アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
2017年2月4日(初土)に大阪で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2017年 2月4日、2月の初土曜日のミサをしております、聖母の汚れなき御心のミサです。今日のこのミサの後にいつものようにミサの感謝の祈りと、そしてファチマの天使が教えて下さったお祈りを一緒に含めて御捧げ致しましょう。
ミサの後には公教要理を提案します。これはつい最近映画になった「沈黙-サイレンス」の映画の背景にあったフェレイラ神父について、この神父のフェレイラ神父に一体何が起ったのか、という事を皆さんにご紹介します。この当時キリシタンたちはカトリック信者たちは、一体それを見て何をどのように反応したのか、という事を考察する事を提案します。
次回のミサはいつもの通り、2月の第2主日の日・月と、第3主日の前の金・土です。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、2月の初土曜日で私たちは特に、ファチマのマリア様が私たちに下さったメッセージを黙想したいと思っていますけれども、今日は実は、今から500年前にマリア様は聖イグナチオを通して別の形でメッセージを与えました。
ファチマでのメッセージは、今から100年前ちょうど100年前、今20世紀の今私たちの時代に起こる、或いは20世紀に起こる教会の危機、例えば共産主義、或いは近代主義に対する薬として、それなりの対策としてマリア様はすでに私たちに、「こうしなさい」という事を教えて下さって、「そしてそれを実践すれば、必ず天国に行ける」と約束さえして下さったメッセージです。
今から500年前、ちょうどプロテスタントの宗教革命が起こりました。イエズス・キリストの宗教を変えてしまいました。その時にマリア様は聖イグナチオを通して、それに対抗する手段を与えてくれました。それが『霊操』です。
聖イグナチオを通してマンレサに於いて与えられた霊操で、聖イグナチオはその霊操を通してイエズス会を創り、そしてその霊操を通してこの人生の意味を深く知った、「天国の為に私たちが生きている」という事を深く知った聖フランシスコ・ザヴェリオは日本に来ました。
そして今日私が提案したいのは、霊操を通してこの人生の意味を深く知って、そして遂にはあと3日で福者と列福される、大阪城ホールで福者と列福されるユスト高山右近の人生について黙想する事を提案します。もしもマリア様から与えられたその霊操をやったその高山右近が、その通り忠実に実践した高山右近が400年後に福者となるならば、ファチマのマリア様のメッセージを実践する私たちにも同じ事が起こる、という事を私たちが深く知る為です。
ですから今日の黙想の後に、「やはりマリア様のメッセージを実践しよう」と、「そして高山右近のようになろう」という決心が自然と湧き起これば、私のこの今日の説教の目的は達成される事になります。
皆さんも昨日私たちが黙想した通り、高山右近は11歳の時に、1564年6月にお父さんダリオ高山の影響で洗礼の恵みを受けます。1574年、高山右近がまだ21歳まだ若い青年だった時に、今ではもしかしたら日本では成人式を受けたばかりのほやほやの若僧であるかと思われるかもしれません。しかしすでに、その時すでに高山右近は高槻の城主となって、4万石の領土を管理指導する立場にありました。
高山右近の熱心な真面目な信心と生活によって、高槻の領土にあった領民たちは皆カトリックに惹かれ、そしてカトリックの洗礼を受けて、領主となった10年後には、常駐の司祭はいなかったにもかかわらず20の教会があり、いつも巡回の司祭や修道士たちが高槻にやって来て、そして霊的な指導やミサや秘蹟などを授けて下さっていました。
今日、特に3つのエピソードを紹介したいと思います。
一つは、1582年本能寺の変があった時のことです。織田信長が、自分のトップであった織田信長が暗殺されます。すると織田信長によって土地が与えられて大きなお城があった、安土の所にあったとてもきれいな3階建ての神学校セミナリオは、略奪されてしまいました。これは高山右近にとって非常に大きな苦痛でした。
しかし高山右近はこれを犠牲に、「これをこの損失を何とか善に変えよう」と、「是非、パードレたちによって高槻にセミナリオを作って下さい」と、「安土から高槻に引越して下さい」と提案しました。するとパードレはその提案を受けて、「よし、そうしよう」として、2人の司祭、常駐司祭を送り、修道士たちも数名送り、同宿或いはそこで教会で働くような人たちもいて、そして高槻の最初の神学生の第1回生の中には多くの神学生がいました。そのうちの1人は、後に26聖人となるパウロ三木もいました。
巡回司祭のみならず、常駐の司祭が2人も居たという事で、領民たちはますますキリシタンの教えに接する機会があり、2万名いた領民たちはほぼ全てキリシタンとなりました。そしてお寺のお坊さんや、或いは神社の神主さんやそのような人たちも「キリシタンになりたい」と思ったので、そのようなお寺は誰も管理する人がいなくなって朽ちてしまいました。それほど高山右近の人柄に憧れて、皆が「キリシタンになりたい」と思った事でした。
