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【参考情報】陳枢機卿、司教シノドスについて語る その2 ------ 現在の危険は、民主化の行き過ぎです。

2022年10月11日 | カトリック・ニュースなど

【参考情報】陳枢機卿、司教シノドスについて語る その2

------ 現在の危険は、民主化の行き過ぎです。

CARDINAL ZEN SPEAKS ABOUT THE SYNOD OF BISHOPS, 2

【解説:以下は、アジアにいる90歳の老枢機卿が、「シノドス性」のシノドスの危険性について警告を出していることの参考資料としてご紹介します。
イエズス・キリストは、公生活の最初から、特別に十二人を選んで使徒としました。つまり、教会の信者の間には、命令するものと従うもの、教える者と教えを受ける者という注目すべき区別があります。イエズス・キリスト御自身が、最初から教会内のこの区別を定められました。教会の、教えにたずさわる部分を教導教会(教える教会 Ecclesia docens)と呼びます。教会の、教えを受ける部分を聴従教会(聴く教会 Ecclesia discens)と呼びます。ちょうど、人間の体において、頭は他の部分と異なりますが、すべてが一つにまとまって唯一の体を構成しているように、教導教会と聴従教会とは、唯一の教会の二つの異った部分を構成しています。「天主は、教会に、ある人々を、第一に使徒を、第二に預言者を、第三に教師を置き、次に奇跡を行う人、次に病気を治す賜物を受けた人、奉仕者、上司、異語を語る人を置かれた。みなが使徒か?」(コリント前12章28~29節)キリストの教会は、キリストの神秘体です。キリストの教会の目に見えない頭(かしら)はイエズス・キリストであり、目に見えるかしらはキリストの代理者としてのローマ教皇です。キリストの教会の主権はイエズス・キリストにのみあり、キリストからのみに由来します。
しかし、第二バチカン公会議以後、教会は「神の民」であるとされました。ちょうど逆さまにしたピラミッドのように洗礼を受けた人々が頂点に立って、教皇が下にあるとされます。(Francis, Ceremony Commemorating the 50th Anniversary of the Institution of the Synod of Bishops, AAS 107 (2015) 1139, 1141-1142.)「神の民」「司教団体性」「シノドス性(シノダリティー)」の三つのキーワードは、主権が「神の民」にある民主主義を主張しています。「シノドス性」とは、つい最近作られた言葉であり、教会の”本質"では決してありません。「シノドス性」とは、むしろ、キリストの教会の主権をイエズス・キリストから奪い取ろうとする革命の合言葉です。】

Photo Credit

導入:パブロ・トロラーノ神父(Fr. Pablo Trollano IVE)

1回目の講話で、陳枢機卿は、国際神学委員会の文書「教会の生命と使命におけるシノドス性(シノダリティー)」(Synodality in the Life and Mission of the Church)について話しました。

この2回目の講話では、第二バチカン公会議に積極的に参加したにもかかわらず、自分たちの立場が十分に受け入れられていないと感じた一部の神学者たちが反抗して、自分たちなりの公会議の読み取り方の公表に着手し、教会を広範囲にわたって混乱させたことについて話します。

その例として挙げられるのは、いずれも説得力があり、かつ否定的なものですが、「オランダ・カテキズム」とオランダの教会、また召命と信者が急激に減少し今日まで年を追って続いていることです。それは、シノドス性を濫用したり誤って解釈したりした結果であって、統治すべき人々が統治しようとせず、統治する必要のない人々が立ち上がって支配したからです。完全に民主的な教会になってしまうと、イエズス・キリストによって創立された教会ではなくなってしまうのです。それにもかかわらず、今日では、「聖職者主義」こそが、教会全体に影響を与えるシノドス性に対して主な障害物となっている、と言われています。しかし、この診断は正しいのでしょうか。事実が示しているところによれば、そうではなく、今日の教会の主な問題は、聖伝への忠実さが欠けていることと、民主化が行き過ぎていることです。実際、この世で信者を聖化し、この世を聖化するという召命の核心を忘れさせ、信者を教会の指導的立場に押し込むことほど、ひどい聖職者主義はありません。

