Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

「唯一の救い主、私たちの主イエズス・キリスト」:聖ピオ十世会司祭 レネー神父様

2017年12月22日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
レネー神父様の霊的講話 「唯一の救い主、私たちの主イエズス・キリスト<」の日本語訳をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

12月17日 東京・大阪の説教
唯一の救い主、私たちの主イエズス・キリスト


親愛なる兄弟の皆さん、

私たちは本日、ちょうど洗者聖ヨハネの証言を聞いたところです。使徒聖ヨハネがその福音書の初めにおいて、洗者聖ヨハネは「光ではなく、光[すなわち私たちの主イエズス・キリスト]を証明するために、またすべての人が彼によって信じるために証人として来た」(ヨハネ1章7-8節)と言うように。この最後の預言者である洗者聖ヨハネに対して、「この方だ!」とその指でメシアを指し示す恩寵が与えられたのです。

洗者聖ヨハネは、どのようにしてそれを行ったのでしょうか? 使徒聖ヨハネが私たちにこう告げます。「次の日、二人の弟子とともにそこに立っていたヨハネは、イエズスが通りかかられるのに目を留め、『天主の小羊を見よ』と言った。それを聞いた二人の弟子はイエズスについて行った」(ヨハネ1章35-37節)。この二人の弟子は聖アンドレアと使徒聖ヨハネでした。ですから使徒聖ヨハネは非常に信頼できる証人なのです。この二人の使徒にとって、イエズスと過ごしたまさに最初の日は、いかなるものだったことでしょうか! いかに祝せられた夕べだったでしょうか! 聖アンドレアはこのことで非常に感動したため、「まず兄弟シモンに出会ったアンドレアは、『メシア―キリストの意味―に会った』と言っ」(ヨハネ1章41節)たのです。「まず」ということば自体が、もう一人の弟子もそのあとながら自分の兄弟に出会ったことを示しており、この第二の弟子は聖ヤコブを兄弟に持つ聖ヨハネであることを示しています。

私たちの主イエズス・キリストが、まさに救い主であり、まさに贖い主であり、ヘブライ人たちだけでなく、異邦人の世界の中でさえ待ち望まれていたまさにそのお方なのです。実際、選ばれた民以外でも、天主は、何人かの預言者がキリストについて語るよう霊感をお与えになりました。聖アウグスティノはローマ時代の巫女の言葉をいくつか引用しており、フランスではカルヌテス族(シャルトル周辺のケルト部族)のケースがあり、彼らは「身ごもる童貞」をたたえていました。おそらく、天使が彼らに現れて、童貞の受胎について教えたのでしょう。実際、私たちの主イエズス・キリストは全人類の唯一の救い主であり、主の来臨以前であろうと以後であろうと、救われるためには主を信じることが必要です。主の来臨以前は、主が来られることを信じることが必要だったのであり、主の来臨以後は、主が来られたことを信じることが必要だったのです。

聖ペトロは私たちに、「救いは主以外の者によっては得られません。この世においてわれわれの救われる名は、イエズスの御名のほかにはないからです」(使徒行録4章12節)と告げています。こういう訳で、クリスマスが大変重要なのです。救い主の来臨なのですから! 私たちの主イエズス・キリストに対するこの信仰が、聖フランシスコあるいはルフェーブル大司教といったすべての偉大なる宣教師を力づけた宣教精神の原則です。彼らはイエズスを霊魂たちに与えることを願いましたが、それはその霊魂たちが救われるようにするためです! なぜなら、すべての人がイエズスを必要とし、すべての人が救い主を必要とするからです。「信じて洗礼を受ける者は救われ、信じない者は滅ぼされる」(マルコ16章16節)。「しかし、信仰がなければ天主に嘉されることはできない」(ヘブライ11章6節)。

