、イエズス様と共に苦しみを捧げて、そして功徳を勝ち取ったのであれば、私たちも天主の子して、マリア様の子供として、罪人でありながら御憐れみの力を受けて、私たちの苦しみや祈りを、マリア様を通してイエズス様に御捧げする、贖いの業に協力する、という事が、マリア様は私たちから求めています。これがファチマでの神秘であり、ファチマでマリア様が私たちに要求した事でもあります。
今日、マリア様が元后であるというその神秘を深く讃美して、黙想して、私たちも良きしもべとして、マリア様の道具として、私たちの祈りと苦しみを捧げる御恵みを乞い求めましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
毒のあるものだとして。
これがピオ10世会の考え方なんでしょうか?
確かにミサは変化していっております。
私は、北海道に住んでいてトリエントミサは一回もあずかったことがありませんし、あずかる予定もたちません。
北海道にはそういうミサをしているところがないからです。
私は、通常ミサが有効ではないとは決して言ってはならないことだ思いますし、ましてや毒のあるミサなんていうのは言語道断だと思います。上から目線もいいところです。
トリエントミサに与っている者が通常ミサしか受けられない人を見下しているとしかおもえませんでした。
すべての良心的なミサの主催者はイエズス様であり、三位一体の神であるはずです。
ミサに優劣をつけたがるのはピオ10世会の会員さまたちはよくしますよね。
私は、そう司祭さまたちが煽っているからだと思いますがいかがでしょうか?
ピオ10世会の信者たちはそうでない信者よりなにか聖なる者だと勘違いしていませんかね。
私達は、みな同じですよ。
みんな弱くて罪を犯して悔い改めながら神様を目指しています。
そんなにいいものなら、北海道でしてください。
わたしは数年前まで小教区に通い、通常のミサに与っていた者です。
現在は聖ピオ十世会の聖伝のミサにしか与っていません。
まずは、コメント下さった使徒ヨハネ様がおっしゃる通りに【毒あるもの】とあったことと、【司祭様司祭さまたちが煽っているからだ】というご意見に対して私なりに言い訳と反論をさせていただきたいと思いコメントいたします。
多分、私をはじめ聖伝のごミサに与る信徒の多くは表現がきついですが、【毒あるもの】という言葉には、同意することでしょう。今の通常のミサには多くの誤謬が含まれているという意味でそのような表現になったのだと思います。
私は、知識と記憶に乏しいものでその誤謬というものがどこに含まれるかを今ここで、詳細に申し上げることができません。ですが、どうかこのブログの神父様の掲載される記事を長く、詳細にお読みくだされば気づかれることは確実です。
麻薬も最初は心地よく、しかし徐々に体を蝕んでいくような実は恐ろしい毒と言えるのではないでしょうか。先の【毒】とは身体にではなく、精神と霊魂を徐々に麻痺させてしまうものだったとわたしは実感してきています。
また、今では私は聖伝ミサのある地区からは遠く離れた場所に暮らしておりますができる限りお金を貯めて、時間を作り与るよう努めています。
北東北にあります拙宅には、今では年に一度、神父様がいらしてくださいます。個人の家のささやかな祭壇でごミサを捧げてくださいます。最初はお知り合いの小教区の信徒の方々にも与っていただきたく、参加人数を考慮し、以前通っていたカトリック教会に小聖堂でいいので、とごミサの許可を願いました。
「翌日に行事があるから貸せません。」とすぐに教区長様より断られました。意見があったら答えます。」とコメントを頂きました。
しかし、今までのいろいろな経緯から許可を頂けることは大変難しいと私自身あきらめました。ちなみにこの件には一切聖ピオ十世会の司祭様は係わっていません。
また、小教区の通常のごミサに行かなくなったことは、一切聖ピオ十世会の神父様が私たちに何か「行ってはいけない。」とか「通常のミサは良くない」とかおっしゃったのではありません。
私自身の霊魂のため、そして何より天主様のことを思うと許されているにしろ、天主の望まないごミサに与るのは申し訳がないと思うからです。
こういう思いで多くの方は無理してでも聖伝のミサに与りに行くのではないかと思います。これをもし、上から目線とおっしゃるのなら仕方ないです。
でも、よろしければ我が家で捧げられる聖伝のごミサにご招待したいと思います。多くの方が与りに来ていただけたら天主様もどれほどお喜びになられるでしょう。北海道は広いですが、拙宅の最寄りの駅まで新幹線も開通しております。
天主様の聖伝のごミサがどこででも、歓迎され、許可されることを望んでやみません。望んでいないのは人なのです。
聖伝の司祭が煽るというのならば唯一の真実ですし、カトリックの聖伝の教えだけでしょう。私たちの神父様は実に謙遜で柔和です。文章が下手ですみません。
しかし、どうか信徒それぞれでなく、このブログにある天主様の教えに心を向けていただけたら嬉しいですし、これによって私自身をも戒めたいと思います。
私は、理解力に乏しいのであまり理解できませんでした。
通常ミサは精神と霊魂を徐々に麻痺させてしまうものだと書いていただきましたが、私はそうは思いません。
私はむしろ、カトリックの洗礼を受けているから救われるとか、ミサに与っているから救われるとか、あるいはひざまずき舌で聖体を拝領したから救われるとか、あるいはトリエントミサに与っているから救われるとか、そういうことを思っている方が毒だと思います。
私は、通常ミサしか与ったことしかありません。
ということは、ピオ10世会の方は毒されたミサに与っているものだとして見られてしまうということなのでしょうか?
