Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

【参考文献】ヴィガノ・テープ 第11~16番:「公会議は、勇気を持って十字架の道を歩むことよりも、安易な対話の道を選ぶ誘惑に屈してしまい、その結果福音をこの世の精神に適合させてしまいました。」

2021年11月08日 | カトリック・ニュースなど

【参考文献】ヴィガノ大司教は、今は引退していますが、元バチカンのトップで働いていました。教皇パウロ六世、教皇ヨハネ・パウロ二世、教皇ベネディクト、教皇フランシスコなどを親しく知っている高位聖職者です。ヴィガノ大司教は、正直に、現実的に、第二バチカン公会議のイデオロギーが失敗したことを指摘します。刷新とされているものは何だったのか?教会の破壊だったのではないか?公会議の教会の問題点とは何か?と問うています。

ヴィガノ・テープ:「教会はいかにして変わったか」
質問11

The Vigano Tapes: “How the church has changed”
Question #11

【質問番号11】大司教様、またしても大司教様は、今日私たちが直面している重大な危険について述べられる際に、世論を二分するような発言や暗いトーンで私たちに衝撃を与えられました。それは、去勢という言葉、医学的手段による毒の注入という言葉です。話を少し変えて、大司教様の真の専門分野である教会の生活についてもう少し詳しく見てみましょう。大司教様はバチカンの役人でいらっしゃいました。教皇パウロ六世、教皇ヨハネ・パウロ二世、教皇ベネディクト、そして教皇フランシスコとも近い関係をお持ちでした。聖伝に対して、世俗世界全般に対して、教会をこのような弱い立場に置いてしまったとは、教会にいったい何が起こったとお考えですか? 今日、教会が直面しなければならない主要な問題は何でしょうか?

【回答】サタンの煙が教会に入ったのは60年以上前の公会議からですが、もっと前からと言ってもいいでしょう。第二バチカン公会議の革命が可能だったのは、ローマ教皇庁、各司教区、各大学、各神学校、各修道会に侵入した裏切り者たちによって、何十年にもわたって細部に至るまで準備されかつ組織されていたからです。教会の最高位の人々が、無気力で準備ができておらず、新奇なものの風に毒され、現代社会の課題に直面して対応が不十分で、自分たちは時代遅れ・流行遅れであると信じるようにさせた劣等感に苦しんでいたことを、この侵入ができたことが示しています。そして私たちが認識しなければならないのは、このことの主な原因は、超自然的なビジョンの欠如にあるということです。つまり、散漫な行動主義に無駄な力を使ったために、そして、まさに祈りに養われず天主の愛である愛徳に養われていないがゆえに不毛な使徒職のために、恩寵の生活を軽視してしまったのです。

同じことが今日も起きています。たとえそれが古代のものであることを考慮しただけでも、それ自体が廃止の可能性を免除されている典礼に、違法な制限を押し付けるような、教会法まがいの威圧に直面しているからです。

私が何度も申し上げたように、日食の時に月が太陽を覆うようにキリストの教会の上に重なっている公会議の教会の問題点とは、この世と折り合いをつけようとしたことです。私たちの運命は、世に嫌われ、世に迫害されることである、と福音が教えているにもかかわらずです。「この世があなたたちを憎むとしても、あなたたちより先に私を憎んだことを忘れてはならぬ」(ヨハネ15章18節)、「彼らが私を迫害したなら、あなたたちにも迫害を加えるだろう」(ヨハネ15章20節)。「弟子は先生以上のものではない。下男も主人以上のものではない」(マテオ10章24節)。公会議の位階階級は、勇気を持って十字架の道を歩むことよりも、安易な対話の道を選ぶ誘惑に屈してしまい、その結果、位階階級は福音宣教を放棄し、福音に混ぜ物をし、福音をこの世の精神に適合させてしまいました。サタンは、私たちの主によって、「この世の君」と呼ばれていることを忘れてはなりません(ヨハネ12章31節、16章11節)。

しかし、このいわゆる「公会議の春」が大失敗したことを目前にしても、人は自殺的であることが証明されている道を四角四面に頑固に主張します。もし、第二バチカン公会議が少なくとも信者の数を増やしたのであれば、その方法を批判することはできても、質的にはともかく、少なくとも数的な利益を認識することはできたでしょう。しかし、公会議のいわゆる「開かれていること」は、分かれた兄弟たちを一人も改宗させず、法外な数の信者の放棄という結果を引き起こしました。今日、教会に残っている人たちの信仰について知識は、ほとんどの場合、隙間だらけで、不完全で、誤謬のあるもので、霊的生活は完全にないとは言えないまでも貧弱で、成聖の恩寵の状態は消滅し、無視されています。

