アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
2017年1月8日(主日)に東京で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
小野田神父 説教
聖なる日本の殉教者巡回教会にようこそ。
今日は2017年1月8日、聖家族の祝日を祝っています。私たちのこの新年最初のこの御ミサで、皆さんに聖なる祝福に満ちた良い年となりますように、心からお祈り申し上げます。
今年はファチマの100周年の記念の年ですので、特別に私たちのこの一年はファチマのマリア様の黙想と、マリア様のメッセージを実現する事を考えています。そこで私たちはこの日本の聖ピオ十世会では、ミサの退場の聖歌にいつもファチマのアヴェ・マリアの聖歌を、日本語や或いは英語や、ポルトガルやフランス語でも歌って、世界中からマリア様が愛されて、マリア様の御心が慰めを受けますようにと、そうする事を提案します。
今年は御聖体拝領後の祈りの後に、ミサの後の祈りの時に、特に天使の祈りを唱えて皆さんと一緒に唱えたいと思っています。マリア様は私たちのこの実践を見て、きっと特別のお恵みを下さるに違いありません。
今日はこのミサはまだ御公現の季節、御公現節ですので、まだこの前のクリスマスの時にはいらっしゃれずにバカンスでお帰りになった方もいらっしゃいますし、イエズス様の礼拝をローマの伝統に従って、ミサの後の祈りの後に行いたいと思っています。
次の時にはその代わりに、踏み絵の償いの接吻を捧げたいと思っています。
今月の次のミサの予定ですが、フルーガー神父様が1月21日に東京に到着して、1週間ほど日本に滞在したいとの事です。22日には東京で神父様からミサをして頂いて、またお話しも聞きたいと思っています。
今日の14時30分からは公教要理で、聖書の話の続きがあります。今日は聖書が息吹きを、「聖霊の息吹きを受けて書かれた」という事と、あと「聖書には誤りがない」という事を黙想したいと思います。
訃報ですけれども、私たちのミサに来られていたセシリアさんというご年配の方が、癌で先日の9日に亡くなられたと連絡を受けました。どうぞこの霊魂の為にお祈り下さい。また御公現の日に1月6日に、フェレー司教様のお父様もお亡くなりになられたと聞きました。どうぞこのフェレー司教様のお父様の為にお祈り下さい。
“Decendit Jesus cum eis, et venit Nazareth, et erat subditus illis.”
「イエズスは彼らと共に下りナザレトに来て、そして彼らに従った。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、今日は聖家族の祝日です。そこで、この聖家族の祝日のこのミサは私たちに何を教えているのか、一体何が中核の核心のメッセージなのか、他のクリスマスや御公現のミサとどう違っているのか、という事を黙想する事を提案します。
このミサを通して、一体イエズス様は私たちに何をなさろうとしているのか、このミサで一体何が起こっているのか、というその現実をぜひ知って頂きたいと思っています。
その現実を知った後に、私たちは新年の遷善の決心を立てる事に致しましょう。遷善の決心は、それはイエズス様に、イエズス様を私たちの家族に、私たちの霊魂に受け入れるという事であり、またイエズス様の真似をして、イエズス様のところに行くという事です。
では、今日の聖家族の構造を見ていく事を提案します。
聖家族のミサというのは、実はこれはレオ13世教皇様が新しく制定したミサなのです。何故かというと、近代になってカトリックの家庭が非常に多く攻撃されている、それを嘆いた教会が是非、「今まではもう当然であって、もうこれが人類の最も中核の細胞の基礎の一部である家庭があまりにも当然であって、もしかしたら注意を払わなかったかもしれないけれども、しかしこの家庭こそに一番大切なものがある」という事を、もう一度黙想させようとしているからです。そして作られました。
そこで、古代から伝わるクリスマスや御公現のミサと、その聖家族のミサは少しだけ性格が違っています。2つ、典礼学者によると2つ性格の違いがあります。
1つは、クリスマスと主の御降誕と御公現は、「これは東の東方の教会と西方の教会の見事な融和であり調和であり、その2つの伝統が非常にきれいに合体して出来た作品である。典礼の伝統である、古代からの伝統である」という事ですが、このクリスマスも御公現も、「そのミサで行われている事を、ミサでの行動が、行われている現実の事が、典礼の文書によって説明されている」という特徴を持っています。
ところで新しく出来たこの聖家族は、私たちにミサで行われている行動を確かに説明するのですけれども、それは私たちの眼を開かせて、ミサでの中での行いというよりは、聖家族の方に目を向けるように、聖家族の日常の生活を黙想するようにと、むしろ「黙想する事」を主願にしています。
