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【再掲】2017年8月27日(主) 聖霊降臨後第12主日のミサ 「新約の素晴らしさ」

2020年08月22日 | お説教・霊的講話
2017年8月27日(主日)聖霊降臨後第12主日のミサ
小野田神父 説教


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。今日は2017年8月27日、聖霊降臨後第12主日のミサです。

愛する兄弟の皆さん、そして巡礼者の皆さん、
今日第12主日のミサで一体教会は何を言おうとしているのでしょうか?
今日のミサは特に、「新約の素晴らしさ」という事を強調しています。

そこで私たちは新約について、まず教会がイエズス様がなす導入文、福音に従って黙想致しましょう。

第2に、聖パウロと奉献誦が話すモーゼについて、黙想しましょう。

最後に、私たちは遷善の決心を立てる事に致しましょう。

イエズス様は、実は今週の主日は、先週の主日の続きだったのです。先週の主日にはイエズス様が御言葉、口から出る言葉、空気の振動の御言葉による真理のみならず、口から出る御唾をもって、人の耳を開け、舌を正しくして、聞いたり、話したりする事ができるようにさせた、その続きで、「あぁ、新約のお前たちはどれほど幸せか、ただ天主の言葉を聞いたり話したり、天主を讃美するのみならず、天主の現実を見る事ができる、そういう事を聞く事ができる、何と幸せな者か!」

一体どこにその幸せがあるかという事を、どうして新約の時代がこれほど素晴らしいかという事を、イエズス様は話そうとされるのです。どういう話をされるかというと、ちょうど人類という巡礼者についての話があります、「エルサレムからイエリコに行く人がいた。」

実はこれは、人類の話なのです。なぜかというと、人類は地上の楽園にいながらも、罪を犯して地上の楽園から追放されて、天国へと歩かなければならない巡礼者となったからです。私たちは特に、盗難に遭ったり、スリに遭ったり、強盗に遭ったり、半死半生でお金も全く失ってしまって、暴力を受けて着のみ着のまま打ち捨てられて、そして旅券もなくパスポートもなく、そして独りぼっちで道端に、「あぁ」もういつ死ぬか死なないか、傷付いて倒れているのです。

これはちょうど悪魔にそそのかされて、罪を犯し、そして天主の聖寵を全て奪われ、天主の御恵みを奪われ、天国への権利を奪われ、天国へのパスポートとビザを失い、もう何も功徳というお金もなく、もうこのまま息果てて、地獄へと落ちるしかない人類を表わしています。

そんな時に、旧約の司祭がやって来ます。しかし旧約の司祭にはこの憐れな人類を見る事すらせずに、横をつたってそのまま通り過ぎて行きます。レヴィ族も、旧約の司祭職に属する人たちもやって来ますけれども、何もする事ができずに通り過ぎるだけです。

そこでやって来たのが、サマリア人、良きサマリア人。これはまさに、イエズス・キリスト御自身の事です。そのような傷付いている人類を見て憐れに思い、同情の念を起こして、その傷付いた人類に近寄って来て、そして油を注ぎ、ブドウ酒で洗い、傷を癒やそうとします。

この「油」というのは、「天主の聖寵」の、聖霊の御恵みのシンボルです。また主の優しい御教えの、憐れみの御教えのシンボルです。次に、「ブドウ酒を注いだ」というのは、これはもしも油が天主の聖寵のシンボルであり、秘跡のシンボルであったとしたら、ブドウ酒を注いだというのは、「御聖体」のシンボルであります。この人類に御自分の御体、御血を与えた、ブドウ酒を与えた、という事です。そして癒そうとしたという事です。

そればかりではありません。ちょうど私たちがカタコンベで見た、良き牧者がこの迷った羊を自分の肩に乗せて、群れに戻すように、この憐れな道に倒れて半死半生の傷だらけの男を動物に乗せて、そして宿屋まで運ぶのです。宿屋まで運んだら、「どうぞこの男の人の面倒を看て欲しい。もしもお金が必要なら、私が帰ったら全て払おう。」

この「宿屋」というのは「カトリック教会」の事であって、「宿屋の主人」というのは「聖職者」たちの事です。

「イエズス・キリスト様は、私たちの半死半生の人類を救う」という事を望んだ、「旧約の時代にはできなかった事を、イエズス・キリストは良きサマリア人としてする、している」という事を意味します。

