2022年6月12日(主日)三位一体の大祝日のミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父 説教(大阪)
父と子と聖霊との御名によりて、アーメン。
聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
7月3日には、午後3時、つまり15時から、大阪の市役所からマーチ・フォー・ライフがあります。たくさんの方が、命を守る為にマリア様と一緒に行進して下さることができれば本当に嬉しく思います。たくさんの方と一緒にいらして下さい。
今日、聖三位一体の大祝日ですので、一緒に今日この神秘を黙想致しましょう。
「一体、三位一体ってなんだろう? 御父と御子と聖霊。御子は御父から生まれた。天主様は子供を産むの?どういうことなのだろう?」とか、「御父と御子と聖霊は三つで、でも唯一の天主。う~ん。」とか、「一体、三位一体と私たちは一体何で関係があるの?」
今日は「あぁ、そういうことだったのか」とこれをよく理解する御恵み、三位一体の神秘を一緒に讃美する御恵みを乞い求めましょう。
三位一体の神秘の核心、そのまず一つは、「天主は唯一である」ということです。
この果てもしれない大宇宙を見て下さい。アメリカの科学者がハッブル望遠鏡というのを宇宙に飛ばして、空気の無い所から多くの星を映して、そしてその映像が地球に送られてくるのを見ると、ものすごい数の天体があって、遠い距離にあって、そしてそれの色や形、運河や星雲など、とても人間の想像をはるかに超える莫大な大きな大宇宙が、私たちの周りにあるということが分かります。
その大宇宙を一瞬の内に御創りになったのが、唯一の天主です。この唯一の天主というものは、物体が分割することができるように、天主も分割することができるというものではありません。これ以上一つであることができないほど、一なるものが、天主です。でも、小さいという意味ではなくて、無限の存在であって、この世界を無限に超越している唯一の存在、これが天主です。
この頃、毎週土曜日の16時から、中高生の為に公教要理の勉強をオンラインで教えています。昨日は、「我は天地の創造主、全能の御父なる天主を信じ、」ということを話しました。その時に中高生の男の子たちに、実は人間の目というのは、カメラよりももっと精巧にできている、という話をしました。丸い眼球があって、その水晶体は透明でなければならない。それからまつ毛があって、虫とか埃が入らないようになっている。まつ毛の向きも正しくないと目は空けられない。それからまばたきをして、目を守って、涙が出るようになっている。それからレンズがあって、レンズが大きく膨らんだり、細くなったりして、焦点を合わせる。ちょうど焦点が合わさるところに、網膜があって、そこで物がなにかがはっきり写るようになっている。特に中心点には、特別の細胞がたくさん集まっていて、文字を読んだり認識したりすることができるようになっている。しかも、両目は同時に瞬時に動いて、より立体的にものが見えるようにできている。どんなにカメラよりももっと精巧な作りだ。一体誰がこれをデザインしたのか?という話もしました。
しかも「瞳孔」と言って、光の量を調節するために、絞りの役割をするものがあります。人間の瞳孔は丸いのです。でも夜行性の猫やキツネは、瞳孔が縦のスリットになっていて、夜でもパッと開いてよく光が入ってきて分かるようになっている。何で縦になると、小さい丸よりももっと素早く調節ができて、暗いところでも光が多く入ることができるのです。こんなことを夜行性の動物たちに誰が教えたのか?
もっとすごいのが馬とか牛とかキリンです。草食動物の瞳孔です。この瞳孔は横のスリットになっています。なぜかというと、草食動物は目が横に付いていて、敵がどこにいるかわかるように360度見えるようになっているのですが、瞳孔は横のスリットで上下に開くのです。瞳孔が狭くなっても敵がどこにいるかが分かるようになっているのです。動物は必要と性質に合わせて、目の細部にいたるまで素晴らしいデザインがされています。すべては目的にあっています。一体誰が考えたのか?
動物や人間の目もそうだけれども、実は鳥の目はもっとすごい、という話もしました。鳥の目は、空を飛んで空を見渡すと同時に、地上にいる小さな餌を見つけることができるようになっている。それで特別に目の中に、人間にはないような器官があります。目の中に血がたくさん流れることができるようになっているのです。しかもレンズがもっと厚くなったり薄くなったりするように、必要に合わせてレンズが特別の仕組みになっています。空を飛ぶ為にできている、という話もしました。誰がデザインしたのか?
それもすごいのだけれども、魚(さかな)の目はもっとすごい。なぜかというと魚の目は水中専用の目をもっているからです。もしも皆さんがプールの中に入って水の中でモノをみるとぼやけてよく見えなくなってしまいます。でも魚は水の中だとよく見えるようになっている。なぜかというと、水の中は光の屈折率が空気とは違うので、それに合わせてレンズが丸くなっている、まん丸になっているからです。だから魚は水の中になるとよく見えるんです。水中用のレンズは厚くなったり薄くなったり大きさを変えずにそのままです。では魚の目は、焦点をどうして合わせるかというと、レンズを前後にずらして網膜に焦点を合わせているのです。すごい仕組みになっているんです。一体誰が考えたのか?
