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2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

「あなたたちは今は悲しんでいるが、ふたたび私があなたたちにあうとき、あなたたちの心は喜び、もうその喜びはあなたたちからうばわれることはない。」

2024年04月29日 | お説教・霊的講話

2024年4月20日 御復活後第三主日 東京での10時30分お説教

トマス小野田圭志神父

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、
今日は2024年4月21日、復活後第三主日です。

今日の福音では、主が使徒たちに語りかけ、将来ご自分と使徒たちに起こることを預言し、そして慰めの言葉をかけます。そしてこの予告が復活をもって本当であるということを証明されました。
今日は 私たち、つまり、現代の日本に生きている私たちにも、同じ言葉をもって主は語りかけて、同じく、私たちに起こることを予告されて、慰めの言葉を語ろうとされます。この言葉は本当です。真理で、必ず実現します。何故ならば主はご自分の復活をもって自分の語ることが本当であるということを証明されているからです。それは何についてかというと、わたしたちの喜びについてです。わたしたちのこの世での悲しみが非常に短いものであって、そしてそのあとで、はてしのない喜びに変わるだろうという予告であり、約束です。一緒に黙想いたしましょう。

【1:間もなく】
主は弟子たちにこう言います。「あなたたちは間もなく私を見なくなるが、また間もなく私にあうだろう、父のもとにいくからである。Módicum, et iam non vidébitis me : et íterum módicum, et vidébitis me : quia vado ad Patrem.」と。
こうやって主は、弟子たちに別れを告げます。が、同時に三つのことを告げて慰めようとします。それはなぜかというと、別れの期間は短いということ、またすぐに会えるということ、また主は名誉ある別れをするということ、です。これはご自分の御受難と復活に関わることをおっしゃっていました。
「間もなく」というのはラテン語で modicum 、「短い間」という意味です。
何が短いのかというと、イエズス様の御死去された「前」あるいは「後」の期間が短いということです。御死去の後が短いということは、つまり「間もなく私を見なくなるがそれは短い間だ、つまり、三日の後に私は復活するからだ」「また私に会うだろう、またそれも短い、なぜかと言うと復活の後、40日の間だけ、お前たちと共にいる、何故ならば私は父のもとに行くからだ。」という意味です。御死去のあとの会える期間が短い、また同時に御死去の前の期間も短いということも意味するとも考えられます。
私があなたたちから取りのぞかれるまでは、もはや短い間しかない。「間もなく」つまり明日、私は死去する。おなじようなことをイエズス様は何度もおっしゃっていました。たとえば、「私は、もうしばらくのあいだ、あなたたちといっしょにいるだろう Filioli, adhuc modicum vobiscum sum.」(ヨハネ13:33)とか。あるいは、こうも言われたことがあります。「もう少しすれば、世は私を見ない Adhuc modicum, et mundus me jam non videt.」(ヨハネ14:19)と。

【2:悲しみは喜びに代わる】
この悲しみは喜びに変わるということを主は預言されます。
弟子たちは、こういった言葉を、イエズス様がおっしゃった言葉を理解できませんでした。そこでさらに言葉を説明されます。「まことにまことに私はいう。私を見なくなる短い間、あなたたちは泣き悲しむだろう。」
ところが、この世は喜ぶ、非常に対照的である。つまり、この世とは 律法学者やファリザイ人のことだと理解できます。なぜかと言うと、彼らはキリストの死を喜んだからです。イエズス様の御受難を、弟子たちは、悲しみました。しかし、復活をもって、弟子たちの悲しみは、喜びに代わりました。「弟子たちは主を見て喜んだ」(ヨハネ20:20)と聖ヨハネの福音書には書かれています。

この喜びについてさらに、主は、たとえを出して、説明します。「婦人は、子を産むときになやむだろう。でも、子どもを産んでからは、もう苦しみをおぼえない。」この出産の苦しみは、イエズス様の御受難と理解することができます。