私は自問しますが、ピオ十二世までのローマ教皇が歩んできた王道を捨て、第二バチカン公会議が採用した道を歩み続けるべき根拠となる、第二バチカン公会議の大成功は、いったいどこにあるというのでしょうか? 人間的な評価だけであっても、公会議のイデオロギーの失敗と、犯した過ちを修復する必要性を理解するのには十分です。

そして、私たちは自問しなければなりません。おそらく無慈悲に、しかしそれでも正直に、そして現実的にです。刷新とされているものは口実に過ぎず、その背後にはキリストの教会を破壊し、偽物に置き換えようとする明確で悪意のある意向が隠されていたのではないかと。この意向は、大多数の司教たちに理解されておらず、共有されてもいないのは確かですが、少数の組織化された有能な裏切り者たちの行動において明白に当然のこととして現れています。彼らが、古い宗教と古いミサについて、新しい公会議の宗教と新しい改革されたミサに対比して語るのは偶然ではありません。彼らが公会議を鋤のように使って意図的に掘ったその溝は、今日、カトリックであるものと、もはやカトリックでないもの、カトリックである人と、もはやカトリックでありたいと思わない人とを分ける差(discrimen)として、現実のものとなって現れています。


ヴィガノ・テープ:キリストの王権を否定する
質問12

The Vigano Tapes:Denying the Kingship of Christ
Question #12


【質問番号12】大司教様、公会議の教会は、公会議以前のカトリック教会とどのような点で異なっているのでしょうか? 大司教様は今、私たちに60年間続いたプロセスを説明されましたが、おっしゃるように、そのプロセスで教会はある種の腐敗に直面してきました。大司教様は道徳的な面での腐敗、子どもの虐待を糾弾されました。今、大司教様が糾弾しておられるのは、教理的な面での堕落です。過去60年間に、聖伝のキリスト教の教えからのある種の逸脱があったとおっしゃっているのですね。これがどのようにして起こったと思っておられるのか、そしてそれに関して何をすることができるのか、さらに詳しく説明していただけますか?

カトリック教会は、1960年代、1962年から1965年までの4年間に、一つの公会議、エキュメニカルな公会議を開催しました。公会議の後、教会は "私たちは今、教会の近代化に向けて大きな一歩を踏み出し、教会を現代人にとってより魅力的なものにした"、と言いました。しかし、大司教様は、このことがこの時代の歴史に残る何か根本的な過ちであると考えておられます。大司教様は公会議で何が起こったと考えておられるのか、なぜ教会がそのような道を歩むことがそんなにも間違いだと考えておられるのか、なぜそれを他の人が糾弾せず大司教様だけが糾弾なさっているのか、私たちの視聴者に教えてください。

【回答】私が思うに、公会議の教会の問題点は、キリストの王権を否定し、そして、少なくとも言葉の上では、主権を平信徒に移譲して、革命的な要求を自らの要求としたことです。聖職者のエリートたちは、平信徒にはどの真理を拒否するか、どの新しい教義を発明するかを選択することができると、彼らに説得しました。

私は、まさに世俗の領域で起こったように、教会の領域でも、平信徒らのために権威が確立されているにもかかわらず、彼らに反する目的を持つ新しい存在によって権力が簒奪(横取り)されてきたことを指摘します。典礼改革が押し付けられてきた方法は、今日、グリーンパスが私たちに押し付けられている方法と大して違いません。常に私たちの善のため【という口実で】、常に私たちのために決定する人々が存在するという理由で、彼らの真の意向を隠すために私たちに常に嘘をつくのです。

もし彼らの真の目的が霊魂の善であるならば、彼らは最初から、悔い改めて、起こった災難を、恐怖をもって見ていなければならなかったことでしょう。しかし、その目的が実際には災難それ自体ならば、災難を抑制し、被害を回復させようとするすべてのものに対する憎悪と嫌悪を何故持っているかが理解できます。このように考えると、「perseverare diabolicum」(固執することは悪魔的)です。そしてこれは、公会議に対する頑固さにも、パンデミックの茶番劇に対する頑固さにも当てはまるのです。


ヴィガノ・テープ:啓蒙あるいは…暗黒化?
質問13

The Vigano Tapes:Enlightenment or… Endarkenment?
Question #13

【質問番号13】大司教様、非常に多くの人々が、啓蒙主義(Enlightenment)が人間の心を大きく開いたと信じています。それは人類の歴史において素晴らしい進歩だったと彼らは感じています。その時代を批判する人はごく少数で、それは大司教様のように宗教的な根拠に基づいています。しかし、大司教様は、啓蒙主義の時代に何が起こったのか、それが実質的には「暗黒化・蒙昧主義」(Endarkenment)であると考えておられるのか、その理解を教えてください。どのような勢力が役割を果たしたのでしょうか? 大司教様は別の機会に、フリーメーソンと呼ばれるグループと、彼らがこのような変化をもたらすことに関心を持っていることを私に話してくださいました。これについてお話しいただけますか?