最高のデザインの全てを天主が考えました。世界中にある動植物が、その目的に到達することができるように、うまくできている、すべてを創ったお方、唯一の天主がおられる、という話をしました。
この唯一の天主は、実は「三位一体」なのです。御父と御子と聖霊です。
この三位一体について、以前異端がありました。異端は「天主が霊的なものである」ということをよく理解できずに、何か物体的であるかのように誤解してしまったのです。
そのうちの一人が、アリウスという人でした。アリウスは、「天主御父(おんちち)が『原因』で、御子(おんこ)や聖霊(せいれい)は『結果』だ。」だから、天主御父が御子を創って、聖霊も創ったと、あたかも被造物であるかのように教えました。間違っています。そうではないのです。何か御父から「出てくる」というのは、物体的なことではないのです。御子が生まれた、とは物体的なことではないのです。
その後で、サベリウスという異端者が出ました。彼は、「天主は唯一だから、天主には顔が三つあって、全世界を創る時は御父という顔をしていて、人間になる時は御子で、さらに愛として人間に贈られる時は聖霊という顔で、三つの顔を持った唯一の天主だ」といいました。いえ、そうではないのです。御父は御子でもないし、御子は御父ではないし、聖霊でもないし、聖霊は御父でも御子でもない。三位一体の御父と御子と聖霊は、互いに別です。しかし唯一なのです。
一体どういうことかというと、これは「天主が純粋な霊である」ということを忘れてしまったから、こんな異端が出てきたのです。唯一の天主は、純粋な霊です。天主は、私たち人間が知っている限りの最高の活動に似た活動をしています。「似た」と言うのはなぜかというと、人間の知っている表現には限界があるので、それをうまく語り尽くすことができない、言い尽くすことができないからです。
人間の知っている最高の活動というのは、「知性の活動」です。そして「意志の活動」です。「真理を知る」ということ、あるいは「善を欲する」というこの活動が、被造物の、目に見える世界の中で、最高の動きです。
天主は、天主の命の内部において、その最高の活動をしておられるのです。
どういうことかというと、天主御父は、御自分が完全なる者であるこということを、永遠の昔から理解しています。完璧に把握しています。それなので、その自分の理解したことを概念として、言葉として、「天主、私はこうだ」と発する、それが『御言葉』です。
「はじめに御言葉があった。御言葉は天主と共にあった。御言葉は天主であった。かれは、はじめに天主と共にあり、万物はかれによって創られた…」(ヨハネ1:1)
ちょうど人間から別の人間が出てくると、「生まれた」と言われます。そのように、御父(おんちち)が御自分を理解した、そのまったき知解、御言葉は、天主御父(おんちち)と全く同じなので、天主御子(おんこ)が「生まれた」と言います。これは人間の言葉が表現することができる、最高の描写なのです。
すると、天主御父は御子を見て、そしてそれを理解して、それが最高の善であるということが分かります。あまりにも美しい、良いものであるということが分かって、御子を愛します。御子も、御父を完璧に理解して、最高の善であるということを理解して、御父を愛します。この愛の交流から、『聖霊』が発します。
この天主の中でのこの愛の構造、愛の交流が、これが三位一体の神秘なのです。それを人間が限られた表現で表現しようとすると、このようになります。
じゃあ一体何で、これは私たちにこんなに大切なのか?
なぜかというと、天主御父は私たちを、この三位一体の愛のまどいの中に、この愛の中に招いて、そして私たちを愛して、私たちが天主から愛されて、そして天主を愛して、そして永遠に幸せであるように、その為に私たちはこの世に生まれてきたからです。私たちの究極の目的は、三位一体の愛の中に入ることです。そして永遠に幸せであることです。ですからこれ以外には、三位一体以外には、私たちの目的がないのです。三位一体以外には幸せがあり得ないのです。そこに私たちは戻らなければなりません。
ですから、その三位一体に戻る為にはどうしたかというと、御子が人となって、そのやり方を教えてくれました。弟子たちにこう仰いました。「だからあなたたちは諸国に弟子をつくりに行き、御父と御子と聖霊の御名によって洗礼を授けよ。」(マテオ28:19)御父と御子と聖霊との、三位一体の御名によって授かる時、私たちの心には、霊魂には、三位一体が住まわれるのです。それは永遠の命の始めです。
もし今、この地上にいる間、三位一体の命が私たちに無いならば、永遠にそれを持つことができないのです。でも今、それが始まると、それを永遠に持って、永遠の命を受けることができるようになるのです。その為に三位一体は御子を遣わして、そのやり方を教えて下さいました。ですから私たちにとって三位一体の玄義というのは、非常に大切なものなのです。
ですから私たちは、一体何をすれば良いでしょうか?
朝起きたら是非、御父と御子と聖霊との御名によりて、十字架のしるしをして、三位一体の御名によって一日を始めて下さい。また一日が終わる時にも、三位一体の御名によって十字架のしるしをして終わって下さい。頻繁に栄唱を唱えて下さい、「願わくは、御父と御子と聖霊とに栄えあらんことを、始めにありし如く、今も、いつも、代々に至るまで、アーメン。」
最後に、マリア様にお祈り致しましょう。マリア様が、天主御父の愛する娘、天主御子の天主の御母、天主聖霊の浄配、三位一体の神秘の中に深く入った御方、このマリア様の御取り次ぎで、私たちもその命の中に入ることができますように、お祈りしましょう。
父と子と聖霊との御名によりて、アーメン。