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2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

聖パウロの回心によって、「信仰の核心」を学ぶ

2017年02月09日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2017年1月25日(水)、大阪でフルーガー神父様が聖伝の御ミサを捧げてくださいました。そのときの「お説教」をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


2017年1月25日(水)聖パウロの回心のミサ
フルーガー神父様御説教


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

親愛なる兄弟の皆さん、私たちは今日聖パウロの回心の祝日を祝っています。私たちは信仰の核心をこの回心によって学びます。何故このパウロの回心がこんなに必要だったのでしょうか。この他の人たちも旧約聖書によって私たちがこの救霊という事を確かに信じていました。そしてイエズス様がいらした時にイエズス様は仰いました、「救われる為には私を信じなければいけない。そして私の贖いを信じなければいけない。」

これが新約の部分です。過去の旧約聖書の掟を信じるだけではなく、そうではなくイエズス・キリスト御自身を信じる事が必要です。

サウロというパウロは大変熱心な、ファリザイ人たちのようにとても熱心なユダヤ教徒でした。救霊が旧約の掟を守る事ではなく、新しい救い主を信じる事である、という事に対して、彼は熱心だったが故に大変な怒りと反対を起こしました。ですから聖ステファノがリバノンの首都であったダマスコで、新しいと思われたその信仰を表わした事は迫害される元となりました。

パウロが馬から落ちた時の奇跡を思ってみると、天から天の声が聞えました。その声は、「サウロ、サウロ、何故あなたは私を迫害するのか」と仰いました。つまりサウロが迫害していたのはキリスト教徒でしたが、今の時代でも言える事ですが、キリスト教徒を迫害する事はイエズス・キリスト御自身を迫害する事です。

パウロの回心、信仰の核心は、「イエズス・キリストを通して以外に救霊はない」という事でした。イエズス様が、「洗礼を受けない者は天の国に入れない」と仰った事が示すように、イエズス・キリストこそが救い主であるのです。

恩恵の本当の神秘というものはイエズス・キリストを通してのみ与えられるものです。イエズス様は仰いました、「私なしには、あなたは何もする事ができない。しかし私を通せば、あなたは全てをする事ができる。」

この力はイエズス・キリストを信じるという信仰の恩寵によるものです。ですから信仰を通して私たちは何かをする事ができて、それ無しでは、イエズス・キリスト無しでは何もできないという事です。信仰を通して私たちの祈りは、教会を助け、罪人の回心を得る事さえもできるのです。

パウロが彼の回心の後に、しばらくたって後すぐに宣教を始めたように、私たちはただ信仰があるからといって何もしないで良いわけではありません。パウロのように私たちは、信仰を通してイエズス・キリストから力を得て、祈り、償いを捧げ、他の人々の回心の為に働かなければいけないのです。それが大変深い信仰の神秘です。

私たちは教会や聖母マリア様を通して、自分の信仰から得た恵みを捧げる必要があります。マリア様は共贖者であるので、私たちが捧げたものを天主様にとりなすという役割がおありです。

今日、聖パウロに取り次ぎを祈りましょう。私たちが本当の信仰を、深い信仰を持つ事ができ、マリア様を通して多くの回心を得る事ができるように。ピオ十二世教皇様は仰っていました、「私たちの祈りや償い、天主に対する祈りや償いは、教会を助け、また罪人の回心を得る事ができるのです。」

私たちはたとえ少ない人数だとしても決して信頼を失わないでください。信頼してください。ロザリオの祈りを通して多くのものが与えられる、という事を信用してください。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

ロザリオの十字軍)2017年2月6日現在、日本からロザリオ9,104環、犠牲40,719回が報告されました。

2017年02月08日 | ロザリオの十字軍
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2017年 2月 6日現在、

日本から今までの総計で、ロザリオ 9,104環、犠牲 40,719回が報告されております。天主様に感謝!愛する兄弟姉妹の皆様のご協力に感謝します。

マニラからは、ロザリオ42,039環、犠牲28,144回が報告されています。

韓国からは、ロザリオ2,640環、犠牲297回が報告されています。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)



【報告】
聖なるロザリオの十字軍の御報告を致します

                    聖なるロザリオ   犠牲

シスター               93 環          
ヨゼフ マリア            54 環          0 回
アンナ               30 環        250 回
マリア・ルチア             5 環         93 回
マリア・クリスティーナ        27 環        620 回
マリア                31 環        310 回
バルナバ               76 環        335 回
マリア・ローザ            95 環        310 回
ヨゼフ・パウロ            93 環              
マリア               107 環        744 回
マリア                93 環        186 回
マリア・ベルナデッタ        101 環        340 回

         計        816 環       3163 回 

宜しく御願い致します
デオ・グラチアス


【報告】
アヴェマリア インマクラータ!

トマス小野田神父様
ロザリオの十字軍のご報告をさせていただきます。
2016年10月24日~2017年2月4日(日本時間18:00) 40環 でした。
家族のためにお祈りください。

小野田神父様の天主様の祝福が豊かにありますように!


【報告】ロザリオ十字軍の報告です
アヴェ・マリア・インマクラータ!

こんばんは!
ロザリオのカウントはどうにか致しましたが、犠牲の方は数えずに過ごしてしまい申し訳ありません。

2016年 11月 69環
2016年 12月 54環
2017年  1月 52環    合計 175環

以上です。


【報告】ロザリオ十字軍 (パウロ&カタリナ)
アヴェ・マリア インマクラータ!
前回から1月13日までのロザリオは2人合わせて237環でした。

洗礼を授かって間もない妻が毎日沢山のロザリオを聖母の汚れなき御心にお捧げする様になったのは小野田神父様の霊的指導のお陰だと深く感謝致しております。


【報告】
+Ave Maria! Immaculata!
1月のロザリオ十字軍のご報告をさせていただきます。

6人で
ロザリオ:240環
犠牲:488回
お捧げいたしました。

聖母の汚れ無き御心よ、我らのために祈りたまえ。
ファティマの聖母、ロザリオの聖母よ、我らのために祈りたまえ。



「カトリック信仰とは一体何か?カトリックに於いて信じるとは何か?」 聖ピオ十世会フルーガー神父様の霊的講話

2017年02月06日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2017年1月22日(主)、東京でのフルーガー神父様の「霊的講話」をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2017年1月22日(主日)フルーガー神父様霊的講話
同時通訳:小野田圭志神父


今日ここで皆さんと一緒にいて、この皆さんの所を訪問する事ができて大変嬉しく思います。私の記憶が正しければ、6年前にここに来て、その時から小野田神父は東京に修道院ができる夢をまだ持ち続けて、というのを覚えています。

今日のこの午後のお話ではいくつかの点を考察したいと思います。

1つは、私たちはこの時代にどうやって信仰生活を送っていかなければならないのか、私たちのキリスト教生活のこんにちの義務は何か、という事です。

先週本部のメンツィンゲンで、総長様と補佐が集まって重要な会議がありました。いつも毎月1回、2・3日かかって今この聖ピオ十世会で起こっている事を話し合うのですけれども、この前先週はアメリカの管区長のヴェネラー神父様がいらして色々な話を一緒にしました。アメリカでは世界で一番聖ピオ十世会の活動が発展している所で、何百名もの信徒が集まるチャペルがたくさんあったり、学校があったり、若い司祭がたくさん生まれていたりしていて、とても大きな管区です。それに引き換えアフリカやアジアでは状況はちょっと同じではありませんが、しかし同じ共通の問題があります。それは、私たちはこの今異教的な、そして特に不道徳的な社会において、どのように信仰生活を送らなければならないかという事です。

最も大切なポイントはこれです、「天主様が私たちのボスであって、その天主の御摂理がある」という事です。「どのような事も、どのような出来事も、天主の御摂理によって導かれていますし、すでに予言されている事である」という事です。「私たちは最高の聖父を持っている」という事です。

