聖霊降臨後第五の主日 ― 今日のミサにおける「愛」
ワリエ神父 2024年6月23日
今日のミサの中で、母なる教会は、キリスト教の徳の中で最も尊いものである愛――天主への愛と隣人への愛――を育み、大切にするよう私たちに勧めています。
この私たちの兄弟に対する愛の土台は、天主への愛です。
ですから、集祷文の中で、私たちはこう祈ります。「天主が私たちの心にこの天主への愛の火を増やしてくださり、私たちがすべてにおいて、またすべてにまさって、天主を愛することができますように」。他者への愛徳は、天主への私たちの愛の現れにほかなりません。
今日の書簡の最初の言葉は、キリストのように生きる共同生活のための計画全体を示しています。「あなたたちはみな、心を一つにせよ。互いにあわれみを示せ」。
私たちが孤立した個人としてではなく、教会という大家族との交わりの中で救いを実現することが、キリストの御旨です。私たちは一つの体を形作っており、この体の肢体として、互いに助け合います。しかし、私たちが形作っているのは、カトリック教会という一つの大きな共同体だけではありません。私たちはまた、自分たちが小教区というもっと小さな単位の一部であることも感じなければなりません。そのような意識から、個人的な徳と社会的な徳の両方に対する最高の刺激が生まれ得るのです。私たちキリスト信者は、共に祈り、共に犠牲を捧げるべきであり、互いに思いやり、互いに気遣うことで、互いに啓発し合うべきです。
また書簡の中で、聖ペトロは心の中でキリストに賛美を捧げるようにと語っています。これは隣人に対する真の愛がなければ不可能なことです。実際、私たちが天主に捧げることのできる最高の賛美は、たとえ他人が私たちに危害を加えたとしても、その他人の中におられる天主を愛することです。なぜなら、私たちは皆、キリストにおいて洗礼を受けたのであり、キリストは体全体の共通のかしらであるからです。
福音の中で、キリストは隣人愛について真剣に語っておられます。キリスト教共同体では、兄弟を憎むことは殺人に等しいものであり、天の御父は悪意を抱く子どもからは供え物を受け取られません。
聖ヨハネ・クリゾストモはこう言っています。「姦淫者や冒涜者が聖なる食卓にあずかることができるとは想像できないように、敵がいて悪意を抱く者がご聖体を受けることは不可能である。(中略)私は、すべての人がこれを聞くように、警告し、証言し、宣言する。敵がいる者には、聖なる食卓に近づかせることも、主の御体を受けさせることもあってはならない。あなたには敵がいるか。では、近づくな。あなたは近づきたいか。では、和解してから近づけ。聖なる捧げ物に触れるのは、そのあとでなければならない」。
私たちは、祭壇に捧げ物をする前に、兄弟が私たちに対して犯したすべての罪を赦さなければならないと言われています。
この愛を得る手段は、聖体拝領誦に暗示されています。「私は、一つのことを主に願い、何よりもそれを望んだ。それは、生涯、主の家に住むことである」。天主の近くに、すなわち天主の家にとどまる者は、常に天主への愛のうちに歩み、それゆえキリストにおける兄弟たちを愛するのです。
親愛なる兄弟の皆さま、天主と隣人への愛は、キリスト教に特有のものです。私たちが住んでいる異教的な環境の中で、私たちの模範を通してそれを宣べ伝えましょう。アーメン。