Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

レネー神父様の聖母の御名の祝日の説教(2014年9月12日)大阪にて

2014年09月18日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 東京からは次のようなご報告を戴きました。最初の9時からのミサ聖祭には3人の子供を連れたご夫婦が与り、次のミサには与ることが出来ず帰宅されたので、この家族を含めると、9月14日の主日には51名の方々がミサ聖祭に与るという新記録を作りました。(それ以前には、2005年10月23日にフェレー司教様が来日されて東京でミサを捧げられたときの50名が記録でした。)

 今回は、主日に大阪でレネー神父様がミサを捧げられたので、同時に3名の聖ピオ十世会司祭が来日したことになります。天主様に感謝!

 月曜日の朝ミサには、16名がミサ聖祭に与りました!天主様に感謝!

 愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】
Fr Stehlinのミサ(10時半)の参列者数
男: 18人(内、子供3人)
女: 28人(内、子供3人)
計: 46人(内、子供6人)

Fr Stehlinの霊的講話の参加者数
男: 9人(内、子供1人)
女: 18人(内、子供1人)
計: 27人(内、子供2人)

晩課の参加者数
男: 3人(内、子供0人)
女: 6人(内、子供0人)
計: 9人(内、子供0人)


【お便り】
+ アヴェマリア
トマス小野田圭志神父様
 素晴らしい聖伝のごミサに与らせていただきまして、ありがとうございました!
 私は無事に帰ってまいりました。
 神父様方は、次のお務めのためにごミサの後すぐ出発なさり、霊魂たちのために休む暇がありませんね。本当にお疲れさまです。
 私は多くの熱心な信者の方にも驚きました。聖ピオ十世会が日本においてここまで発展して、信者たちもしっかりとラテン語で受け答えしている姿を見て、感服しています。(後略)

【報告】
+アヴェ・マリア・インマクラータ!
小野田神父様、今月のミッションお疲れさまでした。

シュテーリン神父様の力強いお声を聞いて、勇気づけられた思いです。
また、長崎では聖母やコルベ神父様、二十六聖人の御取り次ぎが得られるようお祈りなさったことと思います。日本に聖堂が与えられますように。

【報告】
 大阪では、御ミサの後、マリア様に関してのお話を、聖母の御名の祝日のお説教を用いながらして頂きました。

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9月12日(金曜)聖母の御名の祝日の説教

今日のマリアの尊き御名の祝日は聖母マリアの祝日の一つですが、沢山ある聖母マリアの祝日というのは私たち全ての信者が天主の聖母に対する深い信心を育めるよう、教会が私たちのために定めているものです。聖人達全体に対する信心は必要ですが、個別の聖人に対する信心は義務ではありません。私の生まれた町の近くに聖オーストルベルトという聖人がいますが、皆さんはこの聖人のことをお聞きになったことはないでしょうし、天国に行くためにこの聖人への信心が必要な訳ではありません。それでも、私たちとつながりのある聖人達、例えば私たちの守護の聖人、私たちの国や町や教会などの守護の聖人達への信心を持つことは良いことであって、私たちのためになることです。これらの聖人達のなかでも、とりわけ、聖母マリアに対する信心は必要です。私たちの主イエズス・キリストが抱いておられた聖母への深い愛を私たち自身も持っていないならば、主イエズス・キリストを本当に愛することはできないのです!