私自身の霊魂のため、そして何より天主様のことを思うと許されているにしろ、天主の望まないごミサに与るのは申し訳がないと思うからですと書かれていますが、天主の望まないミサとは言われていることに疑問を感じます。
これは、カトリック教会のミサをしている司祭を否定するとはお考えにならないのでしょうか。
ピオ10世会の司祭様が通常ミサを否定しないように、神様だって通常のミサを否定なさいませんし、また、望まないミサとは決しておっしゃいません。
主イエズス様は、いつ通常ミサは私の望まないものとおっしゃったのでしょうか?
私は、ボロボロになりながらも一生を御母マリアとイエズス様に捧げております。
そんな私にイエズス様とマリアはいつもそばにいて下さいます。
この意味がわかりますか?
私は、通常ミサは良くないというブログに対して、いつも心を痛め、戦って参りました。
日本中には、トリエントミサに与れない信者や、ミサに行きたくてもいろいろな諸事情により行けない信者や、家族の中に一人だけ信者で隠れながらミサに行っている信者、また、聖体拝領の時にひざまずいて、あるいは舌で受けようとして叱責され、心に傷を持ってしまった信者たちがいます。
ピオ10世会の信者がキリストの肢体であるように私達もキリストの肢体です。
通常ミサに与っている信者たちも戦っているのです。
確かに悪魔は司祭の後ろでせせら笑っているのかもしれませんが。
しかし、司祭の言葉によりウェハースのようなパンは三位一体の神に聖変化していると私は、疑いません。
私にはピオ10世会に入っていらっしゃるブロ友さんがいます。
その方は決して通常ミサを毒のあるものとはおっしゃいません。
私は、自分が麻痺しているとは思いませんし、そうなる気持ちもありません。
最後に、フィロメナさんも力一杯、イエズス様とマリア様を愛されていると思います。
私も力一杯イエズス様とマリアを愛しております。
例え、ミサが完全なものだとしても受け取るほうが受け取りかたを間違えれば、受けとる恵みは少なくなります。
それは、トリエントミサだろうが、通常ミサだろうが同じだと思います。
ミサとは一方的な恵みで、私は最後には主の慈しみを信じる以外には救われないと思っています。
いろいろ書いてすいません。
決してフィロメナ様を悪く思っているわけではありません。
同じ信仰を持つものとして、お話させて頂いたことに感謝いたします。
私達は、みな同じですよ。」?
「キリスト教の信者たちは他の宗教の信者よりなにか聖なる者だと勘違いしていませんかね。
私達は、みな同じですよ。」
と言われたらどう思われますか?
