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【参考情報】カナダでの教皇フランシスコの贖罪:謝罪に隠された真実

2022年09月07日 | カトリック・ニュースなど

【参考情報】カナダでの教皇フランシスコの贖罪:謝罪に隠された真実

Pope Francis' Atonement in Canada: The Truth Behind the Mea Culpa


PHOTO: SHUTTERSTOCK

先週、教皇フランシスコはカナダに使徒的巡礼を行い、カナダの先住民寄宿学校についての「悲惨な」政策にカトリック教会が協力したことを謝罪しました。

マリオ・アレクシス・ポルテラ

―2022年8月2日

先週、教皇フランシスコはカナダに使徒的巡礼を行い、カナダの先住民寄宿学校についての「悲惨な」政策にカトリック教会が協力したことを謝罪し、先住民のキリスト教社会への強制的な同化が先住民の文化を破壊し、家族を分断させ、数世代を社会から疎外させた、と述べました。組織としての教会による「大虐殺」行為とされてきたことについて、フランシスコは次のように述べました。

「大変申し訳なく思っています…。多くのキリスト教徒が先住民に対して犯した悪について、謙虚に赦しを乞い求めます」。

悪い振る舞いをする教会員が残虐行為を行ったという歴史的事実を、誰も否定することはできません。しかし、カトリックの宣教師や教会員によって行われた、特にオブレート会と聖アンナ姉妹会が運営するカムループスの学校で行われた大量虐殺という申し立ては、「文化的」であれ「肉体的」であれ、事実無根だとは言えないとしても、せいぜい仮説に過ぎません。

事実

2021年5月、若手人類学者サラ・ボリューは、元のカムループス寄宿学校付近の土地を地中レーダーで分析した後、予備調査結果に基づき、集団墓地が存在するという仮説を打ち立てました。

ボリューのいわゆる調査結果は、すぐに主要メディアに取り上げられ、ジャスティン・トルドー首相もこれを支持しました。何百人もの子どもたちが「殺され」、「集団墓地」に「密かに埋められた」(合計200体とも言われています)というような物語(ナラティブ)が、すぐさま続きました。

しかし、実際の問題として、集団墓地は発見されていません。事実、2022年1月11日、モントリオール大学歴史学部のジャック・ルイヤール名誉教授は、カナダのポータルサイト「ドーチェスター・レビュー」に「カムループスの学校では、集団墓地、密葬、その他の形の不規則な埋葬とされる子どもの遺体は、まったく発見されていない」と述べている広範囲にわたる記事を掲載しました。校舎の裏手には簡単な墓地があるだけで、そこには学校の生徒だけでなく、地元のコミュニティーの人々や宣教師たち自身も埋葬されていました。同じルイヤールは、2022年4月1日、インタビューの中で、カナダ先住民の文化的・肉体的な大量虐殺という考えをはねつけ、改めて寄宿学校における集団墓地の存在を否定しました。

2022年3月1日に「ドーチェスター・レビュー」に掲載された「寄宿学校についての誤った物語」(The False Narrative of the Residential Schools Burials)と題する最近の論文で、トム・フラナガン教授とブライアン・ゲスブレヒト判事は、113年にわたるカトリック系寄宿学校の歴史において、たった一人でも生徒が殺されたという痕跡はない、と結論付けています。実際、「真実和解委員会」(Commission de vérité et reconciliation, CVR)によると、寄宿学校に通っていた若者の死亡率は、1000人の若者に対して年間平均4人程度で、主な原因は結核とインフルエンザでした。CVRのマリー・ウィルソン・コミッショナーの主張にもかかわらず、先住民の親が、自分の子どもが寄宿学校に行って「二度と会うことがなかった」と主張した記録はありません。

「文化的大虐殺」という非難については、1857年に「漸進的文明化法」(Gradual Civilization Act)を可決したカナダ議会が、実際に強制的な同化を要求していました。政府は、主にカトリック教会に、一部はカナダ聖公会にも(最大30%)、若者たちを国の文化に統合する任務を委ねたのです。

19世紀から1970年代まで、カナダにいる15万人以上の先住民の子どもたちが家から連れ去られ、家族や文化の影響から隔離しようとして学校に入れられたというのが、カトリック教会に向けられた告発です。2008年6月、カナダ政府は先住民に公式に謝罪し、インディアン寄宿学校の調査をするために前述のCVRを設立しました。

委員会の研究者たちは、7100万ドルを受け取り、また7年間活動したという事実にもかかわらず、19世紀末に寄宿学校の運営を始めた修道会「聖母献身宣教会」(オブレート会)のアーカイブを参照する時間を見つけませでした。また、歴史家のアンリ・グーレは、「ケベック州におけるカトリック系寄宿学校の歴史」(Histoire des pensionnats indiens catholiques au Québec)の中で、先住民を元々いた場所から立ち退かせて統合させることを主張した英国の政府と教会とは違って、オブレート会が、カナダの先住民の伝統的な言語と生活様式を守る唯一の存在であったことを明らかにしました。この歴史学的な説明は、カナダ宗教史の国際的な第一人者であるジェノバ大学のルカ・コディニョーラ=ボー教授の研究で裏付けられています。

教皇は、学校制度は同化と市民権付与政策の一環として、「当時の政府当局によって推進された」と指摘しました。しかし、批判に答えて教皇は、その政策の実施に地元のカトリックの団体が「一端を担っていた」と付け加えました。正確には、どの程度なのでしょうか。この疑問には、控えめに言っても、相反する答えがあるように思われます。

