Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

私たちは聖母を「象牙の塔」と呼びます。なぜ「象牙」なのでしょうか。

2021年05月19日 | お説教・霊的講話

御昇天の祝日についての短い説教

ドモルネ神父

はじめに

この前の木曜日、私たちは、私たちの主イエズスの御昇天の祝日をお祝いしました。私たちは、希望の徳を、御昇天に関連づけられたものと考えます。イエズスが天国へ昇られたことは、私たちが地上においてイエズスの教えに従うならば、私たちも天国に行けるという保証なのです。

また5月中、私たちは通常毎日、童貞聖マリアの連祷を唱えます。ですから、この二つの要素を合わせて、私たちが童貞聖マリアにお捧げしている「象牙の塔」という称号についてお話ししたいと思います。この称号が私たちに教えるのは、マリアについて、そして希望の徳についてです。

希望の徳

私たちは地上で、霊的な戦いの状態にあります。私たちは、自分自身の情欲、すなわち快楽を求める無秩序で罪深い渇望と戦わなければなりません。私たちは、私たちの永遠の滅びを目指して熱心に活動する悪魔と戦わなければなりません。私たちは、この世、すなわちその教えや言葉、手本によって私たちをつまずかせ、私たちが、永遠の命よりもこの世の物事や快楽に幸せを見いだすようにさせようとするすべての人々と戦わなければなりません。これらの敵は常に活動的です。こういう訳で、地上に永続的な平和はないのです。私たちは常に戦う必要があり、その結果、常に何らかの苦しみを耐え忍ぶ必要があります。

このような状況ですから、私たちは自分の意志を強める必要があります。それは、敵の攻撃に抵抗し、苦難の中にも多少の慰めを得て、永遠の命に目を向け、私たちを助けてくださるという私たちの主イエズス・キリストの御約束に、確信を持ち続けるためです。この特別な強さは、特別な徳、すなわち希望の徳によってもたらされます。

童貞聖マリアの希望

童貞聖マリアの生涯を見てみましょう。聖母が、あらゆる試練やひどい悲しみを、どれほど固く耐え忍ばれたかを見てください。このことは、聖母の希望の徳がどれほど強かったかを明らかにしています。エジプトへの逃避や異教徒の国での亡命生活も、ナザレトでの生活の貧しさも、御子である私たちの主イエズスに対する迫害も、イエズスのご受難も、イエズスの十字架刑も、いずれも聖母を倒れさせたり、絶望させたりすることはできませんでした。聖母は十字架のもとに立っておられました。聖母の強さの秘訣は何だったのでしょうか。その秘訣は、聖母の希望の徳でした。贖いに関する天主の御約束への希望、敵に敗れたように見えても最終的にはキリストが勝利されることの確信、御受難と十字架のいけにえによって罪の赦しが得られたことへの確信、贖いのみわざによって、比べようのない栄光が天主に捧げられたことへの確信でした。

象牙の塔という称号

希望の徳は霊魂を、いかなる試練にも耐え、敵のいかなる攻撃にも抵抗し、あきらめることなく、絶望することなく、苦悩や悲しみに沈むことのないようにするのです。希望の徳は、岩の上に建てられた塔に例えられます。聖母の連祷の中で、私たちは私たちの祝されし母を「塔」と呼びます。これは聖母の英雄的な希望の徳に関する称号です。

私たちは聖母を「象牙の塔」と呼びます。なぜ「象牙」なのでしょうか。なぜなら、象牙は芸術品に使われる高価な素材であり、素晴らしい美しさの象徴だからです。また、象牙は白いため、純粋さの象徴でもあります。また、象牙は非常に硬く(象の牙が象牙であることを思い出してください)、強さの象徴でもあります。また、象牙は腐敗しないものであり、永遠の象徴でもあります。

ですから、私たちが童貞聖マリアが「象牙の塔」であると信仰告白するとき、私たちはマリアが、その希望のゆえに、いかに偉大なお方であったかということを言いたいのです。希望の徳は、聖母がすべての完徳の源である天主の方に完全に向いておられたがゆえに、聖母を美しくしたのです。希望は、マリアをこの世の物事への執着から離れさせ、純粋にしました。希望はマリアを強め、共贖のみわざにおいてマリアが必ず耐え忍べるようにしました。希望はマリアを腐敗することのないものとし、マリアを永遠の命に至らせました。