巡礼を特に経験した私たちにとって、どうやって行ったら正しい道に着くのか、「あぁ、本当にガイドがいなければ案内者がいなければ、本当にどの道を行ったら良いか、どうやったら良いのか」という事が、「右も左も分からない」という事がありますけれども、そしていつスリがやって来るか、どんなアドバイスがあれば良いのか、という事が分かりませんが、しかしその私たちにとって旅の危険や、あるいは宿屋やその世話をしてくれる人の重要さ、という事をよく分かっている私たちにとって、確かにカトリック教会が私たちを、天国への巡礼の為に私たちを癒やして導いて下さり、そしてイエズス様はそれを全て背後で支払って下さる、支配して下さる、という事がしみじみとありがたく分かります。

そこで奉献とそこの福音を囲むように、包むように、奉献文と書簡がモーゼの話をするのです。この2つの話の2つの事を読まれるテキストの核心は何かというと、「新約のイエズス・キリスト、栄光を受けた本当の第2のモーゼこそ、旧約のモーゼをはるかに勝る者である」という事です。「旧約においては文字しかなかった、しかし新約においては文字を生かす精神がある。」「命を殺すような律法よりも、命を生かす精神が新約にはある。」

そのところで、パウロが言うのは、「モーゼは、そのような旧約の力の無かったモーゼであってさえも、その旧約にはものすごい栄光があった。」例えばモーゼは 天主を見て、その天主を見た栄光を自分が受けて、その見た後には御顔は天主の栄光でいっぱいであって、いつもモーゼは自分の前にベールを被っていなければならないほどであった。なぜかというと、主を見たモーゼの輝きがあまりにも素晴らしかったので、人々は直接見る事ができなかったから。

奉献文では、「モーゼが祈るとそれは聞き入れられて、そして主はそれによって怒りを鎮められた。」

「もしもモーゼがそうであれば、新約の本当のモーゼ、律法をただ私たちに伝えただけのモーゼでなく、律法そのものである、律法を作ったイエズス・キリスト、御恵みそのものであるイエズス・キリストの、本当のモーゼであるイエズス・キリストの栄光は、どれほどであろうか。イエズス・キリストが御ミサの中で、御血と御体を御傷を天主御父に見せて、私たちの為に取り次いで下さっている。それの取り次ぎの力は、旧約のモーゼに比べてはるかに大きなものであって、私たちはそのものすごい憐れみと栄光を受けているのだ」という事を教えています。

そればかりではありません。皆さんの私たちの目はどれほど幸せな事でしょうか、耳はどれほど幸せな事でしょうか。モーゼは主のただ御顔を見ただけで、自分の顔が燦然と輝いて、そしてもうそのあまりの輝きの為にベールを被らなければならないほどでしたが、私たちはモーゼよりも更に幸せだと言えるからです。

なぜかというと、私たちはこのミサにおいて、イエズス様の御体を受け、御聖体を受け、私たちの胸にモーゼがする事ができなかった事さえもしているからです。ミサを受けた後、御聖体拝領を受けた後に、私たちはどれほど燦然と輝かなければならないでしょうか。モーゼよりも光に満ちていなければならない事でしょうか。

もしもローマの聖ペトロ大聖堂の巨大な建物と、ローマの各地にあるものすごい豪華爛漫な教会の数々が、イエズス・キリストの使徒のために捧げられたとしたら、イエズス・キリストの本当の栄光はどれほどのものでしょうか。これらの教会は実に、ミサを捧げる為に捧げられたもので、造られたものであるからです。

では、私たちは遷善の決心として、この天主様に感謝をお捧げ致しましょう。新約の時代に生き、イエズス・キリストの御言葉を知り、そしてイエズス様の御体を受ける事ができるその特別の恵みを感謝致しましょう。

そしてイエズス様の御助けによって遂には、教会の導きに従って、遂に巡礼の最後の目的地である天国にまで辿り着く事ができますように、その為に私たちは日々、栄光のモーゼイエズス・キリストの体に常に養われて、その良きサマリア人イエズス・キリストに従って天国にまで辿り着く事ができますように、養われて癒やしを受ける事ができますように、最後にマリア様に、私たちがそのイエズス様のその恵みの偉大さを深く理解する事ができるように、お祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。






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