しかし、「まだ信じなかった者をどうして呼び求められよう。まだ聞かなかった者をどうして信じられよう。宣教する者がなければどうして聞けよう。遣わされなかったらどうして宣教できよう。『平和の福音を宣教する者、よきことの喜ばしい知らせをもたらす者の足は美しい!』と書き記されている」(ローマ10章14-15節)。それゆえに、異邦人の回心のため、韓国人、日本人、中国人、インド人、すべてのイスラム教徒、またすべての異端者たちの回心のため、多くの宣教師が必要とされます。なぜなら、教会であるキリストの体(コロサイ1章24節)、キリストまで直接さかのぼる唯一の教会であるカトリック教会の中にいるのでなければ、キリストのいのちを生きることはできないからです。

しかし、次のように言う人がいるかもしれません。「聞かなかった人々に何が起きるのでしょうか?」。第一に、天主は「すべての人が救われて真理を深く知ることを望まれる」(ティモテオ前書2章4節)ということを知る必要があります。それゆえに、天主は常に各人が救われるために十分な恩寵をお与えになるでしょう。もしある人が救われないならば、天主が十分な恩寵をお与えにならなかったからではなく、その人が天主の恩寵に抵抗し、救いを拒否したからです! 聖パウロが先に述べた一節の続きでこう言いました。「だがみなが福音に従ったのではない」(ローマ10章16節)。聖ステファノを死刑に処したファリザイ人たちのような人々は、「絶えず聖霊に逆らっています」(使徒行録7章51節)。

宣教師が訪れることのなかった民族でさえ、天主の天使が訪れることがあり得ます。天主を探し求める人々を天主はお見捨てにならないでしょう。ヨブ記にこう書かれているようにです。「天主は一度話しかけ、二度目は同じことを繰り返されない。人に眠気が襲い、床に寝ているそのとき、夢によって、夜の幻によって、天主は人の耳を開き、人が知るべき教えの戒めを与え給う。それは行っている悪しきことから人を遠ざけ、人をその高ぶりから救うためである」(ヨブ33章14-17節)。

どのような場合でも、たとえ天使の訪問を受けなかったとしても、人には自分自身の罪があるのであって、そのために正当に罰せられるのであり、御摂理に不平を言うことはできません。ですから、ニューカレドニアでは、宣教師が来る前は人々は人食いをしていましたが、審判の日には、彼らは「それは私たちの罪ではありません。私たちはイエズス・キリストを知ることがなく、一人の宣教師も来てくれなかったのですから」と述べることはできないのです。主は彼らに「おまえたちが『なんじ隣人を食するなかれ!』ということを知るために宣教師は必要なかった」と言われるでしょう。そして現代世界では、妊娠中絶が罪であることを知らなかったと主張できる異邦人は誰もいません。自分が生まれる赤ん坊を愛してその子の面倒を見なければならないということは、妊娠している母親のはらわたに書かれているのです。他の多くの罪についても同様です。

でも、これらの罪びとに対してさえも、天主は彼らの救いを望んでおられ、その目的のために彼らに宣教師を遣わそうと望んでおられるのです。天主は霊魂の扉を、特に若者の霊魂の扉をたたいておられます。「あなたたちは、これらの霊魂の救いのために、自分のいのちを捧げるつもりがあるか? 霊魂を求める私の渇きが満たされるために?」。実際、天主はその愛を聖フランシスコ・ザビエルのような人々の心にお注ぎになり、彼らにおいて、霊魂を回心させようとする望みを、永遠の滅びから霊魂を救おうとする望みを、霊魂に永遠のいのちを与えようとする望みを燃え立たせ給うのです。

これらの宣教師たちはしばしば、この目的のためにいのちを捧げてきました。殉教によってだけでなく、彼らが直面した危険によってもです。多くの宣教の初期には、熱帯地方の病気のために亡くなった多くの宣教師がいました。十九世紀の「Pères Blancs(白衣の神父たち)」については、アフリカに派遣された人の三分の一が、その奉仕の最初の二年間で亡くなってしまったのですが、それはアフリカのあらゆる種類の病気のためだったのです! 彼らも霊魂の救いのために、いのちを捧げたのです!