高山右近は別に仏教を排斥したわけではなくて、仏教のお坊さんに挨拶の手紙を書いたり、「守ってあげるよ」という手紙を書いている書簡も残っています。しかしその高山右近の人柄、生き様に憧れた人々は皆、「高山右近のようになりたい、それと同じ信仰を持ちたい」と思ったのでした。
領民だけではありません。高山右近のその立派な生きざまを見て、今まで放蕩の生活をしていたような伊勢の牧村政治のような大名も、洗礼を受けて生き方をガラリと変えてしまったり、或いは力のあった大名であった蒲生氏郷が洗礼名をレオとして受けて、そしレオ蒲生氏郷と一緒に高山右近は黒田孝高をカトリックに導いたり、カトリック大名の友達をたくさん作っていきました。
また茶道の七哲として、武道文学そして茶道、文武を両立させた素晴らしい男でした。
本能寺の後に秀吉が天下を取るのですけれども、その秀吉のもとに手柄を立てた高山右近は4万石の高槻から6万石の明石に移行を受けて、より大きな領地を豊かな領地を任されるようになりました。すると高槻に居たキリシタンの武士たちは皆、「高山右近と一緒に私も移る!」と言いました。そして聖堂やセミナリオも一緒に移動してしまいました。
高槻に残されたキリシタンの領民たちは非常に悲しく思いました。彼らがどれほど高山右近の影響を受けたかという事は、300年の後に明治の初年に、まだ高山村という村には2000軒キリシタンが居た、隠れキリシタンが居た、或いは清谷村には7000戸のキリシタンの家があった、300年ずっと迫害にもかかわらずキリシタンの信仰を残していた、という事実があります。そして明治の初期までも、「高槻のお殿様はとっても素晴らしかった」という口伝が残っており、高山右近がどれほど良い影響を与えていたかという事は私たちは容易に想像がつきます。
第2のポイントは、そのような高山右近でしたが、そして明石に移ってその翌年、1586年の事だったのです。準管区長であったコエリヨ神父様や或いはその元で働いていたオルガンティノ神父様、或いはイエズス会の最も重要な神父様たちやキリシタン大名たち、或いは重要な貴族たちキリシタンの貴族たちを約30名連れて、長崎から大阪にいた秀吉に会見をします。すると秀吉は、武器も刀も侍者に持たしたまま、そのパードレたちと親しくあまりにも、普通大名に話すならば何も、無口で何も話されないところが、秀吉は非常に親しくパードレたちに笑いながら話して、とても平和なそして友好的な態度をしたので、あたかもキリスト教の将来はこれから良いバラ色の未来が待っているのではないかな、と思われたその矢先の事でした。
実はその前に、高山右近が高槻から明石に移行する時に領土を移す時に、「高山右近、キリシタン大名のあの高山右近が来る」という事で、勝手に憶測をした仏教徒たちが、高山右近をボイコットしようと、或いは反対しようとして、仏像を全て船に乗せて大阪までやって来て、そして秀吉の母に取り次ぎます、「高山右近が来ると困る。そして何とか秀吉に言ってやめさしてもらいたい」と言って懇願に来ます。ところが秀吉はそのようなお坊さんを見て、「これは、そのお寺をどうするかというのは高山右近に任せたのだから、彼がよく取り計らうだろう、心配するな、何も心配する事はない。彼は良い男だ」と言うのです。そして「お前たちは何も知らないうちにそんなに謀反を企てて、悪い奴だ!」と言って、秀吉は、その船に乗せてあった仏像を大阪湾から上陸させて、焼き払ってしまったのです。
そしてそれを見て仕方なく明石に戻ろうとしたそのお坊さんたちは、また戻ろうとしたのですけれども、高山右近が、「このようなお坊さんたちが、まだ自分が来る前からそのような謀反をしている。そして将来一体どのような悪い影響が出るか分からない」という事で、「明石の領内には是非来ないで欲しい」とお願いしたのです。
実はこのそのようなエピソードがあったので、高山右近は秀吉からの寛大な接待を受けながらも、「教会には将来嵐がやって来るのではないか」という事を感じていました。特に秀吉が心を非常にすぐ変えてしまう気まぐれな男である、野心家であるという事をよく知っていたので、その事はますますよく分かりました。
秀吉は病気がちだったので、その病気を治す為にお祈りをしたり魔術をしたり或いはその特別の魔法をするお祈りをして、その病気を治す特別の僧侶がいました、施薬院全宗 徳運です。その施薬院全宗はキリシタンに対して非常な敵害心を持っていたので、そして彼は秀吉のすぐ近くにいて、加持祈祷をする、おまじないをする専門職でした。そこで彼が秀吉にキリシタンの悪口を言って、そしてキリシタンを迫害するようにそそのかしました。コエリヨ神父様やイエズス会の30人のイエズス会やキリシタン30名と寛大に会って歓迎を受けたその1年後、1587年、突如として天正のキリシタン禁令が秀吉によって出されます。施薬院がこの伴天連追放令を起草しました。
秀吉のこの禁令は非常に後々まで歴史に跡を残し、10年後に26聖人の殉教の機会となるサン・フィリペ号の没収の為の、船の積み荷を全て没収する為の口実にも使われたり、或いは徳川のキリシタン弾圧のその法的な根拠として利用されたりします。
