『霊的生活指針』 イエズス会士 ルイ・ラルマン著
イエズス会士 ルイ・ラルマン師の小伝
LA VIE DU PERE LOUIS LALLEMANT DE LA COMPAGNIE DE JESUS. (pp. 1-35)
ルイ・ラルマン師は、1587年シャンパーニュのシャロン・シュル・マルヌにおいて、かつてフランス王女の領地だったヴェルテュの伯爵領判事の一人息子として生れた。
父は彼を幼い頃からブールジュに送って、イエズス会経営の中等学校で学ばせた。
天主は、御自らの大いなる御計画を彼の上に仕遂げ給うに必要なすべての自然的超自然的素質を彼に与えおかれたのであった。すなわち高貴な精神とあらゆる種類の智識に応じうる知力、透徹した確固たる判断力、また優しく率直で誠実な性質、学問に対する強い愛好心、罪悪と特に不潔なことへのはなはだしい嫌悪、天主への奉仕に関する高尚な観念さらに内的生活への殊さらなる愛着、等である。
まだごく幼いころから、彼はそれとは知らずに内的潜心を実行していて「僕はいつも自分の中に留まっていなければならない。そこからすっかり外に出てしまってはいけない」などと云っていた。人に教えられずして聖霊に学んだこの金言を彼は心に深くきざみつけていたので、このように早くから常に自己を看視し、不用意な心の散慢になることを何より恐れていたのであった。
聖母に対しては厚い信心を持っていたので、ブールジュの中学校における聖母会に入会することを望んだ。これはすでに修道生活を胸に描いていた彼にとって、その第一の修練期となったと言ってよいであろう。
天主が彼に示し給うた完徳の理想は、よろこびに満ちた魅力をもってその心に絶えず浮かんでいた。友達と休憩時間を過している時でさえも、彼はしばしば完徳への熱望にとらえられ、感動のあまり顔は火のように燃え、眼は光り輝いて、遂にはひそかに聖寵の御働きに身を委ねるべくその場をはずさねばならぬほどであった。
ブールジュで古典文学を修め、修辞学の第一年を終えたので、彼の父はその第二年をさせるためにヴェルダンへ送ろうとして彼を呼び戻した。彼はそれを好成績で終了した後、イエズス会への入会を願い、許されて、1605年12月10日、十八歲でナンシーの修練所に入ったのである。
天主は最初から彼に、聖イグナシオがその子等に教えた完徳の真の観念を了解する聖寵を与え給うた。この聖なる父の生涯と行動こそは、彼が見倣っていたモデルで、殊にこの聖人の模範に従って本性の働きを抑え、一切の心の動きを聖寵に従わせるように努力した。やがてこの点において長足の進歩をとげ、以前から彼を知っていた人々は、彼がかくも短期間に完徳の特性である精神の平衡と平安とをかち得たことを見て驚嘆したほどである。
彼は修練期を終えるとすぐにポン・タ・ムツソン(Pont-à-Mousson)で哲学と神学の勉強をすることとなった。本来ならばイエズス会の慣習として、ここで下級生の受持あるいは 古典学級の教職につくはずであるが、頭痛と胃病に絶えず悩まされていた彼のために、長上はこれを許さなかったのである。
1616年にシャンパーニュとブルゴーニュとロレーヌにおけるイエズス会の各修道院は、その後シャンパーニュの名を冠する一つの管区を成すために、フランス管区から分離したが、ルイ・ラルマン師はフランス管区に留まり、1621年10月28日にパリで四つの荘厳誓願を立てたのである。彼は数箇所で論理学を教え、哲学を三年、数学を四年、倫理神学を三年、またパリではスコラ哲学を二年教えた。その後四年間、修練の係長をし、修練長となり、三年間、第二次修練者の指導者となり、上級学科の係長をし、またブールジュの学校長として二、三ヶ月在職した。
以上が彼の経歴で、その就任の順序である。これらの務をこの上なく立派に果したところから、彼はイエズス会中もっともすぐれた会員の一人に数えられうるのである。しかし、何事をもよくした中にも殊に、管理と指導の二つの任務には確かに稀な才能を天より与えられていたのである。
聖霊は、彼が自ら完全な長上且つ指導者となり、他の多くのすぐれた人材を養成し得る者となることを望み給うたので、御自ら彼の師となって、先にも述べたように、幼少のころから霊的生活について親しく教え給うたのであった。聖霊は御自身の尊きペルソナに関する特別の信心で彼を惹きつけ、聖寵のもっとも奥深い神秘をことごとく示し給うた。また聖霊の各種の賜を深く悟らせ、またそれらを、最高の聖徳に挙げんとし給う者にのみゆるされる惜しみなさをもって、与え給うたのであった。
他の賜の根抵をなし霊的殿堂全体の基礎であるところの敬畏は、彼の不断の心境であった。これは天主の真の子として、ふさわしい心がまえであり、堅固な謙遜の上に築かれ、また他の徳を伴うものである。すなわち、敬畏は、無垢・純潔・克己、さらにこの世のあらゆる事物よりの離脱、等の徳へ人を導き、且つその徳を保持するのである。
自己の空しさまた天性の堕落と浅ましさ、天主の偉大さ、ならびに、創造主に依らずして被造物の存在し得ぬことなどを深く悟った彼は、拝すべき至上者の御前に絶えず己を卑下し続けるのであった。かく自己を蔑視するところから、彼は自らの卑賤を愛し、卑賤への愛にかられて、己を卑しめまた卑しめられるあらゆる機会を求め、それを歓びむかえたのである。
御託身において天主の御子の示し給うた自己絶滅の精神に、彼は謙遜の鑑を見出で、託身せられし聖言の聖心に、この徳の実践を学んだのであった。この聖なる学び舎に於いて天主なる師から彼が教えられたのは、謙遜、自己忘却、己の無の中に埋められて生きること、等の最高の学課であった。それゆえに彼は自分自身にかかわることには、全然関心をもたず、心要に迫られるかあるいは明白な聖寵のすすめによらぬ限り、そのような事は語りもせず思いもせず、あたかも自己が存在しないかのように、ふるまったのであった。