隣人が地獄の火の中に落ちていくのを見ているのに何もしないのならば、どうして私たちは隣人を愛すると言えるでしょうか? 非常に多くの霊魂が地獄に落ちていると考えるだけで、私たちは彼らに対して何かをしようと熱心に思い、まず「刈り入れの主に、働き人を刈り入れに遣わし給えと祈」(マテオ9章38節)り、さらに、恐れることなく信仰を告白することによって、彼らに信仰を教えることによって、彼らに私たちの主イエズス・キリストの道を勧めることによって、彼らに私たちの心に燃えている光と火を与えることによって、これら私たちの隣人、友人たちを助けるのです。

さらに言うべきことがあります。司祭だった宣教師は、他人の救いのために自分のいのち以上のものを与えました。司祭は、彼らに天主ご自身を与えたのです。実際、聖別することによって、司祭は私たちの主イエズス・キリストをご聖体において、御体、御血、ご霊魂、ご神性とともに本当に現存させるのです。それゆえに、司祭は隣人に天主を本当に与えるという立場にあるのであり、文字通りそうなのです! ですから、たぶん私たちの主イエズス・キリストは、皆さんの霊魂、特に若い人の霊魂の扉をたたいておられるはずです。そして皆さんにこうお尋ねになるのです。「あなたは、この霊魂の救いのための素晴らしい仕事に喜んで自分を捧げますか、私はそのためにクリスマスにここ地上にやって来たのですから。あなたは、霊魂を求める私の愛の道具に喜んでなりますか?」。

汚れなき童貞が、私たちのために、また他の多くの人々のために、この恩寵を取り成してくださいますように! アーメン!

東京での聖骸布の等身大のレプリカの展示:12月24日(主日)午前8時半からです。

2017年12月22日 | 聖伝のミサの予定
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

東京では、12月24日(主日)、午前8時半から 実物大の聖骸布の展示が始まります。
レネー神父様からの説明もあります。ぜひともいらしてください!


Expert Discovers Jesus’ Death Certificate


Bronze Jesus Cast from 3D Shroud Image



天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

クリスマス(12月25日)から来年1月3日までのノベナ・ミサを愛する兄弟姉妹の皆様の意向でお捧げ致します。意向を書いてくだされば幸いです。

2017年12月21日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 今年のすべてのお恵みを感謝して、また、新年の多くの祝福とお恵みを願って、特に多くのサポートをしてくださった愛する兄弟姉妹の皆様のご意向で毎日、2017年12月25日から2018年1月3日まで9回のノベナの聖伝のミサを立てる予定です。

 もしもよろしければ、皆様のご意向を紙に書いてそれを封筒に入れて封をして、大阪と東京との信徒会長にお渡しください。

 このノベナのミサは、いつも聖ピオ十世会を応援してくださる方々に感謝の気持ちとして捧げたいと思っています。

 兄弟姉妹の皆様からの封筒をそのまま集めて、大阪の聖母の汚れなき御心聖堂にあるファチマの聖母像の足元に置いて聖母の御手を通してイエズス・キリストの聖心に委ねます。

 ところで、聖ピオ十世会では、小教区の教会であるような「教会維持費」は特にありません。しかし、もしも、皆様のこの意向の封筒に、兄弟姉妹の皆様からの暖かい援助が同封してくだされば、それらは全額、大阪の聖母の汚れなき御心の聖堂の維持費に使わせていただきたいと思っています。

 封をした封筒の中には、もちろん、意向だけで構いません。もしも、ご希望の方がいらっしゃれば、大阪の聖堂の維持費の御援助をこころから歓迎し、感謝いたします。

 どうぞ、愛する兄弟姉妹の皆様も、2017年12月25日から2018年1月3日まで9回のノベナの聖伝のミサに合わせて、お祈りください。

 特に、愛する兄弟姉妹の皆様の意向で、また、朝鮮半島での戦争が回避されますように、多くの召命が輩出しますように、お祈りください。



天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

等身大の聖骸布のレプリカの展示は、大阪では明日12月22日(金)まで、です!