幼きイエズスの聖テレジアの霊性をうまく説明した神学者に、リアグル神父様がいますけれども、それによれば、「天主こそが私の聖父であって、どのような事もその聖父の知らない事はない。そして知っていて、それが起こる。そして全て、聖父は私の最高の善を知っていながら、それが起こるのを許している。天主の御旨こそが最善であって、たまたま起こる事がない。この事を確信する事だ」と。これが一番の点だと思います。

ともすると、今の現在起こっているスキャンダルとか、教皇様がこう言った、ああ言ったとか、アモリス・レティティアはこうだとか、終わりのないこのスキャンダルの連続を聞いてニュースで聞いて、それを見て、私たちはともすると憂鬱になってしまったり、落胆してしまったり、がっかりしてしまったり、「これからどうなってしまうのだろうか」と暗くなってしまのですけれども、私たちは、「地獄の門も教会に打ち勝つ事がない」というイエズス様の天主の約束を信じなければなりません。

何故かというと、その今見かけでは反対であるかのように思われても、最後に勝利を持つ方はイエズス・キリストだからです。ですから天主様の御摂理に信頼致しましょう。天主様がやはりボスであって、最後の勝利者であって、たとえその外的な出来事がどのようなものであったとしても、イエズス・キリストだけが私たちの唯一の救い主である、最終の勝利者だ、という私たちの信仰を確固たるものに致しましょう。

今教会はかつてない特別の危機の時代を迎えています。しかしこれは天主様の御摂理の許可を許しを得て今起こっている事です。天主、全能の天主がそれを起こる事を許されたのは、「この事から、それより更に大きな偉大な善を引き起こす為」です。ですからこの危機というのは実はチャンスであって、私たちにとってより大きな善を引き出す為のチャンスであって、機会であって、私たちの信仰の試練の時なのです。

ですから私たちは超自然の希望を持たなければなりません。今のこの危機の時代を、暗い、落胆した見方で見るよりは、超自然の良い機会として、善を出す機会として、その光で見て下さい。ちょうど聖パウロが、「希望のないところに希望して、“Spes contra spem”」と言ったように、信仰と、希望と、愛をますます強める良い機会です。

残念な事に、あるイギリスの司教様は「もう何も希望はない。もう何もする事はない。ただこの世の中が壊れてしまって、罰を受けてそのまま無くなってしまうのを待つだけだ」と言いましたが、それは良い態度ではありません。そうではなくて、明らかに希望がないように見えるところでも更に希望して、特に教会のカトリックの教会の有する「天主から作られた」というその天主の持つ性質に対する希望がなければなりません。天主御自身が作った教会ですから、天主がイエズス・キリスト御自身が教会を指導しています、導いています。

これはフランシスコ教皇様の教会でも、私の教会ではなくキリストの教会です。どのような混乱や難しい状況にあっても、火によって黄金が純金となるように試されるように、今教会が浄められる為にこのような試練があるのですから、超自然の見方をなさって下さい。

私たちの主の例をとってみましょう。私たちの主がどのように生活なさったのか、どのような生き方をされたのかをよく研究しましょう。その為には毎日ロザリオを唱えるのが良いです。これはマリア様が色々な御出現で、ロザリオを唱える事を言った通りです。何故かというと、ロザリオを唱える事によって私たちは、主のどのような生き方をしたのか、ということを黙想する考察するからです。どうやってイエズス様は生活されたのか、どのような生き方をされたのか。

ところで私たちは普通の事として、「天主様が赤ちゃんになって、十字架の上で亡くなった」と信じていますけれども、実はこれはユダヤ人にとっては難しい事でした。使徒たちでさえもこれを信じる事は不可能な事でした。何故かというとユダヤ人たちは、普通に王様が来る事を、秩序を回復して下さる、奇跡を行なって下さるような方を待っていたのです、力強い誰かを待っていました。ですから最初、「イエズス様が奇跡を行なって病人を癒やした、それからどれどれの奇跡をした」と言ったら、それは簡単に信じる事ができました。弟子たちはすぐにこのような方を王様として祭り上げよう、王冠を捧げよう、王としようして行動しようとしましたが、でもそれはイエズス様の御旨ではありませんでした。

そうしてイエズス様の死が来ます、十字架の上での死が来ます。あまりにもその差が激しかったので、期待と現実の差が激しかったので、トマスは、使徒であったトマスは信じる事ができませんでした、信じる事を拒否しました。しかもイエズス様が何度も現れて、「確かにそうだ」という事をした後にでも、御昇天の時にはある弟子たちは、「あぁ主よ、あなたが御国を作るのは今ですか?この地上で楽園を作るのは今ですか?」と、「この地上を楽しくするのは今ですか?」と聞きました。するとイエズス様は答えて、「そうではない。その時は聖父のみが知っている。お前たちの知るところではない。お前たちの事ではない」と言いました。

イエズス様の御降誕、クリスマスから御復活、そして聖霊降臨まで、イエズス様が本当に何を私たちの為になさろうとしたのかを感じ取って、嗅いで匂いを嗅いで、そして見て下さい。それは全く新しい事であって、今まで見た事も想像した事もなかったような事を、イエズス様は当時教えて下さり、それを実践されたのです。これは私たちにとって最高の教えを与えています。

では1世紀の初代のキリスト教信者を見てみましょう。その初代は非常に信仰が急速にひろまっていましたけれども、それと同時に迫害も始まりました。たとえばローマ帝国の皇帝デチウスやディオクレティアヌスは非常に厳しい迫害をして、多くのキリスト教徒を殉教させていきました。しかしその当時多くの人々は、まさかこの皇帝の大迫害の20年後には教会が全く自由になると誰が想像した事でしょうか。

デチウスやディオクレティアヌスがいた時には、キリスト教徒は生き残る事で精いっぱいでした。兵士も皇帝の前に出る事が難しかったし、「キリスト教だ」という事を宣言する事も難しかったし、しかもその周囲は社会は異教の社会であって、不道徳があって、犯罪が平気で行われていました。その中でカトリック信者は信仰を守り続ける為に、生き残る為に努力をしていました。ところでその迫害が終わり、ミラノの勅令が出て教会が自由になった、もうキリスト教を信じても構わないとなったとしても、更に世界が良くなったというよりは、その自由になったと同時に、多くの何千もの信徒の方は砂漠に行って、より良い主との一致の為に隠遁生活さえも始めました。つまりどの時代でも苦しみがあったという事です。

例えば永井博士の生涯についての伝記を私は今読んでいます。本当に素晴らしい先祖を皆さんはお持ちだと思います。16世紀に伝えられたカトリックの信仰は、「外国の勢力からの手先だ」と誤解されて迫害されて、250年間司祭を持ちませんでした。しかし19世紀になると、長崎においてパリの宣教師によってカトリック信者がいた、という事が発見されます。しかしその発見の後にも大きな迫害があり、どの時代も難しい状況を生きのびなければなりませんでした。決して簡単なものではありませんでした。

もちろんカトリック国家があって、そして理想的な国があって、そして何の難しい事がない社会ができれば、それは多くの人にとってより簡単に救霊を全うする事ができますけれども、しかしそれを私たちが今この場でそのようなものを持つ事ができません。そこで私たちにとっては信仰を、イエズス・キリストを信じるという事こそが本質的なものとなります。特に迫害されていたり、或いはこのようにカトリックの信徒の数が少ないところでは、どれほど私たちの信仰が誠実で、純粋で、愛が純粋であるかというところにかかっています。

願わくは天主が皆さんをあなたたちを慰めますように。あなたたちを悲しませているのは、他の人々が教会を暴力を以て占拠してしまって、そしてこの同時にあなたたちは教会の外に追い出されてしまっている事です。しかし彼らは建物は持っていますけれども、あなたたちは使徒からの信仰を持っています。彼らは私たちの教会を占拠していますけれども、しかし彼らこそ真理の信仰からの外にあります。あなたたちは礼拝の場所の外にはいますけれども、しかし信仰はあなたたちの中に留まっています。

ですからこの事を考えましょう。一体何が最も大切なのでしょうか?場所でしょうか?信仰なのでしょうか?

