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聖ピオ十世会の教会法による創立50周年:総長パリャラーニ神父インタビュー:聖ピオ十世会がさらに強固な共同体となるために

2020年11月03日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

来る2020年11月1日は、聖ピオ十世会が教会法に従って創立されて50周年です。この機会に、聖ピオ十世会 総長ダヴィデ・パリャラーニ神父が、インタビューに答えて次のように発言しています。日本語訳を愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。

来る2020年11月1日は、東京と大阪でも聖伝のミサがあります。

総長とのインタビュー 
2020年10月14日 FSSPX.NEWSサイト

現在起こっていることは、私たちの創立者の並外れた超自然的な洞察力を明らかにしている

聖ピオ十世会の50年

「私たちが受けたものに忠実であるという理想に再び活力を与える」

1.【DICI】聖ピオ十世会の 50 周年は、聖伝にとって何を意味しているのでしょうか?

まず第一に、この記念の年は、この50年間に私たちに与えてくださったすべてのことについて天主の御摂理に感謝する良き機会です。なぜなら、天主のみわざでなかったとしたら、時の荒波に耐えられなかったはずだからです。私たちがこのすべてのことに対してしなければならないのは、第一に天主に感謝することです。

しかし、何よりも、この記念の年は、私たちが受けたものに忠実であるということに再び活力を与える良き機会でもあります。実際、多くの年を経ると、疲れが出てくるのも無理はありません。ですから、王たるキリストの統治を確立するための戦いにおいて、私たちの熱意を再燃させることです。第一に、キリストが私たちの霊魂において、そして第二に、キリストが私たちの周りで、統治することができますように。ルフェーブル大司教の模範に倣って、私たちが取り組まなければならないのは、特にこの点についてです。

2.【DICI】あなたのお考えでは、ルフェーブル大司教の遺産が、この王たるキリストの統治を確立しようという望みである、と要約できるのは、なぜでしょうか?

その答えは、私にとっては非常に単純です。ルフェーブル大司教を聖なる高位聖職者、偉大なる宣教師にし、最初に自分の霊魂を統治なさったお方の統治を熱心に自分の周りに広げるようにさせたのは、王である私たちの主に対する大司教の愛だったのです。ですから、この愛に反対するすべての人たちに対して大司教をして力強く糾弾させたのは、この愛だったのです。

現在、この統治を広げ、その敵と戦うための「卓越した」手段は、ミサの聖なるいけにえです。ルフェーブル大司教は、ミサと王たるキリストの両方への愛が要約された典礼の美しい言葉である「Regnavit a ligno Deus」、天主は十字架の木から統治し給う(讃歌「Vexilla Regis」)という語を発声するとき感動で震えていたことでしょう。死の直前に、もともと所属していた修道会【聖霊修道会】の同僚の一人に宛てて書いた手紙の中で、大司教は、その生涯を通じて常に私たちの主イエズス・キリストの統治のためだけに働いてきた、と述べるのを忘れませんでした。これこそが、大司教がどういう人物だったかというすべて、また大司教が私たちに遺したすべてを要約したものなのです。

3.【DICI】9月24日、あなたの要請により、ルフェーブル大司教のご遺体がエコンの神学校の教会の地下室に移送されました。コロナウイルスの危険を顧みず、多くの司祭、神学生、修道者、信徒が式典に参加しました。当日はどのようなご心境だったのでしょうか。

実は、この移送は2018年の前回の総会によって要請されていたもので、わずか2年の間に実現できたことを大変うれしく思っています。ルフェーブル大司教をいつの日か列聖することは教会だけにできる事項であったとしても、大司教はすでに私たちの崇敬に値すると思いますし、聖なる司教にふさわしい埋葬の場だと思います。

この記念の年に実施することで、この行いには、カトリック教会の聖伝、カトリックの信仰、ミサの聖なるいけにえを守り、これらすべての宝を私たちに遺贈するための道具として天主の御摂理が育ててくださったルフェーブル大司教に対して、聖ピオ十世会のすべての会員の感謝の気持ちを表現するという意向があります。30年の時を経て、私たちの親愛なる創立者の棺を再び見ることができ、葬儀の日に行われたように司祭たちが棺を肩に担いでいる姿を見ることができたのは、特に感慨深いものがありました。私は何人かの高齢の同僚たちが感動して涙を流しているのを見ました。


