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シプリアン・トマシュ・コレンド神父【元フランシスコ会司祭】の公開書簡「聖ピオ十世会司祭会では、真の聖伝の宝と健全なカトリックの教えが、霊魂の救いのために守られ、変わることなく公に宣言されている」

2022年01月25日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど


2021年11月12日 コレンド神父の書簡

(2021年、公会議後のフランシスコ会を去って聖ピオ十世会に合流したポーランドの修道者の一人、シプリアン・コレンド神父は、以下の公開書簡を書きました

尊敬する管区長様

私はこの書簡を、大変な苦痛を感じながら書いています。しかしそれと同時に、自分自身の救いを害さずに今の良心の状態を続けることは耐えられない、と思いながらしたためております。この一年近く、私が修道会に入ったときの理想が薄れ、司牧や典礼の実践がかえって悪魔のような歪みになっているのを目の当たりにしてきたのです。

長年、私は自分の聖伝主義は自分が働く環境に適合しており、また信者の霊的な利益のために信者が覚えておくべき道であると信じてきました。私は自分の役務を通して、信者を以前の状態からカトリックの聖伝へと進化するように移行させたいと思っていました。アタナシウス・シュナイダー司教やロベール・サラ枢機卿など、少数の伝統的な高位聖職者の声が、支援、慰め、道しるべとして役立つような錯覚に陥っていたのです。しかし、…私は大きく間違っていました。なぜなら、これらの高位聖職者たちは、一貫して疎外されているからです。

私は、教会をめぐる闘争には気づいていましたが、教会をこの世に適応させようとする病的な試みから生じた誤謬が、どれほど浸透しているかには気づいていませんでした。ポーランドの教会は、私にとって避難所であり、(まだ)健全な霊的組織であるかのように見えました。しかし、「試練」という現実は、全く違うものであることを見せました。コロナウイルス感染症の操作の時は、「多くの人のひそやかな思いが明らかにされる」時期です。

教会の歴史に関心を持つ信者にとって、その診断は明らかです。19世紀と20世紀の教皇たちの警告の努力、例えば、ピオ九世とレオ十三世が教会に対する悪魔の計画を説明するために発表した「アルタ・ヴェンディータ」(Alta vendita)の指示に関する異常なほどの無知があります。
ミラーリ・ヴォス」(Mirari vos)、「パッシェンディ・ドミニチ・グレジス」(Pascendi Dominici gregis)(1)(2)(3) 、「クァンタ・クーラ」(Quanta cura)、「シラブス」(Syllabus)などの回勅や、近代の誤謬に対抗するための他の回勅も無視されました。しかし今日でさえも、それらを正しい文脈で読み、何を指し、何を断罪しているのかを理解することは難しくないことです。

もちろん、これはずいぶん単純化されていますが、現在の教会の状態の源泉は、数十年前に教導権によって明確に断罪された哲学の流れや神学の誤謬が、教会に浸透していることにあるのは確かです。修辞的な質問です。今でこそ有名なこの従順は、当時どこにあったのでしょうか?

ポーランドの状況では、教会の危機は、政治的変化の歴史と密接に結びついています。聖職者、特に位階階級の間では、(共産党の秘密情報機関との協力に関して)審査が行われなかったため、少なくとも疑わしい資質を持った人々が最高の地位にいました。このような状態は、聖職者の道徳的水準の長年にわたる低下を引き起こし、今日では、不幸にも多数の部下が倒れたことに直面して、位階階級が妥協的な態度を取ることですべてが閉ざされているのです。一方、教理への攻撃もありました。これは、神学研究の自由の口実の下で公開された、あからさまに非カトリック的な内容に対して、発言を許し、対応しないことによるものです。

今日、私がはっきりと見ることができるのは、ポーランドの教会が、あらゆる近代主義的な考えを実行しようと努力していることです。一方、私は、このような状態を受け入れない、管区内で唯一の存在であるという感覚を持っています。なぜなら、何の抵抗もない沈黙や無言の批判は、最終的に受け入れることを意味するからです。私は多くの同僚と、しばしば非常に兄弟的な関係にあるため、共通の信仰と基本的な問題への感受性の欠如が隠されることはないでしょう。したがって、この一年間に私の人生に起こったすべてのことが、私をより大きな必要性のある状態に置いているのです。