彼の外観も態度も謙遜そのものであった。何をなすにもあわてず、ひそやかに、さながらそれを自分自身にさえも隠したいかのように何気なくする。それほど彼はつつましく、見せびらかすということを嫌ったのである。同じ理由から、善業も、自ら行うよりは他人の業に目立たぬように協力するのを好んだ。そこで事業の表面にこそ立たなかったが、忠告や奨励をもって企画をすすめ、あるいは彼自身の信用や権威で支持し、または人一倍の指導や配慮を与えなどして、実際は彼自身がその善業の主役となっていることもしばしばであった。ラルマン師の考えによれば、長上たるものはすべからく目下の者の仕事に関心を寄せ、必要な世話を惜しまず、彼等の聖なる事業を援助すべきである。かように、天主の光栄をあげ、人々の利益をはかる機会が恵まれれば、常に彼等を起用するようにし、万事を長上自身でなしとげようとして、外部的仕事を多量に背負いこまぬように心せねばならない。何故なら外的業務を持ちすぎることは、一般に、修院管理という自己の本分を果すために妨げとなるからである。ラルマン師はまた、長上のかかる態度は目下の者の心を得る上に非常に力があり、一方目下の者としては、自己にとって天主の代理者たる人々からかく援助され補佐されるのを見て、その任務を果す上に非常に励みを感じるものである、と言っている。
師が幼少のころから持っていた天主の子としての敬畏の精神は、洗礼の時に受けた無垢の衣と童貞の貴重な宝とを汚さぬよう、それらの忠実な護衛となって彼を守ったのであった。彼の最後の病の時に総告解を聴いた霊父は才能ゆたかな特に何事にも慎重な人であったが、「もし必要とあらば、彼が大罪を一度も犯さなかったということを誓って断言してもよい。彼の貞潔の徳のすぐれていたことは、天性の堕落を少しも持たぬように見えたほどである」と明言した。彼は純潔に反する誘惑や衝動を感じたことがなかったと云う。
彼の大いなるモットーは、完徳への進歩は心の浄化の進歩に比例する、すなわちこれは天主との一致に達する上に最短の確実な道で、天主との深いまじわりを結ぶために我等自身を備える誤りなき手段であるというにあった。
彼は自己の経験によってこれを知り、天主の御眼をけがす最小の汚点も許さず、霊魂を純潔に保つことに専心努力したのである。そのために彼はその内心を絶えず看視しつづけ、心の動きをことごとく注意ぶかく検討し、また毎日この上なく正確に告解したのであった。
この毎日の告解ということは、彼が霊父等の中で特に完徳への強い望みを抱いていると認めた人々に対して、もっとも力を入れて奨めたことの一つであった。彼等の日常生活における最小の過失をも自白し、その霊的傾向に関する一切を報告するために日々悔悛の秘蹟に与るようにと彼は勧めるのである。
彼自身常にそのように実行し、告解に際して一切の必要な心構え――すなわち司祭の人格におけるキリストの現存に対する強い信仰、彼等に与えられた権能への完全なる信賴、自己の罪過に対する謙遜なる愛の痛悔、その罪を償い天主を充分に満足させ奉らんとの熱誠――等を絶えず抱いていたので、彼は秘蹟の效果を明らかに経験し得た。その效果とは良心を潔める特殊の聖籠である。
彼は聖寵に対しては特に忠実で、故意に罪を犯すということは一度もなかった。ごく僅かな罪の影でさえも、認めればただちに、全力を尽くしてこれを遠ざけた。リゴルウ師も証言していることであるが、休憩時間などに、彼は、云いかけた事に何か不完全さのあることを天主の光に教えられて、急に口をつぐむこともあった、ということである。
彼は霊魂の汚れとなりやすい満足を身体に与えぬばかりでなく、五官を完全に抑制するということを絶えず心がけていた。彼の肉体的苦業がその体力を超えたものであったことは確かで、もっとも親しかった友人たちは、そのきびしさが彼の生命をよほど縮めたものと判断している。
霊的犠牲の最上部分を占める内的克己を彼はたゆみなく非常な厳格さをもって実行し、自己のすべての傾向と戦い、それを聖霊に従わせた。それゆえ情慾の上に完全な勝利を得て、幸なる「死」の境地に達したのである。かかる境地では本性はまったく聖寵に従うので、聖霊が霊魂に与えんとし給う天主の生命を、もはやいささかも妨げないのである。
世間が普通貧困を嫌うと同じ程度に、彼は貧しさを愛した。彼はイエズス・キリストの御跡に従いはじめた時から、絶対的に必要な物か家の中で一ばん粗末な、もっとも使い古され、もっとも不便なもののみを使用するのを好んだ。粗末な小さい寝床、テーブル、二個の椅子、祈祷台、聖務日禱書、聖書、それと、なくてはならない三四冊の書物とが、彼の部屋の家具の全部であった。彼は清貧を絶えず実行するために、常に何かに不足していることを喜び、その不足と些細な不便を、吝嗇漢が財産を隠すよりももっと細心に隠すのであった。それは長上の慈愛の眼に、あるいは院内の係の眼にふれて、この忍耐の機会の奪われることを恐れたからである。しかしながら、福音的清貧について彼が懐いていた観念は、外的事物の剥奪のみに限られてはいなかった。彼はそれを、高め得る頂点にまで徹底させたのである。すなわち一切の被造物よりの完全なる離脱、天主の聖寵や賜さえも超越して、ただ天主のみを求め、天主のみを眺め、天主のみに愛着する完全なる精神的赤裸である。これこそ彼がもっとも強調した教訓の一つで、これを実行することによって、彼は純粋なる愛に到達したのである。
彼は生来勇敢で、自分の計画を遂行し目的を追求するにあたっては何物にも挫かれぬ堅固な精神をもっていた。しかしそのおもな力は聖寵の賜から来たのである。それは彼を天主の精神で被い、天主のために一切を行わしめ、一切の苦しみを甘んじて受けしめた。彼はこの点きわめて力強い鼓舞を感じていたので事業の困難や労苦、世間の反対や人間的思慮から来る考量、不成功の懼れ等の何ものにも引止められることはなかった。彼としてはその企画が天主の聖旨であると云うことを知るだけで、勇躍、事に当るを得た。そうして必ず成し遂げられようと信じ得たのである。
彼は特に壮健という方ではなかったが、如何なることにも骨身を惜しまず、職務に、あるいは天主の光栄と隣人奉仕のため従順と愛徳とが彼を招くすべての業に、倦まず撓(たゆ)まず働いた。精神の熱誠は身体の虚弱を補い、疲労を知らぬと思われるほど彼を支えていたのである。
忍耐と柔和は、剛毅の賜のもっとも貴重な結果であり、又確実な証拠である。ラルマン師はこの双方の徳に卓越していた。苦しみの最中にあっても、誰にもそれと悟られぬほど、にこやかに苦しみを忍んだのである。彼は完全に自己を支配していて、その精神上にも気分の上にもついぞ何らの動揺も認められたことはなかった。彼はその魂を完全な平安の裡に持していたので、容貌は常に明朗であった。また人よりも声を高めるようなことは決してなかった。