真の信仰です。もちろん。

この戦いにおいて、誰が負けて、誰が勝ったのでしょうか?一体誰が、場所を守った人が勝ったのでしょうか?それとも信仰を守った人が勝ったのでしょうか?

確かに、もしも使徒からの信仰があるのであれば、その場所は良いものとなります。そして全てが聖なるやり方においてある時に、その場所も聖なるものとなります。あなたたちこそが幸せな者です。何故ならばあなたたちこそが、あなたたちの信仰によって教会の中に留まっているからです。あなたたちは信仰の基礎を強く保持しているからです。この信仰の基礎こそが使徒たちの聖伝によってあなたたちの方を見て伝えられました。

もしもものすごい嫉妬によってそれを誰かが揺るがせにしようとするならば、色々な方法でそうするならば、それは成功しないでしょう。彼らこそが現在の危機においてその信仰から離れ去って行ってしまった者です。あなたたちの信仰に反対して誰も勝つ事ができません。

愛する兄弟たちよ、私たちは天主があなたたちにいつか私たちの教会を戻してくれると信じています。

この今、聖アタナシウスの状況は今の私たちと全く同じ状況だと言う事ができます。ですから皆さん心配しないで下さい。教皇様が何を仰った、何をなさった、という事で私たちの生活を麻痺させないで下さい。私たちがスキャンダル、或いは色んな事を聞いたとしても、それでそれを、それにあまり心を砕かないで下さい。中には教皇様がこんな事を言った、こうだ、こうだ、こうだ、という事を何度も何度も何度も何度も言う人がいますけれども、それは聖アタナシウスが言った事ではありません。聖アタナシウスは、「あなたたちの幸せは、あなたたちの信仰だ」と言いました。「信仰を守れ」と言いました。

ここで、聖アタナシウスの教えと、セデヴァカンティズム教皇座空位主義者やレジスタンスとは態度が違っています。そのような人たちは、「あぁ、こんな教皇様はあまりにも悪いからもう教皇様ではない」とか、「教会には2つがあって、本当の教会と近代主義の教会だ」とか言っていますけれども、でも本当のカトリックは、教皇様が何を言った、ああだ、こうだという事にあまりそれに心を砕いて、日常生活を破壊するほどのような態度をとりません。そのような事をやったのは16世紀のプロテスタントでした。

何故かというと、教会の頭はイエズス・キリストだからです。教会の霊魂は聖霊だからです。教会の母と教会の心臓はマリア様です。

教皇様というのは単なるキリストの目に見える代理者にすぎません。聖ペトロは3回も主を否みました。しかも「あぁ、主よ私はあなたの為に命を捧げます」と言ったその直後に。

教会の歴史は最大2年から3年間の間、教皇様の無い時代が何回かありました。例えば 4世紀には2回、2年間教皇様が無い時代がありました、例えば304年から306年の間、或いは309年から311年の間は、大きな迫害があったので教皇様を選出する事ができずに、教皇様はその間選ばれる事ができませんでした。教会は教皇様を必要としていたにもかかわらず、持つ事ができませんでした。

それにもかかわらず、聖アントニオとか聖アタナシウスという偉大な聖人たちを生み出しました。教皇様がいないから聖人が出ないというわけではないのです。13世紀にも同じ状況がありました。1268年から71年まで、また1292年から94年まで教皇様が選出されませんでした。この教皇様がいなかった時代に偉大な聖人たちが出ました。大聖アルベルト、ルイ9世、聖トマス・アクィナス、聖レイモンド・ペニャフォート等々偉大な聖人たちが出て、彼らは教皇様がすぐに選出されなかったという事について特別に不平を持った事はありませんでした。

過去の聖人たちはもちろん問題がありました、教皇様は誰が選ばれるか、その教皇が選ばれる為には過去の候補者の言ったこの言葉は何だ、どうのこうのという研究をしなければなりませんが、聖人たちにはそんな事を調べる時間はありませんでした。それと同じです、「フェレー司教様は、ローマに行くか、あぁ行かないか、」「あぁフェレー司教様が、あぁあの、どこの枢機卿様と会うか、会わないか」これは私たちの義務ではありません。

聖人たちは、自分に与えられた日々の仕事、義務を果たして、そして祈りをして聖人になりました。信仰を守り、罪人を回心し、天主様との親しい一致の生活をし、黙想生活をし、そして天主の御摂理に委ねていました。

天主が勝利するのはもちろん分かっています。しかしどうやって、一体いつ、それは私たちの知るところではありませんし、それを知る、或いはその責任は持っていません。何故かというと、教会が勝利するというのは私たちはそれは知っていますけれども、天主様のイエズス様の教会であって、イエズス様が御存知で、イエズス様がなさる事だからです。私たちはそれを知らないから、「だからじゃあもうこの戦いをやめよう、信仰を守るのはやめよう」とか、「将来が心配でたまらない」等という理由にはなりません。

私たちは、私たちがやらなければならない事をやる。それが最高の奉仕であって、それが成聖の元です。

カナでの婚宴を見て下さい。マリア様の介入によって、イエズス様は奇蹟を行いました。マリア様は、「彼が、この方が仰る事は何でもやりなさい」と言われて、召し使いたちはその通りにやって、水がワインになりました。

ちょうどイエズス様が子供の頃、エルサレムの神殿でイエズス様が迷子になった事があります。3日間マリア様とヨゼフ様はお探しになって、エルサレムで見つけると、「あぁ我が子よ、一体あなたは何でこんな事をしたのですか。お父さんも私もこんなに心配して探していたのですよ。」「女よ、私が聖父の仕事をしなければならないという事を知らなかったのですか。」

「聖父の仕事をする。」これこそが私たちへのメッセージです。

つまり最初はカナの婚宴でマリア様が、「あぁ、あの人たちにワインがありません」とイエズス様に言うと、「え?女よ、それがあなたと私に一体何の関わりがあるのか。私の時はまだ来ていない」と一見拒否したかのように思われます。「私たちの主はそんな事はしないよ」と言ったかのようです。何故拒否したのでしょうか?もしかしたら、もしもその奇跡を起こしたとしたら、それを見ていた人たちが感嘆して、「あぁ素晴らしい、これこそがメシアだ、これこそが王だ」と讃美と称讃を勝ち取っていたかもしれません。その外的な讃美とセンセーションを与えたかもしれませんけれども、それは天主の御旨でもイエズス様の御計画でもなかった、それはイエズス様の仕事ではなかったのでそれを拒否したのかもしれません。

しかしマリア様が、「あの方が仰る事は全てしなさい」と言うと、イエズス様は、「ではお前の仕事は、この石がめに水を汲む事だから、お前これに水を汲みなさい。」「え?水を汲む?」そこで、「はい、分かりました」と言って、自分の仕事である石がめに水をいっぱいまで汲んだのです。そして自分の仕事を果たすと、その水が最高のぶどう酒になりました。

これが私たちのしなければならない事です。私たちがしなければならない日常の義務を果たす事によって、最高の効果が出ます。水がワインになりますし、教会の危機も特別の仕方によって何かの力になります。

私たちは教会の信仰の、その完璧さと美しさを誇りに思わなければなりません。信仰というのはただリュックサックのようにバックパックのようにただこう背負っているだけではなくて、信仰というのは私たちの心と体に染み通っていなければなりません。血と肉になっていなければなりません。そして天主様がこの世を見る見方と同じ様な見方でこの世を見なければなりません。

御聖体、イエズス様が真に在し給う、パンのように見える御聖体。天主三位一体、聖父と聖子と聖霊が私たちに宿られておられる。天主の成聖の命に、愛に、私たちが参与している。考えてもみて下さい、この現実が一体どういう事か、実際私たちに今身に起っている、という事をよく黙想して下さい。イエズス様は言いました、「天主の御国はお前たち中にある」と。

