ヴィガノ大司教の聖パウロの回心の祝日の説教「教会にいる現代の『サウロたち』の回心のために祈ろう」
Abp. Viganò on Feast of St. Paul’s Conversion: Pray for the Conversion of Modern-Day “Sauls” in the Church
カルロ・マリア・ヴィガノ大司教 2023年1月28日
VAS ELECTIONIS EST MIHI ISTE
彼は私が選んだ器である
カルロ・マリア・ヴィガノ大司教の
使徒聖パウロの回心の祝日についての説教
Egregie Doctor Paule, mores instrue,
Et nostra tecum pectora in cœlum trahe;
Velata dum meridiem cernat fides,
Et solis instar sola regnet caritas.
傑出せし教師パウロよ、掟を教え、
われらの胸を御身とともに天国へ引き寄せ給え。
おぼろげなる信仰が真昼のごとく鮮明となり、
愛のみが太陽のごとく治めるに至るまで。
【聖パウロの回心の祝日の讃歌】
聖パウロの回心は聖ステファノが勝ち取ったものであり、神聖なる典礼がこの祝日(1月25日)を、最初の殉教者の祝日(12月26日)の数日後(30日後)に置いたのは偶然ではありません。旧約の法に忠実で大司祭たちの意志を忠実に実行したユダヤ人サウロは、目の前でステファノが殉教するのを見ており、おそらくサウロ自身も、自分がすべての正統派ユダヤ人の守る戒律に合った行為を行っていると信じてステファノを殉教者にさせたのでしょう。ドン・ゲランジェ修道院長は、こうコメントしています。「われらの偉大なる王の宮廷を完成させるためには、ユダヤ人の使徒と異邦人の使徒という教会の力強き二本の柱が、まぐさ桶の両側に掲げられるのが正しいことであった。その柱とは、鍵を持つペトロと剣を持つパウロである。こうしてサウロは、厳格なユダヤ教徒でありかつキリスト教徒の迫害者から、異教徒を福音へと勝ち取る者パウロとなるのである」。
今日、キリストの力が敵を倒れさせ、そしてキリストの御あわれみがその敵を立ち上がらせ、信仰の擁護者にして使徒たちのかしらの伴侶とし、彼とともにローマで血を流すことになるのです。O Roma felix, quæ duorum Principum es consecrata glorioso sanguine と、私たちは讃歌「デコーラ・ルクス」(Decora lux)で歌います。「幸せなローマよ、二人のかしらの栄光ある血によっておまえは聖別されたり」。キリストへの愛のために注がれたその血からは、死ではなく生が、敗北ではなく勝利が、拷問の屈辱ではなく殉教の掌の栄光がもたらされるがゆえに、その血は栄光あるものなのです。
牧者たちが天主に従い、この世の惑わしを追い求めなかったころにさかのぼれば、ローマの聖ペトロの司教座の祝日(1月18日)から聖パウロの回心の祝日(1月25日)まで、非カトリック教徒、離教者、異端者、異教徒の回心のための八日間の祈りが行われました。第二バチカン公会議の路線を踏襲する新しい教会は、その使命を否定し、セクトや偶像崇拝者と私たちを隔てるものを隠し、彼らの信じるものが私たちを一致させると強調しようとしています。そして、その祈りの期間が、真の信仰を宣べ伝えるという超自然の使命よりも、不健全なエキュメニズムという目的を優先させる「キリスト教一致祈祷週間」となってしまったのです。ですから、私は皆さんに、善きカトリック教徒を迫害する聖職者たちや司祭たちのために、また、サウロのように、自分は誤謬の中にいながら律法の戒律を守っていると信じている人々のために、祈るように勧めます。異邦人の使徒が回心したように、主が彼らに御自身をお示しになり、彼らを回心させてくださるよう願いましょう。
これから提示する比較に驚かないでください。救い主の十字架上の死の瞬間に引き裂かれた神殿の幕(veil)は、旧約を終わらせ、キリストの教会を新しいイスラエルとし、洗礼を受けた人々を新しい選ばれた民としました。この新しい永遠の契約は、神殿のいけにえが前表であった小羊【キリスト】の血で封印され、メシア預言に照らされて主の奇跡によって確認された多くの会堂の子らを歓迎しました。その子ら中には、サウロのように、イエズス・キリストにおいて聖書の成就を示した恩寵に触れるまでは、律法を遵守した者も多くいました。そして、背信による盲目により、人々が世に入って来た光を見ることができず、その光を拒絶したとき、また、最高法院(サンヘドリン)が、自分たちの権力が危うくなることを恐れてピラトと共謀し、イザヤと聖なる預言者たちの巻物に記されている真理を素朴な人々から隠したとき、また、サウロがすべての会堂で、脅迫をもってキリスト教徒に強いて冒涜を言わせ(使徒行録26章11節)、つまり、キリストの神性と約束されたメシアとしてのキリストの来臨を強いて否定させようとしたとき、天主に関するすべての事柄と同様に、即座に、直ちに、稲妻のように、回心という大いなる奇跡が準備されたのです。
