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マイケル・マット、ヴィガノ大司教にインタビュー:カトリック・アイデンティティー会議にて:教会の危機に対する最も強力な武器となる古代のミサを、真の超自然の精神をもって惜しみなく受け入れてください。

2022年10月18日 | カトリック・ニュースなど

マイケル・マット、ヴィガノ大司教にインタビュー:カトリック・アイデンティティー会議にて

―――司教や司祭の皆さん、教会の危機に対する最も強力な武器となる古代のミサを、真の超自然の精神をもって惜しみなく受け入れてください。二つの主人に仕えることはできません。

―――カトリック信者は、教会が最も完全な方法で至聖なる三位一体を礼拝することを要求する権利があるだけでなく、義務もあります。教理的、道徳的に逸脱した心によって生まれた偽の儀式を用いることはできません。

―――皆さんの多くは、真理に「飢え」、聖性に「渇いて」います。他の人々は、この霊的な宝があまりにも長い間、彼らから隠され、奪われてきたために、自分たちが何を失っているのかが分かっていませんが、もし彼らがそのことを分かれば、もうそれなしにはやっていけなくなるでしょう。


2022年10月3日

Michael Matt Interviews Archbishop Vigano LIVE at the Catholic Identity Conference

マイケル・J・マット(編集長)

これは、2022年10月2日にピッツバーグで開催された「カトリック・アイデンティティー会議」(Catholic Identity Conference、CIC)で、生中継により行われたヴィガノ大司教とのインタビューの書き起こしです。このビデオ、およびCICでのすべての講話は録画されており、「Video Subscription」(こちら)を通じて視聴することができます。

【問1】今日、多くのカトリック信者は、聖にして母なる教会が、アリウス派の異端の危機さえも上回る史上最悪の危機に苦しんでいると考えています。大司教様はそうお考えでしょうか。

【ヴィガノ大司教】この危機が、現在から時の終わりまでの間に、教会が直面しなければならないであろう最悪のものであるかどうかは、私には言うことができません。確かに、壊滅的な割合の背教や、下級聖職者と信者が位階階級に対して麻痺していることからすれば、これまでで最悪の危機であることは間違いないでしょう。他の時代には、迫害はもっと激しいものでしたが、司教たちの抵抗とカトリック信者の反対がありました。司教や信者は、ペトロの座を真理の道しるべとみなし、反キリストの国確立の障害物とみなすことができたのです。今日では、少なくとも目下のところ、「カテコン」(katèchon)はいなくなり、使徒座はキリストの教会の公然たる敵によって占拠されています。

信仰、道徳、典礼、教会規律に対する組織的な裏切りがあり、それを教会の最高権威自らが支持し、推し進めさえしていて、位階階級は共謀して沈黙し、多くの聖職者と信者が無批判に受け入れているというのは、歴史上、これまで決して見られなかったものです。ディープ・チャーチの解体作業が、国家におけるディープ・ステートの破壊的行動と同期して進んでいるという事実によって、この状況の深刻さは増しています。そのためにカトリック信者を、信者として、また市民として、二重の攻撃の対象としています。

今や議論の余地のないこの二つの現実に共通するのは、キリスト、教会、聖なる法、キリスト教文明に対するサタンの抑えがたい憎しみです。この欺瞞はあまりにも明白なため、もはや「陰謀論」というレッテルを貼ることはできません。

考えてみれば、憂慮すべきなのは、この犯罪計画の主人公たちが、政府においても教会においても、あのしゃれた左翼の環境――ここで公会議の「カトリック」進歩主義、平和主義、環境保護主義、同性愛、そして「目覚めた(ウォウク)」左翼の全レパートリーが1960年代から生まれ、成長した――から出てきたということです。私がすでに述べたように、ここ数十年、個人の司教たちも位階階級全体も、この危機に加担したことについて、実際、ある意味でこの危機を思いつかせてこれを支持することで、「諸国民の指導者(Domina gentium)」という教会の役割を放棄したことについて、天主と歴史の前で答えなければならなくなるでしょう。