聖ピオ十世会の生活

「聖ピオ十世会は、すでに活動しているところに、さらに深く根を張らなければならない」

4.【DICI】聖ピオ十世会が創立されたとき、メディアは、それを「フランスの現象」であり、したがって、地域的にとどまる運命にあると見ていました。今日、聖ピオ十世会には世界的に広がった共同体があります。これは、聖ピオ十世会の組織管理にとってどういうことを意味しているのでしょうか。

これ【聖ピオ十世会の世界中での展開】には、聖ピオ十世会本部に、広範囲に及ぶさまざまな状況を調整する能力が求められます。聖伝そのものは、さまざまな手段によって、また時には大きく異なる感性によって、さまざまな国で再発見されてきました。

このことが、聖ピオ十世会がどこでも同じ方法で、あるいは同時に発展してきたという訳ではない理由を説明しています。言うまでもなく、聖ピオ十世会の活動のような大規模な活動は、本当にさまざまな側面を持っており、総長だけで管理している訳ではありません。さまざまな国で活動する管区長たちが、この任務で総長を補佐しているのです。

しかし、状況が大きく多様化しているからといって、聖ピオ十世会の一致が、すべての会員とすべての信徒に共通する理想と原理に基づいており、区別なく行われているという事実を過小評価してはなりません。正当で避けられない違いがあるにもかかわらず、この一致こそが私たちの強みなのです。さらに、聖ピオ十世会は教会のわざであるからこそ、ある意味では、相違点があるにもかかわらず、世界中の信徒に同じ原理と同じ信仰を提供する教会の能力を再生しなければなりません。

5.【DICI】聖ピオ十世会のトップに就任して 2 年が経過しましたが、聖ピオ十世会の発展についてどのような評価をなさっていますか。

聖ピオ十世会は長い間世界中で活動してきました。現在のところ、天主の御摂理が私たちに新しい施設を開いたり、さらに増やしたりすることをお求めだとは思いません。もしもそのようなことをするのなら、それは私たちの側の賢明さが欠けていることになるかもしれません。

むしろ私は、聖ピオ十世会が、さらに強固な共同体となるために、すでに活動しているところに深く根を張らなければならないと思います。そして何よりも、若い司祭を成熟させ、彼らの育成を完了させるために、彼らがさまざまな責任、特に修道院長の任務に備えることができ、いつの日か、彼らが同僚たちのため、また彼らの世話に託された霊魂たちのために、まことの父となることができるようにしなければなりません。


6.【DICI】聖ピオ十世会【の施設】が設立されている国をすべてご存じですか。総長選挙後にお話しになった「宝」は、現在の文脈で言えば聖ピオ十世会にどのように共有されているのでしょうか。


新型コロナウイルス感染症のため、まだ訪問できていない管区がいくつかあり、大変残念に思っています。この「宝」は、互いに必然的に異なるものの、司祭としてのまことの熱意を常に表すことができるような状況の中で、本会の司祭たちが共有しているものです。この点に関しては、私は、都市封鎖の中で可能な限りの秘蹟を執行するために、時には非常に独創的な解決策を見いだした同僚たちの創意工夫に非常に感銘を受けています。

さらに重要なことは、私たちの司祭のうち何人かは、他の司祭との連絡が不可能になった場所で数カ月にわたって孤立したままだったことです。彼らには大いなる功徳があり、私は彼らを称賛しています。

同時に、私はまた、秘蹟を受けたいという願いを持つ信徒の反応にも感動しました。彼らは苦痛を惜しまず、私たちの主への愛着を示すために相当な犠牲を払っていました。この危機が、私たちが日常から抜け出して、習慣的に享受している宝をより一層高く評価するのを助けてくれたのは確かです。