第2の特徴としては、御公現や或いは御降誕のミサでは、「イエズス様が私たちの所にいらした」というその御降臨を御降誕を、「私たちの所に在す」という事を祝うのですけれども、聖家族のミサは、「イエズス様が実は私たちの所にいらっしゃらなければならない、もう一度そのイエズス様が生き生きとした姿を復活させなければならない、キリスト教の家族の中にイエズス様をもう一度復興させなければならない」という目的があります。
ちょうど教会は、宝物から古い物と新しい物を出す賢い知恵者であるかのようです。そこで典礼学者が口を揃えて言うのは、今日のメッセージの核心は、“Decendit Jesus cum eis, et venit Nazareth, et erat subditus illis. ”「イエズス様は、マリア様とヨゼフ様と共にナザレトにお下りなって、彼らに従った」という事です。この1節を私たちに強調付ける為に、このこれを黙想させる為に、入祭誦があり、そして集祷文があります。
特に集祷文では、「私たちが遂に、天国の家族の一部となるように」という事を祈らせています。
聖パウロの書簡では、そのナザレトでの聖家族が一体どのようなものであったのかという事が、聖パウロの口を通して具体的に話させています、「特に愛徳を持て。愛徳は完成の鎖である」と言っています。
聖家族の事を私たちに黙想させた後に、実際12歳になったイエズス・キリストがどのように行動したかをまざまざと見せます。それはイエズス様がまず、「御父に従順に従った」という事。第2に、「御父に従う為に、被造物であったヨゼフ様とマリア様に従順に従った」という事です。
永遠の知恵、この世の創り主、最高の王の王、光からの光、全てがお見通しであった天主、人となった天主が、憐れ大工であったヨゼフに、労働者であったヨゼフに従順に従った、マリア様に従った、彼らに従って30年間その隠れた生活をした、という事を私たちに、私たちの注目を向けさせます。
主と共にいるのはどれほど喜ばしい事でしょうか。「『主の家に行こう』と言われて私たちは喜んだ。」主の家にいる事は、どんな宝の山を積んだ宮殿にいるよりもっとましだ。「まさに主こそ隠されたイスラエルの王である」と典礼は補足しています。
イエズス様はまさに、私たちの為に従順のいけにえを捧げたいけにえであって、そしてその事が奉献文でもOffertoriumでも歌われます、言われます。一体これは何なのかというと、「究極の現実が、ミサでの現実が、私たちに今から起こるんだ」という事を教える為です。
確かにこのミサは新しく作られましたけれども、しかし古代からの伝統に従って、ミサで起こっている事を私たちに典礼で教えようとします。それは何かというと、「イエズス様は過去2000年前に、マリア様とヨゼフ様に従ってナザレトに下りてきて、そして彼らに従ったのみならず、現在2017年1月8日、東京のこのミサで、ミサの時に、司祭の聖変化の言葉に従って、天から降りられて、そして私たちのもとに来て、私たちに従う、というその現実が今から起こるのだ」という事を教えているのです。
ですからこそ聖体拝領の時にはこの1文が歌われます、「イエズスは彼ら共に下りてきてナザレトに来て、彼らに従った。」
「イエズス様は今私たちの目の前で、この祭壇の上に降りて来られて、私たちに従った、私たちのものとなった、私たちの運ばれるままに、私たちにされるままに従っておられる、というこの天主の極みのない無限の憐れみと、従順と、天主の愛の現実を、今ミサで目の前に起こっているのだ」と教会はこのミサの文章を以てテキストを以て教えています。
ここに、まさしくミサの頂点があります。「イエズス様は私たちに従うものとなった。私たちのものとなった。私たちの胸に囚人のようになった。もうイエズス様は私たちのものだ」と。
ではその信じられないような現実の前に、今これから起こる事を黙想して、一体どういう事をどういう決心を取らなければならないのでしょうか。
これは、クリスマスの時に私たちがとった遷善の決心をもう一度新たにする事を提案します。
1つは、イエズス様が私たちのもとにお降りになって、天主が人となって降られて、私たちの心の中に来られた、生まれた、生まれたいと思っているので、私たちはどうぞ、このイエズス様を受け入れるようになさって下さい。イエズス様をどうぞ拒否なさらないで下さい。イエズス様は私たちに従うものとなって来られようと望んでおられます。イエズス様のお望みの通りになさってあげて下さい。イエズス様が、「これはこうだ、天主の十戒はこうだ、善はこうである、悪はこうだ」と教えたならば、その通りに私たちは知性も意思もイエズス様に従えるようになさって下さい。イエズス様を、「あぁ、邪魔だ、おれの考えと違う。出て行け」などと追い払わないようになさって下さい。イエズス様は私たちに善を与える為に、祝福を与える為に、恵みを与える為に、来たいと思っているのです。私たちの心を聖家族の基としたいと思ってるからです。私たちの心をいわば、主の宮殿と変えたいと思っているからです。