教会の現在の悲劇的な状況は、異端の司教たちの言うことを聞き入れて自らの救いを危険にさらしたアリウス派の危機と比べる以外にはありません。

このすべてに対して、良心を壊す全体主義的な主張の原則が、誓願を立て、位階階級のシステムに身を置いてきたすべての人に適用されました。彼らは、教会の文書に照らして明らかに断罪されていること、価値のない、有害なことをするように人々に命じています。このような権利を主張する位階階級は、これまでも、今も、そしてこれからも、天主こそがすべての教会法の誓願を最終的に受け取るお方であることを忘れているのです。

尊敬すべき司祭の一人が、かつて私にこう言いました。「あなたの管区長や司教が、あなたと一緒にあなたの最後の審判に行くかどうか考えてみてください。彼らはあなたの弁護者あるいは共同被告(co-defendants)になるでしょうか? 彼らはそこにいないでしょう!」。

信仰に反する誤謬を積極的に実行することが、天主をお喜ばせする従順でしょうか? 理性を働かせ、トミスト的なアプローチに戻るということがなければ、まもなくドイツの修道院におられる管区長の方々は --- もちろん「最大の従順の徳」の下に --- 同性愛者の結合を祝福するようになるでしょう!

甘く考えないようにしましょう。これらの悪魔のようなニュースは、数年のうちに、私たちの教区、特にオポーレの教区にやって来るでしょう。現在の状況にある教会のスキャンダルを止めることはできないと私は考えています。

私の状況を打開する唯一の方法は、聖ピオ十世会司祭会(SSPX)に加わることです。同会では、真の聖伝の宝と健全なカトリックの教えが、霊魂の救いのために守られ、変わることなく公に宣言されていますから。

それ以外の道は本物ではなく、再び良心の呵責にさいなまれることになると思われます。これは感情に流された決断ではありません。近代主義やプロテスタント化が支配的な中で、そのような【感情に流された】決断があったかもしれませんが。教皇たちの回勅や教会博士たちの著作を読み、何カ月にもわたって考えた末の決断です。教会の問題に関する私の個人的な研究は、修道生活な養成教育の初期にまでさかのぼりますが、確かにこの決断の基礎となるものです。

十分認識して行動することで、私に可能な唯一の反応は、聖なるもの(sacrum)に向けられたあらゆる破壊的行為に積極的に参加する修道会を去ることだと確信しています。それは、「霊魂の救い―最高の法」という一般的な条文から、この場合は私自身の霊魂の救いに従うことからも生じるものです。

私は、聖ピオ十世会のおかげで真の従順について学びましたが、今日の公会議後の司祭たちの頭の中では、聖ピオ十世司祭兄弟会は不従順的で、不従順と同義とさえみなされています。しかし、この聖徳を正しく理解して果たすのは、結局のところ同会であることが判明したのです。

また、神学校からトミズムが執拗に排除される理由も理解できました。ピオ十世が近代主義の特徴的な症状を見たのは、【近代主義の】トミズムとの戦いの中であり、トミズムの排除は、おそらくは、教会の究極の目的、すなわち霊魂を救うという使命から完全に離れた無反省な従順を教会に導入するためのものだったのでしょう。

聖ピオ十世司祭兄弟会は、私がほとんどいつも心の中で感じていたことを声に出して発言しました。謙虚さと知恵、明晰で、トミズム的な、つまり問題に対する現実的なアプローチです。ルフェーブル大司教は、今日、特別な弁明の言葉を必要としていません。なぜなら、大司教の事業は、自らを擁護し、実を結んでいますから。流布されている否定的で不公平なスローガンを乗り越えることができる人なら、誰でも簡単にそれを知ることができます。

公会議の決議の影響についての大司教の懸念は、年を追うごとに正しいことが分かってきています。結局のところ、「時は真理の尺度」です。

(ポーランドの)司教様方が、最も敬虔な信者たちが聖ピオ十世会のチャペルへ大脱出することを防ごうと、教区の聖伝の司牧の聖務部門[ポーランドにおけるスンモールム・ポンティフィクム(Summorum Pontificum)の聖務のための名前]を創設するという事実そのものが、この仕事が天主に由来しているという、もう一つの証拠です。