一方で、これまでは遠くから私たちを見守っていた多くのカトリック信徒が、秘蹟を受けるための唯一の可能性として、私たちの礼拝堂に引き寄せられるようになりました。これはかなり広まった現象であり、これらの霊魂は皆、聖ピオ十世会に非常に感謝しています。


7.【DICI】現在の計画、将来の計画がどんなものか教えてくださいますか。

今のところ、これらの計画は主に精神的な性質のものであり、そのため、必ずしもその実施を外部から見ることができるような計画ではありません。基本的には、聖ピオ十世会を強固にし、一致させ、天主にしっかりと固定させ、それを支える恩寵に忠実にさせ、あえて言うならば、天主が当会に委託なさった宝を、自由にあらゆる手段を駆使して守ることができる、戦列を整えし軍隊のように堅固なものにするために、可能な限りの活動を継続するということです。

また、敵対するすべての者を攻撃することができ、その名にふさわしい軍隊として、メンバーの中で最も弱い者、傷ついた者、落胆した者、特に苦しんでいる者の世話をすることができるようにするという問題です。


8.【DICI】あなたは、マルセル・ルフェーブル大司教、フランツ・シュミットバーガー神父、ベルナール・フェレー司教に次ぐ、4人目の聖ピオ十世会総長です。あなたの統治スタイルは彼らのものとは異なりますか。

それぞれの個性が異なるのは避けられませんから、異なる経験をもたらすことになると思います。また、50年たてば、もはや状況も人物も同じではありませんから、聖ピオ十世会の歴史におけるそれぞれの時代は異なっています。

そうは言っても、聖ピオ十世会は、ルフェーブル大司教が私たちに教え、私たちに遺贈したものを常に忠実に守ってきました。創立者の遺産を守り、彼の精神に忠実であることは、総長が誰であっても、どんな性格の人であっても、総長にとって第一の関心事です。

一方で、それぞれの総長が同じ目標を目指しているという事実によって、継続性も保証されています。その目標とは、霊魂と教会自体の利益のため、カトリックの司祭職と教会の聖伝を守ることです。このことは、スタイルの違いを超越した現実であり、総長の交代が必要になっても仕事の安定性を脅かすことがないのを保証しています。

私にとって、この継続性を維持するのは前任者よりも簡単です。なぜなら私には、この前の総会で総長顧問に選ばれた私の二人の前任者、フェレー司教とシュミットバーガー神父の助けを得るという貴重な特権があるからです。私にとって、この二人の選出は、管理業務のためだけの単なる形式的なものだけではなく、何十年にもわたって当会の創立者とその生き方を知り、当会に奉仕するために最善を尽くしてきて、最高の評価に値する二人の元総長を頼りにするという歓迎すべき機会でした。

特に、私は、2年間本部に居住し続けたフェレー司教の貴重な助言を受けるという喜びを味わってきました。彼が私を助けるために途方もなく有能であることに加えて驚くべき慎重さを併せ持っていることを実際に体験できて、私は本当に感心しました。ですから、二人の前任者の存在は、もし彼らがそこにいなかったら疑いなく私が見逃していたであろう幾分かを補ってくれているのです。


9.【DICI】聖ピオ十世会の会則は、総長に二つの霊的目標を与えています。
1) 会員の心に「大きな寛大さ、深い信仰の精神、教会と霊魂への奉仕への燃えるような熱意」を維持し、かつ増加させるために、総長が有益と判断するあらゆることを行うこと。
2) 会員が「弱気になったり、この世の精神と妥協したりしないようにする」のを助けること。
これらの目的をいかにして達成しているのですか。


総長はまず第一に、天主の恩寵の助けなしにはこれらの目標を達成することはできないことを自ら思い起こさなければなりません。もし手紙や督促、その他の単なる励ましの手段だけでそれを達成できると思ったら、総長は大きな間違いを起こすことになるでしょう。

私にとって、これらの目標に忠実であるための鍵は、清貧の徳にあると固く確信しています。実際、時がたつにつれて、聖ピオ十世会の会員がある程度の快適さに「腰を落ち着ける」危険性があり、それによってこの世の精神が私たちの共同体に気づかないうちに浸透していくことは避けられません。このようなことが起これば、会員の寛大さに影響を及ぼし、それにより使徒的な熱意の実にも影響を及ぼすことになるでしょう。


