Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

私たちが愛するのは、天主の与える喜びではなく、喜びを与える天主御自身です。天主に反する地上の欲への愛着に打ち勝つには?

2020年09月23日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、2020年9月20日は聖霊降臨後第十六主日です。

「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「聖霊降臨後第十六主日の説教」の動画をご紹介いたします。

今日の主日を聖として良くお過ごしください。

この動画が気に入ったら、お友達にもご紹介くださいね。

天主様の祝福が豊にありますように!

トマス小野田圭志神父

【説教全文】

愛する兄弟姉妹の皆様、今日は2020年9月20日聖霊降臨後第十六主日です。一緒に主日の黙想をいたしましょう。

【人間の創造の目的】

天主は愛である、と使徒聖ヨハネは断言します。天主は、無から私たち人間を創造しました。聖なるカトリック教会は、私たちに人間創造の究極の最高目的を明らかにします。今日の福音で語られる「結婚式」とは、天における婚姻です。つまり、天主と私たちの霊魂との霊的な婚姻のことで、この愛の一致はこの地上で始まり、天国での永遠の聖なる宴会で完成されます。私たちはこの婚宴の式に招待されています。

愛である天主は、私たち全てをこの終わることのない究極の喜びに招いています。天におけるこの婚宴への招きは、地上の結婚式や披露宴への招待のようではありません。この世の結婚式では婚姻の契りを結ぶ夫婦の婚礼に家族や友人が招かれますが、婚姻をするのは一組の夫婦だけです。

しかし、天の婚姻では、新郎はキリスト、教会が花嫁です。私たちは教会の肢体として、教会の一員として、この婚姻は私たちの婚姻でもあります。ですから、婚宴には、いわば夫婦の部屋のように結婚の当事者だけが入ることができ、よそ者は誰も入ることができません。天国では、私たちは天主からますます愛され、しかも、自分がどれほど愛されているかをますますよく知り、愛の天主を愛し返そうとします。

聖パウロは、今日の書簡の中で、私たちにこう願っています。「愛に根ざし、愛に基をおくあなたたちの心に、信仰によってキリストが住まわれるようにと願う。あなたたちは、すべての聖徒とともに、かの奥義の広さと長さと高さと深さとを理解する力を受けるであろう。あなたたちは計り知れないキリストの愛を知り、満ち満ちる天主によって満たされるであろう。」

この天での婚姻に与るために、霊魂はすでにこの地上に生活する時から、一時的な愛ではなく、継続的な愛を忠実に示さなければなりません。

つまり、私たちの日常の単純な生活を、天主への愛のために捧げることです。天主の掟を守ることです。天主の掟とは、法の字面を上っ面だけ行うことではなく、天主を愛すること、善を愛することです。妻が夫を愛し夫を喜ばせようと何かをするように、霊魂はイエズス・キリストを愛し、主を喜ばせようとします。

天国での至福の喜びは、天主を享受すること、天主を完全に所有して楽しむことですから、この地上のありとあらゆる喜びを凌駕しています。ですから千万の言葉を尽くしても、誰にもそれをイメージすることさえもできません。

地方の農家出身の青年が、いつも誠実に仕事をして、たたき上げで内閣総理大臣になって、国民全てから祝福を受けた喜びも、ある一般の慎み深い女性の素晴らしさゆえに皇太子から熱烈の求婚を受けて結婚し、皇室に入り世界中の人々から祝福を受けた喜びも、或るお母さんが我を忘れて身を粉にして子供たちの世話をして、立派に育った多くの子供たちから、年をとっても「お母さん、お母さん」と慕われている喜びも、天の喜びにと比べると、燦然と輝く太陽と小さなマッチの火のようです。この地上の最高の最大のすべての幸せを合わせて受けても、天の幸福と比べると空しく、つまらなく、空虚に思える程です。

聖パウロはこう書いています。「かきしるされているとおり、「目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心にまだ思い浮ばず、天主がご自分を愛する人々のために準備された」ことを、私たちは告げるのである。」(コリント前2:9)

私たちの想像を、その重要さ、その偉大さ、その崇高さにおいて何百万倍も超える幸福が準備されているのです。天主の愛は、思いも浮かばないようなすべての祝福で私たちを満たそうしておられます。

【天主への愛と被造物への愛】

イエズス・キリストは、全てを超える愛を私たちに要求します。私たちが創造主を被造物より多く愛することにこそ、私たちの真の幸せがあるからです。ですから主は「嫉妬深い愛」で私たちを愛すると言われます。

何故なら、私たちは(アダムとエワに由来する)原罪の傷を負っているので、私たちは被造物を愛するあまり、被造物に目がくらんで、被造物への愛の奴隷となってしまう危険があるからです。弱い私たちは警戒していないと、しばしば、いえほとんど常に、被造物への愛が、天主への愛に勝り、天主よりも被造物を選んでしまうからです。

