【参考文献】DESIDERATUS CUNCTIS GENTIBUS(「国々の民もろともにとって待ち望める者」):ヴィガノ大司教の2022年末のメッセージ
2022年12月31日(土曜日)
DESIDERATUS CUNCTIS GENTIBUS(「国々の民もろともにとって待ち望める者」アゲオ預言書2:8):ヴィガノ大司教の2022年末のメッセージ
【注:アゲオ予言書2:8はバルバロ訳聖書ではハガイの書2:7。その注に「万民のあこがれるものがこられる」と書かれている。】
カルロ・マリア・ヴィガノ
Salvum fac populum tuum, Domine, et benedic hereditati tuæ.
Et rege eos, et extolle illos usque in æternum.
主よ、御身の民を救い、御身の世継ぎを祝し、
かれらを治め、永遠にいたるまで、かれらを高め給え。(賛歌「テ・デウム」)
世俗の年の締めくくりを飾るこの時間、私たちは一人一人、教会が賛歌「テ・デウム」の中にある感謝の賛美を天主の御稜威(みいつ)に捧げる荘厳な行事に参加する準備をしています。
Te Deum laudamus: te Dominum confitemur.「天主にまします御身をわれらたたえ、主にまします御身を讃美し奉る」。複数形の一人称「われら」において、諸秘跡の貴重な宝石と、王冠の最も貴重な宝石の数々で装飾された、すなわち祭壇の最も威厳ある秘跡【御聖体】とミサの聖なる犠牲と司祭職の品級で飾られた、小羊の花嫁【カトリック教会】の威厳ある声を感じます。そして、いとも聖なる秘跡【御聖体】の御前で、私たちは皆、凱旋の日にキリストとともに地に足をつけて立っている勝者にふさわしく立ち、終わろうとしている一年のために天主に感謝を捧げます。
ですから、私たちは至聖なる三位一体に感謝しなければならないということ、そのことを考察しましょう。
私たちのぬるま湯状態、沈黙、妥協への傾き、偽善、この世の精神と支配的イデオロギーの誤謬に屈したことに対して、天主なる主が私たちを罰してくださったことを感謝します。
これらの罪と欠点こそが、今日、新世界秩序の専制政治を押し付ける者たちが世俗の世界で繁栄することを許すとともに、教会の世界でも、プロライフの司祭【ペイヴォン神父】を破門し、同時に、腐敗した異端的な聖職者と高位聖職者を、つまずきを与えるやり方で昇進させる者たちが優勢になることを許したのです。
これらの罪と欠点が、世俗の世界において、民主主義が諸国の背教および無垢の人々【胎児】の残酷な殺戮に変容することを許したのです。
これらの罪と欠点こそが、教会において、第二バチカン公会議によって、教会を内側から破壊するための破壊的なテコとして、革命の原理が教会に導入されることを許したのです。
これらの罪と欠点が、世俗の世界では、罪と悪徳が奨励されるようにし、他方では、正直さ、誠実さ、キリスト教的道徳が嘲笑され、犯罪化されないまでも、踏みにじられるのを許したのです。
これらの罪と欠点が、教会の世界では、カトリックの信仰を告白し、使徒継承の典礼でその信仰を挙行することを求める信者や聖職者を迫害する一方、バチカンの最高法院(サンヘドリン)が使徒のかしらの墓で地獄の偶像【パチャママ】を崇拝することを許したのです。
これらの罪と欠点が、世俗の世界および教会の世界の両方において(この点では両者は大いに同盟関係にあります)、世界人口の制御という狂気の計画の名のもとに、何十億人もの人々に獣の健康のしるしが押し付けられることを許し、その口実として治癒可能で致命的ではないと判明した病気――適切な治療が禁止され、大衆を脅すのに十分な数の死亡をもたらした後でようやく治癒可能で致命的でもないと公表された――が用いられるのを許したのです。
これらの罪と欠点が、長期にわたって計画され、NATOによって平然と実行された作戦が行われるのを許したのです。それは、「侵略者」に対する戦争を引き起こすために、そして西側諸国の経済を破壊するためでした。
一方で、ウクライナの危機は、〈グレートリセット〉の実現のための道具であることは明らかです。道具として新型コロナウイルス感染症以上でも以下でもありません。同様に、ジョー・バイデンの家族の腐敗や、ペンタゴンにつながる生物実験室の存在に関する証拠を隠すための方便として役立つことは明らかです。
これらの罪と欠点が、世俗と教会の両方の機関において、役人がそのキャリアにおいて昇進すればするほど、さらに恐喝されることを許し、市民も信者も、腐敗し変質者となった者を排除しないことを許し、起訴を要求しないことを許したのです。
今日、私たちが目撃しているのは、一連の小さなステップの必然的な結果です。その一つ一つは、もし私たちが最低限の批判的判断を行い、声を上げてさえいれば、あるいは、もし私たちが真っ先に守るべきはずだった者たちによって侵害された権利を守るために抗議していれば、防ぐことができたはずのものだったのです。