彼の中に鼓吹されていた超自然の勇気は、聖イグナシオのごとく、彼をして、その計画があらゆる人から反対され妨げられることを天主に願わしめるほどであった。それは苦難の機会をもたらすばかりでなく、事業遂行の困難が大きかったほどその成功は、天主の光栄を一入(ひとしお)輝かせ得るからである。
彼は外国への布教に、殊にどこよりも改宗者の少ないカナダに、派遣されることを三年の間願い続けた。そこの宣教は労苦と十字架に富んでおり、華々しさのないかわり、宣教師自身の成聖のためには他のいずれの職よりも多く貢献するものであった。この故に、彼は他の万事に越えてそれを望んだのである。しかし自身そこに行くことは許されなかったので、その布教のための熱心な働き手を得ることに絶えず尽力し、フランスにあって、彼の手の及ぶ範圍で出来るかぎりの奉仕をそれがために捧げたのである。
布教に対する彼の愛は、孝愛の精神から生れたものであった。この精神がまず彼に、人々の霊魂を、天主に似る特性を与えられ、聖子の血によって贖われた天主の像(かたど)りとして眺めさせ、ついで、かかる霊魂の滅びを悲しむ心と救霊の熱望とを吹き入れたのである。実に、孝愛の賜こそ聖人等の心に、天主ならびに隣人に対する熱い愛情と熱誠とを注ぎ込むものである。この賜こそ愛徳にそれなくしては得られぬ魅力と甘味とを与えるものである。しかもこの賜は貴重なだけにまた稀なものであるが、学者や福音のために働く人々のためには、必要欠くべからざるものである。それによって、勉学や多忙な活動生活によって精神の冷淡になることが防ぎ得られるからである。
ラルマン師が孝愛の情に満たされていることは、そのすべての行為にあらわれていたが、殊に天主に直接かかわりある業において著しかった。たとえば聖務日禱を誦え、ミサを捧げ、秘蹟を授ける時など顕著であった。また十字架の印をしたり聖水をつけたりする場合のごとく極く些細なことにまでそれは及んでいたのである。彼がこれらを行う時の態度には、いかにも堅実なしかも優しい信心が奥底にうかがわれるのであった。
彼にとっては、天主と共に親しく語り合うことよりも甘美な喜びというものはなかった。祈禱は地上における彼の至福であるとして、他の如何なる仕事よりも多くの時間をそれに当てていた。時には睡眠の時を割いて夜の数時間を祈りにふけったこともある。ある日炉辺に一人の友と差し向かっていた時、彼は、天主に心を挙げることは少しも難しく思わないと打ち明けた。彼にとってそれは暖炉の薪台に眼をむけると同じ位にたやすいことだというのであった。
天主の御光栄に関係のないことは何事も彼を動かさなかった。彼の心づかいのすべては、あらゆる個々の事柄の中に天主の御計画を見、一旦それを確かめれば、聖寵の光にしたがい、キリストの精神によってこれを成しとげるべく天主に身を委ねることに尽きていた。
彼は常に、念禱の中に明らかに聖霊の御指導を経験した。それは神秘家が受動的あるいは超自然的念禱と称する状態にまだ到達しないうちからであった。(そのように呼ばれるのは、ここに於ける霊魂はその自然性を超えた方法で、天主の御業を受諾するのみだからである)彼は念禱に入るや否や天主の光に照らされそれによって黙想の題と要点を示され、一切の行為をも提示されたのであって、それは彼自身著作の一つの中に証言しているところである。
彼の特別の信心の対象は御託身の御言(イエズス・キリスト)であった。彼の霊魂の全能力は、聖主の尊きペルソナと、その種々の御状態と玄義とを考えることによって占められていた。聖体は彼のさらなる尊敬の的であり、またその談話中にもっともよく出る話題であった。聖体について語る時の彼は特にすぐれていた。彼の信心業の一切は神人に向い聖主にかかわり、そして聖主への愛は彼の行為全体の土台となっていたのである。彼にとって諸徳は、イエズスにおいて神化された有様で考察するとき、最も好ましく思われた。この見方によれば、自然的にもっとも厭わしくもっとも困難な徳行も、彼には大きな魅力をもつようになったのである。
天主の聖子のしるしを帯びている一切のもの、聖主に何等かの縁があり、あるいは直接に関係あるものは、ことごとく彼には限りなく貴く愛すべきものであった。その理由から、彼は聖母と聖ヨゼフに対し、無量の愛情をいだいていたのである。また、特に御託身の聖言とそのいと聖き御母に奉侍する天使の中のあるものと親しい愛の交りを結んでいたのである。
彼は毎日ロザリオの一部を誦えていたと言われている。しかし彼は、その外面的な信心業によるよりも、内心の尊敬と愛と信賴の高い精神によって聖母に一層の恭敬をつくしていたのである。
彼は、聖ヨゼフへの信心をすべての人に吹き込むために、特別の恩恵を与えられていた。霊的生活に入ろうと望む人に対する彼の勧告は、謙遜にはイエズス・キリストを、純潔には聖母を、内的生活には聖ヨゼフを、模範とすることであった。彼自身、これらの聖なる模範にしたがって、完徳へ精進していたのであるが、そのモデルを己が中によく表わしていたことは、容易に認められるところであつた。
聖ヨゼフを敬って、彼は毎日四つの小さい信心業を実践し、そこから驚くほどの利益を受けていたのである。その最初の二つは午前中に、他の二つは午後に行った。
第一は、精神を揚げて聖ヨゼフの心に通わせ、聖人がいかほど聖寵に忠実であったかを考え、次に己が心に眼を移し、その不忠実さを見出して遜(ヘりくだ)り、奮発心を起すのであった。
第二は、聖ヨゼフがいかに内的生活を外部の活動に完全に調和させていたかを考察する。そして自分自身とその仕事について反省し、モデルの完全さに及ばぬ点を認めるにあった。この修業によって彼は非常に進歩し、その生涯の終には内的潜心の状態が決して破られることなく、外部に向けられる注意も天主との一致を弱めるよりもむしろそれを強めるために役立つほどになったのである。
第三は、聖母の浄配としての聖ヨゼフに近づき、聖母の童貞性と母性についてこの聖人の有していた感ずべき知識を黙想し、また、彼が御託身の玄義に関する天使の御告げを信じた謙遜な服従を考えることであった。この業によってラルマン師は、聖ヨゼフがそのいとも聖なる浄配に持たれた愛の故に彼を愛するよう努めたのである。
第四は聖ヨゼフが聖き幼児イエズスに払われた拝礼と敬愛と、感謝の念とを思い起すことである。そして彼とともに、自分としてなし得る限りの深い尊敬と優しい愛のこころをもって、神聖なる幼児を拝し愛することを願うのであった。彼は聖ヨゼフに対する自分の篤い信心の印しを墓まで携えてゆきたいと思い、この愛する保護者の聖像を棺の中に彼と共に納めることを請うたのであった。
