聖霊降臨後第十六主日 大阪でのミサ 説教
トマス小野田圭志神父 2024年9月8日
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、今日はマリアさまのお誕生日の祝日でもありますから、マリアさまの誕生の神秘について、特にマリアさまが無原罪であるということについて黙想することを提案します。
何故このことを提案するかというと、実はつい最近ある日本人の神父様の本を読んだときにこの神父様は「無原罪の御宿り」の神秘について疑問を提示していて、よくわかっておられなかったからです。ですから、ぜひ皆さんには「無原罪の御宿り」について深い理解をお願いしたいと思っています。そして、もしも何か質問を受けたという場合には、正しく答えることができるようになさってください。
まず無原罪を語るために、原罪とはいったい何なのか、また無原罪とはではどういうことなのか、それから無原罪がわたしたちにとってどんな意味があるのか、ということを黙想して、そして最後に選善の決心をたてましょう。
【原罪とは何か】
では「無原罪の御宿り」を理解するために、「原罪」について少し確認いたします。皆さんよく知っていることです。
アダムとエワは無原罪において創造されました。これは何を意味するかというと、天主は人祖を創造したときに、最初の瞬間から、まったく無償で、果てしない愛と憐みによって、人間に成聖の聖寵を与えました。成聖の聖寵、つまり、人間はその本性以上の境地に高められたのです。地上においての幸せな生活を受けたというそれに加えて、天使たちが招かれたのと同じような高い身分に、つまり天主の生命そのものに与る・参与するというものと高められたのです。ですから、最初の瞬間から――人間が創造されたその最初から――、“罪が犯されない限り常に留まり続ける聖寵”の状態において、天主の子どもとなり、天主の生ける神殿となって、この世の生活の後には、天主の永遠なる福楽そのものを楽しむことさえできる――天主を至福直感で見るという幸福を受ける――、という特別の特権を受けました。これによって人間は、人間であることを失わずに天主のように――あたかも天主であるかのように――なり、そして天主の生命を生きる――それに到達することができる、という特別な地位をいただきました。このような状態を、原初の義――義というのは義人の義です――原初の義の状態と言います。
天主の生命というのは、この世の有限の世界に現れている命とは全く次元の異なるものです。天主はこの世をこの世界をすべて有らしめて存在させていますけれども、同時にこの世界を本性においては遥かに超越するお方です。ちょうど動物の命と植物の命を比べたときに、動物の命のほうが遥かに優れています。それと同じように―いやそんな感じで、天主の生命は、被造の生命を絶対的に―動物と植物の生命と比較にならないほど絶対的に、無限に凌駕しています―超越しています。
それにもかかわらず、人間が人間であるまま、人間が天主の生命に与ることができるのは、これは人間の本性に基づく当然のことでは決してありませんでした。そうではなくて、天主の愛が生み出した奇跡でした。有限な人間が、無限の天主の生命のこれに与るのです。与るといいますのは、なぜかというと、人間が天主の命をわがものにして、天主そのものになることはできないからです。そうではなくて、卑しいしもべであって―卑しい身分でありながら、天主の無限の寵愛をこうむって、そしてもともとの本当に卑賎な身分から天主の家督を相続する特別に恵まれた者とあげられました。これがアダムとエワが最初に創られた状態でした。
しかし、残念なことに不幸なことに、わたしたちの祖先、人祖アダムとエワは罪を犯します。そしてこのアダムとエワが犯した罪によって、原初の義の状態というこの贈り物は失われました。パーになりました。超自然の遺産であったはずの贈り物は、アダムが、これを捨ててしまったのです。ですからアダムのすべての子孫たちは、子供たちは、この遺産を受けることができなくなってしまいました。この意味でアダムの罪がわたしたちアダムの子孫に伝えられたのです。
アダムの犯したのはあくまでも個人の罪です。しかしアダムの自罪―自分の犯した罪が、子どもたちに子孫に伝えられる限りでこれを「原罪」と言います。アダムは原罪を犯したのではありません。アダムは「自罪」を、自分の罪を犯しました。が、その罪の結果、わたしたちは「天主から退けられた状態」に陥ってしまいました。アダムの子孫は、つまり「聖徳と義の欠如」の状態で生まれるようになってしまいました。いいかえると「天国の家督相続の権利を剥奪」されて生まれてきたのです。裏からいうと「天主が最初に人類に対して持っていたとてつもない愛に対立する状態」で生れて来ました。ですから、これは、わたしたちにとっては「原罪」として伝えられてきました。ですからこの原罪というのは、欠陥がある状態なのです。ですからわたしたちは、天主の御前に汚れのある者として生まれてきたのです。聖トマス・アクィナスは、原罪の本質というのは何かというと「原初の義の欠如である defectus originalis justitiae」と言っています(I.IIae, q.83, a.3)。
天主が定めた法則によって、アダムの子孫であれば当然のごとくこの遺産はわたしたちに伝えられなかったはずです。当然の如くすべての子孫は、原罪の汚れに感染します。そしてわたしたちすべてにとって、超自然の命――つまり成聖の聖寵――を回復することができるのは、たった一つの手段しかありません。イエズス・キリストだけです。イエズス・キリストだけが、聖パウロが言うとおりに、「すべての人、とくに信じるものの救い主」であります。ティモテオの前書4章10節に書いてあります。ですから、救われる人すべては、例外なくたった一つの例外なくイエズス・キリストの功徳によって贖われて、救われました。
【無原罪の御宿り】
では、聖母の「無原罪の御宿り」とはいったい何なのでしょうか?
