新年小黙想会二日目 黙想二 ナザレト
「そしてイエズスは、彼らと共にナザレトに下り、彼らに従われた。」(ルカ2:51)
私たちの主をもっと良く知り、もっと熱心に愛し、もっと忠実に従うために、主の私生活の神秘を理解するお恵みを求めましょう。
【1:「イエズスは、彼らと共にナザレトに下られた」】
イエズス様が十二才のとき、エルサレムの神殿で博士たちに教えておられるのを両親が見つけたという出来事の後、直ちにナザレトに下ったと、聖ルカは書いています。イエズス様はその後少なくとも十八年間はナザレトにおとどまりになったはずです。私たちが青春時代と呼ぶ時を、ナザレトでお過ごしになりました。主の私生活と公生活の比は、少なくとも、十八年対三年、つまり六対一でした。一年の仕事に対して六年の隠れた生活です。【天地創造のとき天主様は6日働き1日休まれました。それと逆ですね。】
「天主の道は私たちの道ではない」。キリストの私生活がなぜ公生活と不釣り合いなのかという理由は、私たちにもわかると思います。キリストは「道であり、真理であり、生命」でした。もしもキリストが公けに人に教えることに全ての時をあてられたなら、「道」であることは、ほとんどできなかったでしょう。
キリストに従う人々の九十九パーセントは純粋な私生活を営んでいます。キリストは誰もが真似のできる模範をお示しにはなりませんでした。ご自分に従う人々に向かって、普通の家庭生活を送る価値を示そうと望まれたのです。内的生活のために、完徳の達成のために、世間から退いた生活が絶対に必要だと示されました。
福音書の聖マルタのように実際的な仕事にたずさわっている私たちは、「天主は孤独の中にすみたもう」こと、天主が人間の心にもっとも親しくご自身をおしめしになるのは孤独の中であることを忘れがちです。「人々の間にいたたびに、私は人間らしくなくなって帰って来た。」(Quoties inter homines fui, minor homo redii)と、イエズスの死の何十年かのち、理論と生活とがあまり一致していなかった一人のローマ人の哲学者(セネカ)は語りました。キリストに倣いて第一巻 20 章もセネカの言葉を繰り返してこうあります。2. Dixit quidam: Quoties inter homines fui, minor homo redii. Hoc sæpius experimur, quando diu confabulamur.
キリストはナザレトで、はじめは養父の手助けとして大工の仕事をされ、聖ヨゼフの死後は一人で仕事をされました。自分の手で仕事をされました。少なくとも天主の目には、人の仕事の種類は、仕事をどのような愛をこめてやったかと言うことほど大切ではないことを、お示しになりました。世界中でもっとも偉大な聖性は、二人の大工と一人の主婦のいる普通の家庭にあったのです。私たちが、つまらない仕事をするとき、どういう態度を取るべきかと教えてくれます。
ナザレトにおけるキリストはありふれた少年として、若者としての生活を営まれました。天主であることは隠されていました。ご両親はイエズスが天主であることを信じていました。ただ純粋に信仰によって信じていただけです。奇跡は起こりませんでした。村人の注意を引くようなことは何も起こりません。キリストが公生活を始めたときは、人々は「これは大工の息子ではないか」と驚いたほどです。
キリストの多くの時間は「小さなこと」すなわち、使い走りや仕事場の掃除や皿洗いの手伝いなどに、ついやされていました。キリストは特権をお求めになりませんでした。
キリストは、私生活をどのように過ごされたれたでしょうか。生まれながらに耳が聞こえずにおしの男を癒されたすぐあとで、人々は「彼は何でもよくやった」と言いました(マルコ7:37)。ナザレトにおけるキリストの御生活も、この言葉があてはまることでしょう。キリストのなさったことは何でも、たとえつまらないこと粗末なことであっても、そのなさり方は完全で、優れた行いだった、と。
キリストの生涯がすぐれているのは、またキリストに倣おうとする人々の生涯が優れたものになるのは、偉大なことを行うからではなくて、全てのことを立派に行うからです。
私たちの中で、偉大なことを行う機会のある人は、たとえいるとしても少ないと言えます。しかし私たちは、天主のお恵みによって、たくさんの小さなことを立派に行うという主のお手本に倣うことができます。天国にある私たちの冠は、多くのかがやかしい殉教者たちの冠のように、一つや二つの豪華な宝石でできているのではなく、それぞれ特別な光で輝く、かぞえきれない小さな宝石で作られています。
キリストは洗者ヨハネのように特別な肉体の苦業をなさいませんでした。それにもかかわらずキリストの全ての行動は、天主の本性と人間の本性との位格的結合のために、つねに天の御父の光栄だけを目指した御旨の完全さのために、無限に価値のあるものでした。