これこそ、私たちが聖母に対する信心を持たねばならない第一の理由です。即ちイエズスご自身が聖母に対する愛を持っておられましたし、聖パウロは、「イエズス・キリストの心を心とせよ。」(フィリッピ人への手紙2章5節)と言っています。私たちの主イエズス・キリストは真の天主として、他のいかなる者に与えたお恵みや特権をもはるかに超える至高のお恵みや特権をご自身の母にお与えになりました。私たちの主イエズス・キリストはまた人として、子が母に対して持つ優しい愛をお持ちでした。福音の中で、例えばカナにおいて、私たちはこの愛を見ます。それは、聖母がイエズスに「あの人たちにぶどう酒がなくなりました」(ヨハネ2章3節)とだけおっしゃったとき、イエズスのお答えはこれを拒むような「婦人よ、それが私とあなたとになんのかかわりがありましょう、私の時はまだ来ていません!」(ヨハネ2章4節)というものでした。しかし、その後すぐ何が起こったでしょうか。聖母は下男達に対してなんでも主の言うとおりにするように命じられ、イエズスは聖母が彼に対して今示された信頼を裏切らぬよう、ご自分の母を喜ばせるために、最初の奇蹟を行なわれたのです!同じように、私たちの主が十字架の上で亡くなられる時にも、子としての母への愛を見ます。主はご自分の母が最期まで十字架の下におられることをご覧になります。未亡人となり、ご自分の一人息子があらゆる種類の苦しみの中で死につつあることを見ておられる母です。これをご覧になった主は、ご自身のことよりも母のためを思い、愛する弟子聖ヨハネにご自分の母を託されたのです。「母に『婦人よ、これがあなたの子です』とおおせられ、また、弟子には『これがあなたの母です』とおおせられた。そのときから、その弟子は、マリアを自分の家にひきとった。」(ヨハネ19章26-27節)

聖母は聖なる婦人達の集団と一緒に主とその弟子達を物質的に助け(ルカ8章3節)ながら確かに私たちのイエズス・キリストに付き従っておられ、十字架の下ではその集団の頭として行動されました。このように使徒達は私たちの主が第四戒を守り、ご自分の母を敬っていらっしゃったのを目の当たりにすることができました。私たちの主イエズス・キリストが聖母を敬い、また聖母に献身的な愛をお持ちであり、一方私たちがイエズス・キリストの心を心とすべきであるのなら、当然私たちも聖母を敬い、聖母に献身的な愛を持たねばならないことになります。

使徒達や初期の教会はこのことを実践し、聖母の名を唱える度、大いなる敬意、尊敬、名誉をもってしていました。聖母について書かれた最初の文献のいくつか、たとえば聖ユスチヌスや聖イレネウスの著作では、聖母の信仰がエワの不信仰と対比され、聖母は最初のエワの不信仰を正す信仰をもった新しいエワとして、新しいアダムである私たちの主イエズス・キリストと結ばれた新しいエワとして、示されています。これら初期の著作で、既に聖母は『代願者』の称号で呼ばれておられました。初期の教会は聖母が私たち全てのために取り成してくださることを認めていたのです。

私たちが私たちの聖母に敬意を示すべき第二の理由は、キリストの神秘体の教理に基づいています。聖パウロは、洗礼によって私たちは私たちの主イエズス・キリストの体である、と大変明確に述べています。母は体なしの頭だけの子を産みはしません!ですから、聖母は頭と体を含んだキリストの母、つまり『キリストの体』全ての母であるのです。聖母はキリストの体である教会の最も崇高な一員であると同時に、私たちの主イエズス・キリストの母であるという特殊な立場のため、教会の母でもあるのです!

この第二の理由と関連したこととして、救いのため絶対必要な徳、即ち謙遜の徳があります。「神は高ぶる者にさからい、へりくだる者に恵みをお与えになる。」(ペトロの前の手紙5章5節)天主がさからわれれば、誰が天国に行けましょうか?私たちが天国に行くためには、必ず天主のお恵みが必要であり、お恵みを受けるのに必要な条件は謙遜です。福音では、私たちの主イエズス・キリストはこの謙遜の必要性を色々な形で教えてくださいますが、特に、「まことに、私はいう。あなたたちが、子どもの状態に立ちかえらないなら、天の国には、はいれないだろう。」(マテオ18章3節)とおっしゃいました。主がこのように大変重要な事実をおっしゃる時は、「まことに、私はいう」という聖なる誓いの言葉で御言葉をお始めになります。ところで、子どもの状態に立ちかえり、改心するためには母が必要です!ですから私たちの主イエズス・キリストは母の中で最も素晴らしい母、主ご自身の母を私たちに下さいました。主は、「最愛の弟子」に対して、「これがあなたの母です」(ヨハネ19章26節参照)とおっしゃったのです。つまり、イエズスは聖ヨハネだけにこれをおっしゃったのではなく、イエズスに愛されたいと願う全ての弟子に対して「これがあなたの母です」とおっしゃったのです!私たちが聖母を真に私たちの母とすれば、私たちがイエズスに愛されることがこれによって保証されているのです。謙遜の必要性について言えば、聖母はまったく素晴らしい立場におられます:「主が、いやしいはしためにおん目をとめてくださったから」で、「これからのち、代々の人々は、私を、さいわいな女と呼ぶ」(ルカ1章48節)こととなったからです。