【回答】フリーメーソンはサタンの神秘体です。なぜなら、サタンはフリーメーソンがイニシエーション【入会儀式】の最高のレベルで崇拝する存在だからです。フリーメーソンが会員に勧める「イルミネーション」とは、大建築家(Great Architect)を崇拝することであり、その建築家は、人がもはや後戻りできなくなったときにのみ、その地獄のような姿を見せます。啓蒙主義は、他の哲学的運動と同様に、フリーメーソンが欧州のエリートを堕落させ、大衆を主権者やローマ教皇の権威への反抗に動員するための文化的・思想的な道具でした。この悪名高いカルトを断罪した数多くの回勅は、教会の知恵と教皇の判断の明晰さを示していますが、それと同時に、フリーメーソンが公会議の位階階級に浸透していたことや、位階階級と共犯関係にあったことも明らかにしています。


ヴィガノ・テープ:「これは偶然の一致ではない」
質問14

The Vigano Tapes:“This is not a coincidence”
Question #14

【質問番号14】しかし、啓蒙主義は、西洋に伝わり始めたある種の東洋の諸哲学からも影響を受けたと言う人もいます。これについてコメントしていただけますか?

【回答】復興異教主義(neo-pagan)の哲学や東洋の霊性の流れは、グノーシス的かつメーソン的な母体に由来する概念を肯定的に評価することで、私たちの社会に浸透してきています。これは偶然ではありません。これらの動きの多くは、啓蒙主義、相対主義、主観主義、自由主義など、現代のあらゆる誤謬の持つ哲学的原則が宗教的に堕落したものにほかなりません。このようにして、ブッダの悟りは、自分自身の神格化や、汎神論的な全体【ブラフマン】の中に入っていく自らの無【アートマン】について、一種の認識をすることで成り立ちますが、冒涜的な「普遍的世界人権宣言」の中に対応するものを見いだすことができ、この人権が、イエズス・キリストを追放した後に世界の中心となったのです。

真の宗教は、創造主、主、贖い主との親密な関係において、また同胞である人間との関係において、各人の個性を擁護するものです。対照的に、新しい人間中心的な概念では、個人は無とされて、国家が市民の主人にして支配者であるような、不明確な塊になります。これは、社会主義、共産主義、ナチズム、そして今日のトランスヒューマニズム的グローバリズムの土台となっています。このように、人間中心的で共同体主義的なアプローチは、聖伝のミサの天主中心的なビジョンとは全く対照的に、ノブス・オルドの特徴であることは見逃せません。

仏教、特に創価学会インターナショナルの仏教は、公会議のエキュメニカル思想の東洋版のようなものであり、その会長である池田大作がアウレリオ・ペッチェイやローマ・クラブと協力して、まさにこの運動に宗教的な刻印を与えたことは驚くべきことではありません。それによって信者は、生態学的汎神論や平和主義に彩られたメーソンやグローバリズムの原理に傾倒し、今日ではベルゴリオの教会がそれらを自らのものとして採用しています(こちら)。

創価学会が表明している原理は、すべてグローバリズムや新世界秩序の原理と一致しており、同じ辞書から多くを借用しています(こちら)。また、創価学会が伝統的仏教の「異端」であることに注目するのも興味深いものです。これは、公会議の宗教がローマ・カトリックにとって異端であり、シオニズムが正統派ユダヤ教にとって異端であるのと全く同じです。普遍的宗教のプロジェクトが現実のものとなるとき、メーソンやグローバリストのビジョンを受け入れない宗教の信者は排除されるでしょう。しかし、もうすでに私たちは、言ってみれば進歩主義者と原理主義者の間ですくい取った真の上澄みを見ているのです。

ヴィガノ・テープ:「達成できない楽園」
質問15

The Vigano Tapes:“An unattainable paradise”
Question #15

【質問番号15】大司教様、私たちが理解したいと思うのは、啓蒙主義について私たちがこれまで教えられてきたことを大司教様が非難なさっている規模です。フランス革命の栄光と善、自由、平等、友愛について、学校や社会全体が教えてきたことと、どうしてそんなに違った見方ができるのでしょうか? このテーマを深く掘り下げて、大司教様の立場をよりよく理解できるような情報を提供していただけないでしょうか?