【問2】大司教様に、聖伝のカトリック的な反革命に参加することを確信させたものは何だったのでしょうか。

【ヴィガノ大司教】自分の母親が辱められ、しもべが母親の悪名と中傷をさらし、その三重冠と王衣をはぎ取り、宝石を盗んで財物を売りさばき、母親に強制して泥棒や売春婦と暮らさせ、さらには王位を取り上げ、不名誉な状態に打ち捨てるのを、無表情で見ていられる息子がいるでしょうか。また、裏切り者の支配者や腐敗した役人によって国家が破壊されるのを、武器を取って立ち上がることなく、奪われた名誉を国家に返さずに見過ごすような、栄光ある国家の国民がいるでしょうか。

もしこのことが自然の秩序において有効であるとすれば、聖なる教会においてはさらに真実で切実なことです。なぜなら、敵どもは、教会の現世的なものを攻撃して、教会堂、調度品、聖具を競売にかけて売り飛ばした(これは敵どもが歴史を通じて常に教会に対して行ってきたことです)のみならず、超自然のもの、すなわち、朽ちない富である教理と典礼という、天主なる王が霊魂の聖化のために教会に与えてくださった宝をも攻撃しているからです。

堕落した聖務者たちは教会をスキャンダルにさらし、教会の教えに混ぜ物を入れ、教会の軍隊【修道会などのこと】を散らし、敵の侵入から教会を守る城壁を壊してしまったのです。教会のおかげで保護され、永遠に向かう地上の旅を共にする霊魂は、背を向けられ、迷ってしまいました。これらの霊魂は、私たちの主が御血を流された大切な霊魂、しかし主の不忠実な聖務者によって見捨てられ、聖なる囲いから追い出されてしまった霊魂たちです。

聖にして母なる教会の辱めを傍観することは、私たちの主のご受難と磔刑を、殺害者の叫びと唾の中で、目撃した群衆の中にいたことに劣らず深刻です。なぜなら、私たちは天主の子であると同時に教会の子でもあり、教会はイエズス・キリストの功徳によって私たちを成聖の恩寵の状態に回復させ、天国の相続人にしてくれるのですから。

始めに、60年前、第二次世界大戦という悲劇的な事件と独裁政権の恐怖の後、教会自身が自分の過去を捨て去ろうと望んでいるように思われました。教会はそのまま残っていたのに、世界は別のものになってしまったので、その間の亀裂を何かしら和らげようとしたのでした。

この放棄は、数々の革命とカトリック君主制が次々と終焉することによって動揺した社会に迎合するためのジェスチャーであるように思われました。これらの革命は、あの「民主主義」の波に乗って起こり、私たちは民主主義がキリスト教的でありうると信じていたのですが、同時に、民主主義の「価値」とは、カトリックの信仰宣言をする権力が固有に持つ超越的な物の見方とは大きく対立していることをよく理解していました。

当時、公会議の革命が天主の秩序を破壊するだろうこと、また、公会議が教会を「混乱」(chaos)に陥れることで「秩序」(kosmos)を転覆させ、異端に居場所を与えて正統性を破壊し、聖徳と誠実さの代わりに道徳の腐敗を受け入れることになること、を理解していた者はほとんどいませんでした。

この破壊転覆的な(subversive)プロセス(ラテン語でevertereは、まさに転覆させることを意味します)は、決してその地位に認められるべきでなかった人々を位階階級の頂点へと導き、それまで高く評価され尊敬されていた人々を象徴的に追い出したり、疎外したりしました。それが、非常に多くの司教、司祭、聖職者、男女の修道者の運命でした。彼らに革命が「現代化」として提示されて、押し付けられたのです。この現代化こそ、新たな信仰再生の前触れである「公会議の春」を一世紀にわたる血生臭い紛争で消耗した人々に生み出したはずだったのです。

スーネンス枢機卿が「教会の1789年【フランス革命】」として熱狂的に提示したものは、調整の過渡期に過ぎず、そこから教会はもっと強く、もっと自覚的に再生するだろうと、多くの人々は善意で信じていました。

【しかし】私たちが知っているように、そして私たちが見てきたように、そうではありませんでした。公会議革命は、現世の世界を破滅させて、キリスト教社会を崩壊させたもの【政治的革命】と何ら変わりはありませんでした。それどころか、公会議革命は、悪魔的な心によって考え出された破壊転覆的な計画の成就が必要なことを表しています。悪魔は、まず人間の肉体を攻撃し、次に必ず不滅の霊魂を攻撃しなければなりません。そこでこの目標を達成するために、まず世俗社会を荒廃させ、次に宗教社会を執拗に荒廃させ続けるのです。