また私たちの心だけではなく、家族の中にもイエズス様を迎えるようになさって下さい。イエズス様のお祈りで始まる1日、イエズス様のお祈りで終わる1日となりますように。イエズス様のもとに家族が1つとなりますように。もしもその家族の中で、まだ信仰を持っていない方がいらっしゃる場合には、その方が信仰を持ちますようにお祈り致しましょう。もしも同じ信仰を持っているのでしたら、ますますイエズス様が王でありますように、イエズス様が支配するような家族でありますように、イエズス様がまとめる家族でありますように、イエズス様が王様でありますように、イエズス様をどうぞ家族の中に受け入れて下さい。
第2に提案するのは、それは御公現の神秘です。3人の博士がイエズス様を探して行ったように、イエズス様を受け入れない人の為に、その人たちが受け入れる事ができるように、イエズス様を知らない人々が知る事ができるように、私たちはイエズス様を探して行って、イエズス様を知らない人、信じない人の為に、礼拝しない人の為に、イエズス様に希望しない人の為に、愛さない人の為に代わって、イエズス様を積極的に信じ、礼拝し、希望し、愛する事ができますように。その2つを提案します。
ちょうどこの2つの事はファチマの天使が私たちに教えてくれています。ですからこのファチマのお祈りを特に唱える事によって、この聖家族の精神をうまく今年は実践する事ができると信じています。
マリア様にお祈り致しましょう。「マリア様はイエズス様の神秘を深く心に留めておかれた」と福音に書かれてあります。マリア様の汚れなき御心の中に深く入る事に致しましょう。ファチマのマリア様は言われました、「私の心は避難所であって、天へと導く道であるから。」
“Decendit Jesus cum eis, et venit Nazareth, et erat subditus illis.”
「イエズスは彼らと共にナザレトに下り、そして彼らに従った。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、
2017年1月8日(主日)に東京で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
2017年1月8日(主日)イエズス、マリア、ヨゼフ、聖家族の祝日のミサ
小野田神父 説教
聖なる日本の殉教者巡回教会にようこそ。
今日は2017年1月8日、聖家族の祝日を祝っています。私たちのこの新年最初のこの御ミサで、皆さんに聖なる祝福に満ちた良い年となりますように、心からお祈り申し上げます。
今年はファチマの100周年の記念の年ですので、特別に私たちのこの一年はファチマのマリア様の黙想と、マリア様のメッセージを実現する事を考えています。そこで私たちはこの日本の聖ピオ十世会では、ミサの退場の聖歌にいつもファチマのアヴェ・マリアの聖歌を、日本語や或いは英語や、ポルトガルやフランス語でも歌って、世界中からマリア様が愛されて、マリア様の御心が慰めを受けますようにと、そうする事を提案します。
今年は御聖体拝領後の祈りの後に、ミサの後の祈りの時に、特に天使の祈りを唱えて皆さんと一緒に唱えたいと思っています。マリア様は私たちのこの実践を見て、きっと特別のお恵みを下さるに違いありません。
今日はこのミサはまだ御公現の季節、御公現節ですので、まだこの前のクリスマスの時にはいらっしゃれずにバカンスでお帰りになった方もいらっしゃいますし、イエズス様の礼拝をローマの伝統に従って、ミサの後の祈りの後に行いたいと思っています。
次の時にはその代わりに、踏み絵の償いの接吻を捧げたいと思っています。
今月の次のミサの予定ですが、フルーガー神父様が1月21日に東京に到着して、1週間ほど日本に滞在したいとの事です。22日には東京で神父様からミサをして頂いて、またお話しも聞きたいと思っています。
今日の14時30分からは公教要理で、聖書の話の続きがあります。今日は聖書が息吹きを、「聖霊の息吹きを受けて書かれた」という事と、あと「聖書には誤りがない」という事を黙想したいと思います。
訃報ですけれども、私たちのミサに来られていたセシリアさんというご年配の方が、癌で先日の9日に亡くなられたと連絡を受けました。どうぞこの霊魂の為にお祈り下さい。また御公現の日に1月6日に、フェレー司教様のお父様もお亡くなりになられたと聞きました。どうぞこのフェレー司教様のお父様の為にお祈り下さい。
“Decendit Jesus cum eis, et venit Nazareth, et erat subditus illis.”