この信仰に誇りを持って下さい。この信仰の証しとなって下さい。この異教徒の真っ只中に一人で生活して信仰を守る皆さんは、あたかも殉教者のようです。証し人となって下さい。私たちは信じなければなりません。ただ復活祭の時に、「はい、私は悪魔とサタンとその業を捨てます、その栄華を捨てます」と口先だけ言うのではなくて、それを本当に生きなければなりません。それがこそ毎日の日常の糧となって、その通りにしなければなりません。

「教皇様がああ言った、司教様がこんな事をした、」と言ったとしても、私たちには本当のカトリック信仰を知っています。この知っている信仰を生きて下さい。その通りに実践して下さい。その信仰の美しさ、典礼の美しさをよく黙想して下さい。ミサ典書を手に取って、毎日一人で天主様と共に10分間それを黙想して下さい。ミサの祈りを祈って下さい。霊的聖体拝領をして下さい。あたかも本当に御聖体を拝領したかのように、イエズス様と一致して下さい。霊的に一致して、その現存に生きて下さい。キリスト教の信仰を生きて下さい。キリスト教信者として生きて下さい。

この他の未信者や信じない人々との生活と、皆さんの生活は違っていなければなりません。確かにこの同じ世界の中で同じ買い物をして、同じデパートに行っているかもしれませんけれども、皆さんは「イエズス・キリストを信じている」というところで違いがあります。教会の典礼の信仰の美しさに誇りを持って下さい。教会の聖性、聖である事、また隠れた霊魂たちの力強さ、いけにえの霊魂たちのその美しさに誇りを持って下さい。

カトリックのお母さん方お父さん方、そしてカトリックの家族子供たち、彼らがキリスト教信者として生きている、この時代に過ごして生きているという事は何と美しい事でしょうか。皆さん誇りを持って下さい。この時代に信仰を保つという事は本当に美しい事です。誰もこの私たちをして、この美しい宝、典礼、いけにえの霊魂、私たちの間に生きているこれらのものから離れさす事ができるものはありません。

天主は真理であって、最も大切で最も重要なものであって、私たちはこれをこれに忠実を守らなければなりません。その他の事はどうでも良いのです、その他の事は天主の御摂理に任せて下さい。私たちがもしもこのように天主の真理に生きるならば、そしてその他の事は天主の御摂理に委ねるならば、私たちの生活が変わった事に気付きます。そして私たちには深い平和がやって来ます。一番大切なのは、「天主の観点によってものを見る」という事です。その時に私たちは、最も偉大な成功を収めます。

私たちにとって大切なのは、場所とか、この世でどんな成功を収めたというのではなくて、カトリックとして生き、カトリックとして死ぬという事です。そしてこのカトリックとして生き、死ぬ事によって初めて私たちは成長し、霊魂たちを救う事が勝ち取る事ができる最高の手段となる事ができます。ピオ12世教皇様は、「私たちの祈りといけにえによって、多くの霊魂を救う事ができる」と教えています。

どうもご清聴をありがとうございました。私の印象では、私がちょっと話すと、小野田神父がお説教をしたと(笑)。

どうもご清聴をありがとうございます。皆さんのご家族と赤ちゃんを天主様が祝福して下さいますように。皆さんの熱心とこの忠実なこの態度を見るのは本当に美しい事です。


「『主よ、主よ』と口で言う者が天の国に入るのではない。私の聖父の御旨を果たす者が、天国に入る。」 聖父の聖旨とは何か?

2017年02月05日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2017年1月22日(主日)に東京で、フルーガー神父様が聖伝のミサを捧げてくださいました。その時のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2017年1月22日 御公現後の第3主日のミサ 
フルーガー神父様御説教

同時通訳:小野田圭志神父


小野田神父:聖なる日本の殉教者巡回教会にようこそ。

今日は御公現後第3主日のミサをしております。そして今日は聖ピオ十世会の総長第1補佐のフルーガー神父様をお迎えして、私たちはとても嬉しく思っています。今日神父様のミサの退場の時には、2017年ファチマ100周年ですから、ファチマのアヴェ・マリアを歌いますが、今回は英語で歌います。まず日本語で歌って、その次に英語があります。

次に、いつもの通り感謝のお祈りをした後に私たちは、踏み絵の償いの為の儀式を毎年恒例のように致しましょう。フルーガー神父様に司式をして頂きたいと思っています。特に昨日から日本では「沈黙」の映画で、背教をする事が勧められているような映画ですので、特にそのような映画の躓きを償う為にも踏絵に接吻もお願いしたいと思います。

今日は14時30分から神父様からの講話があります、どうぞ皆さんいらして下さい。16時からは晩課があります。明日は月曜日7時と7時45分からミサがあります。神父様はその後に大阪に行かれて、大阪の御聖堂でミサをしてから長崎にも行かれて、その後にアメリカに行く予定です。



フルーガー神父様:聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

親愛なる兄弟の皆さん、私はまたもう一度東京で、ここで皆さんとミサをする事ができて本当に嬉しく感謝しております。本来ならば去年の11月1日、諸聖人の大祝日に私は皆さんの所でミサをする予定でしたけれども、残念ながら私の足の化膿の病気で長い回復の期間と治療の期間が必要でした。しかし御摂理によってこの時期に、御公現の後に皆さんを訪問する事ができたのを感謝しています。まず皆さんに新年の挨拶を、総長様であるフェレー司教様の名前によってご挨拶と、そして祝福と、そして新年の良いお恵みをお願いを申し上げます。

私はこのフェレー司教様の名前で日本を今訪問しておりますし、この後にはフェレー司教様の代理としてアメリカの神学校を訪問し、次にケニア、特にケニアにいる聖ピオ十世会のミッショナリーシスターのナイロビにも訪問する予定です。

聖ピオ十世会の全ての名前において、皆さんに特に感謝を申し上げます。皆さんのその古い伝統聖伝のミサを守るその熱心、教会がいつもやっていたように秘蹟を受けたいというその熱心にそれに感謝致します。そして私は皆さんがこの同じ道を、信仰を守るという道を続けられる事をお願い致します。全てのカトリック信仰をそのまま守る、信仰を守る、イエズス・キリストを信じる、という事をお願いします。そしてまさにこれこそが御公現後の典礼のテーマであります。

御公現後第3主日の福音は、「私たちの主イエズス・キリスト様が山から、至福八端を教えられた山から下りられて、その多くの群衆が大きな群衆がイエズス様を慕ってその後へ続いた」という事を語っています。イエズス様は公生活の最初に山に登られて、そして至福八端やその他多くの新しいイエズス様の教えを皆に、何度も、何度も、説教されました。聖マテオの第5章6章7章は、イエズス様が教えられた新しいメッセージの新しい教えの要点であって、その要約であって、それが凝縮されたものです。

このイエズス様が御説教されたという事が記録された聖マテオの福音の最後には、「これらを聞いた群衆たちは感嘆してイエズス様の教えを聞いた。何故ならばイエズス様はファリザイ人や律法学士のように語ったのではなかったからだ」とあります。ではイエズス様はどのように語られたかというと、イエズス様は新しい観点から天主について語られたからです。一体ではどこが新しかったのでしょうか?