初ミサの直前、私信メールのやり取りが宛先ではない人々によって公開され、その中で、超近代主義的な修道女会に対して私が手による聖体拝領を拒否していたことから、私は圧力(というより脅迫)にさらされることになりました。私の道が、管区の道とまさに分かれようとしていると悟ったのが、そのときだったのは確かです。個人的な理由ではなく、司祭の手が触れることができる最も重要なもの、つまりご聖体、に対する考え方がまったく違っていたためです。そのとき、聖ピオ十世会を知っていたならば、私の決断を早め、従順を受け入れる時の良心の痛みから解放されていたのに、と思います。

私は、無知の犠牲になっている神父様方や兄弟の方々を攻撃するつもりはありません。それにもかかわらず、私は、すべての司祭が、教会の状態について、教会が導くべき超自然的な目標について、常に考えなければならないと信じています。主イエズスのご聖体における現存に対する信仰の覚醒、あるいはその消滅は、すべての司祭にとって最も関心のある対象であるはずです。

小教区に移ってから、問題に気づかない同僚たちのいる環境の中で、私は一つの選択をしました。つまり、悪名高い良心の侵害を受け入れるか、「いいえ」と言って、信念不動の司祭たち(なぜなら、私はカトリックの聖伝の司祭たちをそのようにみなしているからです)の共同体に加わるかです。もちろん、この決断を私の中でしばらく熟成しなければならなかったため、その後に、実行の段階に移りました。聖トマス・アクィナスの教え、知性の判断、良心の声に照らせば、「善悪の判断は好きにすればよい、しかし規則は守らなければならない【たとえ悪であっても、規則通りにその悪を為すべきである】」という文言に従って行動することに、私は決して同意することはできません。

この意味での従順から、どんな価値あるものが得られるのでしょうか? もしこの「従順の徳」が明らかに「信仰の徳」を殺してしまうのであれば、神学上の徳とどのように一致するのでしょうか? 理性に反する態度とは、従順が信仰、希望、愛に隷属しているのが見られない場合のことです。既にカトリック信仰から逸脱しているのが明らかな位階階級の手中にある受動的な道具であることを受け入れることが、果たして徳であり得るでしょうか?

霊的な面から見れば、状況は明らかです。ポーランド大司教座は、手による聖体拝領を信者に勧めていますが、これはルターの弟子であるマルティン・ブツァーのガイドラインを実行したもので、彼は16世紀に、ご聖体におけるイエズスの現存への信仰から離れるための規則を策定しているのです。この事実だけで、司祭は良心と教会法の一般条文に基づいて、これらの慣習に参加することを拒否するよう誘導されるはずです。新型コロナウイルス感染症に関する疫学的脅威をもって、手による聖体拝領の推進を正当化することは、控えめに言っても、知性への攻撃です。このことは、医学界によって明確に繰り返し実証されています。

手による聖体拝領の実践の歴史を引用しても意味がありません。もっとも、この話は近代主義者が自分たち流にすでに書いたものであり、カトリックの信仰に対する最も重要な濫用と脅威を無視したものであると思えます。

ですから、状況を見極める労を惜しまない人々には、これが教会でサタンが行っていることだということがすぐに分かるのです。教会で、主の御体とクリスマスのウエハースとを実際に区別することのできない人々が特権的に扱われていることを、他に何と呼べばよいのでしょうか?