また聖ヨゼフも彼の求めに何一つ拒まれなかったことも、種々の場合に認められたのである。そしてラルマン師は人々に聖ヨゼフを敬わせようと思う時は、その御取次によって得られない御恵みが一つもないということを断言するのを常としていた。
ブールジュの中学校の下級生受持だった、ポ―ル・ラグノー師やジャック・ヌエー師に対する場合もこの行き方であった。当時ラルマン師はそこの校長だったのであるが、彼はこの二人が著しく徳に向って進みゆくことを認め、その霊的進步のために特に心を配っていたのである。聖ヨゼフの祝日が近づいたとき、彼は二人を呼び、もし彼等がその生徒に聖ヨゼフへの信心を奨励し、その祝日に何か特別によいことをするなら、自分はこの偉大な聖人にその御とりなしを願って、彼等の望むものをことごとく得させるであろう、と約束した。二人の若い教師は彼の言葉に従うことを約し、その祝日には彼等の生徒全部に聖体拝領をさせた。次いで二人は校長の許におもむき、各々が聖ヨゼフの御取次によって獲たいと願う事柄を伝えた。
ヌエー師は、聖主について立派に語り且つ書く恵みを願ったが、次の朝ラルマン師を訪ねて、熟考の結果、完徳のために更に有益であると考えた他の恵みを願いたい、と告げた。ところがラルマン師は、もう他の恵みを願うには遅過ぎること、最初の願いはすでに与えられたのであるし、彼が引受けたのはその一つのためだけであった旨を答えた。この恩恵はヌエー師の全生涯を通じて明らかに顕われ、彼の説教、著述に輝き出ている。殊に長年辛苦の末、世を去る少し前にはじめて完成した聖主イエズス・キリストについての偉大なる著作は、それを証明するものである。
ラグノー師の方は、このことをすべてモンマルトルのベネディクト会の修道女マラン童貞に話したのであるが、彼がラルマン師によって聖ヨゼフに求めてもらった恩恵が何であつたかは話そうとしなかった。多分それは何等かの内的の聖寵であったが、彼はそれを天より賜わった他の多くの恩恵や貴重な賜と同様に秘めて謙遜の心からそれを云い表わすことを欲しなかったのであった。事実、彼は、宏大な精神、鋭い洞察力、確かな判断、英雄的勇気、偉大なる事業をなし得る能力、聖なる単純さ、天主への感嘆すべき信賴、霊的な事柄に対するすぐれて行き届いた経験等を有する完全な修道者であった。あらゆる現世の利益をまったく離脱し、天主への愛と救霊のための熱心のみを念じていた人であった。彼はカナダ(la Nouvelle France)の最初の宣教師の一人で、彼と使徒としての労苦を共にした二人の聖なる修道者、ジョゼフ・ポンセ師(P. Joseph Poncet)とフランソア・ル・メルシェ師(P. François le Mercier)は、カナダ教会のために彼ほど役に立ち、彼ほど使徒の名にふさわしい人はなかった、と私に知らせてくれた。後年、彼が意を注いだこの布教の会計係としてフランスに帰り、以後は、天主に与えられた稀なる指導者としての才能を発揮したのである。非常に多くの敬虔な霊魂、殊に特殊な道を歩まされている人々が、御摂理によって、彼の許にみちびかれ、彼はそれらの人々に対して、大いなる愛をかたむけ、直接に言葉をもってする、あるいは手紙による援助を惜しまなかったのである。人々は到る所から彼に手紙をよこしたが、彼の返事は受取る人の心に光と聖霊の御働きをもたらすのであった。彼はパリにおいて、1680年9月3日に七十五歲をもって、聖なる死を遂げた。彼の書簡が、他日、篤志家によって収集され、公刊されることを希望する次第である。さて、ラルマン師の伝記に戻ろう。
天主の御独子の御託身が天使らに伝えられた時、すべての天使は神人に尊敬を捧げたが、特にある天使等は神人と、そを産み給うべき聖母に対して身を献げ、この御二方の現世の御生活中常に御傍に侍(はべ)っていた。しかしてその任務の一つは、御二方への彼等の熱誠と愛を人々に吹き込み、またこれを敬虔に献げる人々をあらゆる方法で助けることである、と云う認を信ずる人々にラルマン師も組みしていた。この理由から彼はこれらの聖なる天使を特別に尊敬し、すべての人々にイエズスとマリアを知らしめ愛せしめるため、またその御光栄増進のために、御二方に敬愛を献げるべく、その天使らと霊的に結束したのである。彼は、託身せられし御言の天使らに祭壇における附添いを願わずに、ミサを捧げたことはなかった。また、聖務を誦え始める時には、聖母に侍る天使らを招いて、共に天主に向い讃美の歌を歌わしめたものであった。
彼はイエズス会に入る志をいだいた時から聖イグナシオを父と考え、子のこころをもって彼に仕へ、必要なものはすべて、信頼をもって彼に願っていた。
彼は孝愛の賜を豊かに与えられていた。この天よりの賜は彼において望みうる限りの效果をあらわし、長上に対しては子供のごとき服従を、目下に対しては父のごとき思い遣りを、すべての人に対しては兄弟のような愛を、常に抱かしめていたのであった。
長上の中に天主のみを眺めさせ、彼等に対して子の心を持たしめて、従順の徳を完成するのは、孝愛にほかならない。ラルマン師はこの心構えをもつ人であった。それで彼の喜びは、己の職務や一切の行動を、天主の聖旨の真の解釈者なる従順によって律することであった。これを一層完全に行うために、彼は何物も求めず何事も拒まず、好き嫌いの自由さえ己にゆるさなかった。またひとたび長上の望みと知るや、それが命令として言葉に表わされるのを待たず、もっとも困難な、あるいはもっとも好みに合わないことをしようと、常に心がけていた。
彼は修練者等に特に従順の徳を強調し、この徳を五ヶ月あるいは六ヶ月続けて彼等の特別糾明の対象とさせた。そして常にこう云っていた。「兄弟等よ、私が従順についてこれほど長く諸君に糾明させることをうるさく思ってはいけない。もし諸君がそれを完全に行い得るようになれば、聖徳の道を真直に確実に歩みつつあると信じてよい」と。
彼が会則を正確に守ったことも同じ主義から来たのである。それは天主が彼に求め給うことを詳しく指示するものにほかならないからである。彼は会則を殊のほか尊重し、完全なる修道者の特徴である愛の精神をもって守った。
しかし彼の孝愛の精神が一段と目立って顕われたのは、同僚と目下に対する態度においてであった。この点では全く並ぶ者がなかったと云い得よう。
