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【再掲】あるサマリア人が、彼を見て憐れみを起こした。

2020年08月26日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2016年8月7日(主日)に東京で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2016年8月7日 聖霊降臨後第12主日
小野田神父説教

“Samaritanus autem quidam videns eum,misericordia motus est.”
「あるサマリア人は、彼を見て憐れみを起こした。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日は有名なサマリア人の話です。
今日はサマリア人が一体、このイエズス様の例えで何を仰りたいとしたのか、このサマリア人の例えを教父たちは一体どのように解釈していたのかという事を見て、ではその教父たちの解釈を超えて何かそのサマリア人に似たような人物が今現代にいるのではないか、という事を見て、
第3にでは私たちは、イエズス様が最後に「行って同じようにしなさい」と仰ったのですから、サマリア人のようにするには、サマリア人を真似るにはどうしたら良いのだろうかという事を考えて、遷善の決心を立てる事に致しましょう。

ではこの今日の例えは、どういう機会にどういう事を言われたのでしょうか?これはある時に律法学士が、イエズス様を試みようと、「律法の中で一番重要なものは何ですか?」と聞くのです。するとイエズス様は、あまりにも公教要理のABCの最も基本的な質問なので、「お前は一体聖書の何を読んでいるのか。何と書かれているのか言ってみなさい」と言うと、
自分で答えて、「天主を心を尽くし、力を尽くし、精神を尽くして愛し、隣人を同じように愛する事です。」
「まさにその通りだ」と言われてしまい、何かあまりにも下らない質問をしたという事がばれてしまいました。そこで自分を何とか正当化しようとして、「私の聞きたかった事はそれではなくて、隣人とは一体誰かという事なんです」と言ったのです、「私の隣人とは一体誰ですか?」そして私の隣人とは誰か、という事にその答えをする為に、イエズス様はこのサマリア人の例えを出しました。でもイエズス様がその答えようとした時には、この律法学士の答えに直接その通りに答えるのではなくて、ちょっとだけ観点を変えて説明しました。それは律法学士でも「そうだ」とすぐ答える事ができる為でした。

エルサレムからエリコに旅をするある人が、これはユダヤ人なのかサマリア人なのかどこの国の人なのか、どんな宗教の人なのか分からないのです。ある人が強盗に奪われて、そして倒れて半死半生になって、身ぐるみ剥がされてしまった。そこを旧約の司祭が通るのです。何もする事なしに却ってそれを避けて通ってしまうのです。司祭よりもちょっと階級の下のレヴィ族の人がやって来るのです。やはり同じようにします。ところがユダヤ人とは全く関係のない、異邦人の異端の異教のサマリア人がやって来ると、この半死半生の犠牲者を、盗賊に遭った人に近付いて、きっと道すがら忙しかったと思います、何かビジネスをやっていたかもしれません。でもその事をほっぽらかしてその人に近付いて、憐れみを起こして、まず持っていたぶどう酒でその傷口を洗って、その傷口が早く治るようにオリーブオイルを塗って、そして自分の持っていた動物の上に乗せて、宿屋まで連れて行って、宿屋の主人に、「さぁお金をここにやるから、是非この病人を看病して欲しい。そしてあのもしもこれ以上お金が必要ならば、帰って来てまたここに来るからその時に借金を払う。さぁお願いする。」

そしてこの例えをした後で律法学士に、「ではこの3人の内に、一体この盗賊に遭った人にとって隣人として態度を見せたのは、隣人の態度を見せたのは、この怪我をした人にとって、半死半生した人にとって隣人であろうとしたのは一体誰か?」と言うと、律法学士は、「それは、憐れみを見せた人です」と言うのです。そしてイエズス様は、「その通り。お前も同じようにせよ」と言うのです。

この例えではイエズス様が、「私にとっての隣人は誰か」というのを、「傷を付いた、憐れみを必要とする人にとって、隣人として行動したのは誰か」という風な質問に変えたので、「ちょっと理解ができない」と思われる方も、「難しい」と思われる方もいるかもしれません。

しかしイエズス様はそれが、「憐れみを必要とする人が誰であれ、どの国籍の人であれ、肌の色が何であれ、どんな言葉を話すのであれ、その人を隣人として取り扱え」という事を仰ろうとしていました。これは律法学士にとっては革命的な事でした。律法学士にとってはユダヤ人にとっては、ユダヤ人はこれは隣人だけれども、まさか他の人にとっては隣人とは思えずに「敵ではないか」と思っていたからです。