私の修道の道の初めから、聖母の明確な導きにより、この実践を観察する機会が与えられました。初めて遭遇したのは、ドイツからの巡礼団によるトシェブニツァの野外ミサの時です。とても驚いたのは、礼拝の気配が全くないことです。ご聖体の摂取の後、彼らはすぐに、お互いに冗談を言い始めました。この現象は、聖体拝領でお受けするお方の偉大さを認識していないことと関係があるのは明らかで、よく観察する必要があると思いました。その後の観察でも、最初の観察とあまり変わりませんでしたが、それが適切で価値のあるものとして提示された人々を、私は全面的に責めるつもりはありません。

統計がいくつかあります。米国では、この恥ずべき慣習が導入されてから20年後、約70%のカトリック信者が、ご聖体における救い主の現存を信じなくなりました。

司牧の観点から言えば、私は、拝領者の手から目に見える小片が救い出されたことの目撃者であり参加者でした。私が見たのは、司祭の前で主の御体の残りを教会の床に振り落とす人々でした。言うまでもないことですが、悪名高いことに動きはそろっていない上、主の御体を不敬に扱っていたのです。

「私の聖なる子は、自分が地面に投げ出され、汚れた足で踏みつけられるのを見るでしょう」―キトでの聖母の出現。

そして、この慣習を正当化する理由を教父学に求めようという絶望的で誤った試みをしても、それが変わることはないでしょう。とにかく、すでにピオ十二世によって考古学の誤謬として断罪されたものなのです。長年にわたって、私は神学校でこう言って良心を眠らせてきました。「神学生として、修道者として、私に何ができるのだろうか? 私に残されているのは、自分の小さな持ち場に忠実であることだ」。しかし、今日、司祭として、私は、沈黙することによって、教会に不敬冒涜を導入する道具となるようなやり方はできないことを理解しています。私たちには、この世で、主の御体ほど尊いものはないのです。

私たちは、すべてにおいて聖フランシスコの真似をすることはできませんが、聖なる秘跡に敬意を払うことについては確実にできますし、そうしなければなりません。【聖フランシスコの】「修道会全体への書簡」、特に次の箇所は、いつも私にどれほどの励ましを与えてくれたことでしょうか。

「わが兄弟なる司祭の皆さん、モーゼの律法に書かれていることを思い起こしてください。主の御裁きで外面的なことまで犯した者が、いかにあわれみを受けずに死んでいったか、ということを。誰であれ、天主の御子を踏みつけ、自らが聖化された契約の御血を冒涜し、恩寵の御霊を侮辱する者は、どれほど大きくて悪しき罰に値することでしょうか。なぜなら、使徒が言うように、キリストの聖なるパンを他の食物や物と区別せず、見分けもつけずに、価値のないものを食するか、彼がふさわしくても、むなしく、ふさわしくないやり方で、食することによって、人は天主の小羊をあなどり、汚し、踏みつけるからです。何故なら、主が預言者を通して語られるように「天主のみわざを裏切って行う者には呪いあれ」だからです。また、本当にそれを心に留めようとしない司祭たちを、彼はこう言って非難されます。彼らはあなたの祝福を呪うだろう。(…)もはや死に服することなく、永遠の栄光のうちに生き、天使たちが見たいと切望するお方を、自分の手で触れ、心と口とで迎え入れ、他の人々に与える者は、どれほど聖なる者で、正しい者、ふさわしい者でなければならないでしょうか(略)」。

私は長い間、この箇所が手による聖体拝領の実践に対抗して、共同体に浸透しているに違いないと思っていました。なぜなら、この問題に関する聖フランシスコの見解を理解するのに、偉大な聖書解釈学に頼る必要はないからです。もちろん、清貧の人(Poverello)【聖フランシスコ】の心には、「天からのパン」に関して、これを行うよう私たちに告げるのが、位階階級そのものであったので、恐れはおそらくなかったのでしょう。司祭がご聖体におけるイエズスの現存への信仰に関心がないのであれば、このことは霊魂の救いにとって大きな打撃となります。

もちろん、手による聖体拝領の推進が、私の決定の唯一の理由というわけではなく、氷山の一角です。本当の病は、教会の強制的なプロテスタント化であり、司祭職からその独自性を奪っていることです。

この状況は、自発教令「スンモールム・ポンティフィクム」(Summorum pontificum)によって変えることができたはずですが、私たちの管区では完全に無視されました。しかし、結局のところ、ベネディクト十六世の明確な意志は、ピオ五世のミサの挙行に戻ることだったのです。

私は神学校で、ある講義の最初に、教会における「完全主義者のグループ」の価値のなさ、不必要さ、有害さについての講師の見解に同意する必要があったことを記憶していますが、これは管区の司祭の間にある一般的傾向を明確に示していると思います。