回心の道は、時につらくて長く、困難と挫折に満ちているものです。しかし、主が真理の光と愛徳の炎で私たちに触れられるとき、主には可能な強さと力をもって、回心そのものが起こるのです。「主よ、あなたはだれですか」と、馬から落ちたサウロが尋ねます。「私はあなたが迫害しているイエズスである」(使徒行録9章5節)。キリストの声が響くまばゆい光の中で、神殿で最も恐れられた審問官の一人【サウロ】が奇跡を認識し、天主が奇跡の作者であると悟り、「主よ」と呼びかけ、ダマスコに行くようにという命令に従います。彼は目がくらんで3日間盲目になったまま、3日間断食をし、キリストの現れを受けるための神秘的な準備をするのです。
別の奇跡によって、アナニアがタルソのサウロのところに行って彼を癒やすように指示されると、アナニアは驚きました。なぜなら、そのユダヤ人は「あなたの御名を呼び求める人々を捕らえる権限を大司祭たちから受けている」(使徒行録9章14節)からです。すると、主はアナニアに答えられます。「行きなさい。彼は私が選んだ器である。私の名を異邦人や王やイスラエルの子らにもたらすのは彼である」。アナニアはサウロのもとに行き、按手してから彼を癒やし、彼の目から盲目の幕(veil)【うろこ】を落とします。この幕は、霊魂の視力がくらむことを象徴しています。聖霊に満たされたサウロは、直ちに洗礼を受け(使徒行録9章18節)、パウロと名乗るようになりました。
今日でも、第二バチカン公会議の信奉者からなる最高法院は、聖伝のカトリック教徒を迫害するために諸会堂に役務者を送り込み、彼らを罰し、彼らを捕らえて改革された儀式を遵守させます。今日でも、信者を探し出しては、「強いて天主を冒涜させ」、キリストの教えを否定させ、大司祭たちや民の律法学士たちに従わせる、熱心で恐ろしいサウロたちがいます。彼らの多くは、自分たちが正義であり、律法を守っていると信じています。しかし、高慢な者たちを転覆させて倒す天主の御力は、第一のサウロと同じように、このサウロたちの霊魂に触れたいと望んでいるのです。親愛なる信者の皆さん、皆さんを祈りにお招きします。主がその御力をお示しになり、彼らを岩のような確信という馬から落とし、高慢な彼らの目をくらませてくださいますように。そして、彼らに対する御あわれみを用いて、彼らを立ち上がらせ、霊的な視力を回復させ、聖霊で満たし、主の使徒としてくださいますように。
今日、チェザルに敬意を表しながら王たるキリストを認めようとしないローマの最高法院に従っている高位聖職者たちや司祭たちが、主の恩寵によって照らされるように祈りましょう。彼らがパウロのように諸会堂に戻り、「イエズスは天主の御子であると述べ」(使徒行録9章20節)、「イエズスはキリストであることを証明し」(使徒行録9章22節)、新しい永遠の契約の犠牲が今日までその犠牲を迫害してきた人々の祭壇で新たにされると宣べ伝えることができるように祈りましょう。あのモンシニョール、あの司教、あの枢機卿についても、次のように言われるように祈りましょう。「しかし、あの人はエルザレムでその御名を呼ぶ人々を迫害していたではないか。わざわざ来たのは彼らを縛って、大司祭のところに引いていくためだったのではないか」(使徒行録9章21節)。
私たちが、主への信仰と、私たちの最も神聖な宗教の鼓動する心臓にして霊魂であるミサの聖なる犠牲への忠実を証しする方法を知っているならば、私たちは、恩寵に触れられたこれらの霊魂に対して、弟子たちがダマスコで行ったことを行うことができるでしょう。それは、キリストについて彼らに話し、「主を恐れながら生活する」(使徒行録9章31節)ために私たちと共にいるよう彼らを招くことです。おそらく、私たちを強いて改革された儀式を受け入れさせるために来たあの高位聖職者は、聖伝の聖なるミサを捧げ、自分の司祭職がその神聖な典礼によってどれほど多く裏付けられ養われているか、レビ人としての自分の霊魂が祭壇で、救い主がご自分をただ一度だけ十字架上で犠牲になさったように、その言葉を繰り返すことでどれほど完全な満足を見いだすか、と思うことでしょう。おそらく、戦いに臨むような意図をもって到着したあの司教は、最高法院の命令によってキリストを迫害した後、自分がキリストを迫害していることを自覚し、キリストの使徒にして弟子になりたいと思うようになることでしょう。
そして彼は、――私たちがそれにふさわしくないにもかかわらず、天主の恩寵によって理解したように、――「私の名のために、どれほど苦しまねばならぬか」を理解するでしょう。
これが私たちの心からの願いであり、私たちの祈りであり、私たちが証しする理由なのです。
アーメン。
+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ
In Conversione Sancti Pauli Apostoli
2023年1月25日
使徒聖パウロの回心の祝日に
イタリア語版 Viganò. Omelia nella Festa della Conversione di San Paolo Apostolo.