高慢な異端者達は、自分たちには聖母は必要なく、「イエズスに直接行ける」と主張して、聖霊によって祝福され、聖霊のかげがおおった(ルカ1章35節)その聖母に敬意を表することを拒むのです。この高慢な異端者達は「子どもの状態にたちかえ」ってはおらず、天国に行くためにはまさにそのような改心が必要です。

私たちが聖母を必要としているもう一つの理由は、私たちが今、「権勢と能力、この世の闇の支配者、天にある悪霊」(エフェゾ6章12節)との恐ろしい霊的な戦いのただ中にあるからです。この戦いでは、私たちは「暁のように広がり、月のように美しく、太陽のように輝き、軍勢のように恐るべきもの」(雅歌6章9節)を必要としています。教会は、この雅歌の賢人の言葉が聖母のことを指していることを認めました。それ以外にあり得るでしょうか?

善と悪との戦いには、純潔の戦いも含まれます。現代社会では、以前にも増して悪魔が不純の洪水とあらゆる種類の倒錯をもって、すべてを腐敗させようとしています。私たちの主イエズス・キリストのお恵みで、私たちはこれを拒み、純潔でいることができます。この戦いでは、私たちには、聖マキシミリアノ・コルベが「インマクラータ」と呼ぶことを好んだ、無原罪の聖母の美しい見本があるのです。無原罪の聖母の見本は私たちを鼓舞し、力づけるものです。私たちの主イエズス・キリストのお恵みをもってすれば、本当に純潔でいることができるのです!主がご自身の母に与えられた美しさをご覧ください!天主は純潔を愛され、私たちの主イエズス・キリストは子どものよう な無邪気さを愛されます。私たちの主イエズス・キリストのお恵みをもってすれば、子どものような無邪気さを失わないことができるのです。また純潔の徳を取り戻し、童貞を奉献して完全なる貞潔を守るというより高次元の実践も可能です。天主のお恵みの力によって聖母が完全に無原罪であることが可能となったのであれば、私たちの地位に応じた貞潔を実行することは可能なだけでなく、喜ばしいことであることを信じなくてはなりません。即ち、婚姻の前に純潔であること、結婚にかんして貞潔であること、また天主が修道生活にお呼びになったのであれば、更に貞潔であることです。

純潔の戦いよりも更に深刻な戦いは、信仰のための戦いです。特にこの五十年、私たちは「信仰の守護者、真実なる童貞、あらゆる異端を打ち負かす御方」を必要としています。教会が聖母の交唱で唱えるように、「御身のみが全世界のあらゆる異端に打ち勝たれた!」。

しかし、この戦いにおいて私たちはこの二つの真実を忘れてはなりません。すなわち、私たちの主の助けをもってすれば戦いに勝つことが出来るが、私たち自身のみでは戦いに勝つことが出来ない、ということを。この天主の助けの必要性、私たちの主イエズス・キリストのお恵みの必要性、いや絶対的な必要性こそが祈りの根源なのです。私たちは祈らなくてはなりません。祈りは霊魂にとって最も根源的に必要なものです。私たちが祈るときには、聖人達に祈ること、そして誰よりも天の母、聖なる童貞マリアに祈ることが必要です。聖母が、特に被昇天によって力強い者とされたのは、私たちの必要のため、私たちの助け手となってくださるため、いつも私たちを守って くださる代願者となってくださるため、私たちを助けるため、私たちを救ってくださるためなのです。

今日の祝日もこの真実を実証するもののひとつです。マリアの尊き御名の祝日は、オーストリアのウィーンでのイスラム教徒に対する勝利に際して、聖母の御保護への感謝のしるしとして、福者インノケンチウス11世教皇が定められたものです。今日イスラム教徒は教会に対して更に残忍で暴力的になっており、私たちは聖母を必要としています!私たちが聖母を必要とするのはこの世での戦いのためばかりではなく、もっと重要なイスラム教徒の改心のためです。これは更に難しいことですが、聖母の助けがあれば極めて可能なことなのです!

