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2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

【参考情報】ヴィガノ大司教の聖霊降臨の説教「教会と国家における悪魔の偽物に打ち勝つために真理の霊を呼び求めよう」

2023年06月28日 | カトリック・ニュースなど

【参考情報】ヴィガノ大司教の聖霊降臨の説教「教会と国家における悪魔の偽物に打ち勝つために真理の霊を呼び求めよう」

Abp. Viganò on Pentecost: Invoke the Spirit of Truth to Overcome Demonic Counterfeits in Church and State

【解説】カルロ・マリア・ヴィガノ大司教は、カトリック教会の高位聖職者です。カトリック教会の一修道会である聖ピオ十世会に所属する司教ではありませんが、第二バチカン公会議の新しい方針の結果として変えられた多くのものを厳しく批判しています。たとえば、「新しいミサ」や「シノダリティのシノドス」、「教会」や「兄弟愛」「司祭職」の新しい定義などです。そこであくまでも参考情報として、日本語でご紹介いたします。

カルロ・マリア・ヴィガノ大司教 2023年6月5日

聖霊降臨の大祝日の説教

Emitte Spiritum tuum,
et creabuntur,et renovabis faciem terræ.
Ps 103:30
御身が霊を送りたまえ、
彼らは造られ、御身は地の面は新たにされ給う。
詩篇103篇30節

愛の特徴とは何でしょうか。その「無償性」(gratuitousness)です。愛する者は、見返りを期待することなく愛します。愛する者は、自分が享受している善を、自分の愛する者が共有できることに喜びを感じます。愛する者は、中途半端ではなく、無条件で完全に愛します。愛する者は、「自分の愛する者の善を望んでおり」、それゆえ、「ノー」と言う方法を知っています。このことは、愛が天主のものであるとき、つまり、御父の御子への愛、御子の御父への愛が、至聖なる三位一体の第三のペルソナである慰め主なる聖霊という、完全かつ無限なものであるとき、最高度に当てはまります。

壮大さは国王や君主の特徴であり、彼らは、自分たちの統治が天主の正義に適合するように、自分たちの自由を天主の壮大さに向けます。しかし、天主の御業の壮大さに匹敵するものはありません。それは、創造の秩序における、また――無限に優れた方法で――贖いの秩序における、無限の壮大さなのですから。この壮大さは、その完全性において天主のものであって、光を放つ能力において限界がなく、太陽の有益な光に似て、私たち一人一人全員を恩寵と身に余る無償の恩恵で満たすのです。そして、人間にして天主のご托身、ご受難、死を通してアダムの罪を償うために永遠から打ち立てられた私たちの主の御業を際立たせるのは、絶対的な無償性です。聖霊の「賜物」もまた無償であり、「恩寵」は無償であり、gratis data 無償で与えられるものです。天国で私たちのために用意されている幸いなる永遠も無償であり、教会が秘跡を通してもたらす聖化も無償であり、ミサの聖なる犠牲も無償です。

しかし、「恩寵」(gratia)、すなわち、天主から私たちにもたらされる絶対的な無償の善が、素晴らしい愛徳の絆で全能とあわれみを結びつける天主の御言葉だとすれば、一方、サタンから来るすべてのものには代償があり、無償のものは何一つありません。なぜなら、サタンは、与えるものを何一つ持っておらず、すべては欺瞞と嘘によって盗むからであり、また、サタンは、私たちの現在の、そして永遠の悪を欲してキリストの贖いと汚れなき童貞の謙遜を非常に妬んでいる者たちから来るからです。この童貞を、至聖なる三位一体が、至高の天主のご聖櫃にふさわしいものとするために、罪の汚れなしに受胎するという特権をもって無償で飾り給うたからです。

死の商人であるサタン、永遠の詐欺師であるサタンは、自分のものでないものを詐欺によって売って、私たちの不滅の霊魂を詐欺によって買い取り、それを無という、はかなくて嘘の偽商品と交換するのです。私たちが目にする敵の陣営に君臨しているものは、欺瞞、見せかけ、そして嘘です。それは、サタンが、そのように認識されてほしいと思っている嘘であり、それにもかかわらず、承認され、受け入れられてほしいと思っている嘘です。なぜなら、天主の御業は真理の御業であり、絶対の真理である天主から来るものであるのに対し、悪魔の業は常に架空の話だからです。サタンは、今日の世界、つまり新秩序の奴隷となったグローバリズム社会という巨大な仮想現実(バーチャル・リアリティー)の演出家であり、そこでは見せかけと偽物が敵対者【悪魔】の行動の特徴なのです。

「何て美しい子なんでしょう。まるでお人形のようです」という言葉をよく耳にします。「何て美しい景色なんでしょう。まるで絵葉書のようです」。このように、素朴によく使われる普通の表現には、敵【悪魔】の業の詐欺的な母体が示されています。この敵は被造物であるため、無から何も創造することができず、私たち人間を欺くために創造主をまねることに頼るしかないのです。この世の君は、人工的で偽りのモデルを私たちに提供しますが、そのモデルは、天主の御業のように無限の愛徳によって動かされるものではなく、むしろ天主の御稜威(みいつ)と被造物に対する激しい憎悪によって動かされるものです。代理母出産、遺伝子操作、バイオエンジニアリング、トランスヒューマニズム、性別移行という品位のない切断、同性婚というパロディー、中絶や安楽死によって生と死を決めることができるという錯乱――これらはすべて嘘つき、見せかける者、「天主の猿まねをする者」(simia Dei)の嘘と詐欺なのです。