この天正のキリシタン禁令が出た時に、1587年7月24日、秀吉は自分の直臣の一番信頼のおける最高の武将であった高山右近に言います、「汝、其方はキリシタンの信仰を捨てよ。」
すると使者からのそのような命令を受けて、高山右近はこう答えます、「私は太閤様に今まで心を込めて、力を尽くしてお仕えしてきました。ただ1つの事を除いて、どのような事でも太閤様の為なら命さえも惜しみません。ただその1つの事という事は、デウス様に背け、という事です。これだけはできません。もしも天主に背くという事であれば、全財産を失ったとしても、この世のものが全て無くなったとしても、名誉が失われたとしても、命が亡くなったとしても、これだけはできません。何故かというと、天主との一致デウスとの一致が私たちの人生の唯一の目的であって、もしもそれをデウスに背いてしまうのであれば、私たちの存在の理由が無くなってしまからです。もうこの世で生きている意味が無いからです。」
すると使いの者は、「まぁまぁそんな事を言わないで。表面的だけでも表向きだけでも服従的に従って、内々でデウス様を信じればいいのだから。ジェズス様を信じればいいのではないか。」
高山右近は、「いや、そうではない。キリシタンは外も内も一致でなければならない。もうそのような事は言うな、言うなかれ」と。
そして秀吉にそれは伝えられました。秀吉は非常に悲しみましたが、利休も送られて高山右近を何とか説得して「キリシタンを捨てるように」と言うのですけれども、高山右近は、「友の願いと言えどもそれだけはできない。もうこれ以上言うな。」
利休はよくその高山右近の心を知っていたので、もう何もそれ以上言う事はせずに言い張らず、その事を秀吉にただ伝えます。
このような事は、高山右近は命さえも失う危険がありました。しかし高山右近にとって何ができたでしょうか。命を失う事、或いは自分が天主の為に財産を失って、この地上のものを奪われてしまうという事は、何とした栄誉である事でしょうか。しかしそれと同時に秀吉、自分のその親しくしてきた秀吉がそのようなデウスに大逆を起こす事、或いは教会に迫害を起こそう、という事だけを非常に悲しく思っていました。
そこでキリシタンの武士たちに言います、「私はデウスには逆らえない。キリシタンの信仰を捨てる事はできない。何故ならば私たちは天国の為に生きているからだ。死後の報いの為に生きているからだ。この地上での面白可笑しく生活する為に生きているのではないからだ。ただ唯一、これほど忠実に仕えてくれたそなた方の、キリシタン武士たちに報いる事ができない、私がそれに感謝する事ができない、それだけが何よりの心残りで、しかし天主様はお前たちに、自分ができないよりももっと報いて下さるだろう。この地上の日本の諸侯たちがお前たちに一体何をするだろうか、永遠の命の為に何をしてくれるだろうか。天主がして下さる。この日本の、自分を含めてこの日本の諸侯に期待するな。今私は地位も財産も全て失うけれども、そしてお前たちはまだそれを失わない。しかしもしも信仰を失ってしまったら、一体誰があなたたちの霊魂を救うのか、アニマを救うのか。」
天主の憐れみに全て高山右近は委ねるのでした。「自分では自分のできるだけの事をしたい。しかし今はできない身となったからは、天主の憐れみとその全能に委ねる。そして私たちはただただ、永遠の命を求めよう、さらば。」
こうして高山右近は、ただ単にイエズス・キリストに従う為に、イエズス・キリストに「はい」と言う為に、信仰を失うわないが為に、イエズス・キリストの教会を信じるが為に、武将という高い地位を捨て、明石6万石の財産と領土を放棄し、秀吉の親しい臣下であるというその身分さえも放棄して、そのまま全て捨て去って、35歳、うらぶれた姿となって明石を発って、そして淡路島のやはりキリシタン大名であった小西行長の元に、淡路の小豆島に隠れ住む事になります。
ところでそうやって隠れ住んでいたのもわずか、小西行長が別の領土に領地に移行されたので、それを機会に1588年、高山右近は有馬に行きます。そして九州の有馬に行ってコエリヨ準管区長に会って、そして霊的な指導を受けます。その時にコエリヨ神父の手紙によると、「高山右近は、かつてあった全ての地位と全ての財産を失ったにもかかわらず、あまりにも快活で朗らかで、そして微笑みを絶やさず、しかもその自分のあと貧困と苦しい生活を忍耐強く耐えている、耐え忍んでいる、という事を見て非常にびっくりした。」
かつてのあの大名の、トップの大名であった者が、たった6人のしもべを連れてやって来て、哀れなその姿でやって来て、そして有馬で霊操をしたのです。聖イグナチオがマリア様から受けた霊操をしました。そして総告解もして、そしてイエズス様の御生涯や御受難、御復活、人生の意味について深く黙想しました。有馬で実はパウロ三木と会っています。
そしてそれが終わると、実は金沢に前田利長がいて、そこでそこの前田家に高山右近は預けられるようになります。金沢ではキリシタンは、高山右近が行ったその1588年には誰一人いませんでした。ところが高山右近が行くようになると、「パードレを送って欲しい。さぁ、修道士を送って欲しい。さぁ、さぁ、」と言って、高山右近が金沢を去るようになる1614年には、既に常駐司祭1人、常駐修道士1人を得て、そしてキリシタンたちもたくさん存在するようになっていました。
