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フランス革命で頂点に達したキリスト教文明に対する戦争:革命とは何か?聖寵の無限の全能の力

2024年08月08日 | お説教・霊的講話

パリのオリンピックの開会式でおこなわれた冒涜の償いの三日間(第三日目)

2024年8月4日(主日)東京 説教

トマス小野田圭志神父

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、
一昨日の8月2日から今日までの三日間は、特別に7月26日の金曜日にパリのオリンピックの開会式でおこなわれた冒涜の償いのために、ミサが捧げられています。今日はこの償いについて一緒に黙想いたしましょう。

【1:イエズス・キリストの御業への侮辱】
オリンピックの開会式では、全世界の人々の目前で、イエズス様の愛の業を冒涜するパフォーマンスが行われました。つまり、最後の晩餐、言い換えると最初のミサ聖祭、御聖体と司祭職の制定の御業が侮辱されました。
御聖体の制定というのは、人となった天主ご自身が、パンをご自分の御体に、ブドウ酒をご自分の御血に聖変化させて、私たちに与えられた愛の業です。

司祭職の制定というのは、この聖変化の権能を人間に与えるために、使徒たちを新約の司祭として叙階したその瞬間のことです。
オリンピックでは、この愛の御業が、嘲笑と軽蔑と侮辱の対象となりました。
これはイエズス様のなさった核心・その究極の御業に対する侮辱であって、いわばイエズス様の教えのすべてを否定しようとすることの現れです。冒涜です。"荒らすもののいとわしいもの"といわなければなりません。

イタリアの歴史学者であるロベルト・マテイという人は、これについて単なる「悪趣味」や「挑発」ではないといいます。これは、キリスト教に対するキリスト教のうち立てた西洋文明に対する「戦争」であると言っています。
イエズス・キリストへの信仰とカトリック教会の名のもとに立てられた西洋文明を、異教のディオニュシオスの旗の下に従属させよう、革命の旗の下に従属させようとする戦争であるといいます。彼はこんなことを言います。引用します。「単に悪趣味なショーや文化的挑発として片付けることはできません。 それは、フランス革命において歴史的なピークを迎えたキリスト教文明に対する最も新しい戦争の行為である」と言っています。 
ですから、キリスト教の最も核心的な神秘を、御聖体を、ミサ聖祭を、ディオニュシウスという異教的な乱痴気騒ぎ・放埓と奔放の官能に置き換えようとするのです。
ですから、ギロチンにかけられて殉教した王妃マリー・アントワネットが、自分の首を両手で抱えて、革命の賛歌 Ça iraを歌うような冒涜的なパフォーマンスもありました。何故でしょうか?何故かというと、フランス国王は、イエズス・キリストの社会的な統治権、イエズス・キリストの王権の原理を体現していたからです。

ピオ六世教皇は、1793年、勅令で、ルイ16世を殉教者だと呼んでいます。同じ言葉が、マリー・アントワネット王妃にも当てはまります。なぜかというと、この二人はキリストに対する革命的な憎しみによって殺害された殉教者だからであります。カトリック王をギロチンにかけ、カトリック王国を破壊するということは、すなわちキリストの社会統治という原理を攻撃し破壊しようとすることでした。キリスト教を否定したうえに共和国が建国されたのです。ですから、王のそして王妃の殺害は、革命の精神の表現であり、共和国の建設を意味する行為でした。
去年の3月、マクロン大統領は、フランス共和国が世界で初めて中絶を憲法に盛り込んだということで誇りに思っていました。この中絶という罪のない赤ちゃんたちをお母さんのお腹の中で殺害するということが憲法で合法化されたということは、国家による王の殺害の合法化、殺人の合法化という、象徴的な連続を表しています。

では、私たちは、このようなキリスト教の文明に対する戦争に対して、それを目前にして、一体何をするべきでしょうか?この悪を前にして、「怒り」を表明するだけでよいのでしょうか?それとも悪を目の前に、悪が多すぎるのでこれは勝てない、そして「逃亡」すればよいのでしょうか?
それとも「私には、なんのことだかわからない」「そんなのは知らない!」(マテオ26:70-74)「関係ない!」と言って、「無関心」を装っていればよいのでしょうか?
イエズス様は私たちがそうやって逃げてしまうのをお喜びになるのでしょうか?私たちはいったい何をすることができるでしょうか?イエズス・キリストは、わたしたちが何をすることを期待しておられるのでしょうか?