しかし言葉を続けてこう言います。「あなたたちも――この婦人と同じように――今は悲しんでいるが、ふたたび私があなたたちに会うとき、あなたたちの心は喜び、もうその喜びはあなたたちからうばわれることはない。」本当に、主は 三日の後に、「間もなく」、復活されました。そして現実に嘘疑いがなく肉体において栄光をもって復活したので、それをみた弟子たちは、悲しんでいた 疑っていた弟子たちも、大きな喜びを覚えました。主は約束を守りましたし、これからもずーっと守り続けられます。つまり、弟子たちの喜びは、奪われることがありえないということです。

【3:主は現代の日本に住む私たちにも予告される】
では 同じことを主は、わたしたちにも今日おっしゃっています。聖アウグスチヌスは、この主の言葉を私たちに対する言葉として解釈しています。聖アウグスチヌスによると、modicum「間もなく」とか「しばらくの間」というのは、「私たちが審判を受けるまでの生涯の間」とかあるいはもっと長く考えると「全世界が存在して最後の審判まで存在し続ける間の期間」を意味すると言っています。聖ヤコボも同じことを言っています。「あなたたちの命とは何か?あなたたちはしばらく現われて、またたく間に消えていく湯気のようである。」(ヤコボ4:14)と。

これによると、「しばらくの間」というのは世の終わりまでという意味です。世の終わりまであなたたちは私を見ないだろう、何故なら私は聖父のもとに行くからだ。でも「間もなくあなたたちは私を見るだろう」 つまり、世の終わりは間もなく来るけれども、そうしたらあなたたちは私を見るだろう という意味だ、と聖アウグスチヌスは言います。

世の終わりというのは ではすぐ来るのでしょうか?いつでしょうか?これは比較の問題で、永遠と比較するならば、無限の期間である永遠と 果てしのない永遠と比較するならば、わたしたちの全生涯も、また全人類の長い歴史もあまりにも短いあっという間に過ぎ去ってしまうものだ。ということだ、といいます。たとえ長いように思えても、世の終わりにはどれほどつかの間のことに過ぎなかったのかということがわたしたちは実感するだろうと。この短いつかの間のあっという間の人生の間、主はこういわれます。
「あなたたちは悲しむ、この世は楽しむだろう。あなたたちは悲しむが、その悲しみは喜びにかわる」と。

いったいわたしたちは何を悲しむのでしょうか。この世は何を喜んでいるでしょうか。わたしたちは自分の罪やあるいは罪のために霊魂たちが霊的に死んでしまっているようなことを悲しみます。喪に服するように悲しみます。また、罪を悔い改めようと、償いを果たそうと、します。またそれのみならず、わたしたちが人間が常に悪に傾きがちであること、極めてもろいこと、を悲しみます。この世はどれほどの苦しみや艱難や心配に取り囲まれているか、ということをどれほどこの世が惨めであるか、ということを悲しみます。どうして自分はこれほど欲望に縛られ過ぎて儚いことに気を使って、ひとつの悪にさえもなかなか勝てないこと、いつも冷たく生ぬるいこと、またちょっとした障害にあうと、もろくも落胆して人間の慰めを求めてしまうということを悲しみます、これは「キリストに倣いて」に書かれていた言葉です。

わたしたちはついには、地上の快楽あるいは物質的なものが、実はつまらないもの、どれほどつまらないものであったのかということを知って、この世の楽しみについて悲しみます。聖パウロはこうも言っています。「キリストは、私にとって、世を十字架につけたものとし、そして世にとって、私を十字架につけたものとされた。」(ガラチア6:14)

今日の密誦、奉献の後に誦える司祭の祈りはまさにこの世の儚さではなく永遠のものを愛する力を与えてほしいと祈っています。しかしこの聖人たちのわたしたちの悲しみはついには来世の永遠のよろこびに変わります。主は山上の垂訓で 至福八端でこう言われたではないでしょうか。「悲しむ人はしあわせである。かれらは慰めをうけるであろうから」(マテオ5:4)と。