新しかった点は、イエズス様が「天の御国」について説教した事です。何故かというと、ファリザイ人も律法学士たちも長い間、この地上での楽園を期待していました。イスラエルが政治的に解放される事を、そしてこの世が良くなる事を、そしてこの地上での王国を期待していました。しかしイエズス様が話したのは「天の王国」の事でした。

天主が幼子となって生まれて来たという事は全く想像もできない事でした。救い主、天主がこんなにも弱々しく生まれて来たというのは、彼らのファリザイや律法学士たちのビジョンや、その思っていた事と正反対だったからです。彼らは信じる事ができませんでした。彼らは王を期待していました。力強い男が出て来るのを期待していました。主を、栄光の主を待ち望んでいました。しかしあったのは弱々しい子供でした。このしるしとして与えられたのはこの子供でした。ただ数名の羊飼いと、そして東の博士たちだけがこれを認める事ができました。しかしエルサレムのその大都市と、その王と、ファリザイ人と律法学士たちは、これに救い主を認める事ができませんでした。

この救い主が幼子として生まれたというのは、「御託身の玄義」と申します。天主様が霊魂を救う為に子供となってやって来られた。そしてしかも十字架の上で死ぬ事によって、この世を救う為に霊魂を救う為にやって来られた。全く信じ難い、信じられない事です。救い主はこの世に勝利を収めて、そして自分に従って来た者たちに富を与えて、また力を与えて、権力を与えて、そしてこの世を権力とお金によって支配する為によるのではなくて、救い主の勝利は、十字架の死によって与えられる。これは、これこそが贖いの神秘であって、御受難の神秘です。

これが私たちが置かれている状況と全く同じです。天主様はこの悪い邪悪な悪者たちをきれいに掃除して片付ける為にやって来られて、そして私たちは悠々自適に快適な生活をこの世で送る事ができる、というのが天主様の御計画ではありません。天主様の御計画は、私たちにおける人間に対する御計画とは一体何なのでしょうか?

やはり同じ福音の御説教の終わりにイエズス様はこう言われます、「『主よ、主よ』と口で言う者が天の御国に入るのではない。そうではなくて、私の聖父の御旨を果たす者が、彼こそが天国に入るのだ」と。

では聖父の御旨とは何でしょうか?
それは、「イエズス・キリストを信じ、彼に従う事」です。イエズス・キリストを信じるという事は、イエズス様が真の天主であるという事を、そしてその贖いの御業と救いの御業を信じるという事です。そしてこれこそが私たちの義務であって、そうする事によってこれを信じる事によって天国に入る事ができます。御公現後の後の主日、それから聖霊降臨の後の主日のテーマはまさに、「イエズス様の御旨に従って、主を信じる」という事です。

ではこのカトリック信仰とは一体何なのでしょうか?カトリックに於いて信じるとは何なのでしょうか?

それは今日の午後のテーマで、その続きは今日の午後にお話をします。この東京のこの共同体は子供たちがたくさんいて、成長があり、増加があり、とても美しく、本当に見て喜ばしく思います。

今日の福音は奇跡について語られます。それは私たちが信じる事ができる為です。第1に出てくるのは癩病の患者です。彼は言われます、「もしも信じるならば、癒やされる事ができる、きれいになれる。」そして信じて、きれいになります。

これはまさに私たちの置かれた状況で、私たちもやはり霊的な癩病者で、体において誘惑を受けたり或いは弱さを持っております。しかしもしもイエズス様を信じるならば、イエズス様は私たちを癒やして下さる事ができます。イエズス様は私たちに本当の幸せと救いを与える事ができます。

いくつか体の病を癒やす奇跡がイエズス様によって行われるのですけれども、その後には「嵐を静める」という奇跡も行う事が福音に書かれています。弟子たちは漁師でした。彼らと一緒に舟に乗ったイエズス様は大きな嵐に巻き込まれます。しかし彼らに言います、「信じるように。」そしてあたかも、もう物凄い嵐でもう舟が沈没してしまうかのようであっても、イエズス様に信頼するように。イエズス様は救う事ができるから。

どうぞ皆さん、ミサ典書をお持ちになって、そして福音書をお読みになって、典礼に沿って色々な事を学んで下さい。使徒たちから学んで下さい。私たちが何をすべきかを学んで下さい。私たちが信じ、そしてイエズス様に従う事ができるように、というのは何と美しい私たちの目的でしょう目標でありましょうか。

この世が非常に悪くなっている、無神論が浸透してしまっている、異教の主義が浸透してしまっている、将来は暗闇だ、明日は一体どうなってしまうのだろうか、正しい事を考え正しい事を行なっている人は非常に数が少ない、というのは私たちの関心事ではありません。

私たちの関心事は、「イエズス様に信頼する事」「イエズス様に委ねる事」であります。私たちの天主はあまりにも全能であったので、子供になりました。私たちの主はそれほど非常に聖なる方であったので、十字架のしるしによって私たちを救われました。私たちの義務は、私たちの関心は、私たちの心を砕なければならない事は、このイエズス・キリストに信頼する事です。

聖父と聖子と聖霊と御名によりて、アーメン。


なぜ4つの福音書はそっくりなんですか?

2017年02月04日 | 質問に答えて
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

共観福音書についてご質問をいただきましたので、愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介します。
天主様の祝福が豊かにありますように!トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


【御質問】
なぜ4つの福音書はそっくりなんですか?4人の人物が、まったく別個に3年半のイエズス様の公生活を綴れば、まったく別個のストーリーになるはずではないですか?3年間の間に100も千もの奇跡があったでしょうし、百も千ものたとえ話をイエズス様はなさったでしょうに。その中のどれに注目して、どれを載せるかは、4者4様になるはずではないですか?どの福音書も、まったく同じたとえ話ばかり載っています。初めに一つの福音書があり、残り3つはそれを真似て書かれたのですか?

もしルフェーブル大司教に聖別された4人の司教が、それぞれルフェーブル大司教の伝記を書いたとすれば、全然、別の書かれ方をすると思いますよ。互いに矛盾はないにしても、趣はかなり違ってくると思います。ある人は、この話を載せるが、別の人はそれは省略し、別の話、別の講話を載せる、こんな感じで、かなり違ったストーリーになってくるでしょう。にも拘らず、4つの福音書は互いにそっくりです。僅かに違いがありますが。ルカがマリア様について少し書いていたり、ヨハネが最初が少し違っている、など。でも基本的に、同じです。どうしてですか?

当初、福音書は口伝だったのでしょうかね?聖伝の一部として、聖福音を暗記しなければいけないことになっていて、語り継がれてきた福音を、ある時期に4人の福音記者たちがそれぞれ筆写した。よってほとんど似ているが、細部違うのでしょうか?


【お返事】

ご質問をありがとうございます。

四福音書をよくご覧になると、最初の三つがよく似ていて、最後の聖ヨハネの福音だけは別の構成になっています。

そこで、最初の三福音のことを「共観福音」と言います。「共観」というのはギリシャ語のシュノプシス σύν (同時に) and ὄψις (見る)(同時に一目で見る)という言葉の訳語です。

何故かというと、ほとんど同じような順序で同じような内容が書かれているので三つの列に平行にテキストを並べて一目で見るようにすることが出来るからです。

三つの共観福音には、違いと一致があり、一致は時には言葉使いさえも同じであることがあるかと思えば、違いには見かけ上の矛盾のように思えるものさえあります。
もしも、同じだけだったとしたら、相互に従属関係がある、或いは、一つの共通の源泉から由来する、と簡単に解決できます。
もしも違いだけでしたら、完全に独立していると言うことが出来ます。

これは近年に出てきた疑問で、古代には聖アウグスティヌスだけが De consensu Evangelistarum でこれに言及しただけでした。

次のことをまず指摘します。
聖ヨハネは特にイエズスのユデアでの宣教を語っています。
三共観福音は、イエズスのガリレアでの宣教を語り、公生活の最後にイエズスがユデアのエルサレムで宣教することを示しています。

三共観福音は、同じ事実、同じ奇跡、同じ訓話を載せています。しかし、ご指摘のように、イエズスは実際はその他の奇跡も行っています。例えばヨハネの福音にあるように、カナでの奇跡、生まれつき盲目であった男を癒やす、ラザロの復活などです。また三共観福音に載せられていない訓話がありました。例えば御聖体の約束や、最後の晩餐の後での話などです。聖ヨハネは福音の最後に、イエズスが行った別の多くの奇跡もある sunt autem et alia multa qua fecit Jesus と書いています。マテオ11章によると、イエズスはご自分の多くの奇跡をおみせになった町のうちにコロザインを挙げていますが、コロザインで行った奇跡について四福音は全て沈黙を守っています。
共観福音によると、イエズスの行いと訓話は次の四部構成の枠組みの中に収まっています。主の洗礼・ガリレアでの宣教・エルサレムへの到来・御受難と御復活です。