聖パウロが愛徳に帰したあらゆる特性は、彼の中に見えていた。彼ほど堅忍、柔和、謙遜、無欲、寛大、親切な人はなかった。
彼のすぐれた性質、人をひきつける真摯な態度、稀に見る惧しみ深さ、柔和と聖なる厳格さの調和した姿、また面にも言葉にも溢れていた聖い表情は、直ちに人々の心をとらえ、彼に胸襟をひらかせるのであった。一度でも彼と語りあうと、人は再び彼に聞き且つ語ることを切望せずにいられなかったのである。
彼は御摂理によって身近に与えられる人々と和合する術をよく知っていた。彼等の欠点を忍び、彼等に奉仕する機会を探し、彼等の心に入りこみ、かように身を屈した親切と忍耐によってついに全く人心を収攬(しゅうらん)してしまうのであった。
彼は、近づいて来る人には誰に対しても、何時でも、どれほど忙しくても、笑顔をもって心から迎へ入れるのであった。そして、うるさそうな態度を一度も示したことがなく、ただ彼に語らうとする人々の話を聞く以外には、何も用事がないかのように見えたのである。
リゴルウ師(P. Rigoleu)はその手紙の一つに次のことを記している。「自分と共に第三期修練をこの聖なる指導者の許で過した神父等のうち数人は、ラルマン師の意見に最初は幾分反対していたのである。しかし彼はよく柔和と親切と謙遜によって彼等の心をかち得たので、三ヶ月と経たぬ中にその指導に身を委ね切らぬ人は一人もないほどになった。そして誰も例外なく、かかる立派な長上に会ったことはないと云い合ったものであった」と。
ところで彼のためには、天主の思召によって、長上として親切に彼に臨むべき者、また目下や弟子として彼に尊敬と服従を示すべき者が、あるいは彼の心を痛め、あるいはその義務をおろそかにして彼を悲しませることも稀ではなかった。しかしこれに対して彼は夢にも遺恨を含み不平を云うことなく、むしろ喜びを感じ、なおよく彼等に仕えようと努めたのである。彼の報復は、彼等の霊的進歩を一層烈しく望むことに終ったのである。これについて彼はある日一人の友に語って、この望みは非常に強く、その烈しさを耐えることができないほどで、それがために自分は消耗しつくされると打ち明けたことがある。実際、彼を一番よく知っていた人々は、ラルマン師を燃えたたせていたあの熱愛の火は、きびしい苦業に劣らず、彼の生命を縮めることになったものと信じたのである。
彼がブールジュの中学校長となって間もない頃のことである。パン焼き係であった一修士がある日師の許に来て、その仕事が余り多過ぎることを荒々しい口調で訴え、事実を調べた上で代りの人を置いて欲しいと云った。ラルマン師はおだやかにそれを聞いて、彼の荷を軽くする約束をした。次いで師はパン焼き所にひそかに自らおもむき、力一杯捏粉をこね始めた。先の修士は興奮から覚めてパン焼き所に帰って来ると、校長が彼に代って働いているのを見付けてすっかり驚き、直ちに師の足許に身を投げ恥じ入って己が罪を詫びたのであった。そして、かくまでに愛情深い長上の慈しみと謙遜に、感服したと云うことである。
こうした場合、彼はいつもこのように慈しみ深く振舞ったので、誰でもが結局彼の望むままになるのであった。イエズス会を管理するにはきわめて柔和でなければならない、ということを、日々の経験によっていや増しに教えられる、と彼は常々言っていた。さらに長上は恐れよりは愛によって従わせる方法を学ばねばならぬこと、規律を正す手段は厳格さと懲罰によるのではなく、長上の慈父のごとき親切と、目下の者の不足を助ける注意深さ、また彼等の中に内的精神と祈禱の心を保たしめ増大せしめる配慮等によるべきであることを説いていた。
彼の秀でた才能は、そのやさしい愛徳が人々の心をかち得たと同様に、彼等の尊敬と信頼をひき寄せた。生れながらのすぐれた理解力と公正堅固な判断力による光と、神学への深い造詣と個人的体験より得た光に加えて、さらに天主が聖職者等に己自身のためあるいは他人の指導のために与え給う天来の光によって、彼はすばらしく照されていたのである。
彼は、みずから聖霊に関する講義の中で述べているごとき、聖人等の知識を所有していた。その説くところをみても、彼が霊的生活に最も通じていた人の一人であることが、みとめられる。彼はこの事柄に関しては真に霊妙に語るのであった。そして彼の指導のもとに第三修練期を送った神父等は、彼の稀なる天賦の学才と超自然の事柄に関する豊かな諸種の知識に感嘆したものであった。これは明らかに彼の天主との一致から来たことであって、それらの知識は天来のものたる印を帯びていたのである。と云うのは彼には勉学の暇がなく、時間の多くは祈禱と修練者に語ることで過されていたし、彼が日々与えた訓誡や講義を準備する時間はほとんどなかったからである。それにもかかわらずそれらは非常に充実していて美しく、その準備には彼の時間全部を宛てたことと思われるほどであった。
霊父等の中の最年長者や一番おも立った人々も彼の談話を非常に喜び、彼が霊的な事柄について語るのを聞く利益を得るために休憩時間の一瞬をも失うのを惜しんだのであった。一人の特に才能をめぐまれた霊父は、この聖なる人と語って何か新しい知識をもうけぬことはなかった、と断言している。即ち、師がすぐれて通暁(つうぎょう)していた聖書の意味に関して、あるいは神学上また霊性上の諸点について、いずれの方面においても獲るところに乏しくなかったという。
その著述と秀でた徳によってすべての人の尊敬を受けていた、ジュリアン・エイヌーヴ師(P. Julien Hayneuve)がルーアンの修練院長だった時、ラルマン師は同院で第三期修練を過す霊父等の指導者であった。院長はかかる完全な指導者の弟子になることを望み、修練者とならんで師の訓誡や講話にことごとく出席した。そして師の話に、彼がこれまでどんなところでも受けたことのない光と感動を与えられたということである。
師の話がいかに感化力に富み、人々の心に感銘を与えたかは、想像できぬほどである。聖パウロが言語の賜と称したその天来の恵みは、彼の勧告にも警告にも激励にも慰撫にも、あきらかに認められた。彼の唇をついて出るただの一言が、みだれた心を静め、かたくなな精神を承服させたことはしばしば見られたことである。
