権威と従順についての講話
ドモルネ神父 2024年1月8日(札幌)
はじめに
60年にわたって、カトリック教会は、自らの歴史の中でも最も深刻な危機の一つによって揺さぶられています。教皇パウロ六世が、1972年に、「どこかの裂け目を通ってサタンの煙が天主の教会に入り込みました」と言ったほどでした。その裂け目とは、実際には教皇パウロ六世自身の自由主義でした。彼は第二バチカン公会議の間に、致命的な教理が教会に浸透するのを許しました。次に、自分の権威を利用して、これらの教理を教会全体に広めたのです。そして、いわゆる従順の名の下に、カトリックの聖職者と信者のほとんどが、これらの教理を受け入れました。ルフェーブル大司教とブラジルのデ・カストロ・マイヤー司教だけが、これらの致命的な教理に公然と反対した司教でした。二人は教皇に不従順だと非難されました。今日に至るまで、これらの教理を拒否するすべてのカトリック信者は、教皇に不従順だとして、つまりは「悪い」カトリック信者であるとして非難されているのです。
今日はまず、権威および従順という概念、両者の関係、そして両者の制限についてお話しします。現在の教会の危機の中で混乱しないためには、また、この危機の真っただ中における聖ピオ十世会の立場を理解するためには、これらの概念を正しく理解することが不可欠です。
1.権威という概念
権威とは、他の人々に命令し、その人々を従わせる権利です。
次の質問をしてみましょう。「そのような命令する権利を、人はどのようにして得るのでしょうか」。それには、二つの方法しかありません。所有権という理由によるものと、受けた使命という理由によるものです。
最初の方法は、所有権という理由によるものです。人は自分の所有物に対して権威を持っています。例えば、皆さんが車を買ったとしたら、皆さんはその車に対する所有権を持っており、そのため、皆さんにはその車を好きなように使う権利があります。別の例では、異教の文明において、人が奴隷を買えば、その奴隷はその人の所有物となり、その人はその奴隷に好きなように命令することができます。全世界と人類を創造なさったのは、天主だけでした。ですから、それらの所有者は天主だけであり、それらに対する完全な権威を持っておられるのも天主だけなのです。
命令する権利を得る第二の方法は、天主から受けた使命という理由によるものです。実際のところ、天主は被造物全体を御自ら直接に統治なさることはありません。もちろん天主はそうすることもおできになりますが、具体的に言えば、天主は天使と人間を、ご自分の世界統治に参加させることに決められたのです。言い換えれば、天主は、天使と人間に何らかの使命をお与えになり、それゆえに、天使と人間にその使命を実行する権威を委任されるのです。
例えば、天主は、私たちの守護の天使に、私たちの地上での生活の間、私たちを見守って、私たちが天国に行くのを助けるという使命を与えておられます。ですから、天主は、私たちを見守って、天主の御旨に従って私たちを導くという目的のために、守護の天使に自らの権威を委任しておられるのです。このため、聖書の出エジプト記には、次のように書かれています。「天主なる主はこう言われる。私は、おまえたちの前に天使を送り、道で守らせ、そして私の備えた所に導こう。彼を尊び、その言いつけを聞き、彼に反抗するな。私の権威は彼とともにあるから、彼は、その反抗を許さないであろう。もしおまえたちが、彼の声を忠実に聞き、私の言いつけをすべて守り行うなら、おまえの敵は私の敵となり、おまえの仇は私の仇となる。私の天使は、おまえたちの前を歩むであろう」(出エジプト23章20-23節、守護の天使の祝日のミサの書簡)。
別の例があります。天主はご自身で直接、最初の男と最初の女を創造されました。しかし、人類を存続させるために、天主は人間を、人類を増やすことに参加させようと決められました。天主は、結婚している人々に、子どもを生んで教育する使命を与えられます。その結果、天主は、結婚しているカップルが天主の御旨に従って自分たちの子どもを教育するために、自分たちの子どもに対する権威を委任されたのです。
さらに別の例があります。天主は人間を、社会で共に生きなければならないように創造されました。人間は、一人では人間としての完成に到達することができず、他人の助けを必要とします。石工、大工、配管工、教師、医者、弁護士、漁師、公務員、司祭などに同時になることは、誰にもできません。人間は、組織化された社会で共に生き、互いに助け合う必要があります。しかし、指導者、つまり人々の行動を調整し、人々を共通の目標に向かわせる人がいなければ、組織化された社会は存在しません。ですから天主は、人間が誰かの指導の下で共に生きることを望んでおられるのです。天主はその指導者に、人々の物質的・霊的な福祉の面倒を見るという使命を与えられ、その目的のための彼に権威を委任されるのです。
私が申し上げたことを要約します。権威とは、他人に命令する権利です。そのような権利の起源は所有権です。全宇宙と人類の創造主は天主だけであり、ですから、天主だけが全宇宙と人類に対する権威を持っておられます。しかし天主は、天使や人間に使命を委託されることで、彼らを世界統治に参加させておられます。その結果、天主は、これらの天使や人間に、彼らの使命を果たす権威を委任されるのです。このため、聖パウロはローマ人にこう述べているのです。「天主から出ない権威はなく、存在する権威者は天主によって立てられた。それゆえ、権威に逆らう者は、天主の定めに逆らう」。
2.権威の制限
さて、次の質問をしてみましょう。「権威の制限とは何でしょうか」。天主について言えば、天主の世界に対する支配権は絶対かつ永遠であるため、制限はありません。天使や人間について言えば、彼らの権威の制限は、彼らが天主から受けた使命の制限です。