私は、多くの時間をかけて、"全時代のミサ"【聖伝のミサ】を学びました。このミサには、私自身、信者時代にこれにあずかった時に覚えた言いようのない神聖な感覚を思い出しながら、心の中でずっと捧げたいと思っていたのです。それは、私の大いなる喜びでした。しかし、今日、私は、気まずい質問を避けながら一人で隠れてミサを捧げなければなりません。あるいは、この典礼の完璧さと偉大さで私と信条を同じくする、ごく少数の友人たちのためにミサを捧げることを余儀なくされています。

私は、全時代のミサだけを完全に捧げたいのです。このミサは、ノブス・オルド・ミサとは全く異なる霊的実在物であり、両方の典礼を捧げた人しか、その不一致を理解することはできません。オッタヴィアーニ、バッチ両枢機卿による「簡潔な批判的分析」教皇パウロ六世への手紙)(その一)(その二)()のすべてが完全に理解でき、かつ明白になりますし、新しいミサの創造者の意図が最もよく要約されています。「これら全ての省略は聖体における主の現存のドグマを信ずることを暗黙のうちに否定することを、きわめて強調することしか役に立たっていない。」

推し進められた共同司式ミサといったものと、全時代のミサを挙行することの差は、本当に衝撃的なものです。ノブス・オルド・ミサ全体でどれほど礼拝の身振りが剥ぎ取られているか、新しいミサ典礼でどれほど多くの祈りが削除されているか、祭壇の向きを裏返すことがどれほど神聖な感覚に影響を与えているかが、お分かりになるでしょう。オッタヴィアーニ、バッチ両枢機卿の言葉は明確です。「新しい典礼はその見返りとして、かつてなかったほどの霊的危機の時代に於いて棄教・背教の境界線をうろつき今や教会の組織に毒を入れ、教会の教義・礼拝・道徳・規律の一致を崩そうとして教会の破壊を企てているものどもを全て喜ばすだろう。」

若い司祭たちが、プロテスタント流に若者を取り込もうと、教会に楽しさや明るさを持ち込もうと、善意いっぱいで取り組んでいるのを見ると、本当に悲しくなります。結局のところ、教会にアトラクションを求める人はいないのです、そんな人々は世間にいるのですから。聖なるもの(sacrum)こそが、私たちが教会に求めているものであり、これは、人間が"capax Dei"である、つまり、天主に開かれているという事実の本質です。人間には霊魂があり、天主を知って愛することを望むという事実のゆえに、人間は恩寵の中でより高いレベルの生活に入ることができるのです。全時代のミサだけが、この天主への充足と、自分の人生の天主への真の方向づけを与えてくれるのです。

私の神学校教育は、二つありました。私自身は、真理を発見するために、教会の歴史や聖伝主義者の立場についての研究を使用していました。例えば、クモール(Kumor)神父の有名な教会史の教科書は、第二バチカン公会議で生じた問題の核心を、二つの文章で退けています。

この公会議が招集されたのは、フランス革命のスローガンや以前に断罪されたあらゆる誤謬を教会に植え付けるためではなかった。そうではなく、第五のマリアの教義【全ての聖寵の仲介者】を定義するとともに、共産主義に反対するため -- それこそが、聖霊からの本物の霊感 --- だった。。

マルセル・ルフェーブル大司教の態度について、進んで公然と発言し、判断する人々の能力は、どれだけのものでしょうか? 講義で聞いた意見は、たいていは実質的な論証に裏打ちされたものではありませんでした。第二バチカン公会議の経過について、聖職者の一般的な知識はどのようなものだろうか、と問うことができるでしょう。普通の司祭は、そのとき何が起こったのか、また、裏にはどんな駆け引きがあったのかを【本当に】知っているのでしょうか?