親愛なる兄弟のみなさん、ですから子どもが最も素晴らしい母を愛するよう、私たちも聖母をやさしく愛しましょう!毎日聖母に信心をもって祈り、聖母の例にならい、聖母がイエズスを心から愛されたように私たちも心からイエズスを愛すように努めましょう。特に純潔という美しい徳を守り、永遠の信仰を汚れもなく一点の妥協もなく守るようにしましょう。そして聖母の助けによって数多くの霊魂が私たちの主イエズス・キリストの下に戻って救われることを信じて、聖母への信心、とりわけ聖母の御心に対する信心を広めましょう。アーメン。

聖伝のミサ(いわゆる「トリエント・ミサ」と呼ばれているローマ式典礼様式のミサ)にようこそ!

ローマ・カトリックの聖伝のミサ vs エキュメニカルな新しいミサ(第二バチカン公会議のミサ)




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2014年9月14日主日のレネー神父様のお説教(大阪にて)

2014年09月18日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 こんにちは! 9月の聖伝のミサには皆様とお目にかかれて大変幸福でした!大阪から次のようなご報告を戴きましたので、ご紹介いたします。

愛する兄弟姉妹の皆様の上に、天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】
日本でのミッションありがとうございました!!!

新管区長様シュテーリン神父様をお迎えして、今までより一層インマクラータへの愛と信頼と希望が増したように感じます。
シュテーリン神父様、レネー神父様、小野田神父様を見習って、インマクラータの完全な道具になることを目指して、日本に頂いた大きなお恵みに感謝しつつ精進したいと強く思います。いつもながら、大きな犠牲と愛をもって来日下さる神父様方に心から感謝申し上げます。

大阪での御ミサですが、

9月12日(金曜)聖マリアの至聖なる御名の祝日、小野田神父様司式のミサには15人の方が、
9月13日(土曜)聖母の土曜日小野田神父様による読誦ミサ、シュテーリン神父様司式の歌ミサには22人が、
9月14日(主日)聖十字架の称賛 レネー神父様司式 歌ミサには21人の方々が、御ミサに与るお恵みを頂きました。
デオグラチアス!

14日主日のレネー神父様のお説教は以下のとおりです。また、御ミサの後、マリア様に関してのお話をこの週にあった聖母の御名の祝日のお説教を用いながらして頂きました。


2014年9月14日の主日 大阪の説教

聖なる十字架称讃の祝日は、次に述べる十字架の奇蹟を思い起こさせてくれます。戦いの後、ローマ皇帝ヘラクリオが聖なる十字架を取り戻したとき、皇帝は自分の肩にのせて十字架を担い、カルワリオの山に戻そうとしました。しかし山のふもとで、どういうわけか、まったく動かすことができなくなりました。そのとき、エルザレムの司教ザカリアが皇帝に言いました。「皇帝陛下、陛下のお召し物は宝石や金がついているため、私たちの主イエズス・キリストがお示しになった清貧やへりくだりとはかけ離れているのでございます」。そこで、皇帝は美しく高価な衣服を脱ぎ、貧しい人の服をまといました。すると、今度は何の問題もなく、十字架をカルワリオの山、山というよりも丘のようなものですが、 その丘の頂上まで運ぶことができました。