一家の父親を例に取ってみましょう。父親は妻と子どもたちの物質的・霊的な福祉を提供するという使命を受けています。この父親は、隣人の妻と子どもたちの面倒を見るという使命は受けていません。ですから、この父親の権威が及ぶのは、妻と子どもたちだけに制限されます。さらに、この父親には、妻と子どもたちの物質的・霊的な福祉に反することを命じる権威は、天主から与えられていません。例えば、父親には、妻が主日にミサに出席することを禁じる権威はありません。
同じ原則が国家の指導者にも当てはまります。彼は、他国の国民に対する使命を受けていませんから、他国の国民に命令する権威はありません。また、彼の使命は国民の物質的・霊的な福祉を提供することですから、彼には、国民の物質的・霊的な福祉に反することを命じる権威はありません。
同じ原則が教皇とカトリック教会の司教たちにも当てはまります。聖ペトロと彼の後継者たちは、私たちの主イエズス・キリストから「諸国の民に教え、聖父と聖子と聖霊の御名によって洗礼を授け、私が命じたことをすべて守るように教えよ」(マテオ28章19-20節)という使命を受けました。ですから、私たちの主イエズスは、ご自分の権威を彼らに委任されたのです。「あなたたちの言うことを聞く人は、私の言うことを聞く人であり、あなたたちを軽んじる人は、私を軽んじる人である。そして、私を軽んじる人は、私を遣わされたお方を軽んじるのである」(ルカ10章16節)。教皇や司教には、イエズスの教えや掟を変更する権威はありません。それゆえ、聖パウロはガラツィア人に、強い言葉でこう語ったのです。「私たち自身であるにせよ、天からの天使であるにせよ、私たちがあなたたちに伝えたのとは異なる福音を告げる者にはのろいあれ。私は前に言ったことを今また繰り返す。あなたたちが受けたのとは異なる福音を告げる者にはのろいあれ」(ガラツィア1章8-9節)。
権威の制限は、天主から受けた使命の制限によって定められます。自分が受けた使命に反すること、あるいはその使命を超えることを命じるために、自分の権威を行使する指導者は、自分の権威を悪用しているのです。つまり、彼は自分が持っていない権威を自分に与えているのです。
3.従順の義務と制限
権威とはどこから来たもので、権威の制限とは何かを理解すれば、従順の義務と制限を理解することは簡単です。
天主は、ご自身の権威を指導者に委任されると同時に、人々に指導者に従うよう命じられます。そして、天主が指導者の権威を、指導者の使命に関わるものに制限されると同時に、天主は人々の従順の義務を、その使命に関わるものに制限されます。
例えば、アメリカ政府がお酒を飲むことを禁じている場合、日本に住む人々も同様にお酒を飲んではならないのでしょうか。いいえ、アメリカ政府は日本の人々に対して何の権威も持っていないため、日本の人々はお酒を飲むのを控える義務はありません。
別の例を挙げましょう。日本政府が日本国民に、健康に危険であることが証明されているワクチン接種を受けるように命じた場合、日本人はその命令に従わなければならないのでしょうか。いいえ、日本政府は、国民の物質的な福祉を提供するという自らの使命に反することを命じていますから、国民はその特定の点に従う義務はありません。
また別の例を挙げましょう。ある一家の父親が息子に、隣の家に行ってお金を盗んでくるよう命じるならば、息子は父親に従わなければならないのでしょうか。いいえ、父親は、息子の霊的な福祉を提供するという自分の使命に反することを命じているのですから、息子はその特定の点について従う義務がないだけでなく、そのような命令には逆らわなければなりません。
さらに別の例を挙げましょう。教皇が同性カップルの祝福を要求した場合、司祭は教皇に従わなければならないのでしょうか。いいえ、教皇はイエズス・キリストの教えを教えるという使命に反することを要求しているのですから、司祭には従う義務がないだけでなく、そのような命令には逆らわなければなりません。
自分の指導者が天主から受けた権威を悪用するという理由で、指導者に逆らう者は不従順に見えますが、そうではありません。彼には従う義務はありません。罪を犯しているのは、自分の使命を裏切り、自分の権威を悪用した指導者なのです。
4.聖ピオ十世会の状況
カトリック教会は第二バチカン公会議以来、深刻な危機に下にあります。教皇は、私たちの主イエズスの教えに反する有毒な教理が教会に広まるのを許しました。そして、これらの教理は権威によってカトリック信者に強制的に押し付けられました。司教たちの中で、ルフェーブル大司教とデ・カストロ・マイヤー司教だけが、これらの教理に反対する勇気を持っていました。二人は不従順だと非難されましたが、実際にはそうではありませんでした。二人は過去20世紀にわたる教皇たちの不変の教えに完全に従順だったのに対して、これらの有毒な教理の推進者たちは、傲慢にもその教えを拒否したのです。
聖ピオ十世会は、ルフェーブル大司教がたどった路線を守っています。私たちは、教皇フランシスコをカトリック教会の教皇と認め、教会全体に対する彼の権威に疑問を呈することはありません。しかし、彼の権威には制限がないわけではありません。彼の権威は、私たちの主イエズスから受けた使命によって制限されているのです。ですから、彼がその権威を悪用して、過去20世紀にわたって受け継がれてきたイエズスの教えに明らかに反する教理を押し付けるたびに、私たちには従う義務がないだけでなく、私たちは彼に反対しなければならないのです。聖パウロが、かつて聖ペトロに反対した(ガラツィア2章11節参照)ように、敬意をもって、しかし断固として、です。
聖ピオ十世会は教皇に従順ではないように見えますが、実際にはそうではないのです。
結論
結論として、次の各点を覚えておきましょう。人は天主から使命を受けたから権威を持つのであって、その人の使命の制限がその人の権威の制限を決定します。指導者の下にいる人々には、天主の代理人であるその指導者に従う義務があります。人々の従順の義務は、指導者の権威の制限に従って制限されるのです。