なぜ私が今「1614年まで」と言ったかというと、これが第3の点なのです。
1614年1月31日、冬でした。豊臣家を狙う徳川家康は、一挙に全日本に於いてキリシタンの禁令を出します。そして宣教師を国外追放にします。一体なぜこのような事があるかというと、当時は独裁の時代でした、独裁政治の時でした。独裁の君主として立つ為に、その自分の地位を危うくするものを全て妨害しようとしました。ですから今まであった大名が持っていた土地の権威を、土地を所有する権利を否定する為に、知行大名化させたりしました。また独裁政治というのは、自分の周りにいる側近たちの言う事に聞いて、それに操られる側近政治になるのが常です。そして同じように、京都にいた崇伝というお坊さんの僧侶が、慈悲や忍耐を伝える代わりに、キリシタンの迫害の文書を徳川家康に原稿を作って、そしてこのキリシタンの禁令を書きます。
崇伝のその仏僧の側近の言葉だけではありませんでした。当時残念ながらヨーロッパで、プロテスタントとカトリックの、カトリックのスペインポルトガルとオランダや英国のプロテスタントの貿易圏の争いがあり、そしてそれが日本でも、日本もそれに巻き込まれてしまいました。そこでプロテスタントやオランダからの中傷が、カトリック教会に対する中傷があり、そしてそれに徳川家康は動かされました。
また同時に自分の権力を確固とする為に、外国勢力を封鎖させて鎖国政策をする為の口実、他の人たちが貿易をするのを許さず自分だけが貿易の特権を握る為に、鎖国政策をする事が得策でした。その鎖国政策をする為の口実としても、キリシタンを迫害する事は非常に利益になると考えたのでした。
そこで1614年、バテレン追放令、キリシタン禁令が出ます。その当時高山右近は62歳の老人でした。金沢に住んでいました。冬の事でした。そして高山右近はこの禁令を受けて、全てこの金沢を去らなければなりませんでした。皆は、「さぁ、何とか信仰を捨てるなり何とかした方が良いんじゃないか」と言われても、「そうではない。」そして、徒歩で雪の中を皆と一緒に、先頭を切って、特に金沢から京都にかけては雪の多い所ですけれども、その山の道を歩いて行きました。
10日の後に比叡山の麓の坂本に着きます。けれども、そこで足踏みをされました。何故かというと、「もしも京都に入ると、どのような悪い影響があるかわからない。高山右近をどうするべきかを徳川家康に聞こう」と思って、そして後に「彼らは長崎に送られるべきだ」という事を聞いて、ようやく長崎に送られます。
長崎に着いた高山右近は家族たちと着くのですけれども、そこでもやはりもう一度霊操をします。そして総告解をして、殉教の準備を致しました。キリシタン大名の細川忠興はこれを見て、「本当に高山右近は南坊様は、これまでの今までのやってきた行いに最後の鑑印をして判子を押して、キリシタンとして立派に生きた」とさえ感嘆しています。
実は高山右近を長崎に送ったというのは、徳川家康は大阪城を攻める計画があったからです。もしも高山右近が大阪城に行って豊臣側に付いてしまったら、さすがの徳川といえども何が起こるか分からない、敗北を喫するかもしれない。そこで、しかしあまりにも高山右近は人望が高いので殺害する事もできない。そこで国外追放を求めたのでした。
豊臣秀頼も、高山右近を是非自分の元に入れようとしました、「もしもそうすれば、私たちには勝つ見込みがある。」そして使者を長崎に送って、高山右近に「是非来てほしい」と頼む使者を送るのですけれども、しかし使者が長崎に着いた時には、高山右近が既にマニラに向けて出港して2日の後でした。
多くの人たちはキリシタンは長崎にいた人は、「たとえ高山右近は豊臣から頼まれたとしても、潔くデウス様の為に全てを捨ててマニラに行っただろう」と口を揃えて言いました。
長崎から、1614年11月8日に2艘の船が出ます。その2艘の船が350人以上乗せられたボロボロの船で、明らかに人も多過ぎで危険な旅でした。暴風や逆風で、船の底には穴も空いていたし、高山右近の部屋も水浸しになって、とても危険な旅でした。しかし高山右近はそれを忍耐強くそれを耐え忍んで、1614年12月11日にマニラに着くと、マニラ市民たちは非常に喜んで大歓迎をします。
しかし着いて間もなく40日もすると、熱病に侵され、そして「私のアニマを霊魂を、主の御前に導き給え」と祈りつつ、終油の秘跡を受けて、口に最後の最後まで、「ジェズス、マリア、」「ジェズス、マリア、」「ジェズス、マリア、」と唱えながら、1615年2月3日と4日の間の夜、ちょうど今から402年前に、マニラで清い霊魂を天主様の御元にお返ししました。
その時にマニラの市民と総督、全ての貴族や立派な方々が総出で、ものすごいこれまでなかったような大葬儀を致しました。その当時2000人日本人がいましたが、その葬儀を見て「その高山右近がどれほど尊敬されているか、という事を見て非常に誇らしかった」と記録にあります。
高山右近が死んだ、亡くなったという事を知った徳川家康は、「これは大きな損失であった」と嘆いたそうです。そしてキリシタンの事を悪しざまに言った徳川でさえも、高山右近の悪い事は一切言った事がありませんでした。
高山右近は一体、何を求めたのでしょうか?