離婚、中絶、安楽死、同性愛、ジェンダー・イデオロギー、左翼や右翼の自由主義、移民主義、キャンセル文化、グローバリズム、健康独裁、マルサス的環境主義、エキュメニズム、シノダリティー…その都度、私たちは迫り来る脅威を糾弾することができたはずだったし、そうすべきであったのに、「陰謀論者」と呼ばれないように、「原理主義者」の烙印を押されないように、あるいは自分の考えや信仰が原因で社会的・教会的な排斥に遭わないように、沈黙を守ってきたのです。
自由主義思想に汚染されるのを許した人々は、「私はカトリック信者であり、ラテン語のミサにあずかることができるのであるなら、各自が何をするのも自由だ」と言います。しかし、まさにこの「自分のしたいようにする」こそが、大衆を操る者たちが自由にすることを許してきたのです。彼らが、社会を変え、私たち自身の国と教会の中で、つまり自分の祖国で私たちをよそ者にすることを許してきたのです。
しかし私たちは、歴代のローマ教皇が繰り返し警告し、何度も非難してきたことに従って、カトリック信者はメーソン自由主義のプロジェクトに反対すべきであったことをよく知っていました。私たちは、自由主義者がカトリック信者以外のすべての人に寛容であること、そして自由主義者の最大の敵は諸国の王であるキリストであることを知っていました。なぜなら、キリストが統治するところでは、天主と人類の敵どもは拘束され、政府のトップにはなれないからです。
私たちは、現世的かつ霊的な問題で天主に反抗することは、独裁か無政府状態のどちらかにしかつながらないことをよく知っていましたが、法廷では正義が、ビジネスでは労働者の権利が踏みにじられるのを、病院では治療が阻止されるのを、メディアでは嘘が流されるのを、学校では若者が道徳で腐敗するのを、説教壇からは教導権に逆らうことが述べられるのを許してきました。
これまで権威ある地位にあった人々は、権力をその存在目的とは反対の目的のために簒奪してきました。先に述べたように、私たちはまるで外国人のように扱われ、実際、市民でありながら国家の敵のように扱われ、信者でありながら教会の敵として扱われました。一方、真の外国人たちや国家の敵どもは、権威を簒奪したエリートたちの錯乱した「人道的」かつ「博愛的」プロジェクトで歓迎され、尊重され、服従されているように感じられます。
そして、私たちの中には、このような社会的・宗教的工学の作戦に直面して、戦うことをあきらめたり、陰謀家たちの側に立ったりする者さえいます。彼らは権力者たちを喜ばせ、国会や国際機関のホール、大聖堂、さらには聖ペトロ大聖堂の円屋根の真下で、権力者たちの破壊転覆的な計画を支持することを選びました。その際、適合主義、臆病、卑屈、そして、今日の裏切りによって私たちの隣人――それが誠実な支配者を求める市民であれ、聖なる牧者を求める信者の一人であれ――が潰されることで、私たちが何とかその後の壊滅を免れることができるという希望を抱いていたのです。彼らが忘れているのは、革命はサートゥルヌス【ローマ神話の農耕の神】のようにわが子をむさぼり食らうこと、また、初期の共犯者の誰一人として、現実においてもメディアにおいても絞首台を免れることができないことです。
主は私たちの父であり、父として、私たちが自分の過ちを理解し、過ちを悔い改め、人生を変えるために、罰を与えてくださるのです。Deus, qui culpa offenderis, pœnitentia placaris と四旬節の祈り【灰の水曜日の後の木曜日の集祷文】は言います。「われらの罪によって侮られ給うても、われらの悔い改めによって御心を和ませ給う天主」。罪があるところには、天主の御稜威が限りなく侮られるところには、罰が必要です。Flagella tuæ iracundiæ, quæ pro peccatis nostri meremur:「われらが、犯した罪のために当然受けるべき御怒りの罰」。それは、ちょうどイスラエルの民にしばしば起きたようにです。
2年以上続いたこの懲罰、もし私たちが回心のしるし、悔い改めのしるし、罪滅ぼしのしるし、償いのしるしを捧げて、自分たちがその懲罰を免れるに値するようにしなければ、続く運命にあるこの懲罰は祝福されんことを。
今去ろうとしているこの最も不吉な年【2022年】の間に、パンデミックの茶番劇が、グローバリストのエリートによる死のプロジェクトを明らかにすることによって、その犯罪的本性を現しました。さらにこの年の間には、〈グレートリセット〉に従順な最も腐敗している人々が率いる政府を支持する偽善的なプロパガンダのうちに、国際機関の冷酷な冷笑主義が姿を表しました。そうすることで「真理」という超越した原理があることを認めない人々は、どんな嘘でもつくことができること、また彼らは、トランスヒューマニズム【人間改造主義】によって創造主――私たちがその像と似姿に作られた――の作品をまさに消し去ることができると自分自身を欺いていることを示してくれました。この不吉な年は祝福されんことを。