共観福音には、大きな違いもあります。
聖マテオの系図は、一見すると聖ルカの系図と矛盾するかのように書かれています。
聖マテオと聖ルカによるイエズスの幼年時代については、聖母が童貞を守っていること、ヘロデ王の下にベトレヘムで生まれたことだけが同じです。
聖マテオだけが、聖ペトロの首位権を語っています。
聖ルカだけが、ザケオの話や良きサマリア人の話や放蕩息子の話を載せています。
聖マルコは、彼だけが、聖マテオも聖ルカも語らない二つの奇跡に言及します。耳が聞こえず話せない人の癒やしや、ベトサイダの盲人の治癒です。

聖マテオによる福音の 1068節のうち、337節(三分の一)が固有のものです。
聖マルコによる福音の 677節のうち、68節(十分の一)が固有のものです。
聖ルカによる福音の 1158節のうち、541節(二分の一)が固有のものです。

共観福音は、時間的な順序や、論理的な理由ということによらずに、出来事が同じような進み方によって語ります。嵐を沈める奇跡、ゲラサでの悪魔付きの癒やし、出血症の女の治癒、司の死んだ娘の蘇り、などです。

このような一致は必ずしも守られない場合があります。聖マテオの山上の垂訓は一つにまとめられていますが、聖ルカでは分散されています。
しかも、同じであるはずだと思うような細部で異なっています。例えば、主の祈りもマテオとルカとでは違いがあります。御聖体の聖別の言葉にも違いがあります。十字架の罪標(すてふだ)に書かれたことばにもマテオとマルコとで少しの違いがあります。

そうかと思えば、聖マテオ9章・マルコ2章・ルカ5章に載せられた中風の治癒は、ほぼ同じ言葉遣いです。イエズスはアラマイ語で話したはずですが、ギリシャ語でも同じ言葉遣いです。共観福音が旧約聖書を引用するとき、ヘブライ語のテキストからの直訳でもなく、七十人訳ギリシャ語からのそのままの引用でもないのですが、同じ時々同じ言葉遣いです。

聖マテオによる福音のうち、八分の一に言葉遣いの一致が見られます。
聖マルコによる福音のうち、六分の一に言葉遣いの一致が見られます。
聖ルカによる福音のうち、十分の一に言葉遣いの一致が見られます。

聖伝によると、
1)三共観福音は、それぞれ、聖マテオ、聖マルコ、聖ルカが書いたもの。聖マテオは使徒であり、聖マルコと聖ルカとは使徒の弟子達だった。
2)最初に聖マテオが福音を書き、次に聖マルコ、それから聖ルカが書いた。
3)聖マテオは最初福音をアラマイ語で書き、極めて早い時期にギリシャ語に翻訳された。最初のアラマイ語の福音は、単なる主の訓話のまとめだけではない。
4)ギリシャ語に訳された最初の福音は、アラマイ語の原文と同じ内容である。


では、共観福音はどうやって書かれたのでしょうか?
ルニエ、ラグランジュ、ヴォステ、シメンなどの意見に従って答えると、次の通りです。

1)イエズス・キリストは使徒たちに「全世界に行って教えよ」という使命を授けたのであって、書けという命令を授けたのではない。共観福音の内容の主要な源泉は、使徒たちの口からの教えだった。初代教会は、「本の宗教」というよりは「生ける権威の宗教」だった。記録され書かれたものの先に口と言葉による教えの伝達があった。使徒たちは聖霊降臨の後に、この口伝の福音の大まかな内容を固定させた。そうすることによって主の御言葉を伝達することが容易になった。それと同時に共観福音が書かれるとき、その構造が同じようなものになる理由となった。

2)イエズス・キリストの教えを書いて記録を残したいという望みが教会で極めて初期にわき起こってきた。非公式のメモのようなものが生まれていたのかもしれない。聖ルカが福音の最初に暗示しているのはそのような記録のことだったのかもしれない。

3)使徒聖マテオが(彼は税理だったので、漁夫だった他の使徒たちと比べると教養があったのだろう)、使徒の宣教の要点を全てまとめてアラマイ語で書いて公表した。聖マテオは、自分のメモあるいはその他の記録を使ったのか詳しくは分からないが、自分の記憶と体験と口伝の公教要理を基に福音を書いたことは確かである。

4)聖マルコは、聖ペトロの弟子だったので聖ペトロの教えに従って福音を書いた。これは聖伝が伝えることであり、内容もそれに一致する。聖マルコは聖マテオのギリシャ語訳の福音を多分に知らなかっただろう。聖マテオと聖マルコの福音が似ていることは、その基礎にある口伝の教えによって十分に説明が付く。もしも共通の書かれた記録による史料があったとしたらエピソードの選択のみならずもっと多くの一致があっただろう。聖マルコは御受難の部分を叙述するときは、書かれたものを使ったようである。

5)聖ルカは最後に福音を書いたが、書かれた記録や口伝を調べたと自分で言っている。聖マルコと聖マテオの影響が認められる。

6)ついに聖マテオの福音がギリシャ語に翻訳される。この翻訳には、特にアラマイ語からギリシャ語に訳す際に聖マルコの福音が参考にされた。ただしアラマイ語の原文とギリシャ語の原文は実体において同じである。

上のように考えると、口伝の教えが基礎にあるので、共観福音の構造の類似性に説明がつきます。
聖ルカとギリシャ語の聖マテオとは、聖マルコによっていることになります。
聖マルコと聖ルカとで出来事の順序が似ていることは、聖ルカが聖マルコを参照したことで説明が付きます。
三共観福音の違いは、著者の参考資料と思い出の違いにより、著者の気質や書き方の違いによることで説明されます。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

「5名の賢い乙女たち」の携えていた「油」とは何か?

2017年02月02日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2017年1月21日(土)に東京で、フルーガー神父様が聖伝のミサを捧げてくださいました。その時のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2017年1月21日(土)殉教者童貞聖アグネスのミサ
フルーガー神父様 御説教

同時通訳:小野田圭志神父

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

親愛なる兄弟の皆さん、今日聖アグネスの祝日において、少しだけお言葉を申し上げます。

聖アグネスは、3世紀に初代の教会において最も有名な殉教者の一人でした。聖アグネスの話はもう皆さんご存知かもしれませんけれども、聖アグネスは当時13歳の若い少女で、ローマの市長の息子が彼女に結婚を申し込むのですけれども、それを拒まれ、そして殉教のきっかけとなります。なぜ拒んだかというと、それは既に彼女はイエズス・キリストと婚約を、許嫁となっていたから拒んだのでした。

この聖アグネスのイエズス・キリストを望む心、そして愛、そして忠実さこそ私たちが求めなければならない徳です。典礼では特に聖福音が、イエズス様が御受難に行く直前の例え話、つまり「10人の乙女たち。賢い5人と愚かな5人」についての例えから取られています。

10名の乙女たちはちょうど私たちのシンボルで、イエズス・キリスト、私たちの花婿であるイエズス・キリストを待っている乙女たちです。ここには2つのグループがあります。1つは5名の愚かな乙女たち、そしてもう1つのグループは5名の賢い乙女たちで、2つのキリスト教信者のグループを表しています。

このここで与えられているメッセージは重要で、ただ「待っているだけ」では足りません、私たちは「何か」をしなければなりません。この乙女たちはどれだけ長く待たされなければならないかを知りませんでしたし、いつまで居なければならないかも知りませんでした。しかし10人は皆、「主と会いたい」というその願いに於いては同じでした。