2013年3月13日以来、公会議の癌は変異して悲惨な転移へと変わっています。司教として、つまり使徒の後継者として、教会のこの巨大な劣化と屈辱に直面して、私は声を上げ、明確な立場を取らなければなりませんでした。私は、同僚たちに訴えます。この「教会の受難」(passio Ecclesiæ)を黙って見物している者、敵の共犯者という休眠状態から次々と覚醒するようにと促します。椅子から立ち上がり、屋根の上から真実を叫んでください。また、いわゆる「保守的」な司教の皆さんが、第二バチカン公会議を擁護することをどんな犠牲を払ってもやめますように。第二バチカン公会議こそが天への復讐を叫ぶ、霊魂たちの虐殺の主な原因です。ともに破滅に圧倒される前に、立ち上がってください。

【問3】今でも時々、新しいミサを捧げられますか。

【ヴィガノ大司教】いいえ。ここ数年、新しいミサを捧げていません。そして、たまにであってもそれを捧げることに同意することで、自分の足取りを振り返ることができたとは思えません。

私の「回心」は、使徒継承のミサのおかげであり、また私が由緒あるアンブロジオ典礼に対して持っている特別な愛着のおかげです。何十年もの間、私の司祭職から奪われてきたもの、教理の源、さらには聖なる犠牲の中にしかない霊性と禁欲の源をこの中に見いだしたのですから。カトリックのミサでは、司式司祭は「もう一人のキリスト」(alter Christus)であり、大司祭であるキリストになって汚れなきいけにえを御父の御稜威(みいつ)に捧げるだけでなく、自分が神秘的にいけにえであるキリストの生き写しになって捧げるのです。この私たちの主との親密な一致の中に、司祭職の霊魂そのもの、使徒職に不可欠な原理、宣教の「信仰の基準」(regula fidei)、霊魂の聖化のための恩寵の力が存在するのです。そして、司祭職とミサがないならば教会は存続できないため、私たちは、キリストの敵どもがミサと聖伝の司祭職に激しく反対するのを理解できますし、私たちの選択の重要性とこの貴重な宝に忠実であり続ける必要性を認識できるのです。

聖伝のミサのおかげでカルワリオへの道の主に倣う恩寵を受けた後で、モンティーニの典礼に戻るということは、私にとっては裏切りとなってしまい、この由緒ある典礼を知らない人とは違って、さらに深刻なものとなるでしょう。

ここで、古いミサについての問題は、形式的な、また、いわば合理的な評価で終わるものではないことを思い起こしたいと思います。ミサとは、神秘体【教会】が至聖なる三位一体を礼拝する最も完璧な方法であると同時に、花嫁【教会】が天主なる花婿に語りかける声でもあるのです。もし自然の秩序において、花婿への愛を減らすようなことを花嫁は考えられず、実際、花婿をおとしめることや花婿を他の男と同じレベルに置くことは侮辱であると花嫁が考えるとすれば、天主を愛する司祭の霊魂は、花婿の完全性が沈黙させられたり否定されたりする――花婿の敵どもを怒らせないために――のを、どれほどの勇気があれば許容できるでしょうか【できるはずがありません】。

愛徳には限界がなく、妥協は考えられませんから、愛徳は寛容ではありません。つい数日前、カザフスタンで開催された何回目か分からないほどのエキュメニカル・パンテオン【世界伝統宗教者会議】に際し、ベルゴリオは原理主義を、宗教間の対話と普遍的兄弟愛に有害なものとして非難しました。これほど、真の信仰にとって異質なものはなく、人類教を推進するメーソンの思想とこれほど明確に一致しているものはありません。

私は、同僚である司教や司祭の皆さんの多くが困難な立場にあることを理解していますが、この点でさらに一貫性を示し、教会が経験している危機に対する最も強力な武器となる古代のミサを、真の超自然の精神をもって惜しみなく受け入れるよう励まさないではいられません。二つの主人に仕えることはできないのですから。

【問4】従順は(神学的というよりもむしろ)自然の聖徳として、何よりもまず信仰に奉仕しなければならず、そのため、権威ある地位にいる近代主義者に従うことは罪深いことであると言うのは正確でしょうか。