もう一つの否定的な例は、現在のドイツの教会と「シノドスの道」であり、これはすでに非常に深刻な結果を招いています。ドイツの「シノドスの道」は、完全に世俗化された考え方が結実したものであり、そこには、聖霊の現存は見られません。また、これらすべての誤った理解は、ある意味で、シノドス性に関するシノドスのために聖座から出された「討議要項」(Instrumentum Laboris)の、あまりにも極端な表現によって引き起こされ、推し進められてきたのです。神学校での司祭の養成教育のため、教会内での各自の召命と役割への忠実さのため、信者の積極的な参加のため、そして牧者が群れを治めて導くために、祈ることが必要です。

***陳枢機卿の話の書き起こし***

親愛なる友人の皆さん、前回の講話では、「シノドス性」(synodality)をテーマとする現在のシノドスを紹介し、また非常に重要な文書(「教会におけるシノドス性」)を紹介しました。ローマ教皇庁の準備文書は、その冒頭でそれを引用しており、このことは、それが非常に重要であることを示しています。この文書は、「シノドス性」とは何かを説明しています。中国語訳では「共議同行」、英語では「synodality」です。「シノドス性」は抽象名詞で、(抽象的な)精神を意味しますから、シノドス性の精神です。ただ、精神的(抽象的)なものは、把握するのが難しいものです。

【注:ギリシア語のシノドス(synodos)は現代では「教会会議」という意味で使われている。この単語の語源は、syn(同じ)と hodos(道)とから由来している。最近作られた新しい単語である「シノドス性(Synodality)」という語は「共に同じ道を歩むこと」を意味するとされる。しかし正確な定義は誰も知らない。同じ道を共に歩むことから「共歩性」と訳す人もいる。中国語では、シノドス性(Synodality)は「共議同行」と訳された。ちなみに中国語でSynodは通常「主教會議」と訳される。】

シノドス性には一つの様式が必要で、その形態は教会の歴史の中に見ることができます。この点では、(エルザレムの)第1回公会議が模範となるものです。公会議があり、地域的な司教会議もあり、司教と司祭のシノドスもあります。その優れた例が、前回も触れましたが、トリエント公会議です。この公会議は、非常に危機的な時代に行われたもので、教会は、刷新を大いに必要としていました。この公会議は大変重要なもので、長年にわたって続き、第二バチカン公会議よりも長かったのです。なぜなら、トリエント公会議は3代の教皇にわたって続きましたが、第二バチカン公会議は2代の教皇だったのですから。

第二バチカン公会議の主要テーマは「教会」でしたから、「シノドス性」という概念に関連して、第二バチカン公会議は非常に明確に語りました。すでに「教会憲章」(Lumen Gentium)の第1章で、教会とは何かということが示されています。教会とは天主の現存であり、――男と女がいるだけではなく――天主の現存なのです。第2章は「天主の民」について述べています。天主は、全人類が天主に倣い天主に従順である一つの民となることを望んでおられます。以前は、人々は、教会とは司教と聖堂だけだと思っていたものでしたが、そうではなく、「天主の民」でなければなりません。「教会憲章」の第3章になって初めて、司教のことが語られ始めるのです。ですから、第二バチカン公会議は、上から下へと、下から上へという二つのレベルに区別して、教会を導くのは聖霊である、と言っています。上から下へというのは、教皇、司教、そしてその両者を補佐する司祭という聖なる品級を持つ位階階級によるもので、その下には司祭的、預言的役務を持つすべての信者がいますから、全員が積極的に参加しなければならず、これは非常に明確なものなのです。