【回答】天主から来ていないあらゆるものと同じように、啓蒙主義思想もまた、ペルソナ的で超越的な天主という客観的現実と矛盾する内在論に基づいて、達成不可能な地上の楽園、人間のユートピアを約束しますから、嘘偽りです。啓蒙主義の原理はキメラ、すなわち、奇怪な偽物です。メーソンの自由とは、放埓(ほうらつ)のことであり、メーソンの友愛とは、天主に対する陰謀家間の協定であり、メーソンの平等とはみじめな平板化した個人であり、社会的・宗教的秩序の放棄です。また、平等を喧伝している人々がメーソンのロッジに所属することを、何も知らない大衆に対して道徳的に優位な立場に立つための特権の条件と考えていることも重要です。


ヴィガノ・テープ:「キリスト教を取り消そうとする地獄の計画」
質問16

The Vigano Tapes:“The infernal plan to cancel Christianity”
Question #16

【質問番号16】フランスにおける革命、フランス革命は、ヨーロッパの社会的、政治的構造に非常に大きな変化をもたらしました。フランス革命は、君主制を終わらせ、民主主義国家をもたらしました。私たちは過去200年間、その革命を受け継いできました。今、私たちは、民主主義や個々の国家という考えから、単一の統一されたグローバルな国家という考えへと導く、最後の大革命という転換期にいるように見えます。この現在の見通しについてコメントしていただけますか?

【回答】近代国家は、主キリストの王権を取り消そうとするメーソン・セクトの政治的、社会的、宗教的な陰謀から生まれたもので、主キリストの主権が、最初はフランス革命によって世俗社会から取り消され、次に第二バチカン公会議によって教会から取り消されました。民主主義や人民主権という概念は、人々を欺くものであるだけでなく、反カトリック的、反キリスト的な文脈から生まれたものです。それは、公共的問題に対する天主の権力の代理者を表すものとしての"主権者たる王の権力"に対立する明らかな反テーゼから生まれたものです。

キリスト教の秩序においては、主権者【王】はこの世の問題でキリストの代わりに存在し、主権者の権威は、自然法、天主の法、主権者が規定しなければならない実定法の範囲内に限られています。「bonum commune」(共通善)の概念は、自然法と啓示された真理に不可分に結びついており、そのようなものとして、いつでもどこでも適用されます。

一方、近代国家では、何が善であるかを大衆が決定しますが、それは、少なくとも見かけ上の数的多数に基づいて行うか、あるいは、今日起こっているように、メディアと経済的支配者の共犯のおかげでイデオロギー的に自らの考えを押し付ける、より組織化された少数派というパラドックスの中で行うのです。

キリスト教を取り消す地獄の計画は、過去2世紀半の間に起こったように、カトリック君主制の破壊を行わないわけにはいきませんでした。カトリックの道徳に従って市民の生活を規制する不変の原則の不在の中で、フリーメーソンは全世代を堕落させ、自由に関する誤った概念を教え込み、その名の下に人間を天主のご意志による秩序(位階階級は神聖な秩序です)に反抗させ、主キリストが成し遂げられた贖罪に背を向けさせてきました。信教の自由は、悲惨なる報道の自由、意見の自由とともに、人間は自分が選んだどんな信条やイデオロギーを受け入れることも道徳的に自由であり、その選択は自分の不滅の霊魂の永遠の運命や社会全体の運命に何の影響も及ぼさない、という考えを植え付けるのに役立ったのです。

これらは、何世紀にもわたる洗脳の後では、現代人のメンタリティーにとっては理解しがたい概念であり、とりわけ第二バチカン公会議がこれらの概念を支持し、断罪すべきものを否定して、これらの考えが教会から価値あるものとされたのは明らかです。

この意味で、新世界秩序は、最初は小さなサークルに権力が委譲され、その後、反キリストをトップとする専制政治へと変化していく、シナルキー(数名の共同統治)、単一政府として組織化されると考えることができます。サタンは、君主制が統治にどれほど効果的であるかをよく知っていることを忘れてはなりません。彼が受け入れないのは、統治者がイエズス・キリストであり、その代理者によって統治されることです。なぜなら、ここにおいてもサタンが天主の御子の座を奪おうとしているからです。



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