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秋田巡礼-説教-2017年5月5日「至聖なるイエズスの聖心の随意ミサ」 イエズス様の聖心を最もお慰めできる聖体拝領とは?

2017年09月02日 | お説教・霊的講話
2017年5月5日 秋田巡礼 至聖なるイエズスの聖心の随意ミサ
小野田神父 説教


至聖なるイエズスの聖心、我らを憐れみ給え。

聖父と聖子と聖霊とに御名によりて、アーメン。

シュテーリン神父様、秋田の巡礼者の皆さん、今日は初金曜日で、イエズス様の聖心の信心を行っています。そこで3つの点を黙想いたしましょう。

聖心の信心を実践するというのはどうしたら良いのか?一体何が求められているのか?

第2に、イエズス様は、どういう風にするとどんな手段をすると、この聖心の信心をうまく実践するかを、良いやり方を教えて下さった、それは、マリア様の汚れなき御心を通して実践するという事だ、という事を私たちはこの巡礼の時に学びました。

では一体、マリア様の御心とイエズス様の聖心は1つなのか?そうだ。一体何故?

この3つを黙想して、最後に私たちは、では今日この御ミサで、巡礼の最後の締めくくりの御ミサで、一体どうやって御聖体拝領をしたら良いのか、という遷善の決心を取る事に致しましょう。

では第1点ですけれども、一体聖心の信心という事は、一体何なのでしょうか?

聖心の信心というのは、キリスト教の最も深い、その最初からあるものです。

キリスト教の核心というのは何かというと、「罪の無い天主が、この世を創った天主が創造主が、罪人の罪の償いの為に人となって、私たちの代わりに罪を償って下さった。そして天国の門を開いて下さった。そして私たちをも、その罪の償いに参与するように、そして参与する事によって一緒に天国に行く事」を教えています。

「天国に行くには必ず、この罪の償いがなければ、イエズス・キリストと共に償う、償いがなければならない。天国への道というのは、十字架の道である」という事を教えています。

これは他の宗教が教えなかった事です。他の宗教は、「この地上でどうやったら御利益があるか。面白可笑しく過ごせよ」と「どうやったらお金が儲かるか。どうやったらこの地上で苦しみを避ける事ができるか」教えています。

でもカトリックの教えは他の宗教と違っています。「どうやったら苦しみを愛する事ができるか。苦しみを幸せにする事ができるか。苦しみが私たちの望みになる事ができるか。」

ですから聖ヴィアンネー神父様はこう言っていました、「この世の人たちはキリスト教を知らないような人たちは、十字架をどうやったら避けるかという事を心配する、それを望む。しかし良いカトリック信者は、十字架が無いのを心配する。」一体何故かというと、私たちは十字架のもとに初めて、復活に至るからです。

ですからもしもカトリック教会が私たちに、「ミサに与るように。ミサによって私たちの生活を聖化するように」としたら、私たちがより良く十字架に与る事ができる為です。祝福を受ける事ができる為です。これにしか天国へ行く道がないからです。イエズス様を通らずに聖父のもとに行く事ができないからです。

もしも教会が「聖体拝領するように」「するように」と「頻繁にするように」と勧めているのならば、何故かというと、「御聖体拝領するという事は、私たちが、いけにえである、十字架のいけにえであるイエズス様と一致する事だからである。」

もしもミサに与りながら十字架のイエズス様と一致せずに、自分を屠らずに自分を犠牲と捧げないで、しかもその十字架の実りだけを、喜びだけを、復活だけを得ようとする事は、ちょうど勉強せずに合格するとか、或いは種を蒔かずに木の実を取ろうと考えるのと全く同じです。

御聖体においては、イエズス様の死が表れています、イエズス様の犠牲が表れています。ですからイエズス様を御聖体を拝領する事によって私たちは、イエズス様と1つになるのです、いけにえとなって屠られるのです。ですから御聖体拝領する時には私たちは、「イエズス様と共に私たちの苦しみを捧げたい」と、「イエズス様と1つになりたい、いけにえとなりたい」と思わなければなりません。それがカトリック教会の教える良いミサの与り方で、御聖体拝領のやり方です。

ところが、第2のポイントは、残念ながらこの世の人はイエズス様の十字架からあまりにも心を遠くしてしまって、その十字架の意味を忘れてしまって、或いは十字架を避けようとして、イエズス様を慰めようとする心から遠ざかってしまっていることです。ますます遠ざかってしまいます。