聖ピオ十世の「パッシェンディ・ドミニチ・グレジス」(Pascendi Dominici gregis)(その3)の言葉は、以下のように、どれほど時宜を得たものだったことでしょうか。

「(中略) この問題に関して、即座に行動に出ることが、必要不可欠なこととなっています。それはなによりも、誤謬に与する者が教会の公然の敵の中だけでなく、きわめて恐れかつ嘆くべきことに、教会のただ中においても見出され、そして表立っていないだけに、なおさら一層質(たち)が悪いという事実によります。」

私は耳にしたことがありますが、公会議文書の論争と有害性を否定しようとする試みは、なんと矛盾していたことでしょうか。ある講義では、講師は、公会議を告発するのは偽りの証拠による、と私たちを説得しながら、この講師の別の講義では、宣教精神の破壊の原因として、K・ラーナーによる「無名のキリスト教徒」の概念を引用して【正当化して】いました。

もちろん、教会の問題は、いくつかの大きな誤謬、さらには、何百もの小さな誤謬で構成されており、公会議はその誤謬に対して扉を開いたにすぎませんでした…残りは、実際には教会の敵によって行われました。教義的な道と司牧的な道の間にある悲劇的な乖離は、私たちの時代の特徴的なしるしであるとともに、弱さのしるしでもあります。

この統合失調症がどのようなものかを、WSDアントニアヌム(ポーランドの神学校)の教授の一人が「女性の司牧者」による礼拝について語った言葉で表現してみましょう。「私は、まさに、自分がしてはいけないと教えたことをしていたのです」。

教会は、第二バチカン公会議で始まったわけではなく、このような背教の事例に対して、過去の教皇たちは警告していたのです。すべては回勅「ミラーリ・ヴォス」(Mirari vos)で述べられています。
「あらゆる新奇なことは普遍的教会に害を及ぼす… 正式に定義されたことがらの何一つと言えど、削除されたり、変えられたり、あるいは増し加えられたりすることは許されず、また意味あるいは言葉上のいかなる変更も受け付けない。」

この内容や似たような内容を知っていながら、教会で起きていることに批判的でない人々を理解するのは難しいことです。聖職者の間では、第二バチカン公会議の有害性についての認識が高まっていますが、公然とこの問題を提示し、このイベントを悪と呼び、教会の失敗と呼ぶことは、教会の構造の中では常に破門状態のような結果をひきおこします。聖職者が制裁を受けずに済ませることのできる第二バチカン公会議に対する優しい批判は、「公会議を誤まって解釈する」可能性を認めることだけです。しかし、それには、常に公会議の教父たちを導くとされる刷新の理念を全面的かつ熱心に評価することと、以前の教会との、幻想的な「連続性の解釈法」を強調すること、が伴います。

神学入門の講義の一つの中で、尊敬する管区長様は、ヨハネ・パウロ一世のメーソンのリストというテーマを提起されました。何という希望の光りが私のこころに差し込めたことでしょうか。「この人は知っている」と私は思いました… しかし、その次には何があるのでしょうか? 知っているという事実だけで、悪と対立のために来たこれら不幸な高位聖職者たちの教会内の活動について考察することから私たちは解放されるのでしょうか?

見かけ上のマリア信仰を維持するために、修道会は、いわゆるメジュゴリエのご出現を宣伝していますが、メッセージの冒頭でゴスパ(Gospa、クロアチア語で聖母のこと)が「すべての宗教は平等で、救いはどの宗教でも達成できます」と述べたときに、その欺瞞性が明らかになりました。

しかし、この欺瞞的な現象について本を書いたり、巡礼を企画したりする司祭たちを叱責する人はいません。おそらくそのためでしょうか、教会が認可した啓示や、教会の現状を完全に反映した衝撃的な内容は、私たちの目から消えています。

キトの聖母の言葉が、私には非常に印象に残っています。

「社会のすべての層に浸透した後、メーソンの諸セクトは、非常に狡猾に家族の中にその誤謬を広めるでしょう。(中略)しかし、そのときにも、教会と聖なる司祭たちを支持する修道会(複数)、すなわち霊魂の救いのためにエネルギーと無私の熱意をもって働く隠された美しい霊魂たちが存在することでしょう。邪悪な者たちは、彼らに対して残酷な戦争を仕掛け、中傷し、侮辱し、嫌がらせをし、彼らの義務の遂行を思いとどまらせようとするでしょう(中略)