教父たちはこれを大きく解釈しました。つまり、「どのような全てこの全人類、ユダヤ人のみならず全て全人類は実は、天の成聖の状態から悪へと傾いてしまった。そしてその為に悪魔によって成聖の状態を取られてしまった、半死半生の状態になってしまった。もう天国には行く事ができない罪人の状態になった。もう霊的には生きているのか死んでいるのか分からない状態である。そのそれを救う為には、ユダヤの旧約の教えは律法は全く用が立たなかった、レヴィ族も用が立たなかった、何もする事ができない。しかし天から降りて下さった天主の御言葉イエズス・キリストが私たちを憐れんで、これにぶどう酒を注ぎ、つまり御血、御自分の御血を流して罪を赦し、そして油を注いだ、オリーブ油を注いだ、つまり聖霊の御恵みを私に与えて下さった。そして私たちを御自分の肩に担いで、公教会に私たちの霊魂を委ねた。そして公教会にその霊魂を委ねながらも、『私が帰ったら、この霊魂をよく世話した報いを与えよう。』と仰った」と解釈しました。「良きサマリア人とは実はイエズス・キリストの事であって、私たちを霊的に死から生けるようにして下さった、憐れんで下さった方である」との解釈でした。

この教父たちの解釈を見ると、私はどうしても、聖ピオ十世会の創立者であるルフェーブル大司教様の事を思い出します。

何故かというとルフェーブル大司教様は、ローマで教皇様から選ばれて教皇使節としてアフリカに、教皇様の代理として仕事をして、多くの神学生たちを指導し、司祭を指導し、将来アフリカに備えて立つ司教様たちを選んで、そしてアフリカのカトリック教会の独立の為に、しっかりと白人たち無しに自分たちで進んでいく事ができるように基礎を築いた方でした。

もうお年を召して引退されて、聖霊修道会の総長をされて、もう実は何もしなくても悠々と暮らしていく事ができたにもかかわらず、ローマの家もあったし何も苦労する事もなく、心配する事なく生きていく事ができたにもかかわらず、神学生たちが司教様に、「神学校ではこんなおかしな事を勉強しています、神学校ではこんな事が起こっています、」という報告を聞いて、「是非司教様、なんとか私たちを助けて下さい。」或いは世界中の方々がルフェーブル大司教様に、「どうぞ良い司祭を送って下さい。私たちはもうミサが無くて半死半生です」と言う声を聞いて、もう老人であったにもかかわらず、その霊魂を助けようと神学校を創立し、聖ピオ十世会を創ったからです。

霊魂の管理の為に、霊魂の世話の為に、自分の名誉が傷つけられる、その世間体がどうなってしまうにもかかわらず、破門という汚名を外面的には着せられつつも、「何とかして霊魂を救いたい。教会の為になりたい」と命をかけて、名誉をかけて、全てを尽くして、霊魂の救いの事だけを考えてきたからです。ルフェーブル大司教様の姿と、良きサマリア人の姿が、私にはどうもこう一緒に重なってきます。

では、私たちの主イエズス様はこの例えの後に、「隣人とは誰か?つまりこの目の前にいる憐れみを必要としている人だ」という事を、「それが誰であっても、憐れみを必要としてる人がそうだ」という事を教えながら、「行って同じようにせよ」と言われました。ルフェーブル大司教様も同じようにしました。

では私たちは一体どのようにしたら良いのでしょうか?