被造物への愛着が、天主への愛の玉座に座り込み、被造物を熱烈に楽しむあまり、天主への愛が冷え切ってしまう危険があります。だから愛の使徒である聖ヨハネもこう言います。

「世と、世にあるものを愛するな。世を愛するなら、おん父の愛はその人のうちにはない。世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、生活のおごりなどはすべて、おん父から出るのではなく、世から出る。世と世の欲とはすぎ去るが、しかし、天主のみ旨をおこなう者は永遠にとどまる。」(1ヨハネ2章)

つい最近、フランシスコ教皇が食と性の喜びについて述べたインターネット・ニュースについて質問を受けましたので、一言、申し添えます。

天主は、私たち人間が生命を容易に維持することができるように配慮されました。天主は本能といわれるものを下さり、これは人間以外の動物たちも持っています。

  • 生命維持のために食べる楽しみ

私たちが個人として、食べ物から栄養を摂って生存することが容易になるように、天主は食べることにある種の喜びを付けてくださいました。食べるときに美味しいとかいい匂いがするなどは、味もそっけもない段ボールのような食感よりも食べることを容易にさせてくれます。しかし、食べる楽しみは、あくまでも手段であって目的ではありません。目的は、私たちが生命を維持すること、健康です。

ところで味わう楽しみが目的となってしまうと、栄養を摂るための行為(つまり食べたり飲んだりすること)は手段となりさがってしまいます。もっと楽しむためには、栄養を摂ることは不必要になり、食べたものを吐き出してさえも、味わうために食べ続ける、飲み続ける、というような倒錯した行為がなされてしまいます。

これは罪です。暴飲暴食、泥酔などは、味わう楽しみを追求し続けた結果であって、手段を目的と取り違えてしまったためにおきることです。わかっちゃいるけどやめられない。美味しいお菓子をパクパク、美味しいお酒をぐびぐび。テレビではいつも食べ物の話をしています。美食に走るのは、原罪の傷を負っている私たちには、ありがちなことです。

もしも、天主が与えた「喜び」なのだから全ては無条件に良いとすると、麻薬も良いことになります。そうではありません。私たちの究極の目的は天主です。天主を知り、天主を愛し、天主に仕えることです。被造物はそのための手段です。

もしも天主の御旨を果たすために、必要な限り、必要なだけ、必要なやり方で被造物を使うのであれば、被造物は善となります。しかし、私たちをして天主に反するようにさせる限り、被造物はなんであれ、悪となります。このことは、イエズス会を創立したロヨラの聖イグナチオの「霊操」における「原理と基礎」です。これは強調してしすぎることはありません。

  • 子孫を増やす喜び

個人の生命維持と同様のことが、種の保存という観点でも言えます。私たちが人類という「種」として、生存し続けるのが容易となるために、天主は子孫の出産ということにも、ある種の喜びを付けてくださいました。

子孫を残すということには喜びが付随していますが、性の喜びは手段であって目的ではありません。目的は子孫の永続です。しかし、もしも喜びが目的になってしまうと、その快楽を追求するという目的のために、ありとあらゆる淫行が目的追求の手段として犯される危険があります。口に出して言うのもいとわしい罪です。

ポルノ、自慰行為、避妊、結婚していない男女の邪淫の罪、婚姻の外の姦淫、ソドマやゴモラで行われていたような自然に反する同性愛の罪、などなどです。原罪の傷を負っている人類は、近くで情欲の火花が散ると、ちょうど蓋を取ったアルコール・ランプのように、あっという間に燃え上がる危険があります。

以上のような本能的な喜びは、敢えて言うなら、カトリック的喜びでも、キリスト教的喜びでも、なく、単純に本能的な喜びです。"It is neither Catholic, nor Christian, nor anything else. It is simply instinct." 化学反応的だといってもよいかもしれません。

しかし、天主を愛するために、本能に打ち勝って、情欲に打ち勝って、理性と天主の掟に踏みとどまるとき、十字架を愛するとき、超自然の喜びに満たされます。これこそが、天主からの喜びです。THIS is divine. かといって、私たちは、天主の与える喜びを愛しているのではありません。

私たちが愛するのは、天主の喜びではなく、喜びの天主です。喜びを与える天主御自身です。何故なら天主こそが私たちの究極の目的だからです。

これこそが、ローマ・カトリック教会が喜びについて過去に公然と教えていたことです。これは「あまりにも過度な道徳規範」overzealous moralityなどではありません。

【安息日を聖とするとは】

今日の福音に話を戻しましょう。天主への愛こそが掟の中核ですが、今日の福音ではファリザイ人らは、注意深くイエズスをうかがっていました。彼らは、イエズスが安息日の掟を守るか否か、取り調べをするように見張っていました。

