goo blog サービス終了のお知らせ 

Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

イエズス様はブドウの木です。十字架に付けられたイエズス様は、私たちをも十字架に付けようと思っておられます。

2020年10月16日 | お説教・霊的講話
2020年7月19日(主日)聖霊降臨後第7主日のミサ

聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父説教(東京)

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄妹姉妹の皆さん、今週の木曜日、7月23日海(産み)の日ですけれども、ここでミサが2回あります。11時と12時半です。

そして16時から、常盤公園という所から、神田駅と三越の前ぐらいの間にある公園から、マーチ・フォー・ライフをします。1時間くらいロザリオを唱えて、日比谷公園まで歩きます。皆さんどうぞいらして下さい。

今日、「アザミがブドウの実を付けるだろうか」と、「ブドウの木はブドウの実を付ける」とイエズス様の御言葉を黙想しましたが、この聖福音を読むと、どうしても「聖伝のミサ」の事を考えざるを得ません。

イエズス様はブドウの木です。十字架に付けられたイエズス様は、私たちをも十字架に付けようと思っておられます。私たちもブドウの実として、房をなして、ブドウの木であるイエズス様に、十字架の木に、付いていなければなりません。

まさに「ミサ」がそうです。ミサの本質は、ミサとは何かというと、これは「十字架のいけにえの再現」であるからです。

ですから、ミサに与れば与るほど、私たちの心には犠牲の心、天主に対する愛の心、「天主に自分を捧げたい」という、「イエズス様をお愛ししたい」という心がますます湧いてきます。

その自然な論理的な結論として、私たちは「イエズス様を礼拝したい」「お愛ししたい」そして「感謝を捧げたい」と思います。「崇敬したい」「礼拝したい」という念です。

ですから、私たちが御聖体拝領を、イエズス様の御体を、跪いて、口で聖体拝領するのは、最も当然な論理的な結果です。これ以外考えられません。

カトリック教会は、この口による御聖体拝領を、法律として定めました。これが私たちが守らなければならないものです。ただし1969年、パウロ六世が、新しいミサが出来たその直後、例外的に、特別な事情がある場合には、特例として、手による聖体拝領を黙認する許可が、つい最近特例的に出ましたが、本来は、跪いて、口による聖体拝領なのです。

なぜならば、この「ミサの実り」が、そうであるからです。どうぞこの実りを守って下さい。

そして皆さん、私たちの実も、この愛を、礼拝を、感謝を、自然と湧き起こさせる為にも、昔ながらの、2000年のミサに、聖伝のミサに与り続けて下さい。御聖体を、愛と感謝を込めて礼拝なさって下さい。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。







最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。