ローマとの関係

「バチカンは当面の間、教理上の議論を再開しない方がいいと言ってきた」

10.【DICI】憲章の第4章はこう述べています。「当会は、いくつかの教区に施設を持つとすぐに、教皇権(Pontifical Right)に属するよう必要な措置を取るだろう」。このことにより、私たちは次の疑問に導かれます。教会の現在の危機の中で、私たちの尊敬すべき創立者のこの願いは、どのようにすれば成就することができるのでしょうか。

聖ピオ十世会の憲章は1970年に教区レベルで承認されました。当会は世界中に広がる運命にあったのですから、私たちの創立者もさらに高いレベルでの承認を念頭に置いていたのは当然のことにすぎませんでした。

しかし、誰もがご存じのように、ルフェーブル大司教のこの方向付けへの努力にもかかわらず、1975年には、教皇権の承認を得るどころか、大司教は聖ピオ十世会への抑圧を本当に耐え忍びました。

その日以来、ルフェーブル大司教自身をはじめとする当会の長上たちはさまざまな解決策を検討してきましたが、彼らはみな、まったくもって受け入れることのできない聖座の側の教理上の要求に、組織的に直面してきました。確かに、これらの要求を受け入れていたなら聖ピオ十世会の教会法上の承認は認められていたでしょうが、同時に、聖ピオ十世会の道徳的価値を破壊することになったことでしょう。

最も最近の例を挙げると、2017年に教理省が聖ピオ十世会に対して、第二バチカン公会議の教えを受け入れ、新しいミサの正当性を認めることを義務づけようとしたとき、もし聖ピオ十世会がこれらの条件を受け入れていたとしたら、聖ピオ十世会は、心の奥底から自らが依って立つすべてのもの、そして自らが大切にし、保持しているすべてのものを簡単に否定していたことでしょう。

したがって、私たちの創立者の態度が常にそうであったように、天主の御摂理のしるしに先んじることなく、御摂理のしるしに従うことが適切だと私には思われます。


11.【DICI】そうすると、バチカンとの接触は停滞し続けるのでしょうか。

それは、聖ピオ十世会、あるいは総長に依存するものではありません。バチカン自身が、しばらくの間は、教理上の論議の再開をしない方がいいとしてきました。聖ピオ十世会は、私たちの立場をより明確に説明し、私たちのカトリック信仰とペトロの聖座への愛着を示すために、ローマに教義に関する話し合いを再開することを提案したのですが、ローマからは延期を提案されました。

さらに、驚くべきことに、バチカンは同時に、私たちにまず第一に、私たちの教会法上の状況を正常化することを求めているのです。これが、解決不可能な本質的に矛盾した状況を作り出しています。

聖ピオ十世会の教会法上の承認の可能性は、教理上の性質を持つ要求に常にかかっているのですが、この要求は何度も何度も私たちにとっては絶対に受け入れられない状態が続いているのです。

付け加えておきたいのですが、この問題についての個人的な見解にかかわらず、時々起こっているように、この非常に微妙な問題に執着しないように注意することが重要です。天主の御摂理が聖ピオ十世会の設立以来、私たちを導き、助けてくださったように、御摂理が今が正しい時であると判断した時には、状況が要求する決断を下すことができるように、十分かつ適切なしるしを与えてくださることを忘れてはなりません。これらのしるしは、その明白さが当会の人々に容易に分かるようなものであり、こうして天主の御摂理の意志が明確に示されるのです。


教会の状況

「『誤謬』を『誤解された真理』と解釈しようとする解釈学的努力は、取り返しのつかない失敗をするだけ」

12.【DICI】2020年の今年を通して、新型コロナウイルス感染症に関連した危機は、教会にも影響を与え、教会の活動を制限しています。これをどのように捉えておられますか。