2000年6月29日にローマは、「ファチマの第3の秘密」と呼ばれるものを公開しました。それによると、シスタールチアはあるビジョンを見たのです、そのビジョンの内容というのは、「教皇様のような白い服を着た司教様が、半分瓦解している、死体だらけの大きな街を歩んで行く」と言うのです。そして「司教様たち、神父様たち、修道者、男女の修道者、そして色んな身分の階級の色んな方々の、平信徒の男女の方々が居る。その方々が、一人一人、殺されていく、殉教していく。そして遂にはそのような死体を通って、屍を通って行って、遂には十字架の下に行くのです。その十字架の下で教皇様さえも、この白い服を着た司教様さえも銃殺されてしまって、そして二位の天使がその殉教者の血を集めて、天主様に近寄ろうとする霊魂の為に振りかけている」というビジョンがあります。

これがファチマの第3の秘密で、来年私たちはそのファチマの100周年を祝おうとしています。その他にも実はまだ公開されていないマリア様のお言葉というのがあると私には思えます。しかしそのビジョンによればそうです。

これはもしかしたら霊的な事を言っているのかもしれません。多くの霊魂たちが、司教様も、神父様たちも、修道者たちも、或いは男女の多くの信徒たちが、或いは多くの人たちが霊的にもしかしたら苦しんで、半死半生である、という霊的な状態をシスタールチアに見せたのかもしれません、幼きルチアに見せたのかもしれません。

或いは1週間前のジャック・アメル神父様の教会でミサをやっていた時に人質になって、そして殺害された、そのテロリストの事を考えると、或いはそのIS関係のテロが色々な所であちこちで頻繁に起こっているのを見ると、もしかしたらこれは霊的な事だけではなくて、本当に実際に肉体的にそのような事が全世界で起こってしまうのかもしれません。

それが何であれ私たちは、その現代世界が今、多くの悪魔によって半死半生になった傷付いている、霊的に傷付いている多くの人々が私たちの目の前にいらっしゃるという事を教えています。

すると私たちは良きサマリア人として行動する為に、この傷付いてる人たちに対してどのようにすれば良いのでしょうか?或いは旧約の司祭がやったように、「あぁ、関係ない、知らない」と言って横を素通りして、何もそのまま通り過ぎてしまうべきでしょうか?

それともこの霊魂の救いの為に私たちが何か近付いて、憐れみを起こして、そしてぶどう酒と油を注いで、何とかしてそれを宿屋まで運んであげるべきでしょうか?

イエズス様は、「同じようにしなさい」と言いますから、私たちも少なくともこの多くの傷付いた、霊的にまだ死んでいる、罪の状態にいる多くの方々の為にお祈りをする事に致しましょう。

聖ベルナルドによると、「このサマリア人の油は『お祈り』の事だ」との事です。私たちもこの私たちの日常、目に見える方、生きてはいるのですけども霊的にはまだ罪の状態にいる様な方々、イエズス・キリスト様を知らないような方々の為に、イエズス様の事をよく知り、罪の赦しを受けて天国に行く事ができるように、お祈りをして、お祈りの油をそこに注ぐ事に捧げて、注ぐ事ができるように致しましょう。

ルフェーブル大司教様がアフリカにいた時にこう決心したそうです、色々な決心があるのですけれどもその内の1つが、「霊魂たちを成聖の状態の観点から見る」という事が1つの決心でした。つまり、「この霊魂たちが霊的に生きる事ができるように力を尽くす」という事でした。「この霊魂たちが罪が赦され、天国に行く事ができるように、霊的に天主によって生かされるという事だけを、その観点だけを見る」という事を決心していました。

まさに私たちもそれに倣って、この道で会う方、或いは電車に一緒に乗る方、或いは仕事をする方の「霊的な傷が癒されますように、成聖の恩寵に生きますように」とお祈り致しましょう。そればかりでありません。この良きサマリア人がぶどう酒をこの傷口に注いだように、私たちも小さな犠牲を捧げる事に致しましょう。小さな犠牲によって、私たちの苦しみや悲しみや、疲労、或いは侮辱、誤解、嫌がらせなどもマリア様の御手を通してお捧げ致しましょう、「是非この方が回心しますように、この方がイエズス様を知る事ができますように。」

では最後にどの様な決心をしたら良いでしょうか?

私はこの是非ロザリオの十字軍に参加する事が、この良きサマリア人になる為の一番の方法であると確信しています。何故かというと、マリア様は8月19日にこの3人の子供たちに言ったからです。

「多くの霊魂が地獄に行っている。この半死半生のまま地獄に行っている。何故かというと、彼らの為に祈りと償いをする、犠牲を払う人がいないからだ。」

ロザリオの十字軍はまさにこれに応える為に作られました。どうぞ皆さんのこの寛大な参加をお願い致します。

「あるサマリア人が、彼を見て憐れみを起こした。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。







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