【ヴィガノ大司教】従順は自然の聖徳であり、不従順(従順の不足)や隷属(過剰な従順)と対立するものです。しかし、従順はただ誰にでもすべきであるというわけではなく、権威にある人々だけに、また、権威の行使を正当化する制限の範囲内でのみ、従順するのです。教会においては、従順はその究極的な目的、すなわち、カトリック信仰で一致している霊魂の救いのために秩序づけられています。信仰を守るために立てられた権威は、信仰に反する立法をすることができません。なぜなら、まさにその力を同じ源、すなわち、ご自分と矛盾することはあり得ない至高の天主かつ立法者なる天主から引き出すからです。権威を行使する人々を喜ばせるために非合法な命令に従うことは、従順を堕落させるのであり、それは、もはや従順ではなく隷属です。

私はまた、今日、盲目的で迅速かつ絶対的な服従を信者に要求する人々は、権威が善き人々によって行使されるとき権威に反抗するのと同じ人々であることも指摘しておきたいと思います。第二バチカン公会議と「シノドスの道」の名において教導権全体を取り消す人々は、「アモーリス・レティチア」(Amoris Lætitia)と「トラディティオーニス・クストーデス」(Traditionis Custodes)の永久革命を受け入れるのを拒否する人々の前で衣を引き裂くのと同じ人々です。問題は、私たちが見ているように、権威の危機にあるのです。その権威は、正当であるためにまず行わなければならない、天主という最高権威への服従を受け入れていないのですから。

【問5】しかし、キリストは死に至るまで従順であり、それは私たち全員が行うよう召されていることだと指摘する人々に、大司教様はどのようにお答えになりますか。

【ヴィガノ大司教】私たちの主は、最高法院(サンヘドリン)にも、大司祭たちにも、民の長老たちにも従われませんでした。彼らは、主に対して、「天主の子」と公に言わないように警告し、この理由で主に死刑を宣告したからです。私たちの主は御父に従われ、ご受難という苦い杯を飲み干されたのです。「私の思うままではなく、み旨のままに」(non sicut ego volo, sed sicut tu.)【マテオ26章39節】。これが真の従順の徳です。なぜなら、従順の徳が地上の権威の命令に従うのは、その権威が命令を正当化させる目的のために行為する場合に限られるからです。

ちょうど最高法院にとってキリストの神性を問うことは正当なことではなく、むしろ聖書を知っていたのですから、彼らは、約束されたメシアだとキリストを認めるべきであったようにです。ですから、位階階級にとって信仰や道徳に反する事柄において従順を要求することは、正当なことではありません。私たちも、キリストの例に倣い、聖ペトロの警告に強められながら、「人間よりも天主に従わねばなりません」(使徒行録5章29節)と繰り返すのです。

【問6】フランシスコは、聖伝主義者は「第二バチカン公会議を拒否している」と宣言しました。しかし2013年2月14日、教皇ベネディクト十六世は、公会議はメディアに乗っ取られ――それゆえに、教会に計り知れない損害を与え「典礼を陳腐化した」――と述べました。それならば、すべてのカトリック信者は「公会議を拒否」すべきではないでしょうか。何故なら、ベネディクトによれば、公会議はメディアによって世界に【歪められて】提示されたのですから。

【ヴィガノ大司教】まず第一に、明確にしておきたいのは、公会議の物語(ナラティブ)に対するメディアの貢献は、第二バチカン公会議の作者たちが意図した明らかに破壊転覆的な内容に比べれば、部分的で取るに足らないものに過ぎないということです。近代主義者によって「裏切られた」とされる幻の「善き公会議」は存在しません。公会議は、「実質的」にカトリック的であることを妨げるような「形」で構想され、公会議が抱えていた(そして公会議がすぐに明らかにする)落とし穴を、冗長さと曖昧な概念の背後に隠していたのです。もしメディアが、公会議を望んでいた教父たちや教皇の意図に反して公会議を乗っ取ったのであれば、なぜメディアが伝える度重なる逸脱に直面しても、彼らのうちの誰もカトリックの教理を繰り返さなかったのでしょうか。もし公会議後の期間の典礼の矮小化がメディアのせいだけだとしたら、なぜどの司教もヴェトゥス【古い典礼】と連続したノブス・オルドの挙行を提案せず、むしろモンティーニの典礼という革新物をテコにして、それを推進したのでしょうか。もし古い典礼が新しい典礼に脅威を与えなかったのであれば、なぜ古代の形式で挙行し続けようとした人々への冷酷な迫害があったのでしょうか。