ある人々は、ルイ・ラルマン師のフランスのイエズス会に於ける存在に、スペインの同会におけるアルヴァレス師(P. Alvarez)の存在と等しい意義をみとめているが、いかにもうなずかれることである。たしかにラルマン師はかの聖テレジアの有名な指導者と同じく、神秘神学のすぐれた知識と経験とを合せもっていた。そしてアルヴァレス師のごとく、その弟子等の中にかつてイエズス会が有したもっとも霊的な、もっとも内的な人々を数えしめているのである。彼の指導下に第一次あるいは第二次修練を過した人々はいずれも、敬虔かつ端正な態度において他の人々とかけはなれるものとなったことは、前に述べたごとくである。彼等の態度は、師より学んだすぐれた教訓、わけても潜心と内的生活を愛する念を得たことに負うていたのである。
彼は、イエズス会に属する人々をみちびく特殊の才能を天主に与えられていることを自身承知していた。彼等の上にかけられた天主の御意向、それに対する彼等の側からの障碍、また、完徳達成のために彼等の歩むべき道などについて、知識を与えられていることを自認していた。イエズス会員が招かれているところの聖徳は、想像も及ばぬほどのものであること、そして各自のために天主がそなえ給う聖寵を見るならば、それらは実にもう一人の聖イグナシオ、もう一人の聖フランシスコ・ザベリオたるべき者にのみ宛てられてあることがわかる筈である、と彼は常に断言していた。
彼は明確な分別と賢慮とを常にもっていた。その光によって、万事に最善のもの、その時と所と状態とにもっとも適合するもの、人が志す目的にもっとも合うこと、天主の御旨に最もかなうことを識別することができた。彼がその死去の七八年前に、人間の弱さをはるかに超えた勇敢な願を立てたのもこの光によってである。それは万事において彼がもっとも完全と判断したことを行うことであった。しかし彼はこれを非常に慎重に行ったのであって、最善と思うことを選びつつも、もし特にすぐれたものであれば、やや下位に属する善を拒みはしなかった。
彼がよく語ったことは、聖人たちに於いて我等が見習うべきは、彼等の非凡な徳の手本の中のきわ立って輝きを放つものではなく、万事に、そしてごく些細なことにも聖寵に従ったその不断の忠実さをまねるべきであるということであった。そしてもし我等が彼等のごとく忠実かつ勇敢であるならばたとえ彼等と同じことを行わず、同じ苦しみを味わわなくとも、功徳においては匹敵する、ということである。
彼の管理の態度はまったく超自然的で、そこに策略的精神などはいささかもなかった。彼はこの精神を以てふるまう長上を戴く修院のあることを思って嘆いていた。目下の者は、人々を天主にみちびくキリストの代理者なる長上に、従順と信頼の情をもたねばならぬのに、策略的精神はそれをつまずかせ妨げるものであると、彼は言っていた。
彼は決してあわてて事をなさず、聖霊の光に計らずにはいかなる決心も立てなかった。聖寵の御働きに先走る性急な熱望と、内部の光にろくに心を留めぬ烈し過ぎる熱心とは、內的生活を営む人に対する天主の御働きを最も妨げる欠点の一つであって、福音のために働く者にも、その労務と聖職の努力の成果を減ぜしめるものであるというのが、彼の持論であった。実際、彼はいかなる振舞いにおいても賢慮に反する過ちというものを犯したことがないようである。
霊魂のもつとも崇高な光は、照明と上智の賜より来るものである。聖霊は、霊的教訓を説いたもっともすぐれた師父等になし給うたごとく、ラルマン師にもそれらの賜をゆたかに恵み給うた。我らの信仰の玄義、わけても神人の玄義について、彼ほど深く悟り究めた人を見出すのはむずかしいであろう。彼は、聖パウロと共に、キリストのはかり知られぬ富を世に知らせる恩寵を受けた者である、ということができよう。
彼は一般の人のように、御託身の玄義や、聖人たちの行為に関して、その外部にあらわれたところや、外形に目をとめるに止まってはいなかつた。聡明の賜は彼をしてその精神にまで分入らせ、イエズス・キリスト、聖母、諸聖人の感嘆すべき内的状態を悟らせたのである。また、これこそ彼がもっとも努力をかたむけたところであった。彼が聖母に対して懐いていた気高い観念は、そのたぐいなき完徳と、原罪の汚れなき御孕りのその瞬間から、御生涯を通じて、殊に御告げの玄義において天主の御母となり給うた時、聖母の上に行はれた霊妙について、深く観想し悟らされたことに基づいていたのである。彼は聖母が原罪を免れさせられたばかりでなく、その結果負うべき義務からも解放されい給うたと信じていた。(註、勿論この当時は無原罪の御宿りの信仰箇条はまだ定められていなかった)
諸聖人の中で彼がもっとも広いもっとも明らかな知識をもっていたのは、聖ヨゼフと聖イグナシオに対してであった。聖イグナシオは彼に己が精神を与え、その子等にもこれを伝える力を、天主に乞うて彼に与え置いたようにも思われる。彼は「この偉大な聖人のもろもろの徳と聖寵について世に知られて居り、またその伝記作者がみとめているものも、彼の霊魂の奥底に隠れている内的完徳にくらべるならば、殆ど無にひとしい」とよく言っていた。
彼は聖書を解釈し、その種々の意義をさぐる上に独特の聖寵を有していた。彼は絶えず聖書を読んで居り、又それをほとんど唯一の学問としていた。しかしそれも聖書註釈書によるよりは、むしろ祈りつつ教えられたのである。天主の聖言を読みつつ種々の難点に遭遇すると彼は祈禱にたすけを求めた。それで時としては、ある一句の意味について、一年間聖主に光を請い続けたこともあったということである。
聡明の賜は天主に関する事柄を第一の対象とするのではあるが、それのみに限られてはいない。それは人間的行為やこの世の事物にまでも及んで、そこに天主の御計画を見出し、それらが如何に天主の御光栄に寄与しあるいは反するかを知らしめるのである。ただし、純潔で利己心なく、潜心し天主に親しく一致している人々のみが、この聖き洞察をなし得るのである。ラルマン師は天主のみを眺め、万事に天主のみを求めていたので、天主の現存を体験する恵みや純い意向の光によって、人間的精神から来る手管や欺瞞を見すかし、諸種の事件や企の中に天主の御計画、御利益と人間のそれとを見分け、また万事に天主よりのものと被造物よりのものとを区別し得たのである。
己を注意ぶかく見張り、その心の動きをことごとく監視し整へる労をいとわぬ人は、やがて人々の心の秘密をも看破する特殊の能力を受けるものである、と彼は云っていた。それは、彼等が自己の内心に対して払った努力に天主がこの恵みをもって報い給う故であり、あるいは彼等自ら感じた経験が他人の心中を正確に判断させる故である、という。