十字架の神秘はまさに「信仰の神秘」であり、一(いつ)にして真の信仰の中心です。天主の御子が人間を救うために天から下って来られたということは、そのことだけで驚くべき真理ですが、御子はどのようにして私たちをお救いになったのでしょうか。十字架上の犠牲としてご自分をお捧げになり、その結果、御父のほまれを回復させ、私たちの罪という負い目を返すことによってです。これは、私たちの自然の理解力を超えています。そのため、多くの霊魂にとって躓きの石となってきました。イスラム教徒は、全能の天主が十字架上で弱い姿を見せたということを受け入れるのを拒否しています。(彼らは、主が十字架上で勝ち取られた罪に対する勝利を見ません。)高慢な人々は、天主の御子のへりくだ りを受け入れることができません。実際、聖パウロは言います。「互いにイエズス・キリストの心を心とせよ。キリストは本性として天主であった[=天主の本性を持つ=真の天主である]が、天主と等しいことを固持しようとはせず、かえって奴隷の形をとり、人間に似たものになって、自分自身を無とされた。その外貌は人間のように見えた」。ご托身は、すでに驚くべきへりくだりの行いですが、聖パウロは続けます。「死ぬまで、十字架上に死ぬまで、自分を卑しくして従われた」(フィリッピ2章5―8節)

罪は高慢によって世に入りました。仕えるのを拒否し、「Non serviam―私は仕えない」と言った悪魔の高慢です。次に、天主に似た者になること、「目が開け、善と悪を知る天人のようになる」(創世記3章5節)ことを望んだアダムとエワの高慢です。これは、自分にとって良いこと、悪いことは自分自身で決めるということであり、上からの法を受け入れず、自分たちの上に天主の支配があることを理解しないことです。もし高慢というものの重大さを私たちが理解したならば! ちっぽけな被造物が創造主に対して反乱を起こすとは! あらゆる罪の根っこには高慢があります。「高慢のもとは罪で、罪にふける人は憎悪をまく。(そこで主は奇妙な罰を下し、)彼を滅ぼし尽くされる」(集会書10章13節)

ですから、人間を救うため、人間を癒やすため、罪によって乱された秩序を回復させるために来られた天主の御子は、へりくだりについて説教なさっただけでなく、最初から最も素晴らしい方法でそれを実践なさいました。天主の御子のご托身そのものが、へりくだりの行いなのです。「主は天から下り給うた」(「天から下った人のほか、天に昇った者はない、それは人の子である」ヨハネ3章13節)。

主の生涯の絶頂期もまた、偉大なるへりくだりの行いでした。「死ぬまで、十字架上に死ぬまで、自分を卑しくして従われた」(フィリッピ2章8節)。これは、主がほまれを回復なさった御父のための愛の行いであり、主が救いのために働かれた私たちのための愛の行いですが、本質的にはへりくだりの行いでもありました。ご自分の御体と御血の犠牲を捧げることは、宗教の徳の行いであり、その徳によって、私たちは天主の素晴らしさをたたえるのです。私たちの主イエズス・キリストは天主として、この犠牲を受け入れられました。しかし、私たちの主イエズス・キリストは人間として、聖三位一体のほまれのためにご自分をいけにえとしてお捧げになりました。

私たちの救いという崇高なみ業から利益を得るために、私たちは主の犠牲の行いにおいて、私たちの主イエズス・キリストと一致する必要があります。ですから、私たちは主と共にへりくだらなければなりません。私たちは主と共に自分を捨てなければなりません。しかし人は言います。「そんなことは難しすぎて、私たちにはできません」。私たちが自然の状態だったら、その通りです。実際に難しすぎるでしょう。しかし、私たちの主イエズス・キリストの恩寵による助けがあれば、十字架上のイエズスと一致することは喜びになります。聖人たちの中には、そのような喜びは、十字架がないままでいるよりも、むしろ死ぬ方がいいというところまで行き着いた人もいます(アヴィラの聖テレジア) 。この喜びは、十字架がすべての恩寵の源、特に愛徳の源であるという事実から来るのです。木がなければ火はつきません。愛徳の火は、十字架の木によって燃え上がります。いったん、そんな隠された宝を見つけたならば、人は行って、それを得るためにすべての持ち物を売り払うでしょう(マテオ13章44節)。皆さんはおっしゃるでしょう。その宝をどうやって見つけることができますか。(その答えは、)「求めよ、そうすれば与えられる。探せ、そうすれば見いだす。たたけ、そうすれば開かれる。求める人は受け、探す人は見いだし、たたく人は開かれる」(マテオ7章7―8節)

