Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

「ロザリオの秘密」聖ルイ・グリニョン・ド・モンフォール著 第20、21、22番目のバラ:地上の生活の歩みを照らし導く十五本の松明、イエズスとマリアを知り自分自身を知るための鏡、天上の炎で燃えるかまど

2021年11月23日 | カトリックとは

第三連
ロザリオのすばらしさと私たちの主イエズス・キリストの御生涯と御受難の黙想について 

二十一番目のバラ:十五の玄義

玄義(神秘)とは、理解するのが難しい神聖なものである。私たちの主イエズス・キリストの御業は、すべて聖なるものであり、天主の御業である。なぜなら、彼は天主であられると同時に、人間でもあられるからだ。最も祝福された聖母の御業も、天主の被造物の中で最も完璧で、最も汚れなきものであるがゆえに、非常に神聖なものである。私たちの主とその聖母の御業は、不思議と、あらゆる種類の完全さと、そしてこれらの神秘を尊ぶ謙遜で素朴な霊魂たちに聖霊が啓示する、深く崇高な真理とに満ちているので、まさしく玄義と呼ぶことができる。

イエズスとマリアの御業は素晴らしい花とも言えるが、その香りと美しさは、それを注意深く研究し、熱心で誠実な黙想によってそれを開き、その香りを吸い込む者だけが味わうことができるのである。

聖ドミニコは、主と聖母の御生涯を、彼らの聖徳と、最も重要な行ないを表す十五の玄義に分けた。これらは十五の劇的場面、またはイメージであり、その細部は私たちの生活を統治し、鼓舞しなければならない。これらは、この地上における生活の中で私たちの歩みを照らし導く、十五本の燃え盛る松明なのである。

これらは、私たちがイエズスとマリアを知り、自分自身を知るための十五枚の輝く鏡でもある。また、これらは私たちの心の中に、彼らの愛熱の火を灯すのを助けてくれるだろう。

またこれらは、私たちを天上の炎で完全に燃え尽くすことができる、十五の燃えるかまどでもある。

聖母は聖ドミニコにこの素晴らしい祈りの方法を教え、キリスト信者の熱意を呼び覚まし、彼らの心に聖なる主への愛を復活させるために、この方法を広く宣教するように命じた。

また聖母は、福者アラン・ド・ラ・ロシュにもこの祈りの方法を教え、ヴィジョンの中で彼にこう仰せられた。“人々が百五十の天使祝詞を唱えるとき、この祈りは彼らにとって非常に有益であり、私にとっても非常に喜ばしい讃辞となります。しかし、彼らがイエズス・キリストの御生涯、御受難、御死去を黙想しながらこの祝詞を唱えるならば、さらに良い結果が得られ、さらに私を喜ばせることになるでしょうーーこの黙想こそが、このロザリオの祈りの魂なのですから。"

実際には、私たちの救いの聖なる玄義を黙想せずにロザリオを唱えることは、魂のない肉体に近いものである:事柄としては優れていても、黙想という形式をとっていないことーー後者(黙想)は、他の全ての信心とは異なるものなのである。

ロザリオの第一部には、五つの玄義が含まれている。第一の玄義は、大天使聖ガブリエルの聖母への受胎告知、第二の玄義は、従姉妹の聖エリザベトへの聖母の御訪問、第三の玄義は、イエズス・キリストの御降誕、第四の玄義は、幼きイエズスの神殿への御奉献と聖母の御潔め、第五の玄義は、神殿での博士たちの中でイエズスを見出す場面である。

これらは、全宇宙に喜びを与えたことから、『喜びの玄義』と呼ばれている。天主の御子が托身されたその瞬間、聖母と天使たちは喜びに包まれた。聖エリザベトと胎内の洗者聖ヨハネは、イエズスとマリアの御訪問を受けて喜びに満たされた。天も地も、救い主の御誕生に歓喜した。聖シメオンは、御子を腕に抱くと、大きな慰めを感じ喜びに満たされた。博士たちは、イエズスが与えた答えに感嘆し、驚いた。そして、三日間行方不明だった幼いイエズスを見つけたマリアとヨゼフの喜びは、誰にも言い表すことができないであろう。

