2021年6月18日(金)助祭証聖者教会博士聖エフレムのミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父 説教(大阪)
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
1つお知らせがあります。7月22日の海の日は、東京で午後にマーチ・フォー・ライフがあります。
その翌日は、去年大阪でやりましたように、今年も7月23日金曜日のスポーツの日に、大阪でもマーチ・フォー・ライフをマリア様と共に行います。
大阪の街をマリア様に祝福して下さるように、一緒に聖母とマーチ・フォー・ライフの行列をしたいと思っています。
その為に既に7月23日は時間を取っておいて下さい。午前中にミサを行ないます。
午後には去年のようにマリア様と共に大阪の街を行進します。
今日は聖エフレムの祝日です。
聖エフレムという方は、4世紀にシリアで生まれて、そしてシリアで助祭として働いた方です。生涯、一生涯助祭として留まって、司祭にはならなかったようです。
ちょうど聖イエロニモと同時代の人で、373年に亡くなりました。ペルシアがシリアに侵略してきてエデッサという所に逃げたのですけれども、エデッサという町でペストに罹った人たちを看病するうちに、それに感染して亡くなってしまいました。
助祭として、清貧と貞潔の生活を送っていましたが、非常に深い信仰の知識と、御聖体と、イエズス様と、聖母に対する愛で、多くの著作を残しました。シリアの言葉で書きました。その文章は非常に美しく、『聖霊の竪琴』という異名をあだ名を付けられたほどでした。
私たちはよく「キリスト教はヨーロッパのもので、ヨーロッパで生まれたものだ。神学はヨーロッパのものだ」とよく話を、間違った話を聞きます。事実はそうでありません。
大体、キリスト教というのはエルサレムで、旧約聖書を根元に生まれたものであって、そして教会の初代からシリア、ペルシア、あるいはエジプト、コプト、あるいはアフリカ、そして色んな言葉の所に伝わりました。そしてそこに伝わった人たちは、自分の言葉で非常に美しいイエズス様を讃美する神学を、あるいは詩を残しています。
全てが私たちの所まで伝わったわけでありませんけれども、シリア語で聖エフレムのものが私たちに伝わっています。
フィリピンではタガログ語、あるいはその他の言葉で、イエズス様の御受難を歌う非常に有名な歌があります。世の創造から最後の審判までを歌う歌です。これを見ると、決してキリスト教の本当の信仰というのは、ただ単なるヨーロッパという一部のものではなくて、「全世界の全ての言葉が、その愛と真理を表明するものだ」という事が分かります。
私たちも聖エフレムに倣って、私たちのイエズス様を、そしてイエズス様の聖心とマリア様、御聖体をお愛し申し上げましょう。
私たちがマリア様に申し上げる、「マリア様、愛しています。」あるいはイエズス様に、「御身を愛し奉る」という言葉は、どれほどイエズス様の心に響く美しいものでしょうか。そして全世界に響く美しい言葉でしょうか。
私たちも聖エフレムに倣って、マリア様、イエズス様を讃美致しましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
わたし一つだけ、一つだけ、神父様を困らせたいんだけどな、ダメですか?
子どもって愛を語るだけじゃダメなんですよ。愛してあげられないとダメなんですよ? 可愛いがってあげられますか?大丈夫ですか、本当に、生まれて来ても?
事情があって生まれてくる子ども達の中にはタチの悪い子やクセの悪い子もいますし、体や心や知性に障害を持って生まれる事もあり、それをニグレクトし差別しひねくれさせる様じゃダメなんですよ。
ダメなの本当にわかっておられますか?
そういう点が伝統的じゃまるでダメなんですよ。
生命の重みは愛の面倒臭さ煩わしさ大変さを相当に伴うものでそれを適当に差別して済ませる人達が中絶反対を語っていい事とは思えません。((それでも中絶をいいとは思いませんが)) 中絶反対を唱える前にもっともっともっともっともっともっと、もっと、もっと、もっと、愛さない単に可愛がらない単に受け入れない罪の重みをよく心に刻んで頂きたいものです。
もしや愛さない事の方が中絶より罪が軽いと考えていませんか?
愛さない事の方が中絶する事よりわたしは個人的にですが天主のみ前では罪がはるかに重いと思っています。例え中絶が殺人であっても。
中絶された胎児は地獄には行きませんよ。でも子どもを愛さない事で地獄に突き落とす事はできるでしょ。可哀想です。考えただけで涙が止まらなくなります。
わたしの中絶反対は中絶反対という言葉では表す事のできない生命の重みと愛の重みを感じ入る事にあり中絶反対というモラルの理想を唱える事に終始するようなイデオロギーには無いです。
人は誰しも生命を奪う権利を持ちません。
神様はどんな生命にさえも永遠の生命を与えるためこの世に送り出そうとされています。
生きることで神の愛を知り、他人を愛することができます。
これは大きなことではないでしょうか。
わたしも小さな葛藤の中で生まれましたが、命を頂き感謝しています。
わたしが生きていることで誰かを苦しめたとしても、わたしが生きていることで誰かを幸福にできたかもしれません。
生まれたことで小さな生命を授かるお恵みをも頂きました。
そしてなにより神を讃美できる幸せを知りました。
「生命がつながっていくことを止めないで下さい。」
そう願い、今年は気持ちだけですがマーチに参加します。