今日も話を続けましょう。真理は非常に貴重なものですが、人間は極端になりがちで、時には左に行き過ぎ、時には右に行き過ぎますから、気をつけて、中庸を保たなければなりません。第二バチカン公会議は、教皇ヨハネ二十三世と教皇パウロ六世によって招集されました。当初は希望に満ちていて、非常に困難なプロセスでしたが、成功裏に終了しました。教皇ヨハネ・パウロ一世の名前は非常に興味深いもので、ヨハネとパウロのダブルネームであり、彼はヨハネ二十三世とパウロ六世の路線を踏襲したいと表明しましたが、残念ながら、その後すぐに亡くなっています。教皇ヨハネ・パウロ二世は、こう述べました。「私も、この名前、ヨハネ・パウロ二世を使います。私も、彼らに倣うつもりです。私には私自身の道はなく、公会議が私の道です」。ですから、教会には、この非常に正確な位置づけが与えられました。

しかし、教会の他の人々の場合は必ずしもそうではありません。神学者たちの中には、公会議に貢献したにもかかわらず、公会議が終わると、自分たちの考えが十分に受け入れられていないと感じ、自分の道を歩む人もいました。具体的な例を挙げなければならないのが残念です。最もよく知られている例として、オランダの経験と、今日のドイツの教会の経験についてお話ししましょう。オランダのカトリック教会の経験を見てみましょう。第二バチカン公会議では、オランダから著名な神学者たちが司教に同行して公会議に参加し、重要な役割を果たしました。しかし、公会議は神学者たちが決めるのではなく、司教たちが、神学者たちの意見を聞き、全員で細かく議論した後、絶対多数で最終文書を承認するのです。したがって、公会議に関しては、神学者たちの言うことに注意を払う必要はなく、第二バチカン公会議の教えを知るためには、公会議の文書を読むことが必要なのです。

さて、その神学者たちは、公会議に出席した後、自分たちの言葉が十分に受け入れられていないと感じ、自分たちの立場をひたすら広めようとしました。オランダは、1966年の公会議が閉会した後すぐに、「オランダ・カテキズム」を発表しました。それは当時ベストセラーになりましたが、その理由はそれが非正統的なもので、多くの部分で新しい神学を提案していたからです。もちろん、聖座は非常に懸念を覚え、当時、教皇パウロ六世は改正が必要だと考えていましたが、彼らは改正しませんでした。この神学者たちの後ろ盾を得たオランダの全国司牧評議会は非常に力があり、1970年に司教たちを招いて会議を開きました。司教たちは、その会議が自分たちに挑戦するものであることをすでに知っていました。彼らは、教会は民主的であるべきだ、みんなで教会を統治すべきだ、と言いました。その前に、司教たちは、教会は司教によって統治されなければならないと判断し、抵抗しました。誰が予想したでしょうか。司教たちが会議に出席したとき、神学者たちや信者の群衆を前にして、ついにこう言ったのです。「では、一緒に統治しましょう!」。ですから、司教たちは降伏したのです。これは大きな失敗でした。

その年から、オランダの教会は衰退し始めたと言ってもいいでしょう。オランダでは、伝統的にプロテスタント信者の方がカトリック信者より多かったのですが、1960年代、1970年代、つまり公会議の時期には、オランダではカトリック信者の方がプロテスタント信者より多くなっていたのです。当時、オランダの人口の4割を占めていたカトリック信者は、そのとき以降、次第に減少していきました。教皇ヨハネ・パウロ二世はこのことを懸念し、1979年にオランダに赴いて、司教協議会を招集し、その結果は思わしくなかったものの、できる限りのことをしました。1985年に再びオランダを訪問したいと望み、多くの反対を受けましたが、最終的には行きました。とにかく、教皇の訪問前にオランダの教会で大論争が起こり、非常に大きな集会が開かれ、その日から「5月8日運動」と呼ばれる教皇のオランダ訪問に反対する運動が起こったほどでした。2014年、教皇フランシスコもオランダを訪問する意向がありましたが、地元の司教たちは、教皇に行かないように進言し、自分たちは教皇を迎えたくないのではなく、教皇の訪問についてオランダ人が関心を示さないことを懸念している、と言いました。何と悲しいことでしょうか。