興味深いことに、新型コロナウイルス感染症の危機によって、教会の位階階級は、まことの回心と償いに向かって霊魂を励ます絶好の機会を逃してしまったことです。これは、人間が必ず死ぬという本性をもっていると、いわば再発見する際には、いつももっと簡単なことだからです。さらに言えば、パニックに陥って絶望している人類に、私たちの主が「復活にして生命(いのち)」であることを思い起こさせる機会となったことでしょう。

そうする代わりに、位階階級は、教皇フランシスコの大切な原則と完全に一致した生態学的(エコロジカル)な方法で、伝染病を解釈する方を好みました。それは具体的に言えば、新型コロナウイルス感染症は、資源の過剰な搾取、水質汚染、森林破壊・・・などを通じて地球を乱用した人類に対する地球の反乱のしるし以外の何物でもない、というものです。

これは、本当にひどいものです。しかも最低限の信仰と罪とは何かという認識を用いた分析とは相容れないものです。罪とは、天主の御稜威を侮辱することとの関係で測られるものであって、地球の汚染との関係ではありません!

2020年9月1日の「被造物を大切にする世界祈願日(地球のための50年)」に向けたメッセージの中で、教皇自身は、パンデミックが私たちをどのような道徳的結論に導くべきかを説いています。

「ある意味では、現在のパンデミックは、より素朴で持続可能なライフスタイルを再発見するよう私たちを導いています。空気がきれいになり、水がきれいになり、動物たちが以前は姿を消していた多くの場所に戻ってきました。パンデミックは、私たちを岐路に立たせました。私たちはこの決定的な瞬間を利用して、無駄で破壊的な目標や活動を終わらせ、いのちを与える価値観やつながり、活動を養わなければなりません・・・」。

要するに、新型コロナウイルス感染症の危機は、もう一度私たちを、回勅「ラウダート・シ(Laudato si)」の親石である「生態学的(エコロジカルな)回心」に向けて推し進めようとしています。まるで聖性が地球を尊重することに要約されるかのように。


13.【DICI】この2年の間に、アマゾン・シノドス、アブダビ宣言があり、この宣言に対しては、あなたが2019年2月24日のプレスリリースで反応されました。それらの出来事を踏まえて、現在の状況をどのように捉えておられますか。

教皇フランシスコの最近の教えは、残念ながら、彼の在位期間の初めに取った間違った方向性を決定的に裏付けているように思われます。

実際、2020年10月3日に教皇は回勅「フラテッリ・トゥッティ(Fratelli tutti)」に署名しましたが、この回勅は教皇の在位期間の第二部の指針と考えられています。この回勅は、アブダビ宣言をさらに発展させたものであり、その宣言からインスピレーションを得ています。この宣言は、天主のご意志の表れとして宗教の多様性を認め、すべての人が平和を築くために召されていると主張していたことを忘れてはなりません。ここにおいて、エキュメニズム、宗教間対話、信教の自由、そして何よりもイエズス・キリストの普遍的な王権とその触れることのできない権利を否定するという破滅的な結果があります。

この回勅は多くの異なる主題を扱う長い文書ですが、かなり明確な基本的統一性を持っています。この長い教皇の回勅は、整然とした首尾一貫した方法で展開されており、その中心となる基本的な思想は、イエズス・キリストと、キリストの教会への直接的あるいは間接的な言及がなくてもまことの普遍的な社会が存在し得るという幻想です。

言い換えれば、純粋に自然の「愛徳」、漠然としたキリスト教的な慈善のようなものを中心に、それを参考にしながら福音が読み直されるのです。実際、この回勅を読み進めていくと、福音を解釈する鍵を私たちに与えてくれるのは慈善活動であって、人々を啓発する光を与えてくれるのは福音ではないという印象を受けます。この普遍的な兄弟愛は、残念ながら、自由放任的(Liberal)で自然主義的、フリーメーソン的な起源を持つ思想であり、現代社会が築かれているのはこの背教的ユートピアの上なのです。


14.【DICI】シュナイダー司教やヴィガノ大司教は、第二バチカン公会議と現在の危機との因果関係を強調しています。あなたは彼らの見解をどのようにお考えですか。公会議は、(シュナイダー司教が示唆するように)「修正される」べきか、(ヴィガノ大司教が示唆するように)「忘れ去られる」べきか。