私の至聖なる子のご聖体の聖心への愛と、惜しみなく注がれた尊き御血への愛と、ご受難と死の深い苦悩と痛みへの愛から、ご自分のしもべたちをあわれんでこの恐ろしい時代を終わらせ、司祭たちの精神を刷新する一人の高位聖職者を教会に送ってください、と(中略)熱心に祈りなさい」。

もちろん、これらは私的な啓示であり、救いのために必要なものではありませんが、考える材料にはなります。これらは、こう尋ねざるを得ません。それは誰なのか、と。

共同体に入ることで、私は確かに司祭や奉献生活者を理想としました。しかし、私にとって聖徳、献身、兄弟愛の模範となる多くの偉大な修道士、特に司祭以外の修道士に出会ったという事実は変わりません。また、多くの尊敬すべき講師や指導者の方々も、私の大切な思い出の中に残っています。彼らとの別れを思うと残念でなりませんが、最も親密な兄弟関係と私の司祭職としての責任とを天秤にかけることはできません。

私が終生誓願を立てたとき、それが理性の使用を排除した絶対的な行動という意味での誓願でないことは明らかでした。全てにおいて最も重要なことは、教会法の法典を締めくくる文章であることは、私にとって明白で論理的なことでした。私は聖伝の精神に則って司祭職を追求することを選択しなければなりませんが、明らかに誓願を破るという犠牲を払わなければなりません。

私は自問自答しなければなりませんでした。修道院に留まることで、終生誓願で約束された永遠の命が私に保証されるのでしょうか? それは疑わしいと思います。

現代の偉大な神秘家であるピオ神父は、カプチン会の公会議後のアジョルナメント(現代化)について聞いたとき、「聖フランシスコは、彼の子らを認めないでしょう」と述べましたが、まだピオ神父は「改革」がどこまで進化するのかを知りませんでした。

創立者の遺産を無駄に使っていたとしても、フランシスコ会の会員になるだけで自動的に自分の救いが保証される、と考えるのはファリザイ主義です。

私たちの多くは、司教服を着た女性を含むエキュメニカルな礼拝を特別に(ad hoc)依頼したある司教の行動を密かに批判していました。ある大司教の声明を読んで、私たちは驚きました。彼の無反省なエキュメニズムは、カトリック教会を傷つけるものですが、伝説的で、管区内で高く評価されていました。その声明の中で、彼はカトリックの教えに反する見解を表明したのです。

修道院の房の静けさの中で、個々の司教の考えや活動を聞いて、彼らの信仰の欠如や世論に自分をさらさないための病的な試み、極端な近代主義、相手を使徒継承の教会と同等だと正当化するプロテスタントとのエキュメニズムなどを、何度見たことでしょうか。

国際的宗教フォーラムの期間中、私たちは、同性愛の行動に遭遇したとき、すなわち天に復讐を叫ぶ罪の機会を探す修道士たちに遭遇したときに、つまずかないように、それについて聞いたことが何回あるでしょうか。それにもかかわらず、非常に多くの人々にとって最大の問題とは、これらすべての神学的かつ道徳的なつまずきのための治療法として、聖伝に戻ろうとする人々のほうなのです。

私たちは病気の症状を目の当たりにし、しかも多くの人がそれに十分に対応しているにもかかわらず、診断を下すことを恐れているのです。悪は、正しい人の無作為を第一の糧とするのです。

私は自分に特別な聖性があるとは思っていません。神学校で、私よりはるかに優れた謙遜さ、禁欲主義、敬虔さを持つ同僚に出会ったことを、よく承知していますから。しかし、私がそれを受けるにはふさわしくない理由により、真の聖伝を発見する恩寵を得たのは私であり、この事実を前にして、私は無関心なままでいることはできなくなりましたし、無関心でいたくもありません。退会は、私の人生で最も難しい決断であることは確かです。修道会に入会することよりも、司祭に叙階されることよりも、ずっと難しいことです。しかし、退会は、今でも、召命という、教会でキリストにお仕えするという、同じ恩寵の実りなのです。

聖母の側からのものだと私が感じる特別な励ましは、私の行動に自信を与えてくれますし、争いとは無縁の性格の私が、非常に困難な道に踏み出していく力と能力を与えてくださるのは、御母からなのです。