5名は、ランプと灯と同時に「油」も持っていました。何故かというと、花婿がいつやって来るか分からないので、いつまでも待つための準備をしていたからです。

しかし5名の愚かな乙女たちは、自分の主と共に居る為にランプは持ちましたけれども、しかしそれがどれほど待たなければならないか、という事は考慮しなかったので、ランプにいるべき「油」を準備していませんでした。

これは私たちの状況と全く同じです。私たちも待たなければなりません。信仰において待っていなければなりません。しかしそれがどれほど長く待たなければならないかという事を私たちは知りません。この今の危機がどれほど、教会の危機がどれほど長くなるかという事も私たちは知りません。私たちの先祖たちも司祭を待って、長く待っていました。

しかしこの「待つ」という事に、私たちの信仰があって、その待った、信仰を持って待ったその報いがあります。その報いを与える為に主は必ず来られます。

これがルフェーブル大司教様の教えでした。特に1970年代の時は、「私たちはこのランプをこの灯を、信仰の灯を持ち続けなければならない。信仰を守り、そして忠実に、堅固に守り続けなければならない。そして待たなければならない。永遠の命に入る為に、聖伝のミサを守り、秘蹟を守り続けなければならない」と教えて下さいました。

ちょうど灯が油を必要としているように、その油が燃え尽きてしまわないように、そのいつも燃料をたくさん加える事ができるように、続ける事ができるようにしなければなりません。そこで信仰にも、私たちは何かをしなければなりません、何かが必要です。この「油」というのは「愛徳」であって、信仰の結果であると同時に、信仰を常に保たせるものです。

この愛徳という神秘は、旧約の時代からもう既に明らかにされていました。つまり、「天主を全てにおいて愛し、隣人を我が身のように愛す」という事です。ところが新約では新しい掟が与えられました。それはイエズス・キリスト様が、「互いに愛しなさい。私がお前たちを愛したように、愛し合いなさい」という掟です。ではどのようにイエズス様は私たちを愛して下さったでしょうか?

それは、御自分の命を私たちに与えて下さるほどの愛でした。イエズス様の仰るには、「友人の為に自分の命を与えるほどの大きな愛はない。」そしてこのイエズス様の私たちに与えて下さった愛が、贖いの愛です。

これが私たちの主の教えであって、殉教者たちのメッセージであって、ファチマのメッセージです。つまり、「信仰を持って私たち自身を愛するのみならず、私たちの命を隣人の為に与える事によって、隣人を救う」という事です。私たちは隣人を助けなければなりません。隣人の救霊の為に祈らなければなりません。隣人の霊魂の救いの為に祈らなければなりません。そして私たちの霊魂を救うのみならず、全世界の霊魂を救うという事を考えなければなりません。

ですから私たちは全ての聖人たちにお願い致しましょう。マリア様にお祈り致しましょう。聖アグネスにお祈り致しましょう。全ての殉教者にお祈り致しましょう。私たちを助けて下さって、私たちがこの油をいつも持っていますように、愛徳の油を持っていますように、そして信仰の灯を持っていますように、そして愛徳の油をもって霊魂を救う事ができますように、お祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


初水曜日には「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみについて黙想」することをご提案します。

2017年02月01日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日、2月1日は、初水曜日(月の初めての水曜日)です。

毎月の初水曜日には「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」について黙想することをご提案します。

聖ヨゼフは、この世で天主イエズス様と浄配なる聖母マリア様を最も良く知り、愛された御方であり、その隠れた徳ゆえに偉大なる御方、イエズス様とマリア様の最大の命の恩人であられました。

また、聖ヨゼフは、この世では、全てを天主の栄光のために、隠れてその生涯をささげられたが故に、天にて聖母の次に最大の栄光をあたえられていらっしゃいます。

聖伝では、水曜日は聖ヨゼフに捧げられた曜日であり、月の最初の水曜日を聖ヨゼフに捧げることで、聖ヨゼフを讃え、その御取次に信頼し、その御徳に倣って、聖ヨゼフを通して、天主イエズス様とマリア様をお愛しすることができますように。

初土曜日の「聖母の汚れ無き御心」への信心にならって、この「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」のどれかを「15分間黙想」することにいたしましょう。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


聖ヨゼフの7つの苦しみと喜び

1 ああいと潔き御母マリアの浄配、栄えある聖ヨゼフよ、御身のいと清き妻を失ならんと心に思い煩いし時の苦しみはいと大いなるものなりき。
されど天使が御託身の玄義を御身に伝えられし時の喜びは、またひとしお大いなりき。この苦しみ、この喜びにより、今も臨終の時も我らの心を潔さ良心の喜びと、イエズス、マリアのうちに自我を滅する尊き御身の心を示し、我らを慰め給え。

2 ああいと幸いなる保護者聖ヨゼフよ、御身は人となり給いし御言葉の潔き養父の位にあげられたれども、御身は幼きイエズスがいと貧しき中に生まれ給うを見て大いに悲しみ給いしが、
天使らのたえなる歌声を聴き、その輝ける夜の栄えを見給うや、その悲しみは天的の喜びと変じたり。御身のこの悲しみ、この喜びによりて、我らもまたこの世の歩みを終えたる後、天使らの賛美の歌声を聴き、天的光栄の輝きを受け得んことを願い奉る。

3 ああ御摂理にいと従順なしもべなる、栄えある聖ヨゼフよ、幼きイエズスが割礼にて流されたる尊き御血は御身の心を苦痛もて貫きたれども、
イエズスと命名されるや御身の心は喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らをこの世の悪徳より離れしめ、イエズスのいと尊き御名を心から唱えつつ心満たされてこの世を去るを得しめ給え。

4 ああいと忠誠なる聖ヨゼフよ、御身は救世の玄義の成就に身をもって大いなる役を果たされしが、シメオンの預言によりイエズスとマリアが受け給うべき苦難を予知せられ苦しみ給いたれど、
数限りなき人々の霊魂がこれによって救わるるとの預言によりて、天的喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らがイエズスの功徳と聖母マリアの御取次ぎにより、終わりなき栄えを得てよみがえる人々のうちに数えられる御恵みをとりなし給わんことを願い奉る。

5 ああ人となり給いし天主の御子のいとも注意深き保護者なる栄えある聖ヨゼフよ、御身はいと高きものの御子を養い給い、これに仕えるために多くの辛酸をなめられたり。わけてもそのエジプトへの逃避はいと苦しきものなりしが、
御身が常に天主御自身と共におられし喜び、またエジプト人らの諸々の偶像が地に落とされしを目の当たりに見られし時の安心はいと大いなりき。この御身の辛酸と喜びとによりて、我らが地獄的暴君より免れて、わけても危険なる機会より逃避する事を得しめ、我らの心のうちに地上的執着が落とされ、ひたすらイエズスとマリアに仕え奉りつつ日々の生活を送り、この世を幸いに終わる事を得しめ給え。

6 ああこの地上の天使なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の心を天の王に全く捧げられたり。御身がエジプトより戻られる喜びは、アルケラウスに対する憂慮にて不安の闇となりしが、
天使は再び御身にイエズスとマリアと共にナザレトにて楽しく住み給う事を約束せられたり。御身のこの苦しみ、この喜びによりて、我らの心を深い恐怖より免れしめ、潔き良心の平和を楽しみ、イエズスとマリアと共につつがなく世を送り、臨終においてはイエズスとマリアの御手に我らの霊魂を捧ぐる事を得しめ給え。

7 ああ全ての徳の鑑なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の誤りにあらずして幼きイエズスを見失い、三日の間苦しみもて捜し求められたり。
されど神殿の中に博士らに取り巻かれたるイエズスを見出されし時の喜びはいかに大いなりや。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らが大罪を犯しイエズスを失いたりせば、たゆまず彼を捜し求め、遂に再び巡り会えるよう、わけても臨終の時に彼と共にありて天国に至り、御身と共に天主の終わりなき御恵みを賛美し奉るようとりなし給わんことを心から願い奉る。