霊魂の救い、永遠の命、霊魂の救霊。イエズス・キリスト以外に救い主はない。だから皆に洗礼を受けてもらって、イエズス様の御憐れみとその全能によって天国に行く事。ただこれだけを求めたのでした。
その為であれば、地上のものを失ったとしても、どのような苦しみがあったとしても、喜んで潔くイエズス様とマリア様に捧げよう。これが大和男子であって、武将の心である。これがキリシタンであって、これが茶道の生粋の道であって、これこそが大和魂である、と私たちに教えています。
イエズス様に最後まで忠実に仕えたい。霊魂を救いたい、アニマを救いたい。ジェズス、マリアに忠実でありたい。その日本の多くの霊魂が救われる事を祈って、そしてそれだけをひたすら求めてマニラに追放されて、霊魂を天主に返したのです。
その追放したその張本人が住んだ大阪城ホールで、高山右近はあと数日すると、福者として全世界からの名誉と福者の称号を受けるのです。福者ユスト高山は私たちの為にますます取り次いで下さるに違いありません。
私たちも高山右近に倣って、マリア様からの受けた霊操や、或いはファチマのメッセージをよく実行する事によって、霊魂の救霊と、そして隣人の私たちの日本の同胞の霊魂の救いをひたすら乞い求めましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、
2017年2月4日(初土)に大阪で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
2017年2月4日(初土)聖母の汚れなき御心の随意ミサ
小野田神父 説教
小野田神父 説教
聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2017年 2月4日、2月の初土曜日のミサをしております、聖母の汚れなき御心のミサです。今日のこのミサの後にいつものようにミサの感謝の祈りと、そしてファチマの天使が教えて下さったお祈りを一緒に含めて御捧げ致しましょう。
ミサの後には公教要理を提案します。これはつい最近映画になった「沈黙-サイレンス」の映画の背景にあったフェレイラ神父について、この神父のフェレイラ神父に一体何が起ったのか、という事を皆さんにご紹介します。この当時キリシタンたちはカトリック信者たちは、一体それを見て何をどのように反応したのか、という事を考察する事を提案します。
次回のミサはいつもの通り、2月の第2主日の日・月と、第3主日の前の金・土です。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、2月の初土曜日で私たちは特に、ファチマのマリア様が私たちに下さったメッセージを黙想したいと思っていますけれども、今日は実は、今から500年前にマリア様は聖イグナチオを通して別の形でメッセージを与えました。
ファチマでのメッセージは、今から100年前ちょうど100年前、今20世紀の今私たちの時代に起こる、或いは20世紀に起こる教会の危機、例えば共産主義、或いは近代主義に対する薬として、それなりの対策としてマリア様はすでに私たちに、「こうしなさい」という事を教えて下さって、「そしてそれを実践すれば、必ず天国に行ける」と約束さえして下さったメッセージです。
今から500年前、ちょうどプロテスタントの宗教革命が起こりました。イエズス・キリストの宗教を変えてしまいました。その時にマリア様は聖イグナチオを通して、それに対抗する手段を与えてくれました。それが『霊操』です。
聖イグナチオを通してマンレサに於いて与えられた霊操で、聖イグナチオはその霊操を通してイエズス会を創り、そしてその霊操を通してこの人生の意味を深く知った、「天国の為に私たちが生きている」という事を深く知った聖フランシスコ・ザヴェリオは日本に来ました。
そして今日私が提案したいのは、霊操を通してこの人生の意味を深く知って、そして遂にはあと3日で福者と列福される、大阪城ホールで福者と列福されるユスト高山右近の人生について黙想する事を提案します。もしもマリア様から与えられたその霊操をやったその高山右近が、その通り忠実に実践した高山右近が400年後に福者となるならば、ファチマのマリア様のメッセージを実践する私たちにも同じ事が起こる、という事を私たちが深く知る為です。
ですから今日の黙想の後に、「やはりマリア様のメッセージを実践しよう」と、「そして高山右近のようになろう」という決心が自然と湧き起これば、私のこの今日の説教の目的は達成される事になります。
皆さんも昨日私たちが黙想した通り、高山右近は11歳の時に、1564年6月にお父さんダリオ高山の影響で洗礼の恵みを受けます。1574年、高山右近がまだ21歳まだ若い青年だった時に、今ではもしかしたら日本では成人式を受けたばかりのほやほやの若僧であるかと思われるかもしれません。しかしすでに、その時すでに高山右近は高槻の城主となって、4万石の領土を管理指導する立場にありました。
高山右近の熱心な真面目な信心と生活によって、高槻の領土にあった領民たちは皆カトリックに惹かれ、そしてカトリックの洗礼を受けて、領主となった10年後には、常駐の司祭はいなかったにもかかわらず20の教会があり、いつも巡回の司祭や修道士たちが高槻にやって来て、そして霊的な指導やミサや秘蹟などを授けて下さっていました。
今日、特に3つのエピソードを紹介したいと思います。
一つは、1582年本能寺の変があった時のことです。織田信長が、自分のトップであった織田信長が暗殺されます。すると織田信長によって土地が与えられて大きなお城があった、安土の所にあったとてもきれいな3階建ての神学校セミナリオは、略奪されてしまいました。これは高山右近にとって非常に大きな苦痛でした。