この点では、ベルゴリオは完全に正しいのです。聖伝に忠実なままでいたいと望むカトリック信者は、まさに第二バチカン公会議が、信仰の規範である聖伝と異質であって対立しているという理由で、これを拒否しているからです。そしてこのことは、聖伝の典礼のカトリック性を裏付けているだけでなく、改革された典礼が、礼拝が何世紀にもわたって知られていた調和のとれた発展から外れていること、つまりその実質的な非カトリック性も裏付けています。

したがってカトリック信者は、教会が最も完全な方法で至聖なる三位一体を礼拝することを要求する権利があるだけでなく、義務もあるのであって、異端者を喜ばせるために、また信仰を低下させるために、教理的、道徳的に逸脱した心によって生まれた偽の儀式を用いることはできません。このことは、ノブス・オルドの典礼よりもさらにカトリック的な典礼を「発明」するという問題ではなく、二千年にわたる典礼を廃止し、それをみすぼらしい偽物に置き換えることによって教会に生じた非常に重大な「傷」(vulnus)を修復するという問題です。カトリックの典礼を復興させ、改革された典礼を禁止することは、教会の復興のために必要な一歩となるでしょう。

【問7】少なくとも、教皇職についての神学を弱体化させるために教皇ベルゴリオがペトロの座に据えられた可能性はあると思われます。私たちがフランシスコを批判するとき、教皇職に関するその同じアジェンダ(行動計画)に貢献していないでしょうか。

【ヴィガノ大司教】2013年のコンクラーベでベルゴリオを当選させることができた人々がよく承知していたのは、ベルゴリオの意図が、彼がペトロの座にすわる主な結果としての教皇職の信用失墜とカトリック教会の屈辱、そして異端や道徳的誤謬、非常に深刻なスキャンダルの拡大を得ることだったことです。実際、この男の継続的な行動、過去10年間の冷酷で着実な流れにおいてこそ、教皇職は、教会に対する権威を負っている者が行う、教皇職に対する最も深刻で強力な攻撃を経験しています。外から教会を攻撃する行為でさえも、同じような結果をもたらさなかったでしょう。また、ベネディクト十六世の放棄と、彼が生み出した「名誉教皇」という教会法上の「怪物」(monstrum)は、教会に致命的な打撃を与え、世界のエリートのアジェンダを支持する教皇の選出を含む教会に対する陰謀を実行することを可能にしたと言うべきでしょう。

ベルゴリオが教会に対して行っていることについて彼を批判しても、彼を意図的にそこに配置した扇動者たち、つまりザンクトガレン・マフィアやグローバリストのメーソン・エリートの術中にはまることはないでしょう。一方、このアルゼンチン人がペトロの玉座にふさわしくないということは、計画的で悪意に満ちた行動からでたことの明白なしるしです。この工作は、一つの組織を崩壊させる最も効果的な方法が、その組織で最高の権威を持つ者たちが行う信用失墜作業であることをよく承知している者たちによって計画されました。それは、今日、世俗の領域で起こっていることと何ら変わりはありません。そこでは、政治かつ支配階級の全体が腐敗して、同じ反キリスト教エリートの犯罪的利益に従属しています。反キリスト的なエリートらは、一方では、LGBTQ+のプロパガンダとジェンダー論で霊魂を腐敗させ、他方では、――ベルギーで同性愛者の結合を「祝福」しているように――腐敗した司教たちを利用しています。これらすべては「裁くという私は何様なのか」で始まるベルゴリオの言葉を、究極の結論にまで導いた結果です。

私は、教会生活におけるLGBTQ+の教えとジェンダー・イデオロギーの合法化の進行がもたらす、極めて重大な(そして不可避な)意味を明らかにしたいと思います。私たちは、教会の教導権が同性愛の行為を「本質的に倒錯したもの」として断罪していることを知っています。それらは悪であり、それらを行う人々は重大な罪を犯しており、もし彼らが悔い改めないなら、その霊魂は永遠の罰を受ける運命にあるのです。このことは、聖書によって、旧約聖書と新約聖書の両方で、明確に教えられています。