交唱 イエズスが教えをはじめたりしは三十歳ごろなり、人々、イエズスをヨゼフの子なりと思いたり。(ルカ3:23)

V 聖ヨゼフ、我らの為に祈り給え。
R キリストの御約束に我らをかなわしめ給え。

祈願 天主、御身のかしこき御摂理のうちに祝せられたヨゼフを至聖なるマリアの浄配に選び給いたれば、願わくはこの世の我らの保護者として崇め奉る彼が、我らの天のとりなし手となり給わんことを。 アーメン。


聖ヨゼフの帯の信心については、下記リンクをごらんください。
聖ヨゼフの帯 cingulum Sancti Joseph


英語ではこちら。
THE SEVEN DOLOURS AND SEVEN JOYS.

i. St. Joseph, pure spouse of most holy Mary, the trouble and anguish of thy heart were great, when, being in sore perplexity, thou wast minded to put away thy stainless spouse: but this joy was inexpressible when the archangel revealed to thee the high mystery of the Incarnation.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee comfort our souls now and in their last pains with the consolation of a well-spent life, and a holy death like unto thine own, with Jesus and Mary at our side.
Pater, Ave, and Gloria.

ii. St. Joseph, Blessed Patriarch, chosen to the office of Father of the Word made Man, the pain was keen that thou didst feel when thou didst see the Infant Jesus born in abject poverty; but thy pain was changed into heavenly joy when thou didst hear the harmony of angel-choirs, and behold the glory of that night when Jesus was born.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee obtain for us, that, when the journey of our life is ended, we too may pass to that blessed land where we shall hear the angel-chants, and rejoice in the bright light of heavenly glory.
Pater, Ave, and Gloria.

iii. St. Joseph, who wast ever most obedient in executing the law of God, thy heart was pierced with pain when the Precious Blood of the Infant Saviour was shed at His Circumcision; but with the Name of Jesus new life and heavenly joy returned to thee.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, being freed in our life from every vice, we too may cheerfully die, with the sweet Name of Jesus in our hearts and on our lips.
Pater, Ave, and Gloria.

iv. St. Joseph, faithful Saint, who wast admitted to take part in the redemption of man; the prophecy of Simeon foretelling the sufferings of Jesus and Mary caused thee a pang like that of death; but at the same time his prediction of the salvation and glorious resurrection of innumerable souls filled thee with a blessed joy.
By this thy sorrow and thy joy, help us with thy prayers to be of the number of those who, by the merits of Jesus and his Virgin Mother, shall be partakers of the resurrection to glory.
Pater, Ave, and Gloria.

v. St. Joseph, watchful Guardian, friend of the Incarnate Son of God, truly thou didst greatly toil to nurture and to serve the Son of the Most High, especially in the flight thou madest with Him unto Egypt; yet didst thou rejoice to have God Himself always with thee, and to see the overthrow of the idols of Egypt.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us grace to keep far out of the reach of the enemy of our souls, by quitting all dangerous occasions, that so no idol of earthly affection may any longer occupy a place in our hearts, but that, being entirely devoted to the service of Jesus and Mary, we may live and die for them alone.
Pater, Ave, and Gloria.

vi. St. Joseph, angel on earth, who didst so wonder to see the King of heaven obedient to thy bidding, the consolation thou hadst at His return was disturbed by the fear of Archelaus, but nevertheless, being reassured by the angel, thou didst go back and dwell happily at Nazareth, in the company of Jesus and of Mary.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, having our hearts freed from idle fears, we may enjoy the peace of a tranquil conscience, dwelling safely with Jesus and Mary, and dying at last between them.
Pater, Ave, and Gloria.

vii. St. Joseph, example of all holy living, when, though without blame, thou didst lose Jesus, the Holy Child, thou didst search for Him for three long days in great sorrow, until with joy unspeakable thou didst find him, who was as thy life to thee, amidst the doctors in this Temple.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee with our whole heart so to interpose always in our behalf, that we may never lose Jesus by mortal sin; and if (which God avert) we are at any time so wretched as to do so, that we pray thee to aid us to seek Him with such ceaseless sorrow until we find Him, particularly in the hour of our death, that we may pass from this life to enjoy Him for ever in heaven, there to sing with thee His divine mercies without end.
Pater, Ave, and Gloria.

Ant. Jesus Himself was about thirty years old, being, as was supposed, the son of Joseph.

V. Pray for us, holy Joseph.
R. That we may be made worthy of the promises of Christ.

Let us pray.
O God, who in Thine ineffable providence didst vouchsafe to choose blessed Joseph to be the husband of Thy most holy Mother; grant, we beseech Thee, that we may have him for our intercessor in heaven, whom on earth we venerate as our holy protector. Who livest and reignest world without end. Amen.

ロザリオの十字軍)2017年1月13日現在、日本からロザリオ7,596環、犠牲37,068回が報告されました。

2017年02月01日 | ロザリオの十字軍
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2017年 1月 13日現在、

日本から今までの総計で、ロザリオ7,596環、犠牲37,068回が報告されております。天主様に感謝!愛する兄弟姉妹の皆様のご協力に感謝します。

マニラからは、ロザリオ42,039環、犠牲28,144回が報告されています。

韓国からは、ロザリオ2640環、犠牲297回が報告されています。

シンガポールからの報告は次の通りです。
15 to 31 August 2016
1372 rosaries
403 sacrifices

September 2016
2801 rosaries
1521 sacrifices

October 2016
3645 rosaries
1120 sacrifices

November 2016
3359 rosaries
1406 sacrifices

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】
シスター             93 環          
ヨゼフ・マリア          71 環       335 回
アンナ              25 環       123 回
マリア・ルチア           5 環        90 回
マリア              27 環       620 回
マリア              31 環       310 回
バルナバ             76 環       310 回
アリア・ローザ          95 環       310 回
ヨゼフ              93 環              
マリア子            107 環       670 回
マリア              93 環       186 回
マリア              77 環       465 回
        計         793 環       3208 回 


【報告】
+Ave Maria! Immaculata!
12月のロザリオ十字軍のご報告をさせていただきます。

6人で
ロザリオ:260環
犠牲:576回
お捧げいたしました。

天主なる幼きイエズス様、我らを憐れみたまえ。
聖母の汚れ無き御心よ、我らのために祈りたまえ。
ファティマの聖母、ロザリオの聖母よ、我らのために祈りたまえ。
いとも尊き聖ヨゼフ、我らのために祈りたまえ。


【御質問】
トマス小野田神父様
あなたたちがロザリオを唱えるときには、各連の終わりにこう唱えなさい。ああイエズスよ、我らを赦し給え。我らを地獄の火より救い給え。全ての霊魂、ことに最も必要とする者たちを天国に導き給え。とロザリオの最後に付け加えますことに最も必要とする者たちを天国に導きたまえの、最も必要とする者たちとは、どのような人を指すのでしょうか。
天国に導きたまえというくだりは、煉獄の存在を示していることはわかるのですが、最も必要とする者とは教皇さまをはじめとするイエズス様、マリア様にお仕えする方々以外には、どのような人々なのでしょうか。
恐ろしいのは必要としない人々についてです。自らの意思で天主御父に従わない、背くことをお許しになられていること、アダムたちが背いたように、背くことを否定なさらないこと罰をくだすことをなさる天主御父の、なんと恐ろしいことか天主の御前に正しければ恐れる必要はなく、歓びでありますから、そのようになりたいです。

【お返事】
ご質問をありがとうございます。
「主の御憐れみを最も必要とする者たちを天国に導きたまえ」とは、地獄に今落ちてしまいそうな霊魂たちです。今生きていて、地獄への絶壁のすぐそばに立っているような霊魂たちです。
ああイエズスよ、我らを赦し給え。我らを地獄の火より救い給え。全ての霊魂、ことに主の御憐れみを最も必要とする者たちを天国に導き給え!!

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】