しかし高山右近はこれを犠牲に、「これをこの損失を何とか善に変えよう」と、「是非、パードレたちによって高槻にセミナリオを作って下さい」と、「安土から高槻に引越して下さい」と提案しました。するとパードレはその提案を受けて、「よし、そうしよう」として、2人の司祭、常駐司祭を送り、修道士たちも数名送り、同宿或いはそこで教会で働くような人たちもいて、そして高槻の最初の神学生の第1回生の中には多くの神学生がいました。そのうちの1人は、後に26聖人となるパウロ三木もいました。
巡回司祭のみならず、常駐の司祭が2人も居たという事で、領民たちはますますキリシタンの教えに接する機会があり、2万名いた領民たちはほぼ全てキリシタンとなりました。そしてお寺のお坊さんや、或いは神社の神主さんやそのような人たちも「キリシタンになりたい」と思ったので、そのようなお寺は誰も管理する人がいなくなって朽ちてしまいました。それほど高山右近の人柄に憧れて、皆が「キリシタンになりたい」と思った事でした。
高山右近は別に仏教を排斥したわけではなくて、仏教のお坊さんに挨拶の手紙を書いたり、「守ってあげるよ」という手紙を書いている書簡も残っています。しかしその高山右近の人柄、生き様に憧れた人々は皆、「高山右近のようになりたい、それと同じ信仰を持ちたい」と思ったのでした。
領民だけではありません。高山右近のその立派な生きざまを見て、今まで放蕩の生活をしていたような伊勢の牧村政治のような大名も、洗礼を受けて生き方をガラリと変えてしまったり、或いは力のあった大名であった蒲生氏郷が洗礼名をレオとして受けて、そしレオ蒲生氏郷と一緒に高山右近は黒田孝高をカトリックに導いたり、カトリック大名の友達をたくさん作っていきました。
また茶道の七哲として、武道文学そして茶道、文武を両立させた素晴らしい男でした。
本能寺の後に秀吉が天下を取るのですけれども、その秀吉のもとに手柄を立てた高山右近は4万石の高槻から6万石の明石に移行を受けて、より大きな領地を豊かな領地を任されるようになりました。すると高槻に居たキリシタンの武士たちは皆、「高山右近と一緒に私も移る!」と言いました。そして聖堂やセミナリオも一緒に移動してしまいました。
高槻に残されたキリシタンの領民たちは非常に悲しく思いました。彼らがどれほど高山右近の影響を受けたかという事は、300年の後に明治の初年に、まだ高山村という村には2000軒キリシタンが居た、隠れキリシタンが居た、或いは清谷村には7000戸のキリシタンの家があった、300年ずっと迫害にもかかわらずキリシタンの信仰を残していた、という事実があります。そして明治の初期までも、「高槻のお殿様はとっても素晴らしかった」という口伝が残っており、高山右近がどれほど良い影響を与えていたかという事は私たちは容易に想像がつきます。
第2のポイントは、そのような高山右近でしたが、そして明石に移ってその翌年、1586年の事だったのです。準管区長であったコエリヨ神父様や或いはその元で働いていたオルガンティノ神父様、或いはイエズス会の最も重要な神父様たちやキリシタン大名たち、或いは重要な貴族たちキリシタンの貴族たちを約30名連れて、長崎から大阪にいた秀吉に会見をします。すると秀吉は、武器も刀も侍者に持たしたまま、そのパードレたちと親しくあまりにも、普通大名に話すならば何も、無口で何も話されないところが、秀吉は非常に親しくパードレたちに笑いながら話して、とても平和なそして友好的な態度をしたので、あたかもキリスト教の将来はこれから良いバラ色の未来が待っているのではないかな、と思われたその矢先の事でした。
実はその前に、高山右近が高槻から明石に移行する時に領土を移す時に、「高山右近、キリシタン大名のあの高山右近が来る」という事で、勝手に憶測をした仏教徒たちが、高山右近をボイコットしようと、或いは反対しようとして、仏像を全て船に乗せて大阪までやって来て、そして秀吉の母に取り次ぎます、「高山右近が来ると困る。そして何とか秀吉に言ってやめさしてもらいたい」と言って懇願に来ます。ところが秀吉はそのようなお坊さんを見て、「これは、そのお寺をどうするかというのは高山右近に任せたのだから、彼がよく取り計らうだろう、心配するな、何も心配する事はない。彼は良い男だ」と言うのです。そして「お前たちは何も知らないうちにそんなに謀反を企てて、悪い奴だ!」と言って、秀吉は、その船に乗せてあった仏像を大阪湾から上陸させて、焼き払ってしまったのです。
そしてそれを見て仕方なく明石に戻ろうとしたそのお坊さんたちは、また戻ろうとしたのですけれども、高山右近が、「このようなお坊さんたちが、まだ自分が来る前からそのような謀反をしている。そして将来一体どのような悪い影響が出るか分からない」という事で、「明石の領内には是非来ないで欲しい」とお願いしたのです。
実はこのそのようなエピソードがあったので、高山右近は秀吉からの寛大な接待を受けながらも、「教会には将来嵐がやって来るのではないか」という事を感じていました。特に秀吉が心を非常にすぐ変えてしまう気まぐれな男である、野心家であるという事をよく知っていたので、その事はますますよく分かりました。
秀吉は病気がちだったので、その病気を治す為にお祈りをしたり魔術をしたり或いはその特別の魔法をするお祈りをして、その病気を治す特別の僧侶がいました、施薬院全宗 徳運です。その施薬院全宗はキリシタンに対して非常な敵害心を持っていたので、そして彼は秀吉のすぐ近くにいて、加持祈祷をする、おまじないをする専門職でした。そこで彼が秀吉にキリシタンの悪口を言って、そしてキリシタンを迫害するようにそそのかしました。コエリヨ神父様やイエズス会の30人のイエズス会やキリシタン30名と寛大に会って歓迎を受けたその1年後、1587年、突如として天正のキリシタン禁令が秀吉によって出されます。施薬院がこの伴天連追放令を起草しました。
秀吉のこの禁令は非常に後々まで歴史に跡を残し、10年後に26聖人の殉教の機会となるサン・フィリペ号の没収の為の、船の積み荷を全て没収する為の口実にも使われたり、或いは徳川のキリシタン弾圧のその法的な根拠として利用されたりします。