福者ピオ九世は1854年12月8日の大勅令「イネファビリス・デウス」でこう言います。引用します。
「童貞聖マリアは、その受精(受胎)の最初の瞬間に in primo instanti suae conceptionis 全能の天主の特別の聖寵と特権とによって、人類の救い主イエズス・キリストの功徳を予見して、原罪の全ての汚れから前もって保護されていた praeservata immunis 。この教えは、天主によって啓示されたのであり、全ての信者によって固く常に信じられなければならないことを宣言し、発表し、定義する。」これで引用を終わります。
マリアさまに贖いが適応されたというのは、なぜかというと、人類が一般的に持っている原罪の法則があったからです。つまりマリアさまは一般的な法則によれば、お恵みがない状態で生まれなければならないはずでした。マリアさまにも本来ならばこの原罪の法則が適用されるべきところでした。しかしマリアさまの場合には特別に、それから「前もって保護されていた praeservata immunis」のです。先行的に保全されていたのです(redemptio praeservativa)。贖いの業が適用されて、マリアさまが存在しようとするその最初の瞬間に―受精の瞬間に、イエズス・キリストの贖いの功徳によって、成聖の恩寵が与えられました。罪の汚れ―原罪の汚れなく受胎されたのです。マリアさまが原罪の汚れから「前もって守られた」というのは、つまり、聖寵の状態でマリアさまのお母さま聖アンナの胎内に宿り始めたということです。
そればかりではありません。なぜかというと、確かにわたしたちも同じような効果を、洗礼を受けることによって受けることができるからです。なぜかというと、洗礼を受けると原罪を赦され、そして「罪の責務」reatus culpaeあるいは「罰の責務」reatus poenae、すべての罰を免れることができます。が、しかし、洗礼を受けたとしても、わたしたちは原罪に由来する乱れた情欲や無知というものは、癒されることはできません。
しかし教皇様の発表した信仰箇条によれば―そして聖伝の教えによれば―啓示された教えによれば、「聖母はその受胎の最初の瞬間から原罪のすべての汚れから守られたab omni originalis culpae labe praeservatam immunem」とあります。つまり「無原罪の御宿り」によって、マリアさまは、そのような心の悪への傾きや欠陥あるいは情欲や無知などという不幸からも、免れていました。ですからマリアさまは生涯、最初の瞬間から終わりまで罪がなく、汚れなく、聖寵に満ちみてる方として留まられました。これが「無原罪の御宿り」です。
【無原罪の御宿りの意義】
では「無原罪の御宿り」ということは、いったいわたしたちにとってどんな意味があるのでしょうか。どれだけの意味があるのでしょうか?
1)まず第一に、原罪ということが事実である―現実であることをわたしたちに教えています。
これについて聖ピオ十世教皇様は1904年にこう書いています。教皇様の言葉を引用します。
「カトリックの宗教の敵が、多くの人々の信仰を揺るがすような重大な誤りを種蒔く出発点は、いったい何だろうか。彼らはまず、人間が罪によって堕落し、そしてその地位から投げ落とされたことを否定することから始める。つまり彼らは、原罪とその結果である悪を単なる寓話だおとぎ話だと見なしている。原罪によって汚された人間性は、その原罪の結果、人間という種(しゅ)をすべて汚した。こうして人間の間に悪がもたらされ、救い主の必要性が生じた。しかしもしもこのようなことが否定されれば、キリスト、教会、聖寵、あるいは自然を超えて、自然を超えるために残された場所がないということは容易に理解できる。人々がマリアさまの受胎の最初の瞬間からあらゆる汚れから守られたことを信じ、信仰告白するかぎり、すでに原罪があること、イエズス・キリストの必要、そして福音、教会、そして苦しみの法則による人類の救いのすべてを認める必要が生じてくる。これによって、合理主義と唯物論は根こそぎに破壊されて、キリスト教の知恵は、真理を守り抜くという栄光が残される。」聖ピオ十世教皇様の引用を終わります。
「無原罪の御宿り」は、つまり、原罪というものが確実にあるということ、そしてそのためにキリストの救いが必要であるということを断言する、ということです。
2)第二に、マリアさまが「無原罪の御宿り」であるということは、イエズス・キリストがまことの天主であるということを確認します―明らかにします。もしもイエズス様が単なる人間だったとしたら――非常に優れた罪のない高徳の立派なお方だったとしても人類の最高の方だったとしてもしかし天主ではなかったとしたら――ただの人間だったとしたら――、どんなに素晴らしくてもマリアさまは原罪の汚れから守られる必要はありませんでした。しかし、イエズス・キリストが――マリアさまから生まれる方が――、まことの天主であったので、その御母となる方には、罪の汚れが一瞬たりともあってはならなかったのです。天主の御母はその地位にふさわしい方でなければならなかったからです。悪魔の支配下に一瞬たりともあってはならなかったからです。