それに対する答えは、今日のミサに書かれています。主は、私たちに聖寵を信じること、主のお恵みを信じることを求めています。そして、聖寵に協力して、償いをすることを求めています。

【2:聖パウロ:聖寵による大回心】
説明します。今日の書簡を見てください。キリスト教文明は、革命のイデオロギーに敗北して、このまま姿を消すことはできません。イエズス・キリストが公然と侮辱されたまま馬鹿にされたまま、キリストの敵が勝利をうたっているかと見えますが、これは長く続きません。イエズス・キリストは十字架につけられて三日後、復活しました。キリストの神秘体もカトリック教会も、御受難の後、栄光ある姿に復活します。実際にフランス革命の後、カトリック教会は瓦礫の中から燦然と美しい姿を輝きだして、世界中に宣教師を送り、改宗者を出しました。同じことが起こります。

今日の書簡では、聖パウロは、復活した主イエズス・キリストがご自分に現れたということをこう言っています。引用します。
「すべての使徒たちに、最後には、月足らずのような私にもおあらわれになった。私は天主の教会を迫害した者であって、使徒と呼ばれる値打ちのない、使徒のうちでもっとも小さい者である。しかし、天主の恩寵によって、私は今の私になった。そして私が受けた恩寵は空しくならなかった。」

これは何を意味するでしょうか。たしかに聖パウロは「天主の教会を迫害した者」でした。キリストの敵でした。別のところでも自責の念をこめて述べています。ガラチアの書には、「私は、きわめてはげしく天主の教会を迫害し、荒らしていた」(ガラチア1:13)、と言います。ティモテオ書には、「私は先には冒涜者、迫害者、暴力者であった」(ティモテオ前1:13)と自責の念を込めて書いています。
しかし、このキリスト教を最も迫害していた敵・罪人だった私は天主から受けた恩寵によって回心した、というのです。ティモテオの書簡の中にはこうもあります、「その罪人の中で私は頭である。私があわれみを受けたのは、イエズス・キリストが、かれを信じて永遠の命を受けようとする者の模範として、まず私に、その寛容をことごとく示されたがためである。」(ティモテオ前1:15-16)
イエズス様の寛容のあわれみの力を見せしめるために、まず聖パウロが回心しました。しかも、キリストの計り知れない富を異邦人に告げるために特別の異邦人の使徒と選ばれました。ですからどのようなおそるべき教会の公然の敵であったとしても、悪魔の手先のような人々であったとしても、聖寵によるならば回心が可能です。
聖パウロの書簡は私たちに今日その希望を伝えています。聖寵の無限の全能の力を教えています。
では、その回心はいつ、どのようにして実現するのでしょうか?私たちはそのためにいったい何をすればよいのでしょうか? 福音をご覧ください。

【3:どもりで耳の聞こえない人】
主はどもりで耳の聞こえない人を癒されます。なぜでしょうか? なぜかというと、主がガリラヤの海辺におられるとき、人々が、どもりで耳の聞こえない人々をつれてきて、按手してくださいと願ったからです。祈ったからです。懇願したからです。

尊者ベーダは、これを私たちに適応しています。この話すことも耳の聞こえることもできない人とは、天主の御言葉を聞くことも、また口を開いてみことばを話すこともできないような人々を意味している。このような人々は、癒されるために、主の御許に連れてこられなければならない、と。

オリンピックの開会式は、あるいはオリンピックを主催した人は、この主の御許に運ばれて癒されなければならない人々でした。そしてその人々のパフォーマンスでした。何故でしょうか?何故かというと、彼らは残念ながらイエズス・キリストの福音に耳をふさいでいるからです。そのかわりに、革命という「嘘の帝国」を作り上げるのに協力しているからです。「死の文化」を合法化しようとしているからです。