カトリック宣教師たちの役割

カナダ訪問の最終日の前日、教皇がカナダの国立聖堂でミサを捧げたとき、先住民の活動家が「RESCIND THE DOCTRINE」(教えを廃止せよ)と書かれた横断幕を広げました。彼らが要求したのは、フランシスコが「植民地主義を正当化する15世紀の教皇勅令」を廃止することでした。デモ参加者は、教皇教書「インテル・チェテラ」(Inter cetera、1493年)のことを言っていたのであり、これはむしろポルトガルとスペインが互いにあからさまな対決に陥らないようにするための譲歩でした――教皇の承認がなくても両国は対決したでしょう。しかし、植民地主義が、第二次世界大戦後まですべての欧州列強によって行われていたことは覚えておく必要があります。

しかしながら、カトリックの宣教師がカナダにいたのは、イエズス・キリストの命令に従ったからです。「だからあなたたちは諸国に弟子をつくりにいき、聖父と聖子と聖霊とのみ名によって洗礼をさずけ、私があなたたちに命じたことをすべて守るように教えよ」(マテオ28章19-20節)。これは植民地主義ではなく福音宣教です。当然のことながら、多くの絶対君主たちは、嫌がる人々を征服して奴隷にするために宗教を利用しました。

フランシスコは一方で、「真の福音宣教者として、世界各地で先住民の言語と文化を保護した、これらの宣教師たち」を称賛しました。その中には、先住民の言語による最初の文法書を作ったことも含まれています。教皇フランシスコは説教の中で、この街の初代司教である聖フランソワ・ド・ラヴァルを称賛しました。ラヴァルは17世紀後半、この地域の先住民の間で商売をしていた酒類商を破門にしたのです。また教皇は、ラヴァルの他の文化に対する融和的なアプローチは、世俗主義という課題に取り組む今日の教会の模範となるべきである、とも述べました。

言及はされませんでしたが、信仰のために先住民に残酷に殺されたカトリックの殉教者もいました。イエズス会司祭の中で、名前を挙げるとすれば、ジャン・ド・ブレブフ神父(1593-1649年)がいます。彼は、1633年にケベックのイロコイ族ミッションに仲間の司祭2人とともに戻ってきました。彼らは小屋から小屋へと、子どもや大人にカテキズムを教えました。しかし、魔術師たちが、神父たちの存在が干ばつや疫病などあらゆる災いを引き起こすとイロコイ族に信じ込ませました。そこでイエズス会士たちは、求道者たちをキリスト教の村に隔離して保護することにしました。最初の村は、ケベックから4マイル離れた場所に作られました。そこには砦、チャペル、家屋、病院、そして神父たちの住居がありました。

当時、イロコイ族は、どうにもならないほど敵対的でした。彼らは、イサク・ジョーグ神父(1607-1646年)とその助任司祭ルネ・グーピル(1608-1642年)に、熱い炭火を浴びせて手足を切断させたのです。1649年3月、イロコイ族は、ド・ブレブフ神父とガブリエル・ラレマン神父(1610-1649年)を殉教させました。ド・ブレブフ神父は、イロコイ族に赤熱した棒で刺され、肉片を剥ぎ取られ、イロコイ族はその肉片を神父たちの目の前で焼いて食べました。この殉教者が天主を讃美し続けると、イロコイ族は彼の唇と舌を切り落とし、燃え残りを喉に流し込みました。ラレマン神父は頭を砕かれ、その後心臓を引き裂かれました。このイエズス会の宣教師たちは、「カナダの殉教者」または「北米の殉教者」として知られ、1930年に教皇ピオ十一世によって列聖されました。

また、モホーク族の父とキリスト教化されたアルゴンキン族の母の娘である聖カテリ・テカクウィタのように、自ら進んでカトリックになることを選んだ先住民たちもいます。彼女は、カトリック教会によって聖人と認められた最初のネイティブ・アメリカンとなりました。彼女は、故郷の村で嫌がらせを受け、石を投げられ、拷問をすると脅された後、200マイル(320キロ)離れたモントリオール近郊のソー・サンルイにある聖フランシスコ・ザビエル・キリスト教インディアン・ミッションに逃げ込みました。そこで彼女は、その優しさ、祈り、信仰、そして英雄的な苦しみが認められ、「モホークのユリ」として知られるようになりました。

両陣営の主張には、まだまだ多くのことがあります。しかし、ルイヤール教授はこう言います。

「果樹園にある集団墓地とされる場所の予備調査が、渦巻く主張となり、それがカナダ政府に支持され、また世界中のメディアに取り上げらるに至るとは、信じがたいことです。歴史とアボリジニの口伝史の対立ではありません。後者と常識の対立です。聖母献身宣教会(オブレート会)と聖アンナ姉妹会に対する非難が歴史に刻まれる以前に、具体的な証拠が必要です。発掘調査はまだ始まっておらず、遺骨も見つかっていません。犯罪委員会には検証可能な証拠が必要であり、特に被告人がずっと前に亡くなっている場合はなおさらです」。

マリオ・アレクシス・ポルテラ。フィレンツェ大司教区尚書係。ローマの教皇庁立ラテラン大学で教会法と民法の博士号を取得。フォーダム大学で中世史の修士号、セント・ジョンズ大学で政治・行政学の学士号も取得している。



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