なぜ慰めを受けるかというと、わたしたちの罪はすべて赦され現世の惨めさというのは永遠の生命の喜びに変わり、この世の楽しみを悲しむということは主に対する愛に変わるからです。主は言われます。「そうだ、あなたたちは悲しむが、その悲しみは喜びにかわる。」(ヨハネ16:20)

聖パウロもコリント人への手紙の中でこう書いています。「実に天主にもとづく悲しみは、悔いのない救いにいたる痛悔を生み、世の悲しみは死を生む。Quae enim secundum Deum tristitia est, poenitentiam in salutem stabilem operatur : saeculi autem tristitia mortem operatur.」(コリント後7:10)。

主はそればかりでなく、わたしたちを慰めようとこの短い人生の間においてももっと早くわたしたちに会おうと、すぐに会おうと、御聖体をもって、また、ミサ聖祭をもって、秘蹟を通して、わたしたちにお会いしようとされるではないでしょうか。出産の苦しみのたとえは、まさに、罪を痛悔する聖人たちの苦しみだとも理解できます。何故かというと、子どもが生まれた後には二重の喜びがあるからです。一つは苦しみがなくなったということ、もう一つは子どもが生まれたという喜びです。

ところで聖トマス・アクィナスはこのときに「(しかし子を産んでからは、)もう苦しみをおぼえない。この世に一人の人間が生まれたことを喜ぶからである。」とおっしゃっていて、一人の人間と言って一人の子どもが生まれたとは言っていないということに注目しています。

なぜかというと、イエズス様はご自分の受難によって、わたしたちを新しい人間として新しい命に産み出してくださったからです。わたしたちがいままで知らなかったような新しい永遠の栄光の天主の命に産み出してくださったからです。だから一人の人間が生まれたと言います。そしてわたしたちが新しく生まれた天主の命を歩んでいるので、またそしてついには天国では凱旋の教会の一部として、栄光の命の新しさを歩むので、一人の人間が生まれたというのは、まったくぴったりとしています。

【4:遷善の決心】

では最後に遷善の決心を立てましょう。
使徒たちは、キリストの御受難の時にキリストの死を悲しみました。しかしこの悲しみは、あっという間に、主の復活の喜びに代わりました。この喜びは永遠に続くと約束されます。何故かというとキリストは死者のうちから復活してもう再び死ぬことはないからです。キリストに対してもはや死は何の力ももっていないと、聖パウロは言っています。(ローマ6:9)

私たちも、同様に、この人生の間、苦しみ悲しみます。これはどうしても避けることができません。しかし、もしも私たちが主に忠実に従うならば、それはかならず喜びに変わります。主は忠実なしもべにこう言われるでしょう。「よし、善良な忠義なしもべだ。あなたはわずかなものに忠実だったから、私は多くのものをあなたにまかせよう。あなたの主人の喜びに加われ!」(マテオ25:21)

主は、しかもこの喜びは永遠に続くと確証します。「あなたたちの喜びはうばわれることがない。」と。何故かというと、私たちの永遠の至福は、奪われることも失われることも、終わることもなく、いつまでも終わりなく続く喜びであるからです。何故かというと、私たちは主を見て、そしてその主を愛し、もうこの主以外のものを愛することができなくなるからです。もはや罪を犯すことがないからです。もはやその時には、不正も暴力もありえないからです。このイエズス様の約束は本当です。かならずそうなります。マリア様もそのことをご存じです。天国でそれをいま味わっていて、わたしたちがそこに至るようにお待ちになっており、わたしたちのために祈っておられます。

「あなたたちは今は悲しんでいるが、ふたたび私があなたたちにあうとき、あなたたちの心は喜び、その喜びはあなたたちからうばわれることはない。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。



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