私たちが、これらの反応を喜んでいることは言うまでもありません。なぜなら、聖ピオ十世会の外部の司教たちが、聖ピオ十世会と直接のつながりを持たずに、別の手段や異なる道筋ではあるものの、聖ピオ十世会の結論と同様の結論に最終的にはたどり着き、とりわけ多くの混乱した霊魂に考えさせ、彼らによって教え導かれるのを可能にするという結論にたどり着いているからです。これは非常に励みになります。

残念ながら、この公会議はローマ帝国の没落や第一次世界大戦のような歴史上の大きな事件であるため、そう簡単に(sic et simpliciter)、単純に「忘れ去る」ことはできないと思います。むしろ、この公会議を真剣に吟味し、その中に含まれている信仰や教会の伝統と相容れないものをすべて確実に修正する必要があるでしょう。

教会自らが、この変則的で奇妙な公会議の権威という微妙な問題を解決し、公会議を正すための最善の方法を決定するでしょう。しかし、私たちは問題を非常に明確にできるし、またしなければなりません。第二バチカン公会議の中にもいくつかある、そのようないかなる誤謬も、教会の声とみなされたり、教会のものとされたりすることは決してあり得ないのです。

さらに、教皇ベネディクト十六世の在位から始まって近年起こっていることは、「誤謬」を「誤解された真理」と解釈しようとする解釈学的な努力が取り返しのつかないほどの失敗に終わるということを、善意の人々に示しました。それは行き止まりの道であり、手を付けることは無益です。


15.【DICI】著書「私は公会議を告発する(I accuse the Council)」(1976年)やオッタヴィアーニ枢機卿への手紙(1966年)の中にある、公会議と公会議後の改革に関するルフェーブル大司教の判断は、現在でも有効なのでしょうか。

大司教の判断は、聖ピオ十世会の現在の立場に一致しています。これまでもそうでしたし、これからもずっと同じ立場です。それは変えることができませんし、これからも変わることはありません。現在起こっていることがどんどん進展していけばいくほど、この判断が裏付けられ、私たちの創立者の並外れた超自然的な洞察力を明らかにしていくことが分かります。


16.【DICI】シュナイダー司教は、聖ピオ十世会の主張に関連して、自分の著書「Christus vincit」(英語版では第10章)の中で、自分の立場が良い意味で変化したことを認めています。あなたはこの変化をどのように分析されますか、また他の高位聖職者たちにも可能だと思われますか。

シュナイダー司教は多くの善意と、謙虚さと知性的な率直さを兼ね備えた精神の賜物を常に示してこられました。この高位聖職者について最も印象的なのは、彼の優しさに、聖伝を支持するために公に発言する勇気が結び付いていることです。

これが非常に稀なことは残念ですが、このような資質があったからこそ、同司教は私たちが知っているような結論に至るまでの道のりを歩むことができたのだと思います。

他の高位聖職者たちも同じような道のりを歩むことができると私は確信していますが、彼らも同じ道徳的自由と同じ真理への愛を持っている限りにおいてのみ、同じような道のりを歩むことができると思います。これが、私たち全員にとって良い祈りの意向であるのは確かです。


17.【DICI】トリエント・ミサは、現在では聖ピオ十世会以外でも、聖ピオ十世会が創立されたときには存在していなかった他の修道会共同体によって捧げられています。同様に、現在、このミサの典礼を発見しつつある司祭たちもいます。あなたは、これらの発展をどのように評価なさいますか。

特に近年、聖伝のミサを発見しているかなりの数の司祭が、次第に自分たちの司祭職の偉大さ、もっと一般的に言えばカトリックの聖伝という宝、を彼らに発見させる道のりを歩み始めているのを私たちは見てきました。これは非常に興味深い発展です。なぜなら実際、ミサの聖なるいけにえは、それと一緒に他のすべてのものをもたらしてくれるからです。