見て下さい。ちょうど聖フランシスコ・ザビエルが日本に来て、それからその数年の後にクリストヴァン・フェレイラ神父が残念ながら転んでしまった時に、多くのイエズス会の同僚たちは、「ぜひ日本に来て血を流して、罪を償いたい。」「償いたい」と思いました。しかし時が経つにつれて、その人たちは残念ながら、償う為に来たのですけれども、中には転んでしまう人もいました。残念ながら時が経つにつれて、熱心だった、「償いたい」と思っていた心も、だんだん消え失せて少なくなってしまったようです。

そこでちょうど、まだ徳川時代で迫害がひどい時に、ヨーロッパでは信心が少なくなっていた冷えかけていたその時に、イエズス様が聖心を持って聖マルガリタ・マリアにこう言います、「見よ、人類をこれほど愛する聖心を見よ。しかしこの愛のお返しとして私は、冷淡と無関心しか受けていない。少なくともお前は私を慰めよ。」

人類は残念ながら、ますます冷えつつありましたけれども、イエズス様の聖心を完壁に愛し、慰めた方がいました。それがマリア様の御心です。

イエズス様は400年前にはただ聖心を見せて、「少なくともお前は慰めよ」と言いましたけれども、100年前にはもう、この世がもう冷え切ってしまっている世の中にあっては、最後の最後の手段を、私たちに与えて下さいました。

「お前たちの力はあまりにも少ないので、あまりにも弱いので、私の心を慰めきる事ができない。この世はあまりにも罪が多く満ちあふれている。だから最終手段で、秘密兵器を与えよう。それが私の母の心だ。この汚れなき御心の心を以て、私を慰めよ。そうすれば私は非常に慰められる。罪の償いがより良く果たされる」と。

これがマリア様の汚れなき御心の信心です。

すると第3の点では、マリア様の御心の信心とイエズス様の聖心の信心は同じではないのか?どうもそのように思えるのです。一体では何故?

教会の教えによると、聖ヨハネはイエズス様の洗礼を見ました。これは聖ヨハネの聖福音に書いています、「自分は見た。」

イエズス様の十字架のもとで聖心に槍が突き刺さるのを見ました。そこから血と水が流れ出るのを見ました。

また聖霊降臨後、福音史家ヨハネは、さらに書簡を書いて、「聖父と聖子と聖霊は1つである。この天ではこの3つは1つである。地上では水と血と霊は1つである」と言います。

教会の教えの解説によると、「水」というのは「洗礼」の事です。ヨハネは聖父がイエズス様が洗礼を受けた時に、「これは我が子である、我が愛する子である。これに聞け」と聞きます。「御血」というのは「御聖体」の事です。イエズス様のこの聖心が開かれて水と血が出るのを見ました。この血は御聖体のシンボルです。「霊」というのは「聖霊」の事であり「堅振」の事です。洗礼と御聖体と堅振はその3つの秘蹟は1つの事を、イエズス・キリスト様が真の救い主である、この3つは1つである。

そこで、この考えをもう少し詰めてみると、しかし「マリア様」というのは「聖霊の浄配」ではなかっただろうか。だからマリア様と聖霊は1つだ。マリア様はルルドで言ったではないか、「私は無原罪の御孕りである」と。この「水」というのは「マリア様の涙」の事ではないか。イエズス様の十字架のもとで立ち留ったその涙ではないか。或いは、この「血」というのはマリア様がイエズス様と一緒に、血を流さずに「共贖者」となった事ではないか。或いは「マリア様から生まれた御体であるイエズス様が御血を流した事」ではないか。ですからこの水と血と聖霊は1つだ、というのはマリア様にも言う事ができるのではないか。

すると、実はイエズス様の聖心もマリア様の御心も、だからこれで1つと全く同一である、と言えるのではないか。だからこそ私たちがマリア様の心を以て御聖体拝領をする時に、イエズス様は非常に喜ぶのだ。

ではどのような決心をしなければならないでしょうか?

私は今日、シュテーリン神父様が私たちに教えて下さったように、私たちのつまらない心ではなくて、私たちの望みではなくて、聖霊の浄配であるマリア様の汚れなき御心を私たちの心に頂く事に致しましょう。そしてマリア様の愛、マリア様の望みと、マリア様のイエズス様を慰めたい、という心を頂きつつ、今日初金の聖体拝領をする事に致しましょう。私たちがマリア様の心を以て聖体拝領すればするほど、イエズス様の聖心は慰めを受けます。

ファチマでイエズス様は仰ったではないですか、マリア様は仰ったではないですか、「イエズス様は、この地上に、私の汚れなき御心に対する信心を確立する事を望んでいる。」

至聖なるイエズスの聖心、我らを憐れみ給え。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

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