「第二バチカン公会議の典礼改革の各段階は、真のアジョルナメントであったかどうか、むしろそれは典礼の凡俗化でなかったかどうか、どこまで司牧的に賢明であったか、もしやその逆で、軽はずみではなかったか、・・・。」(158ページ)
「今までなされてきた合理的平準化や、漠然とした論点など、カトリック典礼を村の寄り合い並に引き下げ、くだらないレベルに低下させようとする司牧的幼稚症に対して、もっと果断に反対しなければならない。既に実行されている改革も、特に定式書に関してはこの観点から見直しがなされるべきである。」(159ページ)
「時として身震いするほど陳腐で平凡な趣向によってつくられた、愚鈍で退屈な公会議後のある種の典礼・・・」(161ページ)
「カトリック者にとって、典礼は共通の母国であり、自分のアイデンティティの源泉そのものである。このためにも典礼は、祭式を通じて神の聖性が顕現されるのだから、"あらかじめ設定され"、"何ものにも煩わされるもの" でなければならないのである。ところが、"規則に縛られた古くさい厳格さ" と呼ばれ、"創造性" を奪うと非難された典礼に対する反発は、典礼をも "手作り" の渦の中に巻き込んで、私たちの凡庸さに見合うものにし、凡俗化した。」(166ページ)
ラッツィンガー枢機卿『里程標:1927年から1977年の思い出』1997年(日本語訳『わが信仰の歩み』春秋社)
「しかし、今回起きたこと(新しいミサ)は、それ以上のことだったのです。古い家を壊して新しい家を建てたのです。もちろん大幅に古い家の材料を使い、古い設計図によってということですが。この新しいミサ典書において、実際に多くの点が改良され、また豊かなものとされたのは疑いのないところです。しかし歴史的に成立してきたものに対して、新しい家を対立させ、これを禁止したということ、典礼を生きたもの、成長するものとしてではなく、学者たちの仕事、法律家の権限によってつくりだされたものとしたこと、これらが私たちに大きな損害を与えたのです。
これによって、典礼は人間に先立って神から与えられたものではなく、つくられたもの、人間の裁量の領域のうちにあるものであるという印象ができあがってしまったのです。そうすると今度は、なぜ学者や中央機関だけが決定権を持つのか、最終的には個々の共同体が自分たちの典礼をつくってもよいのではないかと考えるのは、論理的です。しかし、典礼が自分たちによってつくられたものとなってしまえば、典礼は、典礼本来の賜であるもの、すなわち、私たちの生産物ではなく、私たちの根源であり、私たちの生命の源であるところの信仰の神秘との出会いを、私たちに与えることはできません。
教会がいきいきと生きていくことができるためには、典礼意識の革新、すなわち、典礼の歴史の連続性を認め、ヴァティカン公会議を断絶としてではなく、発展として理解することができるような、典礼における和解の精神が欠かせません。私たちが今日経験している教会の危機は、「もし神が存在しなかったとしても」(etsi Deus non daretur)の原則にしたがって行われた改革の結果である典礼の崩壊が原因であると、私は確信しております。今日、典礼において、神が存在しており、神が私たちに語りかけ、私たちの祈りを聞いてくださるということは、もはや問題外のこととなっているのです。
ラッチンガー枢機卿『典礼の精神』
「教皇権力の典礼分野までの拡大のために、基本的に教皇は典礼に関して、特に教皇が公会議の決定に基づいて行為する場合は、全能であるかのような印象を与えています。この印象の結果は特に第2バチカン公会議後に目に見えています。それは典礼が与えられたものであって自分の思いのままに変えることの出来ることではないということが、西方カトリック者の意識の中から完全に消え失せてしまいました。しかし1870年第一バチカン公会議は教皇を絶対君主としてではなく、啓示された天主の御言葉に従順な保護者として定義したのです。教皇の権能の正当性は、とりわけ教皇が信仰を伝えると言うことに縛られています。信仰の遺産への忠実さと信仰の伝達への忠実さ典礼において特別な仕方で関わってきています。いかなる権威当局も典礼を「作り上げる」ことは出来ません。教皇ご自身は典礼の同質的な発展、典礼の完全性とその同一性の永続のための謙遜なしもべに過ぎないのです。」
自分の意見は述べるが、それが何故かの理由はない。
理由は「私はそうは思いません」だけ。
聖ピオ十世会さんは、新しいミサについての疑義を客観的な議論を提示していますよね。ベネディクト十六世やオッタヴィアーニ枢機卿の発言を引用したりして、深刻な問題を提議していますよね。新しいミサがプロテスタントの牧師たちと一緒に作った事実を指摘していますよね。