ロザリオの第二部も五つの玄義で構成されている。これらの玄義は、悲しみに重荷によって圧迫され、御傷によって覆われ、侮辱や苦しみ、苦悩を背負った主を表しているため、『苦しみの玄義』と呼ばれている。第一の玄義はオリーブの園でのイエズスの祈りと苦悩、第二の玄義は鞭打ち、第三の玄義は茨の冠、第四の玄義は十字架を担い給うイエズス、第五の玄義はカルワリオでの十字架上の釘付けと御死去である。

ロザリオの第三部には、他の五つの玄義が含まれており、これらの玄義を唱えるときには、イエズスとマリアの勝利と栄光を思い浮かべることになるため、『栄えの玄義』と呼ばれている。第一の玄義はイエズス・キリストの御復活、第二の玄義はイエズス・キリストの御昇天、第三の玄義は使徒たちへの聖霊降臨、第四の玄義は聖母の栄光ある天への被昇天、第五の玄義は聖母の天上での戴冠である。

これらは、神秘的なバラの木の十五の香り高い花である。信心深い霊魂は、その花の蜜を集め、堅固な信心の蜂蜜を作るために、賢明なミツバチのようにそれらの花々に向かって飛んで行くのである。


二十二番目のバラ:キリストに倣いて

キリスト教徒の霊魂の最大の関心事は、完徳に近づくことである。聖パウロは私たちに、「実に愛される子らとして、天主に倣う者であれ。」と言っている。この義務は、永久の栄光に到達するために天主によって定められた唯一の手段として、私たちの運命の永遠の判決に含まれている。

ニッサの聖グレゴリオは、私たちは皆、芸術家であり、私たちの霊魂は、私たちが描かなければならない真っ白いキャンバスである、と言っておもしろい比較をしている。私たちが使わなければならない絵の具は、キリスト教的聖徳であり、私たちのモデルは、聖父なる天主の完璧な生きた像であられるイエズス・キリストである。

良い仕事をしようとする肖像画家が、自分のモデルの前に身を置き、一筆一筆描く前に彼を見つめているように、キリスト教徒は常に、イエズス・キリストの御生涯と聖徳を目の前に置かなければならず、モデルと調和しないことを少しでも言ったり、考えたり、実行したりしてはならないのである。

聖母が聖ドミニコに、イエズス・キリストの御生涯の聖なる神秘を黙想することを信者に教えるよう命じられたのは、私たちの救霊の計画という偉大な任務において、私たちを助けたいと思われたからであり、聖母がこのようにされたのは、信者がイエズス・キリストを崇拝し、讃美するためだけではなく、何よりもイエズス・キリストの聖徳に自分たちの生活や行動を重ねるためであった。

子供は親を見て話をすることで親の真似をし、親が話すのを聞いて言葉を覚える。弟子は師の仕事ぶりを見て仕事を覚える。それと同じように、「聖なるロザリオの信心会」の忠実な会員は、イエズス・キリストの生涯の十五の玄義に示されているイエズス・キリストの聖徳を敬虔に学び、模倣することによって、その聖なる師に似通った者となることができる。彼らは、主の聖寵の御助けと、主の聖母の御執り成しを通して、これを行うことができるのである。

昔、モーゼは天主の息吹きを受けて、自分たちに与えられた恩寵を決して忘れないようにとユダヤ人たちに命じた。だからこそ天主の聖子は私たちに、御自分の御生涯、御受難、御死去の神秘を心に刻み、常に目の前に置くようにと告げる理由があるのである。なぜなら、それぞれの玄義は、主の私たちへの御親切をいくつかの特別な方法で思い出させ、主はこれらによって、私たちの救いに対する主の絶大な愛と望みを示しておられるからだ。

主は私たちにこう仰せられる。“あぁ、道行く者たちよ、しばらく立ち止まってよく見よ、おまえたちを愛するために、私が受けた悲しみのような悲しみがかつてあったかを。私の貧しさと辱めに思いを馳せ、苦い受難の中でおまえたちのために私が飲んだ、胆汁の混ぜ合わされたぶどう酒のことを考えなさい。”

これらの御言葉や他にも多くの御言葉を挙げることができるが、これらは、私たちが主と聖母を讃えて唇でロザリオを唱えるだけでなく、その間に聖なる玄義を黙想すべきことを確信させるのに十分なものである。