革命というのはいったいなんなのでしょうか?革命というのはその定義上、既成の秩序を破壊することです。では秩序を破壊するためには、なにをしたらよいのでしょうか?区別を破壊します。上も下もない、ということです。右も左もない。社会全体のあらゆる区別を破壊します。そうすることによって、秩序を破壊します。
ところで、最初の革命は、天主と自分との区別を受け入れなかったルチフェルから始まりました。「私は従わない。」「嫌だ。」この区別を最初に拒否したのはサタンです。そしてこの革命に人間たちをも巻き込もうともします。「おまえたちも神々のようになる」と。そうして革命は天主と人間という間にある、つまり、創造主と被造物という絶対的な区別、最も根本的な区別を否定しようとします。

するとどうなるでしょうか?超自然と自然の区別も破壊されます。人間の良心があたかも絶対の基準であるかのように神聖化されます。これはどういうことかというと、人間は善と悪の区別がわからなくなる。真理と偽りの区別がわからなくなる。何が美しいのか何が醜いのかわからなくなる。そうではなくて、自分で決める。自分が、何が真理、何が誤り、何が美しい、何が醜い、何が善、何が悪か、わたしが決める。わたしが決めたら、そうだ。

そこからさらには混乱が始まります。お父さんとお母さん、お父さんと子ども、この区別がわからなくなります。親と子ども、あるいは先生と弟子、先生と生徒、この区別も分からなくなる。生徒が先生を評価し、先生の成績をつける。あるいは司祭と信徒の区別がわからなくなる。あるいはいろいろな国の違いがわからなくなる。いろいろな宗教の違いがわからなくなる。エキュメニズムだ。など。革命の原理を受け入れてしまった新しいミサは、まさにこれの表明かもしれません。信徒が司祭の代わりに御聖体を配ったり、あるいはその他の行いをしています。宗教の区別がわからなくなりつつあります。
これだけではありません。革命の原理はさらに行きます。人間と人間以外の動物の区別もわからなくなる。男と女も何が違うのかわからない。すべての区別がわからない。秩序が崩壊する。男と女がわからないというのはジェンダー理論といわれています。自分で男か女を決めることができる「性自認」といわれています。今日は男になる、男のような感じがするから、男湯に入る。でも明日は女のような感じがするから、女湯に入る。
聖パウロはすでに現代について私たちにこう警告しています。引用します。
「人々が、もはや健全な教えを忍ばず、私欲のままに、耳に快いことを聞かせる教師を集め、真理から耳をそむけ、つくり話に耳を傾けるときが来るであろう。」(ティモテオ後4章3-4)

【4:遷善の決心】
ではそのような、言葉も話すことができず、耳も聞くことができず、なにもわからない、右も左もわからない、何が良いのか悪もわからない、男も女もわからないというような人々にいったい私たちは何をすることができるでしょうか。

わたしたちは主の聖寵の恩寵の力を信頼して彼らのために祈ります。彼らに按手してください、と主に懇願します。聖パウロが回心の恵みを得たのは、殉教者聖ステファノが自分を迫害する人々のために祈ったからだと言われます。石殺しを受けながら、聖ステファノは「主よ、彼らにこの罪を負わせないでください。」と祈りながら、殉教していきました。主がわたしたちに望んでいるのはこの祈りです。償いです。憐れみを主に請い求めることです。ですから、私たちはこの三日間、償いのミサと聖体降福式を捧げています。

愛する兄弟姉妹の皆さま、パリのこの冒涜を機会に、全世界が回心するか否かは、皆さんのこの懇願・祈りにかかっています。イエズス様を知らないこの世の回心のために心を合わせて祈りましょう。

ミサ聖祭が侮辱されました。ですから、私たちはその反対に、愛と礼拝をこめて、ミサ聖祭に与りましょう。聖伝のミサに与っています。冒涜の罪を償いましょう。

御聖体の制定が侮辱されました。ですからわたしたちはその反対に、跪いて、口で、舌で、敬虔に、礼拝と感謝を込めて、愛をこめて、御聖体拝領をいたしましょう。

また特に、御聖体に対してファチマの天使が教えてくださった2つの祈りをお祈りいたしましょう。

主の御恵みによって、また聖母の御取次によって、世界の国々の人々が、またフランスと日本の国民が主に回心するように、お祈りいたしましょう。

「私は天主の教会を迫害した者であって、使徒と呼ばれる値打ちのない、使徒のうちでもっとも小さな者である。しかし、天主の恩寵によって、私は今の私になった。そして私が受けた恩寵は空しくならなかった。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。



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