十字架の最も喜ばしい実りは、ご聖体です。私たちの主イエズス・キリストが十字架上でお捧げになった御体と御血、これがご聖体として私たちを養ってくださるのです。ご聖体は、十字架の最も喜ばしい実りであると当時に、私たちが十字架を担い、天主の火を私たちの周りに広げることができるよう、私たちを強めてくれます。

十字架は、受け入れる受け入れないの自由はありません。「私のあとに従おうと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を背負って従え」(ルカ9章23節)。私たちの主イエズス・キリストは、主が天主であることを告白したペトロに首位権を約束なさったあとで、弟子たちにこのことを仰せられました。「このとき以来イエズスは、自分がエルザレムに行って長老、司祭長、律法学士たちから多くの苦しみを受け、そして殺され、三日目によみがえることを教え始められた。するとペトロはイエズスを引き止めて、『主よ、そんなことは起こりませんように。いやいや、そんなことが身の上に起こるはずがありません』と言った。イエズスは振り向き、ペトロに向かって言われた。『サタン、引きさがれ。私 の邪魔をするな。あなたが思っているのは天主の考えではなく人間の考えだ』」(マテオ16章21―23節)。十字架を拒むことはこの世の精神であり、十字架を愛することはキリストの精神です。聖人たちは皆、十字架を愛しました。

私たちの弱さを知っておられる主は、私たちを助け、十字架の下に私たちを導くため、御母を私たちにお与えになりました。最も力強かった使徒たちが逃げてしまったのに、数人の女性たちが聖ヨハネと共に十字架の下にいました。どのようにしてそんなことが起きたのでしょうか。その理由は、逃げなかった人々は聖母に従っていたからなのです。

私たちの人生において十字架は、第一に、過去の罪から私たちを清めてくれます。喜んで十字架を受け入れることは、私たちの罪や多くの他の人々の罪の償いになります。現代人は、天主に負い目があることを忘れてしまっています。現代人は、自分の権利には大変関心がありますが、自分が負い目のある他の人々には関心がなく、とりわけ負い目のある天主に対しては関心がありません。しかし、私たちの主イエズス・キリストの真の弟子たちは、天主に対するこの負い目を大変意識しており、いろいろな犠牲、個人的な犠牲、そして何よりミサの聖なる犠牲を通して償いをしようと望んでいます。

第二に、十字架は私たちの罪による傷を癒やしてくれます。十字架は、罪の正反対のものであるからです。高慢という罪に対して、十字架はへりくだりを暗示します。不従順に対して、十字架は従順を教えます。肉欲に対して、十字架は楽しみから完全に離れ去り、可能な限りのあらゆる侮辱と苦しみを受け入れることを教えます。酒に酔うことに対して、私たちは渇きによって苦しむ私たちの主イエズス・キリストを見るのです。ほかにもあるでしょう。

最後に、十字架は私たちの闇を癒やし、私たちの主イエズス・キリストという光をもたらします。十字架は、世のすべての人を照らす光であるキリストが置かれた燭台なのです。

私たちは簡単な償いの業を実行に移すべきです。まず教会が私たちに求めているもの、特に金曜日の小斎をすべきです。

以上述べたように、十字架が輝かしく凱旋し、「十字架の友人たち」と共に永遠に君臨する天国へ向かって、私たちは十字架の道という王道を歩んでいきましょう。アーメン。

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シュテーリン神父様のための霊的花束の最終報告(東京と大阪からの総計)

2014年09月18日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
愛する兄弟姉妹の皆様、

 シュテーリン神父様のための霊的花束の最終報告(東京と大阪からの総計)を申し上げます。

 これらのご報告をまとめて霊的花束のカードに私が手書きしてシュテーリン神父様に9月14日の夕方にお渡しいたしました。神父様は大変喜んでくださいました。

 愛する兄弟姉妹の皆様には、多くのお祈りを深く感謝します。

ミサ聖祭      160
御聖体拝領      89
霊的御聖体拝領   1504
十字架の道行    261
聖なるロザリオ   4326
小さき犠牲     1056
その他 連祷など  784

 愛する兄弟姉妹の皆様に天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

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--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

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