ある日、一人の司祭から受けた証言を、私は非常によく覚えています。彼は、厳しい反対に遭ったにもかかわらず、トリエント・ミサのみを捧げることを決心しました。彼は私に次の点について指摘しました。いえ、強く訴えさえしました。トリエント・ミサを捧げることにより、彼は自分の司祭職全体、ひいては彼が司祭として召されているすべてのこと、つまり説教や霊魂たちのカウンセリング、カテキズムなどをいかにして考え直すようになったのかということを。このことは非常に美しく、この司祭の霊魂自体の中に生まれた彼の召命の復活を、私たちはただ喜ぶことしかできません。

さらに言えば、トリエント・ミサを維持することが不可欠なのは、トリエント・ミサが私たちの信仰を表したものであり、特に私たちの主の神性、主の贖いのいけにえ、そしてその結果として主の普遍的な王権への信仰を表したものであるという深い理由があるからです。

ミサを生きるということは、これらすべての神秘、特にミサに含まれている愛徳の神秘に完全に入り込むことによって、ミサを生きるということなのです。これは、生ぬるく、人間中心で、感傷的で、エキュメニカルな信仰とは相容れません。

また、トリエント典礼の豊かさをただ美的に鑑賞することとも相容れないものです。これは、トリエント典礼で日々を過ごし、その重要性を浸透させ、そして何よりも私たちの主とその愛徳によって自らを似たものにさせる必要性があるにもかかわらず、この必要性とトリエント典礼の執行とを切り離そうとする人々が、残念ながら時々、見受けられることがあります。

結局のところ、ミサが私たちをキリストにおいて、「彼によって、彼とともに、彼のうちに(per Ipsum, et cum Ipso, et in ipso)」生きるように導かなければ、ミサは不毛なものになっていると言えます。ミサが、自分自身を主にお捧げすることによって、私たちの主に倣いたいという望みを私たちのうちに生まないならば、ほとんど意味がありません。

それは寛大さの問題であって、この世の精神に浸っている状況、あるいは少なくともこの世の精神に妥協する傾向がある状況では、それは不可能であることが証明されています。ミサの豊かな力は、熱烈な犠牲の精神が霊魂たちに私たちの主イエズス・キリストに寛大にお捧げしようという心構えを持たせるという点において、さらに大きなものとなります。


18.【DICI】最近、メディアはベシウ枢機卿に関連したスキャンダルをかなり取り上げています。これについては、どうお考えですか。

明らかなことですが、この問題において、誰かの責任を宣告したり調査したりすることは、聖ピオ十世会が行うことではありません。そうは言うものの、カトリック教会の子として、私たちは、悲しいかな、教会に影響を与え、屈辱を与えるこのスキャンダルを残念に思うことしかできません。

それは教会の聖性を覆い隠してしまうので、必然的に私たちを悲しませます。にもかかわらず、残念ながら、この種の不祥事は教会には常に存在しており、また、天主はその御知恵において、不思議なことに、義人の聖化のためにスキャンダルをお許しになっておられることを、私たちは忘れてはなりません。したがって、あるプロテスタントたちのように、ファリザイ派的な方法で過度にスキャンダル化させるのは適切ではないでしょう。

さらに考えを進めてみると、世俗のメディアがこのような主題でカトリック教会に払っている注意に心に留めておくことが重要だと思います。この注意は、彼らが教会の生活における他の案件に示すこと、あるいは中世の皇帝たちが彼らの時代の教皇たちに向けていた注意以上のものです。

この問題を取り上げた多くの新聞記事の行間を読むと、ある種の自己満足と不健康な満足感に気づくことができます。世俗の新聞社は、無関心を誓っているキリストの花嫁【教会】の顔に唾を吐くこのような素晴らしい機会を逃すわけにはいかないようです。

このことで私たちに考えなければなりません。また何よりも、目覚めなければなりません。これは、実際に世俗的になり、理論的にすべての宗教を尊重するようになったこの世界と、現代の教会は平和に暮らすことができる、と錯覚しているすべての人々の目を覚ませてくれるはずです。それは錯覚で、真実ではありません。