3)またマリアさまが「無原罪の御宿り」であるということは、同時にイエズス・キリストが第二のアダムつまり約束された贖い主であり、聖母が第二のエワであるということを明らかにします。
【1】なぜかというと、第二のエワは悪魔に対して完全な勝利を治める方でなければなりませんでした。「私はおまえと女との間に、おまえの子孫と彼女の子孫との間に敵対を置く。彼女はおまえのかしらを踏み砕くだろう。」(創世記3:15)創世記の預言です。
【2】またマリアさまが第二のエワであるということを確認するその第二の理由は、第一のエワが創られた当初、童貞として無原罪の状態で第一のアダムの伴侶として、創られました。ですから、第二のエワであるマリアさまも、第二のアダムであるイエズスの伴侶としてそれにふさわしいように汚れなき童貞として与えられるのが非常にふさわしいからです。
4)それから、第四には「罪」というのが何かということを私たちに教えてくれます。
マリアさまは、天主によって先どって「先行的に」守られました。「無原罪」で存在をはじめました。そうすることによってごくわずかな罪の陰さえなかった。またいかなる不完全さもありませんでした。マリアさまは、地上のいかなるものにも愛着を持たずに離脱して、天主だけを愛していました。聖霊の息吹に完全に導かれていました。天主の御旨を果たすことだけを求めて生きていました。こうすることによって、わたしたちに、愛によって生きることが何かを教えています。
罪というのは、天主の御旨に背くことです。
わたしが先ほど申し上げたある日本人の神父様は、こんなことを書いておりました。人間が食べ物を食べて、いわば「他者を犠牲として生存を続ける」とか、人間が「殺生せずには生きていられない」ということを、「罪深い」ことだ、だから人間はどうしても罪深い。
(曰く「聖母マリアが人間である限り、被造物の一つである限り有限性と自己不充足性とは存在論的に無縁ではありえなく【もちろんそうです!】、従って神の御旨に従った人間の理想像から…程遠い方ではなかったか。【ここに論理の破綻があります。被造物は有限の存在としてあることが天主の御旨です。人間は、たとえ「究極的完成態、すわなち終末的約束の実現」がおこったとしても有限な存在ens finitumとして留まります。人間が天主に依存する存在であることは「怠りの罪」を構成しません。「怠りの罪」とは、為すことができ為すべきことを故意にしないことです。】)
でもわたしたちがものを食べて生きるということは、これは天主の御旨です。これは、罪ではありません。そういうことを罪というのではありません。そうではなくて、天主のみ旨に反することを罪と言います。
聖母は、自分のために生きたのではありませんでした。天主のために生き、人類の贖いのために、御子とともに苦しみました。マリアさまはすべてを与え尽くしました。これが罪のない生活であり、愛の生活でした。
ですからマリアさまは、御生涯の間、愛の功徳によって聖寵をますます増加させて完成させて、そして天主に完璧に一致したものとなり、最高の被造物となりました。これこそ、天主の聖寵の創りあげた最高傑作でした。マリアさまは、被造物への愛ではなくて天主への愛によって生き、聖霊の「浄配」として一生を過ごされました。
その結果何が起こったかというと、無原罪の御宿りのマリアさまの生涯は、十字架の生涯でした。つまりマリアさまは「十字架の御母」であり「悲しみの御母」でした。「贖い主の御母」Redemptoris Mater となるべく生まれてきたマリアさまは、贖い主に一致して、ご自分も贖いとしてお捧げになりました。つまり、罪のない被造物であったマリアさまは、罪の贖いのために苦しみを受けることによって、贖いに完璧に協力されたのでした。この贖いの神秘については、来週皆さんにお話ししたいと思っております。
【遷善の決心】
では最後に選善の決心をたてましょう。
天主はわたしたちのためにこの世に来るときに、ご自分の母となるべきお方を完璧で完成された聖人の状態での清い童貞女を創りあげて無から創造して、その方からお生まれになろうとすればそれもすることが出来ました。しかし、天主は、その永遠の愛によって、永遠の智恵によって、アダムの子孫からお生まれになることを選ばれました。それを欲しました。
今日、マリアさまがお生まれになったのは、天主の母となるべき方であり、そして、特別に無原罪の御宿りという特権を受けたお方です。わたしたちの人類の同胞として特別の御方が、今日お生まれになりました。わたしたちの母となるべく方、また、天の元后となるべき方、そして私たちに救い主を与えるべきお方が、今日お生まれになります。この途轍もないお恵みを、イエズス様に感謝いたしましょう。
そして今日お生まれになられた汚れなきマリアさまにお祈りいたしましょう。マリアさまの汚れなさはわたしたちには真似することはできませんが、しかし、マリアさまの子どもとして―愛された子供として、罪を憎み、罪の機会を避けるお恵みをこい求めましょう。そしてマリアさまに倣って、イエズス・キリストをすべてに越えて愛し続けることができるように、お祈りいたしましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。