この天正のキリシタン禁令が出た時に、1587年7月24日、秀吉は自分の直臣の一番信頼のおける最高の武将であった高山右近に言います、「汝、其方はキリシタンの信仰を捨てよ。」
すると使者からのそのような命令を受けて、高山右近はこう答えます、「私は太閤様に今まで心を込めて、力を尽くしてお仕えしてきました。ただ1つの事を除いて、どのような事でも太閤様の為なら命さえも惜しみません。ただその1つの事という事は、デウス様に背け、という事です。これだけはできません。もしも天主に背くという事であれば、全財産を失ったとしても、この世のものが全て無くなったとしても、名誉が失われたとしても、命が亡くなったとしても、これだけはできません。何故かというと、天主との一致デウスとの一致が私たちの人生の唯一の目的であって、もしもそれをデウスに背いてしまうのであれば、私たちの存在の理由が無くなってしまからです。もうこの世で生きている意味が無いからです。」
すると使いの者は、「まぁまぁそんな事を言わないで。表面的だけでも表向きだけでも服従的に従って、内々でデウス様を信じればいいのだから。ジェズス様を信じればいいのではないか。」
高山右近は、「いや、そうではない。キリシタンは外も内も一致でなければならない。もうそのような事は言うな、言うなかれ」と。
そして秀吉にそれは伝えられました。秀吉は非常に悲しみましたが、利休も送られて高山右近を何とか説得して「キリシタンを捨てるように」と言うのですけれども、高山右近は、「友の願いと言えどもそれだけはできない。もうこれ以上言うな。」
利休はよくその高山右近の心を知っていたので、もう何もそれ以上言う事はせずに言い張らず、その事を秀吉にただ伝えます。
このような事は、高山右近は命さえも失う危険がありました。しかし高山右近にとって何ができたでしょうか。命を失う事、或いは自分が天主の為に財産を失って、この地上のものを奪われてしまうという事は、何とした栄誉である事でしょうか。しかしそれと同時に秀吉、自分のその親しくしてきた秀吉がそのようなデウスに大逆を起こす事、或いは教会に迫害を起こそう、という事だけを非常に悲しく思っていました。
そこでキリシタンの武士たちに言います、「私はデウスには逆らえない。キリシタンの信仰を捨てる事はできない。何故ならば私たちは天国の為に生きているからだ。死後の報いの為に生きているからだ。この地上での面白可笑しく生活する為に生きているのではないからだ。ただ唯一、これほど忠実に仕えてくれたそなた方の、キリシタン武士たちに報いる事ができない、私がそれに感謝する事ができない、それだけが何よりの心残りで、しかし天主様はお前たちに、自分ができないよりももっと報いて下さるだろう。この地上の日本の諸侯たちがお前たちに一体何をするだろうか、永遠の命の為に何をしてくれるだろうか。天主がして下さる。この日本の、自分を含めてこの日本の諸侯に期待するな。今私は地位も財産も全て失うけれども、そしてお前たちはまだそれを失わない。しかしもしも信仰を失ってしまったら、一体誰があなたたちの霊魂を救うのか、アニマを救うのか。」
天主の憐れみに全て高山右近は委ねるのでした。「自分では自分のできるだけの事をしたい。しかし今はできない身となったからは、天主の憐れみとその全能に委ねる。そして私たちはただただ、永遠の命を求めよう、さらば。」
こうして高山右近は、ただ単にイエズス・キリストに従う為に、イエズス・キリストに「はい」と言う為に、信仰を失うわないが為に、イエズス・キリストの教会を信じるが為に、武将という高い地位を捨て、明石6万石の財産と領土を放棄し、秀吉の親しい臣下であるというその身分さえも放棄して、そのまま全て捨て去って、35歳、うらぶれた姿となって明石を発って、そして淡路島のやはりキリシタン大名であった小西行長の元に、淡路の小豆島に隠れ住む事になります。
ところでそうやって隠れ住んでいたのもわずか、小西行長が別の領土に領地に移行されたので、それを機会に1588年、高山右近は有馬に行きます。そして九州の有馬に行ってコエリヨ準管区長に会って、そして霊的な指導を受けます。その時にコエリヨ神父の手紙によると、「高山右近は、かつてあった全ての地位と全ての財産を失ったにもかかわらず、あまりにも快活で朗らかで、そして微笑みを絶やさず、しかもその自分のあと貧困と苦しい生活を忍耐強く耐えている、耐え忍んでいる、という事を見て非常にびっくりした。」
かつてのあの大名の、トップの大名であった者が、たった6人のしもべを連れてやって来て、哀れなその姿でやって来て、そして有馬で霊操をしたのです。聖イグナチオがマリア様から受けた霊操をしました。そして総告解もして、そしてイエズス様の御生涯や御受難、御復活、人生の意味について深く黙想しました。有馬で実はパウロ三木と会っています。
そしてそれが終わると、実は金沢に前田利長がいて、そこでそこの前田家に高山右近は預けられるようになります。金沢ではキリシタンは、高山右近が行ったその1588年には誰一人いませんでした。ところが高山右近が行くようになると、「パードレを送って欲しい。さぁ、修道士を送って欲しい。さぁ、さぁ、」と言って、高山右近が金沢を去るようになる1614年には、既に常駐司祭1人、常駐修道士1人を得て、そしてキリシタンたちもたくさん存在するようになっていました。
なぜ私が今「1614年まで」と言ったかというと、これが第3の点なのです。
1614年1月31日、冬でした。豊臣家を狙う徳川家康は、一挙に全日本に於いてキリシタンの禁令を出します。そして宣教師を国外追放にします。一体なぜこのような事があるかというと、当時は独裁の時代でした、独裁政治の時でした。独裁の君主として立つ為に、その自分の地位を危うくするものを全て妨害しようとしました。ですから今まであった大名が持っていた土地の権威を、土地を所有する権利を否定する為に、知行大名化させたりしました。また独裁政治というのは、自分の周りにいる側近たちの言う事に聞いて、それに操られる側近政治になるのが常です。そして同じように、京都にいた崇伝というお坊さんの僧侶が、慈悲や忍耐を伝える代わりに、キリシタンの迫害の文書を徳川家康に原稿を作って、そしてこのキリシタンの禁令を書きます。