そうとすれば、ラルマン師が実際に人々の心の奥を見透し、彼等が隠そうとしたもっともひそかな思いさえも看破し得たことは不思議ではない。
修道士の一人の証言によると、ある時彼が師に告解したとき、この聖なる人は彼が告白を略した一つの隠れた罪を知らせた、またある時は、彼が心にいだいていた考えを言いあらわし、襲われていた誘惑の詳細をすべて言いあてたということである。
他のある人は自分の魂のひそかな悩みを師に打ち明けるつもりで彼をおとずれたが、その部屋に入ると恥かしくなって急に心を変え、他の事柄について語り始めた。すると、ラルマン師は彼が隠していた心の苦痛を悟って、そのあえて語り得ぬ事柄について、あたかも彼が心を全部師に開いたかのようにはっきりと答えたという。
ある日若い修士がはるかに来かかるのをみた師は、(この修士は何かの思惑から師の前に出るのを恐れ、出遇わないですむように種々の口実を探していたのだが)彼を呼びとめ、あたかもその眼で見たように彼の心に起っていたすべてのことを看破して告げた。青年は師に心を見透されたことを非常におどろき、自己の弱点を率直に自白し、ただちに元の信頼を取戻したのであつた。
このようにしてラルマン師は、その霊的子弟の幾人かを、まさに堕ちようとしていた不幸から守ったのである。また、自己の召命について迷いはじめていた者には力を附け、ゆるみ始めて来た者にはあらたな熱を吹きこんでふたたび燃え立たせたものであった。
上智の賜は、聡明の賜に感動と甘味とを与えてこれを完成する。それなくしては、聡明の賜より受ける一切の智識は無味乾燥となるであろう。
ラルマン師が聡明の賜を受けたのは上智の道によってであった。聖主が御弟子等に曰うた御約束の效果を彼はまさしく経験したのである。聖霊の御働きは彼の師となった。天の黙示、甘味、天主よりの慰めを、祈禱の中にあるいは祭壇においてしばしばめぐまれ、それらは信仰の小暗い真理を明白にし聖書の意義をあらわし、教義の奥ふかく隠された秘義をくりひろげたのである。
ある夜キリストは彼を呼びさまし給い、今は御託身の玄義が成就した時刻であると曰うて、この大いなる玄義において聖母にあたえられた恩寵にいささかあずかるべく用意するよう仰せられた。そこで彼は起きて祈りはじめた。しかしてその熱心な祈禱のうちに、密なる一致によってあたかも神人イエズスを身に帯び、その存在に貫き占められるごとくにおぼえた。そしてその一致によって霊肉共に不思議な方法で浄められたのである。同時に聖母もあらわれて、彼をわが子と呼びかけられ、特にいつくしみ給うことを保証し、また、人々からほとんど忘れられている御子の聖なる御人性に特別な信心と熱誠をささげることをすすめ給うた。そこで師は、二つの恵みをあえて聖母に請うた。第一は彼が常に聖母を忘れぬこと、――というのは時として聖母を考えずに、幾時間かを過すことのあるのが彼に幾分苦痛だったからである。第二は、彼がその心をささげていた拝すべき聖主の御人性から決して引き離されないことであった。聖母はその恵みを両方とも約し給うたが、事実それ以来、師は聖子と聖母の御前に在る恩恵に絶えず浴することとなった。
その後しばらくして、自己の救霊について懸念と疑いの誘惑におそわれた時、師は、聖母が御子の聖き御人性より決して離されまいと約束して下さったかの保証をおもい起して、誘いを斥けた。ところが後にこの保証を頼むそのよりどころを省りみて、そこには何か僭越なものが含まれていはせぬかという恐怖に捕われはじめたのである。その不安のさなかに聖母は現われて、彼の危懼を除き給うた。そうして、彼が己に頼ることなく、約束された聖寵によりすがっている以上、その信賴は僭越ではないということ、又この種の約束は常に条件付きで、それを受けた人が充分に忠実であると仮定されてのことであり、もしも忠実さが欠ける時は、聖母がさきに天主から彼のために乞い給うた恩寵にもかかわらず、失墜は可能である、ということを知らせ給うたのであった。
彼の第二次修練期にあたって、聖主は彼の霊的生活を教えみちびくために、守護の天使のほかにより上位の一天使を与え給うた。この二人の天使の一人かあるいはある聖人が夜なかに彼を起して祈禱に招くことがあった。しかし最もしばしばこの恵みを彼に与えたのは、聖主御自身あるいは聖イグナシオであった。
聖イグナシオは、彼が哲学科の学生だった時に、奇蹟的にその病を癒したことがある。それから第三次修練期中、すでに九年間の勉学中に悩まされていた持病の頭痛から全く癒されたのも、この聖人が天主より彼のために請い受けた恩恵である。
ある日は、執拗な烈しい誘惑におそわれて祈りはじめると、聖テレジアが現われて敵を追い払い彼の霊魂に平和を恢復させた。後にまた同じ誘惑が戻って来た時、彼は例のごとく祈禱に援けをもとめた。すると聖イグナシオと聖テレジアがあらわれて、悪魔を追い払い、以後永久にその種の攻擊から彼を解放したのであった。
またある日、ルーアンの修練院の聖堂で天主に祈っている時、彼は聖ヨゼフの訪問を受けた。そして諸種の恩恵を蒙ったのであるが、その詳細は彼が受けたその他の天来の多くの訪問と同様、人に知られていない。しかし彼はそれらによって、疑いの起る時には教えられ、悩む時には慰められ、労苦する時は力づけられ、また天主がその御光栄のために鼓吹し給う事業を行う時は励まされるのであった。
彼が煉獄の霊魂の有様について数度の黙示を受けたことは確かであると云われる。彼はその霊魂達の苦痛をながめ、その原因を悟り、また彼等が華々しく天国に凱旋するのを見て慰められることが度々あったのである。たとえば聖イグナシオのごとき聖人がそれらの霊魂を聖主に献げ、キリストはどのようにしてそれを受け容れ給うたか、また、守護の天使が光栄の座に伴い行く霊魂を天使聖人等が歓迎し、救主が備えの玉座に就かしめ給うさまなどを見たのである。
彼の祈禱、読書、研究は通常、聖寵の慰めと甘味で味つけられていた。聖霊の甘味な働きは彼の唇から流れ出で、言葉の中におのずとそれが感じられたのであった。
聖霊の御導きに完全に自己をゆだね奉ることについて、彼が人々に特に力を入れて勧めたことを自身どれほど完全に実行していたかは、想像に難くない。彼は幼少の頃から聖霊の御指導に身を献げていたのであり、その全生涯はこの至上の霊の御指図に対する一の不断の服従にほかならなかった。聖霊は夙(つと)にその賜もて彼を満たし、そのすべての御働きに対する感嘆すべき順応性と従順さを与えい給うたのである。