リベラルな物言いの背後には常に、清められずに信用を失って無力となったカトリック教会を見たいという願望があります。この世との間で分かり合うことなどはありえません。


この現在の状況での聖ピオ十世会の位置

「私たちがまことに生きているミサ、すなわち私たちを十字架の神秘に入り込ませることのできるミサは、必然的に使徒的です」。

19.【DICI】現在の危機を改善するために、聖ピオ十世会は、自分の持てる手段の範囲内で何ができるのでしょうか。

まず第一に、教理上のレベルでは、聖ピオ十世会は、自らの立場を修正することができないということを十分に認識しています。好むと好まざるとにかかわらず、私たちの立場は、聖伝を求める教会のすべての人々にとって一つの基準となるものです。それゆえに、他の人々と教会自身への奉仕の精神によって、私たちは迷うことなく、升の下から灯火を照らし続けなければなりません。

実践的なレベルでは、聖ピオ十世会のメンバーは、ミサの聖なるいけにえへの愛着が、教会全体に響き渡るべき愛徳の神秘への愛着であることを示さなければなりません。これは、私たちがまことに生きているミサ、すなわち私たちに十字架の神秘に入り込ませることのできるミサは、必然的に使徒的であり、たとえ最も遠い隣人であっても、区別することなく、私たちの隣人の善を求めるように常に私たちを促してくれることを意味しています。それは、私たちのすべての行動に浸透しなければならない基本的な態度、善意による心構えです。


20.【DICI】聖ピオ十世会の目的は、カトリックの司祭職とそれに関連するすべてのことです。そのため、あなたがたが主に関心を寄せているのは、召命、司祭の聖化、そして全時代のミサ【つまり聖伝のミサ】に忠実であることです。この問題について、あなたがたが現在やろうとしていることは何ですか。

私たちがやろうとしていることは、まさにあなたが挙げられたことです。心を尽くして、この三つの目的を維持することに成功する限り、私たちの将来と決断に必要な恩寵と光は、適切な時に与えられるだろうと私は個人的に確信しています。

司祭職を維持することによって、私たちは聖ピオ十世会と教会が最も大切にしているものを守ります。

端的に言うと、それぞれの召命には無限の価値があります。召命は紛れもなく、私たちの主が霊魂と教会に与えることのできる最も貴重な恩寵です。それゆえ、神学校は、この地上で想像でき、見つけることのできる最も神聖な場所です。

神学校では、聖霊は、あの高間でなさったように、司祭候補者の霊魂をまことの使徒に変えるみわざを続けておられます。だからこそ、私たちは力を尽くして行い、私たちの道徳的資源と人的資源を神学校に投入し続けなければなりません。私たちが主イエズス・キリストの司祭職に基づいて行うすべてのこと、また私たちが主の司祭職を永続させるために行うすべてのことは、永遠に残るのです。


21.【DICI】聖伝を固守する司祭や信徒に、どのような励ましを与えておられますか。

天主の御摂理は常に聖ピオ十世会を導き、千の困難の中にあっても常に保護してきたということを、私はすべての司祭と信徒に指摘したいと思います。天主の御摂理は常に約束に忠実であり、常に見張っており寛大です。それゆえ、御摂理は、将来も、私たちを見捨てることはありえません。なぜなら、御摂理は自らの存在をやめることがないからです。それは不可能です。なぜなら、天主は変わることがおできにならないからです。天主は常に同じでいらっしゃるのです。

簡単に言えば、聖ピオ十世会の創立 50 年を経て、私たちの確信は、これまでの長い年月にわたって示されてきた無数のこの天主の慈悲のしるしに、さらに深く根ざしてさえいます。

しかし、最後の言葉は、私たちの主ご自身にお任せしたいと思います。「恐れるな、小さな群れよ、あなたたちに御国を下さるのは、あなたたちの父のみ旨である」(ルカ12章32節)。

2020年10月11日、天主の御母の母性の祝日に、メンツィンゲンにて

総長ダヴィデ・パリャラーニ神父

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Unknown (thomasonoda)
2020-10-30 16:45:16
ヨハネさんの校正のご指摘に感謝いたします!
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