ウィーンの勝利

1683年、強力なトルコ・イスラムの軍隊が、キリスト教世界を破壊するためにヨーロッパに侵攻しました。【現在の】オーストリアの首都であるウィーン市を取り囲み、包囲戦を開始しました。もしこの都市が制圧されれば、全ヨーロッパがイスラム軍の攻撃の対象となってしまうのです。そこで、全キリスト教徒は、天主の御母に御助けと御保護を求めて、真剣に祈り始めました。教皇イノチェンチオ十一世は、もしトルコ軍に対する勝利が与えられるならば、童貞聖マリアをたたえる特別な祝日を設けることを約束しました。敬虔なポーランド王ソビエスキは、トルコ軍と戦う軍隊を何とか集めました。しかし、その軍隊はトルコの軍隊よりもはるかに人数が少なかったのです。彼の勝利への唯一の希望は、「キリスト信者の助け」なる聖母の御助けにありました。戦いの前に、ソビエスキはミサを捧げさせ、自ら侍者を務めました。その後、トルコ軍との戦いが始まりました。そして、それはキリスト教軍の完全な勝利となったのです。トルコ軍は本当にちりぢりになってしまいました。教皇イノチェンチオ十一世は約束を守り、この信じがたい勝利を記念して、マリアの聖なる御名の祝日を制定しました。

結論

この話から、童貞聖マリアの御助けがあれば不可能なことはないということを学びましょう。逆境においても揺るがず、どんな敵に対しても揺るがず、私たちのカトリック信仰において、いつも揺るがないようにしましょう。私たちは地上の巡礼者です。私たちの故郷は天国であり、私たちが行きたいのは、その天国です。童貞聖マリアは、私たちの象牙の塔です。

私たちが情欲や悪魔やこの世から攻撃を受けるとき、童貞聖マリアのところに逃げ込みましょう。聖母は私たちを成聖の恩寵の状態に保ってくださるでしょう。聖母は、私たちのどんな意向においても、私たちを純粋に保ってくださるでしょう。聖母は、私たちが何事にも打ち負かされないよう、私たちを守ってくださるでしょう。聖母は、私たちが永遠の命に至ることができるよう、この世において私たちを守ってくださるでしょう。象牙の塔なる聖母、われらのために祈り給え。



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5 コメント

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Unknown ()
2021-05-24 15:28:54
あのう。。。。わたし達が聖母マリヤ様を象牙の塔とお呼びするのは、マリヤ様が神様にとって、なまめかしいまでに、官能的なまでに、祝福のうちに、お美しくておられるから、なんじゃないかなって思います。象牙ってそういう材質ですよね。きめが細かくてぬらっとしている。貞潔な女性の首そのもの。なんと言うかそれって神様の目線で。ヨゼフ様も? そのように?思われたのでしょうか、やはり。よくわからないですけど。雅歌に若者が乙女を愛でる箇所がありますよね。7章ですがここに恥ずかしくて引用できないです。わたし達の聖なる童貞は神様に望まれてイエズス様を身篭られたのでしょう? となると次に続く乙女の言葉も活きて来ます。そうなると8章の合唱も煌めきを放っています。「荒れ野から上って来るおとめは誰か、恋人の腕に寄りかかって」。
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Unknown (thomasonoda)
2021-05-24 21:03:37
アヴェ・マリア・インマクラータ!

聖書には、唯一「象牙の塔」という表現があります。雅歌です。「あなたの首は象牙の塔のように美しい。」
マリア様は、キリストの神秘体の首です。
象牙は、ひびが無く、キズも無く、つやつやしています。罪の無いマリア様のようです。

“There is never a crack in the ivory tower
Or a hinge to groan in the house of gold
Or a leaf of the rose in the wind to wither
And she grows young as the world grows old.
A Woman clothed with the sun returning
to clothe the sun when the sun is cold.” ~G.K. Chesterton, excerpt from The Towers of Time*
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Unknown (thomasonoda)
2021-05-24 21:08:24
Mary is the neck of the Church; but she isn’t just any neck, but a neck like ivory.
Mary is a Tower of Ivory because her resolve was as tough as ivory when she stood beneath the cross of Christ when his other apostles and disciples cowered in some dark corner in fear of getting arrested.

http://thecatholictalks.com/articles_post.asp?id=47
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Unknown ()
2021-05-25 02:31:13
トルコイスラム軍との戦いの勝利を記念して聖母のこのような称号を考えるというのは適切な事だと心底思います。「マリア様の首は神様のもの」。以前マリアの首という芝居があって罪深い哀れな女がマリアの首を欲しがるという内容でしたが、わたし達日本人一般的には まだまだ本当には この宗教を解っていないといった気がします。このお説教はせっかくいただいたのチャンス、正しく物を考えたいと思いました。
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Unknown (thomasonoda)
2021-06-03 16:08:09
こんなメールをいただきました。ご紹介いたします。

*****

神父様に頂いたので訳してみました。ブログへの投稿は遠慮いたしました。

“There is never a crack in the ivory tower
「象牙の塔」には 傷がなく、

Or a hinge to groan in the house of gold
「黄金の堂」には きしむ蝶番もない、

Or a leaf of the rose in the wind to wither
風にしおれる葉は「(くすしき)バラの花」になく

And she grows young as the world grows old.
この世界が年老いていく様に
聖母は若々しく成長する。

A Woman clothed with the sun returning
to clothe the sun when the sun is cold.”
「太陽をまとった婦人」は、
「太陽(なるイエズス)」がお寒い時に、「太陽」に衣服をまとわせる。
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