「イエズスは彼らと共に下りナザレトに来て、そして彼らに従った。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、今日は聖家族の祝日です。そこで、この聖家族の祝日のこのミサは私たちに何を教えているのか、一体何が中核の核心のメッセージなのか、他のクリスマスや御公現のミサとどう違っているのか、という事を黙想する事を提案します。
このミサを通して、一体イエズス様は私たちに何をなさろうとしているのか、このミサで一体何が起こっているのか、というその現実をぜひ知って頂きたいと思っています。
その現実を知った後に、私たちは新年の遷善の決心を立てる事に致しましょう。遷善の決心は、それはイエズス様に、イエズス様を私たちの家族に、私たちの霊魂に受け入れるという事であり、またイエズス様の真似をして、イエズス様のところに行くという事です。
では、今日の聖家族の構造を見ていく事を提案します。
聖家族のミサというのは、実はこれはレオ13世教皇様が新しく制定したミサなのです。何故かというと、近代になってカトリックの家庭が非常に多く攻撃されている、それを嘆いた教会が是非、「今まではもう当然であって、もうこれが人類の最も中核の細胞の基礎の一部である家庭があまりにも当然であって、もしかしたら注意を払わなかったかもしれないけれども、しかしこの家庭こそに一番大切なものがある」という事を、もう一度黙想させようとしているからです。そして作られました。
そこで、古代から伝わるクリスマスや御公現のミサと、その聖家族のミサは少しだけ性格が違っています。2つ、典礼学者によると2つ性格の違いがあります。
1つは、クリスマスと主の御降誕と御公現は、「これは東の東方の教会と西方の教会の見事な融和であり調和であり、その2つの伝統が非常にきれいに合体して出来た作品である。典礼の伝統である、古代からの伝統である」という事ですが、このクリスマスも御公現も、「そのミサで行われている事を、ミサでの行動が、行われている現実の事が、典礼の文書によって説明されている」という特徴を持っています。
ところで新しく出来たこの聖家族は、私たちにミサで行われている行動を確かに説明するのですけれども、それは私たちの眼を開かせて、ミサでの中での行いというよりは、聖家族の方に目を向けるように、聖家族の日常の生活を黙想するようにと、むしろ「黙想する事」を主願にしています。
第2の特徴としては、御公現や或いは御降誕のミサでは、「イエズス様が私たちの所にいらした」というその御降臨を御降誕を、「私たちの所に在す」という事を祝うのですけれども、聖家族のミサは、「イエズス様が実は私たちの所にいらっしゃらなければならない、もう一度そのイエズス様が生き生きとした姿を復活させなければならない、キリスト教の家族の中にイエズス様をもう一度復興させなければならない」という目的があります。
ちょうど教会は、宝物から古い物と新しい物を出す賢い知恵者であるかのようです。そこで典礼学者が口を揃えて言うのは、今日のメッセージの核心は、“Decendit Jesus cum eis, et venit Nazareth, et erat subditus illis. ”「イエズス様は、マリア様とヨゼフ様と共にナザレトにお下りなって、彼らに従った」という事です。この1節を私たちに強調付ける為に、このこれを黙想させる為に、入祭誦があり、そして集祷文があります。
特に集祷文では、「私たちが遂に、天国の家族の一部となるように」という事を祈らせています。
聖パウロの書簡では、そのナザレトでの聖家族が一体どのようなものであったのかという事が、聖パウロの口を通して具体的に話させています、「特に愛徳を持て。愛徳は完成の鎖である」と言っています。
聖家族の事を私たちに黙想させた後に、実際12歳になったイエズス・キリストがどのように行動したかをまざまざと見せます。それはイエズス様がまず、「御父に従順に従った」という事。第2に、「御父に従う為に、被造物であったヨゼフ様とマリア様に従順に従った」という事です。
永遠の知恵、この世の創り主、最高の王の王、光からの光、全てがお見通しであった天主、人となった天主が、憐れ大工であったヨゼフに、労働者であったヨゼフに従順に従った、マリア様に従った、彼らに従って30年間その隠れた生活をした、という事を私たちに、私たちの注目を向けさせます。
主と共にいるのはどれほど喜ばしい事でしょうか。「『主の家に行こう』と言われて私たちは喜んだ。」主の家にいる事は、どんな宝の山を積んだ宮殿にいるよりもっとましだ。「まさに主こそ隠されたイスラエルの王である」と典礼は補足しています。