天主は安息日を祝福しましたが、彼らは安息日に善を行うことを禁止していました。しかし、善を行なえない日があるなら、それは呪われた日です。

ところで主の御前に水腫にかかった人がいたので、イエズスは尋ねます。「安息日に人を治すことは、許されているか、どうか?」彼らは、答えることができませんでした。沈黙したままです。

イエズスは憐みに満ちて、その病人の手をとって、治してお帰しになりました。ファリザイ人が不快に思おうが、イエズスは癒しを必要としていたこの病人が治癒を受ける善をお考えになりました。ファリザイ人たちは黙ったままでした。

そこでイエズスはこういいます。「自分の子か、牛かが井戸に落ちたとき、安息日だからといってすぐそれを引き上げないものが、あなたたちの中にあるのか」と。つまり「もしも安息日に憐れむことが禁止されているなら、安息日に自分の子供が危険に直面しても無視せよ、しかし、あなたたちは、自分の子供どころか、牛でさえ助けようとするではないか?お金儲けのために動物を助けるではないか?動物よりも価値のある人間を助けることはどれほど必要なことか!」

「水腫」とは、体にたまる水で苦しむ病気ですが、水腫にかかった人と井戸の水に落ちた動物とが、共に水で苦しんでいるだけではありません。

尊者ベーダは神秘的意味として肉体の喜びの流れが体にあふれて、快楽におぼれ、渇いている人を意味していると言います。

聖アウグスティヌスも、水腫にかかって、体に水が溜まるればたまるほど病人は渇きを覚えるので、この世の富や快楽を追求する人がそれを求めれば求める程、楽しめば楽しむほど、もっともっと、果てしなく更に富と快楽を求めるのに似ていると言います。

尊者ベーダによると、牛はユダヤ人を意味しています。何故なら、旧約の律法のくび木を担って、富の欲望の水の中に落ち込んでいたからです。

しかし、イエズス・キリストは「世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、生活のおごりなどはすべて」に溺れている人々を全て助け出すことができます。私たちの主の言葉に、ファリザイ人たちは何も返答ができませんでした。

【謙遜とは】

天主への愛に反する地上の欲への愛着を打ち勝つために、特に、生活のおごり・傲慢を癒すために、私たちの主は、謙遜についてすぐに語ります。名誉や権力を得ようと忙しく立ち回る人は、不名誉を得るだろう、と。

慎み深くあれ、高い地位ではなく、低い地位を求めよ、上座の代わりに下座を選べ、謙遜は賞賛されるだろう、と。世の終わりに、永遠に続く天国での婚姻の席で、私たちの主は謙遜なものを高めるからです。その時、私たちの主は、謙遜な者に「友よ!」と呼びかけてこう言うことでしょう。「友よ、どうぞもっと上に進んでください」と。

この世においてでさえも、イエズス・キリストは傲慢な者を軽蔑し、謙遜な者にしばしば頻繁に聖霊の賜物を授けます。「すべて自ら高ぶる人は下げられ、自らへり下る人は上げられる」からです。

本当の謙遜とは、天主に対して真理の態度だからです。つまり、私たちは被造物であり、全ては天主の愛によって受けたのであり、私たちは無にすぎないという真理に基づくからです。

謙遜とは、まず人間が天主に従う、真理に従うということを意味します。徳としての謙遜は、まず、人間の天主に対する服従、そして天主に服従するがゆえに、隣人にも従うのです。

聖アウグスチヌスによれば謙遜な者とは「心の貧しいもの」で、自分に希望する・自分を信頼するというよりも主に希望・信頼を置き、主を畏れるという聖霊の賜物に通じ、天主に服従します。私たちが天主に信頼して従えば従うほど、天主の御前で私たちは高められます。

過去の聖人たちを見ると、天主に全ての信頼を置いたがゆえに、偉大な業を成し遂げました。その反対に、天主に反対して自分を高めようとすればするほど、人間は卑しいものとされます。先日その祝日を祝った謙遜なクペルティーノの聖ヨゼフは、生きている間、肉体さえも上に挙げらています!

私たちが謙遜であるとき、天主から送られる十字架を喜んで担うことができるようになります。イエズス・キリストが愛した十字架、聖母が悲しみに満ちてその足元にとどまった十字架、アシジの聖フランシスコが聖痕を受ける程に従った十字架です。

【遷善の決心】

私たちが天国での婚姻の席に招かれていることを感謝し、天主の御恵みによりいつも思い出しましょう。

マリア様にお祈りいたしましょう。この地上で謙遜に隠れておられた聖母は、マニフィカトでこう歌います。「我が霊魂は主を崇め奉る。…そは御召使のいやしきをかえりみ給いたればなり。見よ、今よりよろず世に至るまで、人われを幸いなるものと唱えん。」

聖母の御取次で、この世では軽んじられ、虐げられ、侮辱されるのを、甘んじてお捧げすることができますように祈りましょう!天の婚姻にふさわしいものとなることができますように!

「結婚式に招待されるとき、あなたは上席についてはいけない。」



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