公会議の当時、オランダのカトリック信者は40%でしたが、2003年には30%に下がり、2015年には再び下がって22%になり、その後も毎年減少しています。登録されたカトリック信者と、実際に教会に行っている信者は別です。例えば2006年、信者の数は人口の約20%でしたが、ミサに行くのはわずか1.2%でした。このため、多くの聖堂が閉鎖され、あるものはレストランに、あるものはショッピングモールになりました。本当に悲しいことです。しかし、一番大事なことは、これらの信者の信仰はどうなっているのか、問うてみることです。統計の数字がありますが、2015年の統計によると、天国を信じている信者はわずか13%、人格的な天主を信じる人は17%、イエズスが天主の御子、あるいは天主から遣わされたと信じる人は50%以下、半分以下ですから、信仰が弱まっているのです。もちろん、たまには、立ち上がって、この流れに乗らない司教もいますが、それはごく少数です。ですから、現在、オランダのカトリック教会はほとんど消滅し、聖堂は平日には開いていませんし、聖堂の数はすでに少なくなっていて、開いておらず、開いているのは主日だけです。このことは、教会が天主のご計画に従わないなら、失敗する運命にあることを明確に反映しています。これは、してはいけないことの見本です。私が望むのは、中庸を守り、一方では参加する精神、シノダリティー的に共に歩むことですが、同時に、位階階級の統治を受け入れることも必要です。これは、私たちが注意を払わなければならない経験です。

これは一例です。さて、なぜ私はこのような否定的な状況を問題にしたいのでしょうか。それは、ローマ教皇庁から出された文書について、このシノドス実施のための方向性から、ある種の危険が生じる可能性があると思うからです、なぜなら、いくつかの表現が非常に極端であることが私には分かるからです。この文書は、「シノドス性」は教会の本質であり、これまでもそうだった、と言っています。今日、教会内には、シノドス性に反対する障害物が発生しており、教会全体が、自分に非常に深く影響を与えるこの問題に対処しなければならない、という意見がありますが、影響を与えるものとは何でしょうか。それは聖職者主義です。教皇フランシスコは何度も聖職者主義に言及し、過去のバラストのような聖職者主義の文化から脱却しなければならないと述べています。

過去には、教会に聖職者主義があったかもしれないことは私たちも認めます。実際、権威を行使する者が権威を濫用する傾向があるのは事実です。しかし、現在、教会内にそのような危険性があるのでしょうか。そうではなさそうです。現在の危険は、民主化の行き過ぎです。

私たちの周りを見ても、聖なる品級に、本当に聖職者主義があるのでしょうか。今日の信者は、聖職者主義を許さないと私は思います。今はみんな多くの情報を得ており、教会に関する知識も増えています。そのため、聖職者主義が強調されすぎていて、性的虐待は聖職者主義が原因だとさえ言われてさえいます。性的虐待は権力者が部下に対して行うものですが、この状況は教会では特に深刻ではなく、むしろ家庭の中に多く存在し、権力者が権力を濫用する、上司が部下を虐待する、というものです。ですから、教会の最大の問題は今、聖職者主義だ、と言うこと、これは必ずしも現実ではありません。

オランダの例は、現在の状況が非常に危険であることを反映しており、ドイツでも同じ状況が生じています。近年、彼らは、いわゆる「シノドスの道」を推進し始めましたが、この「シノドスの道」は絶対的民主主義を望んでおり、信者は、司教と同じ権限、教会の事案について共に投票することを要求しています。彼らが投票した問題は、どれも非常に過激なものでした。

例えば、女性が司祭職に就くことができること――教皇ヨハネ・パウロ二世はすでにそれに反対しており、教会はこの問題を何度も議論していますが、いつも意見が対立しています。ですから、これまで議論されていなかったわけではありません。第二に、彼らは、司教の選出において、信者にもっと重要が置かれるべきだ、つまり、司教は信者によって選出されるべきだと考えていますが、これも正しくなく、司教は教皇によって任命されるのです。

「同性愛の結合は、教会によって祝福されるべきである。同性愛の行為は、罪とみなされるべきではない。教会は道徳を見直すべきである。また、アマゾン・シノドスが助言したように、司祭が足りない場合は、長年結婚して徳を積んだ者も司祭になれる。教会内で、教会の規範に従わない結婚を差別してはならない。同性愛に賛成する者も同じである。教会は、非正規の結婚の状況あるいは間違った宣言のために、彼らを解雇したり、教会で雇用しなかったりしてはならない」。