イエズス様はまさに、私たちの為に従順のいけにえを捧げたいけにえであって、そしてその事が奉献文でもOffertoriumでも歌われます、言われます。一体これは何なのかというと、「究極の現実が、ミサでの現実が、私たちに今から起こるんだ」という事を教える為です。
確かにこのミサは新しく作られましたけれども、しかし古代からの伝統に従って、ミサで起こっている事を私たちに典礼で教えようとします。それは何かというと、「イエズス様は過去2000年前に、マリア様とヨゼフ様に従ってナザレトに下りてきて、そして彼らに従ったのみならず、現在2017年1月8日、東京のこのミサで、ミサの時に、司祭の聖変化の言葉に従って、天から降りられて、そして私たちのもとに来て、私たちに従う、というその現実が今から起こるのだ」という事を教えているのです。
ですからこそ聖体拝領の時にはこの1文が歌われます、「イエズスは彼ら共に下りてきてナザレトに来て、彼らに従った。」
「イエズス様は今私たちの目の前で、この祭壇の上に降りて来られて、私たちに従った、私たちのものとなった、私たちの運ばれるままに、私たちにされるままに従っておられる、というこの天主の極みのない無限の憐れみと、従順と、天主の愛の現実を、今ミサで目の前に起こっているのだ」と教会はこのミサの文章を以てテキストを以て教えています。
ここに、まさしくミサの頂点があります。「イエズス様は私たちに従うものとなった。私たちのものとなった。私たちの胸に囚人のようになった。もうイエズス様は私たちのものだ」と。
ではその信じられないような現実の前に、今これから起こる事を黙想して、一体どういう事をどういう決心を取らなければならないのでしょうか。
これは、クリスマスの時に私たちがとった遷善の決心をもう一度新たにする事を提案します。
1つは、イエズス様が私たちのもとにお降りになって、天主が人となって降られて、私たちの心の中に来られた、生まれた、生まれたいと思っているので、私たちはどうぞ、このイエズス様を受け入れるようになさって下さい。イエズス様をどうぞ拒否なさらないで下さい。イエズス様は私たちに従うものとなって来られようと望んでおられます。イエズス様のお望みの通りになさってあげて下さい。イエズス様が、「これはこうだ、天主の十戒はこうだ、善はこうである、悪はこうだ」と教えたならば、その通りに私たちは知性も意思もイエズス様に従えるようになさって下さい。イエズス様を、「あぁ、邪魔だ、おれの考えと違う。出て行け」などと追い払わないようになさって下さい。イエズス様は私たちに善を与える為に、祝福を与える為に、恵みを与える為に、来たいと思っているのです。私たちの心を聖家族の基としたいと思ってるからです。私たちの心をいわば、主の宮殿と変えたいと思っているからです。
また私たちの心だけではなく、家族の中にもイエズス様を迎えるようになさって下さい。イエズス様のお祈りで始まる1日、イエズス様のお祈りで終わる1日となりますように。イエズス様のもとに家族が1つとなりますように。もしもその家族の中で、まだ信仰を持っていない方がいらっしゃる場合には、その方が信仰を持ちますようにお祈り致しましょう。もしも同じ信仰を持っているのでしたら、ますますイエズス様が王でありますように、イエズス様が支配するような家族でありますように、イエズス様がまとめる家族でありますように、イエズス様が王様でありますように、イエズス様をどうぞ家族の中に受け入れて下さい。
第2に提案するのは、それは御公現の神秘です。3人の博士がイエズス様を探して行ったように、イエズス様を受け入れない人の為に、その人たちが受け入れる事ができるように、イエズス様を知らない人々が知る事ができるように、私たちはイエズス様を探して行って、イエズス様を知らない人、信じない人の為に、礼拝しない人の為に、イエズス様に希望しない人の為に、愛さない人の為に代わって、イエズス様を積極的に信じ、礼拝し、希望し、愛する事ができますように。その2つを提案します。
ちょうどこの2つの事はファチマの天使が私たちに教えてくれています。ですからこのファチマのお祈りを特に唱える事によって、この聖家族の精神をうまく今年は実践する事ができると信じています。
マリア様にお祈り致しましょう。「マリア様はイエズス様の神秘を深く心に留めておかれた」と福音に書かれてあります。マリア様の汚れなき御心の中に深く入る事に致しましょう。ファチマのマリア様は言われました、「私の心は避難所であって、天へと導く道であるから。」
“Decendit Jesus cum eis, et venit Nazareth, et erat subditus illis.”
「イエズスは彼らと共にナザレトに下り、そして彼らに従った。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。