二十三番目のバラ:記念

私たちの霊魂の神聖な配偶者であり、いとも親愛なる友人であるイエズス・キリストは、私たちへの御自身のご親切とすべての贈り物を私たちが思い出すことを御望みになり、何よりもそれらを大切にすることを望んでおられる。私たちがロザリオの聖なる玄義を敬虔に、愛情を以って黙想するときはいつでも、主には偶有的な喜びがあり、聖母や天上のすべての聖人たちも同様である。

これらの玄義は、私たちに対する主の愛の最も重要な結果であり、主が私たちにお与えになることのできる最高の贈り物である。なぜなら、そのような贈り物のおかげで、聖母ご自身とすべての聖人たちが、天国の栄光に浴しておられるからである。

ある日、フォリーニョの福者アンジェラは、どのような修道活動をすれば主に最も栄光を帰することができるのか教えてくださるよう主に乞い願った。主は、十字架に釘付けにせられた状態で彼女に現れ、こう仰せられた。“私の娘よ、私の傷を見よ。”
彼女は、主の御苦難を黙想すること以上に、愛する主を喜ばせるものはない、ということを悟った。そして、主は御頭の傷をお見せになり、さらに他の苦しみを明らかにして仰せられた。“私は、おまえの救霊のためにすべての苦しみを受けた。私の愛に応えるために、おまえは何をすることができるか?”

ミサの聖なる犠牲(いけにえ)は、イエズス・キリストの御受難の再現であり、ミサ聖祭を通して私たちが主の従順、御苦しみ、いと尊き御血の功徳とを天主に御捧げすることにより、最も祝福された三位一体に限りない栄光を与えるものである。天国の宮廷全体も、ミサ聖祭から偶有的な喜びを得ている。聖トマス・アクィナスをはじめとする何人かの教会博士たちは、同じ理由で、天上のすべての祝福された者たちが、信徒の聖体拝領に歓喜することを教えてくれている。なぜなら御聖体は、イエズス・キリストの御受難と御死去の記念であり、人間はそれによってその実りを分かち合い、救霊を実現するからである。

さて、聖なる玄義の黙想とともに唱えられる聖なるロザリオは、私たちの贖罪という偉大な御恵みに感謝するための天主への讃美のいけにえである。またロザリオは、イエズス・キリストの御苦難、御死去、栄光を聖なる形で思い起こさせるものでもある。したがって、ロザリオが私たちの主、聖母、そしてすべての祝福された人々に栄光を与え、また偶有的な喜びを与えていることは事実である。なぜなら彼らは、主にとってこれほど栄光に満ち、私たちにとってこれほど有益な習慣に従事しているのを見ること以上に、私たちの永遠の幸福に役立つものを望むことはできないからである。

福音は、回心して痛悔する罪人は、すべての天使たちに喜びを与える、と教えている。もし一人の罪人の悔い改めと回心が天使たちを喜ばせるのに十分であるならば、天の宮廷全体の幸福と歓喜はどれほどのものであるだろうか。また私たちの祝された主にとって、この地上で私たちが主の御辱めと御苦悩、そして残酷で屈辱的な御死去について敬虔に、そして愛情を以って黙想しているのを御覧になることはどれほどの栄光だろうか!これほどまでに私たちの心に響き、私たちを真の誠実な悔い改めへと導くものがあるだろうか?

ロザリオの玄義に思いを馳せないキリスト信者は、主に対して非常に恩知らずであり、天主なる救い主がこの世を救うために受けられた御苦しみのすべてに対して、どれほど無関心であるかを示している。このような態度は、イエズス・キリストの御生涯をほとんど何も知らず、私たちを救われるためにイエズス・キリストが何をなされ、何を耐え忍ばれたのか、イエズス・キリストについて知る努力をしてこなかったことを示しているように思える。

このようなキリスト信者は、イエズス・キリストを今まで知らず、思いや心から遠ざけてたことを恐れるべきである。裁きの日に、彼はイエズス・キリストから見放され、そして非難の言葉を浴びせられるだろう、“まことに私は言う。私はおまえたちを知らぬ。”

であるから私たちは、聖なるロザリオによって、主の御生涯と御苦しみを黙想しよう。裁きの日に、主が私たちを、主の子供たちと友人たちに中に加えてくださるよう、主をよく知り、主のすべての御恵みに感謝することを学ぶようにしよう。



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