私たちの普通の行動もまた非常に素晴らしいものたることができます。成聖の聖寵によって、私たちは天主の本性にあずかることができるからです。私たちは天主の養子だからです。私たちが行うことは、私たちの周りの人々の目にはどんなにつまらないものであっても、天主の御前には特別の意味をもっているからです。
私たちの朝の奉献のとき、また一日中の新しい仕事の始めに当たって、私たちの意向を新たにすることによって、キリストの御旨の純粋さに倣うこともできます。「食べるにつけ飲むにつけ、何事をするにつけ、全て天主の光栄のためにせよ」(コリント前10:31)という使徒聖パウロの忠告を、私たちの生活の中に具体化することができます。
【2:「彼らに従われた」】
誰が誰に従ったのでしょうか。宇宙の創造主が被造物に従ったのです。まことに、「彼はへりくだって、死にいたるまで、十字架上の死にいたるまでも従順であられた」。
無限の智恵が有限の、限りある、誤りやすい知恵に従ったのです。命じられたことが最も良い方法ではないということが、はっきりおわかりになっていても、またそれでは失敗することが確かであっても、やはりキリストはそれをされました。何故なら聖母とヨゼフに従うことは、天の御父に従うことだったからです。「私は私の意志を行うためではなく、私をつかわされたかたの意志を行うために来た」のです。つまり「盲目の従順」をキリストは実行されました。
キリストは、たとえば大工の仕事場で、どんな手伝いをすべきか、どういう風に家具をつくるか、などなどについて、両親の・目上の「誤り・不完全さ」――罪ではない――をご存じでした。私たちは、自分の目上の「誤り・不完全さ」が分かるのでしょうか。たとえ彼らが最善とは言えないこと――しかし罪ではない――を命じるとしても、従うことによって、天主の御旨を行っているのではないでしょうか。
キリストはこう言いました。「あなたがたのいうことを聞くものは、私のいうことを聞くものであり、あなたがたを軽蔑するものは、私を軽蔑するものである」と。
キリストが確実にご存じであって、私たちが知らないことは、私たち人間の企てる「誤り」でさえも、天にいます私たちの父の御旨を行わせることができることです。これは御摂理の広大な織物の中に織りこまれた一本の特別な糸となっているのです。
キリストはご両親への服従に、何か制限をおつけになったでしょうか。たとえば、キリストの従順は実際に、ご両親の屋根の下においでになるときに、限られていたでしょうか。それとも体や健康の注意についての両親の命令に限られていたでしょうか。あるいは、ご自分が大切とお考えになることだけに限られていたでしょうか。聖ルカはただ「彼らに従われた」と言っています。そこには限定の言葉は何もありません。私たちが推測するのは、キリストの従順が絶対だったということだけです。朝はいつ起きなければならないか、何を食べるのか、何を着るのか。どの友だちと遊ぶのか、家の周りで、何ごとにもキリストはご両親に従われました。
キリストは――あきらめて――「あなたの命令は意味がないが、あなたは親だから従います」という態度で、従われたのでしょうか。自分で解釈して――自分のそのときの都合にあわせて命令を、厳密にあるいは広く解釈して、キリストは従われたのでしょうか。
殉教者のように「私は全ての不快なことを引きうける!」と言いながら、あるいは、「分かりました。そうします。しかし、こう命じないほうがよかったのに!」と言いながら、あるいは、精神分析家のように「何んで私にそれを命じたのだろう!」と言いながら、キリストは従われたでしょうか。完全な従順の価値をはっきりとご存じのキリストは、ただ正確に従われただけでした。
福音書の中に記されているように「彼は知恵も年令も天主と人からの愛も次第にましていかれた」(ルカ2:52)とすれば、これは完全な従順の結果ではなかったでしょうか。
聖イグナチオは、聖グレゴリオを引用してこう言っています。「従順は、それだけで、心の中にほかの全ての徳を植えつけ、ほかのが一度植えつけられたのちには、それらを保存する徳である」と。さらに言葉を続けて、聖イグナチオはこう言います。もしこの徳が花をひらけば、全て他の花をひらく、と。【as St. Gregory says, obedience is a virtue which alone implants all the other virtues in the mind and preserves them once implanted. To the extent that this virtue flourishes, all the other virtues will be seen to flourish and produce in your souls the fruits ... 】