「コロナウイルスの役務」のほぼ一年間は、決して無駄な時間ではなく、私は、教会の状況を的確に判断してくれる多くの素晴らしい人々に出会いました。

主が私の道に用意してくださった非常に多くの素晴らしい霊魂たちに、和解の秘跡と導きをもって奉仕することができたことを、天主に感謝申し上げます。

修道会の中で私が裏切り者、従順を放棄した者とみなされるであろうことはつらいことですが、私自身が陥っている不満足状態と絶え間ない危機の状態を、これ以上続けないためには、この代償を払うしかありません。私は、管区から嫌な思いをさせられたことはありませんし、個人的な利益や長上からの自由を求めているわけでもありません。そのような声が上がるかもしれないため、そう申し上げています。しかし、私は、教区や他の管区あるいは他の修道会に去るのではないという事実を強調します。実際、環境を変え、個人的な関係や年功序列の縛りから解放されること以外には、何の変化もないでしょう。それでも、私は、近代主義の高位聖職者たちや、司祭として抵抗すべきことから、圧力を受けることでしょう。

修道会を去ることは、自分の召命を救うという決断です。叙階された後、受けたものを浪費したり隠したりすること以上に悲劇的なことがあり得ますか? 結局のところ、私たちは、御聖体におけるイエズス・キリストの現存に対する信仰の喪失のすべてに責任を負うことになるでしょう…。天主と、聖なるいけにえから流れる恩寵を、深く探し求めているのに、天主について…カトリックについて、司式司祭が演じるパフォーマンスしか受けない霊魂たちを失うことに対して、私たちは責任を負うことになるでしょう。

例えば、パチャママのような悪魔的礼拝の教会への導入、いわゆる難民を装った欧州の組織的なイスラム化に対する高位聖職者たちの対応、教理の絶対的な弛緩、「ラベンダーマフィア」、バチカンの最高レベルでのルターの栄誉など、私は多くの問題を手付かずのままにしています。これらも、確かに私の決断に貢献しています。

今日、イエズスに忠実であり続けるための唯一の道は、カルロ・マリア・ヴィガノ大司教の道、つまり、教会の周辺部のどこかにいて、自らを苦しめる問題の輪郭を明確にし、それによって熱心な信者の意識を目覚めさせることです。それにもかかわらず、聖ピオ十世会への離脱の道は、教会法的に融和的な離脱の道ではないことは承知しています。

あらゆる異端者や反対者に会い、安易な救いの約束で悪口屋を欺くのは、公会議後の教会の持つ真の強迫観念です。イスラム教やユダヤ教の「記念日」を導入し、宗教改革をたたえ、同時に悪の根源としてカトリックの聖伝と闘うことも、そうです。しかし「"はい"は、"はい"、"いいえ"は、"いいえ"」と言う能力を失ってしまっているのなら、これも問題ではありません。

教会および司祭職の状態や、私が経験した司牧的イベントを総合的に考察すると、臨界点を超えたという例えが心に浮かびます。ですから、私はもう、そのような教会の役務者でいることはできません。すべての問題を総合して、私が理解したのは、自分が、より大きな必要性に迫られている状態、すなわち、教会法の最後の条文「霊魂の救いは、常に教会の最高の法でなければならない」を引き合いに出す資格を持つ状態にある、ということです。

それにもかかわらず、私は、この釈明文を理解していただくこと、あるいは少なくとも事実に基づいて読んでいただくことと、私の感受性と自分自身の救いへの関心を尊重してくださることを期待しています。私は、ヴィトゥス・ウォンダー司教様の例を挙げたいと思います。司教様は、教皇フランシスコの同意を得て、引退後を聖ピオ十世会の修道院で過ごしておられます。

結論として、私は次の言葉を使います。

「この世にならわず、かえって天主のみ旨とは何か、天主のみ前に、善いこと、嘉せられること、完全なことは何かをわきまえ知るために、考え方を改めて自分を変えよ」(ローマ12章2節)。

敬具
A.M.D.G.(より大いなる天主の栄光のために)
シプリアン・トマシュ・コレンド神父

source: piusx.org.pl/zawsze_wierni/artykul/2994

 



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