その逆に、ベルゴリオの言葉と彼の共犯者たちの行為は、同性愛と、「性転換」の実践に対する道徳的な断罪のすべてを取り除くことを意図しています。しかし、数年のうちに、聖職に就くことを求める「信仰深い」性転換者が出てきたら、どうなるのでしょうか。私はこれ以上何も言うつもりはありません。私たちの前に広がっている奈落の底を理解するのは、皆さんにお任せします。

ベルゴリオの「教導権」のどの部分が拘束力を持ち、どの部分がそうでないかを区別することにまだ固執している人々に対して、この形式的アプローチは、おそらく教皇不可謬性の教理を救うことはできても、教会のイメージを救うことはできないのは確実です。同時に、ベルゴリオが完全に教皇職の外にいることを証明していることは、改めて言うまでもないことだろうと私は思っています。この事実は、移植された臓器が自分のものではないと認識する有機体によって拒絶されるように、素朴な信者たちであっても本能的に感じ取ることができるのです。彼の異端的な宣言の分析が神学者たちや教会法学者たちに確認させるのと同じことを、「信仰の感覚」(sensus fidei)が彼らに理解させるのです。2013年3月13日、聖ペトロ大聖堂の回廊(Loggia)のバルコニーから発せられた彼の有名な「buona sera」(こんばんは)には、彼が教皇職とってまったく異質であるという取り返しのつかない事実の本質が、一言で凝縮されています。

【問8】大司教様は、「グレート・リセット」に反対する発言で国際的な評価を得ておられます。陰謀論に手を染めている、祈りだけして沈黙しているべきだ、という批判に対しては、どうお答えになりますか?

【ヴィガノ大司教】いずれにしても、私は祈りを唱えています。また、私の司教としての、使徒の後継者としての義務に密接に関連し補完し合う問題について沈黙を守ることで、何故自分の義務を果たしそこねなければならないのか分かりません。

私の批判がマカリック元枢機卿のスキャンダル隠蔽や第二バチカン公会議の教義的逸脱に向けられる限り、「ルフェーブル派」のレッテルは、信者の前で私を悪者にするのに十分でした。しかし私が、ディープ・ステートが、まずパンデミック非常事態で、今ではエネルギー非常事態によって行っているグローバル・クーデターと、ディープ・チャーチが組織したベルゴリオの選出という、それに劣らぬ破壊転覆的行為との間の一貫性を指摘したので、私の言葉に耳を傾ける人々に私に対する不信感を与えるために、「陰謀論者」のレッテルを貼らなけなければならないのも不思議はありません。

彼らによれば、リスクは同じことです。自分の頭で考えだした人がいて、自分が巨大な詐欺の――ダボス会議アジェンダによって物質的生活が損なわれ、第二バチカン公会議とベルゴリオのアジェンダによって霊的生活が損なわれている――犠牲になっていることを理解したのです。

また、超国家的な私的組織、すなわち権力の中枢に組織され根を下ろした本物のマフィアによる破壊的な計画が、その支持者たちによってかなり前に発表されていて、かつメーソン・カルトのディストピア的妄想の成就を表すものであるということが、なぜ「陰謀論」として退けられるべきなのかを私は理解したいと思います。

もしマフィアが人口の一部を絶滅させたいと宣言し、そうするために組織化しているのを私が目にして、この絶滅計画が告知通りに実行されるのを目撃するならば、陰謀論をでっち上げるのは私ではなく、その成功を非常に確信しているため、それを隠さなければならない必要さえないと感じているマフィアであって、彼らは実際、――私たちを劣ったものとみなしているため――私たちが絶滅することは望ましく、良いことだと、私たち自身が納得すると思い込んでいます。事実、人類を地球の寄生虫とみなすネオ・マルサス的な母体の「グリーン」・イデオロギーにも、同じことが起こっています。国連、欧州連合、各国政府が下す決定は、脱炭素化といわゆる持続可能エネルギーの強制導入を正当化するために、地球温暖化という偽りの口実に基づいています。しかし、これはまさに嘘であり、強制的に大衆を全面的な支配に服従させ、エリートに不釣り合いな権力と利益を保証するための口実なのです。また、考えてみれば、公会議の推進者たちも、「教会を現代化する」と述べていましたが、それは偽りの口実であり、そのとき言葉にできなかった目的は、その反対に教会の破壊だったのです。