聖霊はまた神秘神学に於ける彼の師に在した。彼はそれを人から学んだのではなかった。たしかに立派な徳と才能を具えた修道者等を指導者に戴いてはいたが、彼等に負うところも、シュラン師(le Pere Scurin *)やリゴルウ師があの域に至るについてラルマン師自身に蒙った御蔭には遠く及ばないのである。彼が驚異的進歩をとげた内的生活の崇高な道において、導き手であったのは聖霊にほかならなかった。その心に聖霊の刻み給うた内的掟は彼のよって立つ原則となり、彼は万事についてそれにしたがい、それのみに依って行動したのであった。彼の振舞いはことごとく超自然的で、その感情、言葉、行為はまったく天主に占められた心の下地から来るように思われた。そこにはいささかの欠点もみとめられず、結局、彼において内面と外面とは完全に一致していたのである。彼の内的生活はキリストと共に天主の中にまったく隠されていた。しかして、イエズスの御精神は彼の內的生活のうちに鏡にみるごとくあきらかに映し出されていたので、彼を見る人はおのずと信心の感動を覚え潜心に惹かれるのであった。
彼は、聖イグナシオの精神によって立ち、この聖人に真に似通っている点、当時のもっとも完全なイエズス会員の一人であると一般にみとめられていた。諸修道会の長上達、特にカルメル会や訪問会の修道女等、また彼が居住した諸所の特に信心深い人々はみな彼との聖い交際を続けていた。そして彼等は自身のためにも、あるいは彼等に託された霊魂を指導するためにも、彼の助言を求め、それを聖霊の神託でもあるかのごとくに傾聴したものである。
彼の弟子等はみな師の徳について非常に高い評価をもっていたので、私の見るところでは、折にふれて師のことを感嘆して語らぬ者は一人もないほどである。中でもジャン・ジョゼフ・シュラン師(Pere Jean Joseph Scurin)とジャン・リゴルウ師(P. Jean Rigoleu)とは、師に対して、人が聖人にささげるような尊敬と崇拝をいだいていた。そして彼等の著述は、彼等がその精神にも心情にも師の教訓と聖徳とを完全に引きうつしていることをよく示しているのである。
彼の名声は外国にまで行きわたった。その聖徳は、当時スペインのカリオンに住んでいたクララ会の御昇天のルイズ童貞に奇蹟的に天の啓示としてあらわされたのであった。この修道女はかねて聖寵の不思議な御働きを蒙ることで世に聞えていた人である。彼女に聖なる人ラルマン師が、そのすでに達している完徳の高さの度合と共に、心眼に示されたのであった。それでこの修道女は彼と聖き友情を結びたいと望み、ルーアンに行く人の幸便に托して、イエズス会のルイ・ラルマン師に挨拶を送り、また自分のため彼の祈を願ったのであった。
主の御光栄の増進のことをおもえば、そのために資するかぎりの長壽を天主が彼に与え給うことは望ましかったかも知れぬ。しかし天主の御判定は我等の測り得るところではない。長上はルーアンの修練所における職務の過労がラルマン師の健康を害ったことを認めて、そこから転任させ、ブールジュの中学校の上級生徒監とし、次いで同校の校長とした。しかしその間、彼は生に倦み悩んでむしろ死にあこがれていたのであった。死というものは、我等の意に反して罪の法の支配下にあるこの堕落した状態を脱して、天主を明らかに観奉り、永遠に罪を犯すことの不可能な聖き自由の幸幅な状態へと移らせるその通路であると思っていたからである。死期の迫るのを感じた彼は片手に十字架を取り、片手に聖母像を持ち、それらを交る交るながめていた。そして、あるいは愛情をもって語りかけ、あるいは信賴と親愛の念をあらわに示して交互に見やるさまに、居並ぶ人々はみな涙にくれたのである。この敬虔の念にひたりつつ、彼はその霊を静かに創り主に帰し奉ったのであった。時あたかも1635年4月5日、聖木曜日にあたり、享年四十七歳であった。その中の二十九年はイエズス会で過されたわけである。
彼の死の報せが町中にひろがると、師に対する尊敬の情は更に高められた。誰もが彼について聖人に対する如くに語り合い、その遺骸に敬意を表するために群をなして学校に集ってきた。ある者はロザリオを触れ、ある者は彼の髪や衣服を切り取るなどして、すべての人が遺物を手に入れようとし、又彼の手足に接吻しようとした。多くの人は、敬虔の情のたかまるあまり、涙をおさえかねていた。
大聖堂で四旬節の説教をしていたアウグスチノ会の一霊父は、聖金曜日に聖主御受難の説教を行った後、この死者に対して短い讃辞を述べ、その夕行われる筈になっていた彼の葬儀に出席するよう聴衆にすすめた。そしてそれは、その言によれば、人々の祈りでこの死者を助けるといるよりはむしろ彼等の方が、逝けるラルマン師を天国に於ける保護者と仰ぎ、全市民の守護者として、且つは天主の御前の力強き代願者として、その取次ぎを求めるためであった。また実際に市民ばかりでなく、司祭も修道者も更に家柄地位ともに世に聞えた人々が、彼の葬儀に参列して、その聖徳と天主の御前における取次の力に対する信頼の程を示したのであった。
彼の光栄のかがやきは数度にわたって世に顕わされた。そして多くの人が彼の執成によって特別の恩恵を受けたと信じたのである。
師は丈高く威厳のある容姿の人であった。額はひろく清朗で、髭と髪は濃い栗色、頭髪はすでにうすくなっていたが、顔だちは面長でよく整い顏色は浅黒い方であった。その頬はおおむね心内に燃える天来の火に映え、魅力あるやさしさにみちた眼は、判断の確実さと精神の完き平静を表わしていた。彼ほど容姿すぐれてすべての動作が調和し、また深い信心と潜心を外にあらわしていた人を見たことがない、と彼を知る人のうちでも特に眼識ある人々が語るのを私は聞いた。それで、人はみな一見したばかりで彼に惹きつけられ、尊敬を抱くのであった。
彼の霊魂の内的状態を描き出すもっとも忠実な肖像画は、リゴルウ師によって編集され刊行されるこの「霊的教訓」であろう。私はこれを一つの贈物として、内的潜心を切望する人、特にイエズス会の会員に呈する。彼等はここに、その身分にふさわしい完徳をことごとく見出すことであろう。
【*le Pere Scurin は、この本の中では六か所に出てくる。小伝記の中の二か所では Scurin となっているが、他の四か所では Seurin となっている。Seurin の方がよりフランス語らしいが、ここではそのままにしてある。】