同じことが、神聖な囲いの中でも起こります。異端者や背教者は、常に完全な天主の啓示を自分たちの偽物で置き換えることを主張してきました。実際、彼らは自らを、偽牧者、偽預言者、反キリストという、自分たちの正体とは違うものとして提示してきました。反キリスト自身は、キリストの息吹によって滅ぼされる前の終末の時代に君臨しますが、真のキリストと見せかける者、詐欺の模倣者です。反キリストの預言者もまた偽者であり、黙示録の中で反キリストの協力者、人類教(Religion of Humanity)の長、環境保護主義(ecologism)やメーソンのヒューマニズムの宣教者として提示されている者です。

キリストの花嫁が置かれている悲惨な状況を見ると、嘘と偽りを生きる理由とする偽りの牧者や傭い人たちが、悪性腫瘍のように教会に埋め込まれ、世俗界の仲間たちと同じように、平和と兄弟愛の推進者、弱者や貧者、被差別者の擁護者として自らを提示していますが、実際には、権力者たちのしもべであり、暴君たちの共犯者であり、敵に対する冷酷な分裂の推進者なのです。その敵とは、良きキリスト教徒ですが、何よりも、天主、イエズス・キリスト、童貞聖マリア、聖なる教会なのです。彼らの行動はすべて偽りです。「シノダリティーに関するシノドス」も偽りです。真のシノドスの見かけの下に信仰に不純物を混ぜ込みます。天主の民の話し合いとされるものも偽りです。欺瞞によって操縦されています。女性の尊厳に関してなされた彼らの主張も偽りです。カトリック司祭職を弱体化させるために使われているものです。罪人に対する彼らの愛徳も偽りです。彼らは罪人を戒めず、むしろ罪に固め、罪人の霊魂を失わせるのです。彼らの妄想を引き起こさせる「霊」も偽りです。彼らの誤謬を正当化する「驚きの神」(god of surprises[2014], god of surprises[2017])も偽りです。彼らの「聖霊降臨」も偽りです。慰め主の御働きと矛盾しており、彼らの「教会」も偽りです。真のキリストの教会を日食で覆っています。偽りであり、つまずきを与えるものであり、犯罪的であるのは、秘跡のパロディーが打ち立てられたことです。そのパロディでは、実験的な血清がmRNA技術によってヒトゲノムを改変するのです、しかし、ベルゴリオはそれを躊躇なく、冒涜的に「愛の行為」と「すべての人のための希望の光」と定義しました。母なる大地を偶像崇拝し、天主が創造された自然に反する地球工学の操作を承認する「アマゾンの教会」が見せる被造物を敬うこともまた偽りです。

Veni, Sancte Spiritus, reple tuorum corda fidelium: et tui amoris in eis ignem accende. 聖霊降臨の日の神聖なる典礼は、聖霊への賛歌であり、まさに御父と御子から発出する天主の愛に対する教会の愛の歌です。ミサの昇階誦では、この呼び求める力を強調するために、私たちはひざまずいて、次の言葉を発します。「聖霊来り給え、信者の心に満ち給え。主の愛熱の火を彼らに燃えしめ給え」。その火は、私たちの心を信仰で照らし、私たちの心を愛徳で温めるものです。

真理の霊である聖霊は、沈黙のうちに行動されます。私たちの心の沈黙は、助言と霊感を受けさせていただきます。ここ教会における回想の沈黙の中では、尊厳ある落ち着きをもった神聖なる典礼が、物や人を祝福し聖別するために役務者によって呼び求められる慰め主の御行いの前に頭を下げます。この世の多くの霊魂の沈黙は、敵【悪魔】の軍勢の地獄の叫び声に抑圧されて、声がないように見えながらも、天主の御旨を実行しているのです。そして、聖霊の最も驚くべき奇跡が行われるのは、沈黙の中においてなのです。聖霊は、天主の壮大さをもって私たちに賜物を授けてくださいますが、その賜物は、超自然の恩寵が無償であるのと同様に、無償のものなのです。

dulcis hospes animæ(霊魂の甘美なる客)、素晴らしい聖霊降臨の続誦の言葉をもって、慰め主に懇願しましょう。それは、日々の義務に直面して努力する中で、慰め主が私たちにとって本当に憩いとなり、この反抗的な世界という厳しい砂漠の中で元気を回復させるものとなり、私たちが地上で拷問を受ける花嫁を見て流す涙の中で慰めとなっていただくためです。慰め主があらゆる罪の汚れを洗い流し、多くの霊魂の渇きを恩寵で満たし、終わりのないように思えるこの「教会の受難」(passio Ecclesiæ)のために嘆く私たちの心の傷を癒やしてくださいますように。罪人の心のかたくなさが天主の御旨に屈し、牧者の使徒職が愛徳の炎によって養われ、見かけ上の悪の凱旋の前にくじける多くの人々の信仰が支えられますように。

聖霊来り給え。御父が創造し給い、御子が贖い給い、御身が聖なる教会によって聖化し給うた地、この地の面を新たにし給え。アーメン。

+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ

Dominica Pentecostes
2023年5月28日
聖霊降臨の主日

英語版 Abp. Viganò on Pentecost: Invoke the Spirit of Truth to Overcome Demonic Counterfeits in Church and State - Catholic Family News

イタリア語版 Pentecoste, mons. Viganò. Santo Spirito, Libera la Chiesa dalla Falsità che la Opprime.



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