ディープ・ステートとディープ・チャーチは、同じ偽りのコインの裏表です。なぜなら、どちらも、創造と贖いの両方において天主を憎み、また肉体の生命と霊魂の生命に対して放たれる、同じ地獄の心に一致しているからです。このシステムは、その悪魔的な錯乱状態にもかかわらず、人々が孤立し、自らのデバイスに任せている限り、機能することが証明されています。

逆に、自分は一人ではなく、同じ世界観と同じ信仰を共有しているという自覚は、多くの人々の目を開かせ、彼らに抵抗する勇気と力を与えて、公に欺瞞を明らかにさせ、抵抗勢力を団結させます。このことは、市民(世俗)の領域でも、教会の領域でも同じです。パンデミックの茶番劇がディープ・ステートとディープ・チャーチを団結させて、超現実的で犯罪的な物語(ナラティブ)で市民と信者をつまずかせたことは、偶然の一致ではありません。

ですから、もし明らかに陰謀があるのなら、なぜ私は沈黙していなければならないのでしょうか。また、もし陰謀がないのなら、なぜ高齢の大司教の言葉を彼らはそんなに気にするのでしょうか。

【問9】多くの人がミサにあずかることができなくなるかもしれないこの激動の時代に、私たちの元后の役割と聖なるロザリオについて、何か言っていただけますか。

【ヴィガノ大司教】このインタビューは、天主の御母であり、私たちの母でもある、恩寵によって全能となられた至聖なるマリアについて触れることで終わります。女といにしえの蛇の間のこの歴史的な戦いにおいて、聖なるロザリオは、私たちが受けた堅振の秘跡によって、「キリストの兵士」(milites Christi)として貢献しなければならない最も強力な武器なのです。

皆さんの多くは、真理に「飢え」、聖性に「渇いて」います。それは、少数の高位聖職者たちや聖職者たちの抵抗と、「スンモールム・ポンティフィクム」(Summorum Pontificum)によるベネディクト十六世の御摂理的な決定のおかげで、皆さんが味わうことのできたミサの聖なる犠牲によって私たちが利用できる永遠の財産です。他の人々は、この霊的な宝があまりにも長い間、彼らから隠され、奪われてきたために、自分たちが何を失っているのかが分かっていませんが、もし彼らがそのことを分かれば、もうそれなしにはやっていけなくなるでしょう。したがって、使徒継承のミサの「原状回復」(restitutio in integrum)を要求することは、カトリック信者として、神秘体の生ける肢体としての私たちの義務であります。また、聖伝のミサを特権として与えるだけでなく、それを教会における完全かつ独占的な市民権として認めることが、教会の権威の義務なのです。

しかし、これが実現するためには、私たち全員が、聖性の生活と、私たちが洗礼を受けた信仰を勇気をもって証しすることによって、この恩寵を受けるにふさわしい者となることが必要です。キリストの教会の公的な礼拝の復興により、私たちのために用意された永遠の栄光の先取りを見ることができるように、この道において私たちを強め、「われらの代願者」(Advocata nostra)である聖母を慈悲によって動かすのは、聖徳を実践し、聖なるロザリオを絶え間なく祈ることです。



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怒涛の1960年代 (ヨハネ)
2022-10-19 20:18:10
【引用開始】
考えてみれば、憂慮すべきなのは、この犯罪計画の主人公たちが、政府においても教会においても、あのしゃれた左翼の環境――ここで公会議の「カトリック」進歩主義、平和主義、環境保護主義、同性愛、そして「目覚めた(ウォウク)」左翼の全レパートリーが1960年代から生まれ、成長した――から出てきたということです。
【引用終了】

1960年代には、いろいろなことがありました。日本でも、世界でも。団塊世代による学生紛争、ビートルズやヒッピーなどの登場。今のネットワーク社会を支える半導体が成長を始めたのも1960年代です。

1960年代の前後で社会は大きく変わりました。私が小学校に入った1959年はまだ世の中は牧歌的でした。高3の1970年、毎月発行されるラジオ講座のテキストを買って問題を解くのが私の受験勉強でした。そのテキストで森有正の文章を読み、カトリック教会が変わりつつあることを知りました。内容はともかく、文章が新鮮な感じがして、好きでした。入試問題にもよく使われていましたし。

1970年と言えば、聖ピオ十世会が創立された年です。怒涛の1960年代が終わってすぐに創立されたことに大きな意味があるように思えます。これからは、お前たちが戦いなさい、と天主様から言われたかのようではありませんか。
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