しかし、使徒ヨハネという人は、まず、「ピオ10世会」(ママ)のことを知らない、知りたくもない、「理解力に乏しいのであまり理解できない」と宣言する。
その上で、自分の都合の話しをする。自分がどのミサに与っているか、の話をする。
新しいミサそれ自体に、どのような問題があるかは、「決して言ってはならないことだ思い」、新しいミサを批判するのは「言語道断だと思」う。新しいミサに与る自分を「見下している」ことだから。
「私は、通常ミサしか与ったことしかない」「私は毒されたミサに与っているものだとして見られてしまうということなのか?」
聖ピオ十世会は、上からの目線で見ていると非難する。
新しいミサが何なのかという問題が、新しいミサに与っている私の問題になっている。
「ミサに優劣をつける」というのは、聖伝のミサに与る信者たちと新しいミサに与る信者たちの「信者に優劣をつける」ことになっている。
「私は、ボロボロになりながらも一生を御母マリアとイエズス様に捧げております。この意味がわかりますか?」
だれも、あなたのことについて話をしていないのに。
使徒ヨハネという人は言う。ミサはみな同じはずだ。受け取るほうが受け取りかたを間違えれば、受けとる恵みは少なくなる。それは、トリエントミサだろうが、通常ミサだろうが同じのはずだ。どうせ「私達は、みな同じですよ。」
でも、使徒ヨハネさんは、トリエント・ミサに与ったことがないから比較ができないはずですよ。
ミサに与るカトリック信者が、受け取りかたを間違えてプロテスタントのようにミサに与っているのが問題なのに。
新しいミサが原因で、教会の危機が起こっている(教皇ベネディクト十六世)のに。
使徒ヨハネという人には、何を言っても、何を書いても無駄ですよ。
「理解力に乏しいのであまり理解できない」という弁解を繰り返すだけですね。
韓国とおなじ態度です。同じ非難を繰り返すだけです。
自分はそう思う、だから自分は正しい、これがこの人の理由です。
使徒ヨハネさんはお知り合いの聖ピオ10世会の聖伝ミサに通うブロガーの方はノブスオルドのミサも良いと勧める「良い方」と感じておられますが、本当に良い方でしょうか?
カトリック信徒の愛徳とは妥協でも人気取りでも気遣いでも無く、嫌われてもハッキリと救霊の危険を伝えるということです。
聖フランシスコ・ザベリオや日本に訪れた宣教師達は自分の命も省みず真理をハッキリと伝えました。
仏教でも良いとか他にも神々が居ても良いとか聞こえの良い妥協案で認めて貰うなんて事は一切しませんでした。
それは2千年間続いた聖伝のカトリック教会の共通の概念です。
聖ピオ10世会の司祭達やその教えを守る信徒達がハッキリと「毒」と伝える事は本当のカトリックの愛徳から来る事です。
貴方にとって良い方とは好かれたいから何でも良いといい加減な事を言う人か、嫌われても良いから霊魂の救霊の為にハッキリと止めなさいと言う方か。
少なくとも聖ピオ10世会の神父様の教えを忠実に守る信徒は全て後者なので偉そうに感じたりキツく聞こえたりするかもしれません。
人は都合の悪いことを言われたら嫌ですし気分も悪いし全面否定したくなりますので。
でもそれは聖伝のカトリック信仰や教会や聖人達を否定する理由には全くなりませんよ。
こちらのブログ、小野田神父様以外はほぼハンドル名や偽名、愛称、洗礼名のみで住所も連絡先も仕事も全て秘密の方達ばかりです。
何処の誰かも何をしている方かも分からない、会ったこともない、もしかしたらカトリック信者でも無く洗礼も受けて無く、信じられないかもしれませんがフリーメイソンや反カトリックなどかもしれません。
反カトリックだからこそカトリックに詳しかったりカトリック信者を惑わす為に聖人の名前やマリア様を語ったりします。
カトリック信者だとしても何の権限や根拠や誰からの許可を持って自己信仰を不特定多数の方に宣教しているのでしょうか?
お判りでしょうが自分の身分を明かさないブロガーは何の責任も持ち合わせていません。
自分のブログを読んで誤謬にハマり地獄に落ちる霊魂があっても意にも解さないということです。
自分のブログで沢山の霊魂を地獄に導いた罪の所為で地獄の最下層で永遠に地獄の火に焼かれる事さえ理解していません。
ですから聖伝のカトリック信仰や教会、御ミサを信じ求める方は、少なくともカトリック教会の神父様やシスター、カテキスタと呼ばれる公教要理を許可されたかたの指導のみを勉強して下さい。
自分は大丈夫などと思わないで下さい。
目から耳からサタンの煙は霊魂を攻撃します。
特に聖ピオ10世会の御ミサに与る方は毒ブログを避け聖なる物に集中して下さい。
ブログを漁るよりお祈りする方が比べ物にならないくらい自分の霊魂の糧になりますよ。