崇伝のその仏僧の側近の言葉だけではありませんでした。当時残念ながらヨーロッパで、プロテスタントとカトリックの、カトリックのスペインポルトガルとオランダや英国のプロテスタントの貿易圏の争いがあり、そしてそれが日本でも、日本もそれに巻き込まれてしまいました。そこでプロテスタントやオランダからの中傷が、カトリック教会に対する中傷があり、そしてそれに徳川家康は動かされました。
また同時に自分の権力を確固とする為に、外国勢力を封鎖させて鎖国政策をする為の口実、他の人たちが貿易をするのを許さず自分だけが貿易の特権を握る為に、鎖国政策をする事が得策でした。その鎖国政策をする為の口実としても、キリシタンを迫害する事は非常に利益になると考えたのでした。
そこで1614年、バテレン追放令、キリシタン禁令が出ます。その当時高山右近は62歳の老人でした。金沢に住んでいました。冬の事でした。そして高山右近はこの禁令を受けて、全てこの金沢を去らなければなりませんでした。皆は、「さぁ、何とか信仰を捨てるなり何とかした方が良いんじゃないか」と言われても、「そうではない。」そして、徒歩で雪の中を皆と一緒に、先頭を切って、特に金沢から京都にかけては雪の多い所ですけれども、その山の道を歩いて行きました。
10日の後に比叡山の麓の坂本に着きます。けれども、そこで足踏みをされました。何故かというと、「もしも京都に入ると、どのような悪い影響があるかわからない。高山右近をどうするべきかを徳川家康に聞こう」と思って、そして後に「彼らは長崎に送られるべきだ」という事を聞いて、ようやく長崎に送られます。
長崎に着いた高山右近は家族たちと着くのですけれども、そこでもやはりもう一度霊操をします。そして総告解をして、殉教の準備を致しました。キリシタン大名の細川忠興はこれを見て、「本当に高山右近は南坊様は、これまでの今までのやってきた行いに最後の鑑印をして判子を押して、キリシタンとして立派に生きた」とさえ感嘆しています。
実は高山右近を長崎に送ったというのは、徳川家康は大阪城を攻める計画があったからです。もしも高山右近が大阪城に行って豊臣側に付いてしまったら、さすがの徳川といえども何が起こるか分からない、敗北を喫するかもしれない。そこで、しかしあまりにも高山右近は人望が高いので殺害する事もできない。そこで国外追放を求めたのでした。
豊臣秀頼も、高山右近を是非自分の元に入れようとしました、「もしもそうすれば、私たちには勝つ見込みがある。」そして使者を長崎に送って、高山右近に「是非来てほしい」と頼む使者を送るのですけれども、しかし使者が長崎に着いた時には、高山右近が既にマニラに向けて出港して2日の後でした。
多くの人たちはキリシタンは長崎にいた人は、「たとえ高山右近は豊臣から頼まれたとしても、潔くデウス様の為に全てを捨ててマニラに行っただろう」と口を揃えて言いました。
長崎から、1614年11月8日に2艘の船が出ます。その2艘の船が350人以上乗せられたボロボロの船で、明らかに人も多過ぎで危険な旅でした。暴風や逆風で、船の底には穴も空いていたし、高山右近の部屋も水浸しになって、とても危険な旅でした。しかし高山右近はそれを忍耐強くそれを耐え忍んで、1614年12月11日にマニラに着くと、マニラ市民たちは非常に喜んで大歓迎をします。
しかし着いて間もなく40日もすると、熱病に侵され、そして「私のアニマを霊魂を、主の御前に導き給え」と祈りつつ、終油の秘跡を受けて、口に最後の最後まで、「ジェズス、マリア、」「ジェズス、マリア、」「ジェズス、マリア、」と唱えながら、1615年2月3日と4日の間の夜、ちょうど今から402年前に、マニラで清い霊魂を天主様の御元にお返ししました。
その時にマニラの市民と総督、全ての貴族や立派な方々が総出で、ものすごいこれまでなかったような大葬儀を致しました。その当時2000人日本人がいましたが、その葬儀を見て「その高山右近がどれほど尊敬されているか、という事を見て非常に誇らしかった」と記録にあります。
高山右近が死んだ、亡くなったという事を知った徳川家康は、「これは大きな損失であった」と嘆いたそうです。そしてキリシタンの事を悪しざまに言った徳川でさえも、高山右近の悪い事は一切言った事がありませんでした。
高山右近は一体、何を求めたのでしょうか?
霊魂の救い、永遠の命、霊魂の救霊。イエズス・キリスト以外に救い主はない。だから皆に洗礼を受けてもらって、イエズス様の御憐れみとその全能によって天国に行く事。ただこれだけを求めたのでした。
その為であれば、地上のものを失ったとしても、どのような苦しみがあったとしても、喜んで潔くイエズス様とマリア様に捧げよう。これが大和男子であって、武将の心である。これがキリシタンであって、これが茶道の生粋の道であって、これこそが大和魂である、と私たちに教えています。
イエズス様に最後まで忠実に仕えたい。霊魂を救いたい、アニマを救いたい。ジェズス、マリアに忠実でありたい。その日本の多くの霊魂が救われる事を祈って、そしてそれだけをひたすら求めてマニラに追放されて、霊魂を天主に返したのです。
その追放したその張本人が住んだ大阪城ホールで、高山右近はあと数日すると、福者として全世界からの名誉と福者の称号を受けるのです。福者ユスト高山は私たちの為にますます取り次いで下さるに違いありません。
私たちも高山右近に倣って、マリア様からの受けた霊操や、或いはファチマのメッセージをよく実行する事によって、霊魂の救霊と、そして隣人の私たちの日本の同胞の霊魂の救いをひたすら乞い求めましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。