何というひどい発言でしょうか。また、教皇もそれを知っており、教皇フランシスコは「議論されるのは良いことだ」と言っていますが、私にはドイツのシノドスの道に聖霊の現存が見えませんし、完全にこの世的な考え方のように思えます。

しかし、司教会議では同じ言葉、「シノドス性」が使われました。「シノドス性」自体は非常に良い概念ですが、それを濫用することはできます。今、聖座でこのシノドスを実施している人々は、教会の聖伝を尊重するつもりでしょうか、それとも反乱を起こすつもりでしょうか。極端になった反聖職者主義は非常に危険です。なぜなら、統治すべき人々がそれを行わなければ、統治すべきでない人々が立ち上がって統治するからです。今、聖座は私たちに「シノドス的に」(synodically)歩むことを呼びかけていますが、確かにそれは非常に正しいことであり、教会は最初から「シノドス的な」教会で、最近のエキュメニカル公会議まで、すべてが「シノドス的」でした。しかし、絶対的に民主化すれば、教会はカトリック教会でなくなってしまうのです。

このように表現するのが正しいかどうかは分かりません。「カトリック教会は民主的な団体ではありませんが、参加の精神を持っています」。なぜなら、天主の民も司祭であり、また預言者でもありますが、使徒の後継者たちが教会を率いるという別の役務的司祭職があるからです。

このように言うと、冷や水を浴びせるようですが、そういうことではなく、私たちは注意して、このような危険を避けなければなりません。なぜなら、そこから来る影響は否定的であり得るからです。私たち素朴な信者は、そこに何も不適切なことはないと思うかもしれませんが、例えば反聖職者主義についてのこれらのコメントについて、私は少し懸念しています。聖職者主義が間違っているのであれば、反聖職者主義も間違っています。聖職者主義は司祭職が統率していますが、反聖職者主義とは司祭職がなく、私たち全員が平等だということですから、これは正しくありません。教会の中には、使徒の後継者である聖なる位階階級があり、聖霊が彼らに品級を与え、信者を率いるように求めています。信者は参加し、熱意をもって意見を述べるべきです。

教会で何が起こっているかを知ることは非常に重要です。多くの信者がそのことを知らない可能性があります。例えば、ドイツで何が起こっているのか、です。信者が知っておくべきことはたくさんあります。私たちは謙虚でなければなりませんし、それぞれが自分の責任を負わなければなりません。聖職者は権威主義的であってはなりませんが、信者も反聖職者的であってはなりません。私たちは、天主が与えてくださった規則に従わなければならず、天主が与えてくださった精神を推進しなければなりません。それは参加の精神であり、誰もが積極的に参加し、目的として使徒職を持ちつつ、参加し、集まらなければなりません。困難の真っただ中で、宣教が実を結び、毎年多くの人が洗礼を受けています。

今日の話題は、前回申し上げたことに付け加えると、「シノドス性」は非常に重要で、教会の本質であることは間違いありませんが、どのように行われているのでしょうか。率いる指導者がいて、その人に従う人々が集団の中で組織を持っている、それは無政府主義ではありません。教会を統治するためにイエズスがお選びになった人々が支配しなければ、混乱と混沌が生じ、支配すべきでない人々が立ち上がって支配するようになるでしょう。

そのためには、神学校で私たちの司祭が良い養成教育を受けられるように、司祭や司教が自分の利益を求めるのではなく、天主のみ旨を求め、皆が共に歩んでいけるように、天主にお願いしなければなりません。そのとき初めて、私たちは存続するだけでなく、さらに多くの人々が私たちとともに歩み、すべての人がイエズスの教えを知り、すべての人が教会の秘跡を受けることができるようになるのです。そうすれば、困難な世界の真っただ中で、私たちは正しい方向に進み、永遠の幸福の道を歩むことができるでしょう。



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