もしも私たちが、新世界秩序の暴君たちからの、健康、環境、エネルギー、経済、戦争の脅迫に受動的に耐え、何もしないでいるならば、私たちを待ち受ける恐るべき将来を彼らは大胆にも示してくれました。彼らのその大胆さは祝福されんことを。
悪人に対する順守と善人に対するファリザイ的な厳しさによって、素朴な人に対してさえも、その背教を明らかにし、その悪徳の壊疽(えそ)を明らかにしている、権力の共犯者にしてメーソンのイデオロギーのしもべであるベルゴグオのセクトの傲慢さは祝福されんことを。
ヨブのように、苦難の時には何よりも主を祝しましょう。なぜなら、そのような試練には、たとえ最も困難で苦しいものであっても、御摂理のご介入を、私たち自身を――放蕩息子の場合のように豚の番をするよりも、ずっと悪い結果になってしまったこの私たちを――お見捨てにならない天主の愛の御手を見るべきものだからです。
Miserere nostri, Domine, miserere nostri. Fiat misericordia tua, Domine, super nos, quemadmodum speravimus in te.「主よ、われらをあわれみ給え、われらをあわれみ給え。主よ、御身に依り頼みしわれらに、御あわれみを垂れ給え」。支配者らと牧者らに見捨てられし御身の子らをあわれみ給え。この時代の偽りの幻想に溺れずして、御身の聖なる御助けなる祝されし希望によって生きているがゆえにこそ、家庭であれ職場であれ、議会の席からであれ新聞の編集室からであれ、田舎の教会の説教壇からであれ修道院の房からであれ、御身においてよき戦いを戦う力を見いだす人々をあわれみ給え。新世界秩序(New World Order)なる地上の地獄の確立にも、平和的エキュメニズムなる永遠の背教にも甘んじざる人々をあわれみ給え。
そして、私たちが、この2022年の惨劇の終結を願い、2023年の初めに聖歌「ヴェニ・クレアトール」(Veni Creator)で慰め主(Paralrete)の賜物を祈り求める準備をするならば、放蕩息子のように信頼に満ちた謙遜さをもってそうしましょう。「お父さん、私は天に背き、あなたにも背いて罪を犯しました。もうあなたの子と呼ばれる値打ちはありません」(ルカ15章21節)。私たちは、人間がその権威を濫用し、現世的・霊的な事柄において天主に背くとき、人間よりも天主に従う(使徒行録5章29節)という決意を新たにすることによって、これを実行するのです。
「テ・デウム」は勝利への感謝の讃歌であり、凱旋の歌です。しかし、この凱旋は人間の一時的な凱旋ではありません。軍隊や天使の群れによってではなく、十字架上で死ぬことによってサタンを征服した天主の御子の永遠の凱旋であり、小羊の御血によって不名誉な道具が栄光の御旗に変えられたのです。キリストの勝利――Ego vici mundum、「私はこの世に勝ったのだ」と私たちの主は保証されます(ヨハネ16章33節)――はカルワリオへの凱旋の道で成し遂げられ、神秘体全体は、そのかしらである天主なる贖い主の模範に従って、「教会の受難」(passio Ecclesiæ)に至るまで主に倣わなければなりません。
もし私たちがキリストのご受難に一致しないなら、キリストとともに復活し、天国の祝福された栄光のうちにキリストの右に座すことはできないでしょう。もし私たちがキリストと祝されし童貞の御旗のもとに罪と戦わないなら、いにしえの蛇とその従者に対する最後の凱旋を祝うことはできないでしょう。なぜなら、私たちは主の罰や、三位一体の第二のペルソナが私たちを贖うためにご托身になった完全で無限の愛に報いるよう促すために主が送ってくださる多くの警告に鈍感なままでいることになるからです。その時、私たちは、メーソンのグローバリズムのしもべたちが長年にわたって私たちのために準備してきた、そして私たちが最近恐ろしい前触れを経験した、ディストピアの悪夢にふさわしい存在となることでしょう。
それゆえ、私たちは新たな心でこの「テ・デウム」を歌い、私たちの能力にかかわらず、主への忠実さを証しするという意向をもって、敵【悪魔】の攻撃が大きければ大きいほど、より強力である主の聖なる御助けを信頼しましょう。In te, Domine, speravi: non confundar in æternum.「主よ、われ御身に依り頼みたり、わが望みはとこしえに空しからまじ」。
アーメン。
+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ
2022年12月31日
教皇証聖者聖シルヴェストロの記念
イタリア語版
https://www.stilumcuriae.com/messaggio-di-mons-vigano-per-la-fine-dellanno-civile-te-deum-laudamus