2017年12月21日 | 聖伝のミサの予定
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

レネー神父様が日本に持ってきてくださった、等身大の聖骸布のレプリカの展示は、


大阪では、12月22日(金)までです!

場所:聖ピオ十世会 聖母の汚れなき御心聖堂(EG新御堂4階 大阪府大阪市淀川区東三国4丁目10-2)です。

(JR「新大阪駅」の東口より徒歩10-15分、地下鉄御堂筋線「東三国駅」より徒歩2-3分)



東京では、12月24日(主日)だけです。

午前08時半から 実物大の聖骸布の展示が始まり、レネー神父様からの説明があります。ぜひともいらしてください!



天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【聖伝のミサ、トリエント・ミサの報告】等身大の聖骸布のレプリカ、その大きさにびっくり!実際にごらんになってください。

2017年12月19日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 レネー神父様に感謝!神父様は日本に等身大の聖骸布のレプリカをお持ちくださいました。実際に近くに行ってごらんになってください。私も写真を拝見させていただきましたが、その大きさにびっくりです。実物大ってこんなに大きかったんですね!
 大阪では、12月22日(金)まで展示されます。










 大阪ではクリスマスまで毎晩6時から聖伝のミサがささげられています。

12月17日(主)~12月22日(金)まで毎日
午後5時半 ロザリオ及び告解 
午後6時 ミサ聖祭 

12月23日(土) 待降節の四季の斎日 土曜日(2級)紫
午前10時  ロザリオ及び告解
午前10時半 ミサ聖祭

12月24日(主) 主日の主の御降誕の前日(1級)紫
午後5時半 ロザリオ及び告解 
午後6時  ミサ聖祭 
午後9時  クリスマスの朝課、クリスマスキャロル 
深夜11時55分 ミサ聖祭(真夜中のミサ)主の御降誕(1級祝日、八日間付き)白 

12月25日(月) 主の御降誕(1級祝日、八日間付き)白
午前10時  ロザリオ及び告解
午前10時半 ミサ聖祭(日中のミサ)

 先日の主日には、東京と大阪とでボーナスの待降節第三主日のミサをレネー神父様がささげてくださいました。

 東京では聖伝による「無原罪の聖母の騎士会」の入会式がありました。

 レネー神父様は、実物大の聖骸布のレプリカを東京にもお持ちくださります。12月24日には、午前08時半 実物大の聖骸布の展示と説明があります。ぜひともいらしてください!

 愛する兄弟姉妹の皆様からの報告をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】【大阪】
アヴェ・マリア・インマクラータ!
大阪の御聖堂の御ミサに行くと、レネー神父様が持ってきて下さった聖骸布の等身大のレプリカが飾られていました。今までカトリック教会から常に聞いてきた事ですが、私たちの為に苦しまれた御手、御足、無数の鞭打ちの御傷を目の当たりにして、イエズス様がお受けになった御受難は、本当に全て現実に実際に起こった出来事なのだと強く感じました。言葉が拙いのですが…。そしてその中で御ミサに与らせて頂く大きな御恵みを頂きました。

【報告】【東京】
Dear Fr Onoda:

今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

ミサの参列者数
男: 17人(内、子供1人)
女: 23人(内、子供3人)
計: 40人(内、子供4人)

M.I.入会式
ミサの後の祈りとアンジェルスのすぐあとレネー神父のお話しとM.I.の入会式がありました。ミサに参列していらっしゃった方は、ほとんどの方がそのまま列席されたものと思います。
名前が書かれていてレネー神父がサインされた入会証を14枚お預かりしています。

【報告】【東京】
待降節第三主日の御ミサに与りました。大阪で休暇中のところ特別にレネー神父様は御ミサを東京でも捧げてくださいましてまことにありがとうございます。

御降誕祭を待ちわびるなか、救いについていろいろな方面から、考えてみることができたように思います。

天主様が若者に霊魂の滅びから霊魂を救おうとする望みを与えてくださったので、司祭への道を選ぼうとする方が生まれること。そして司祭によって御ミサが立てられてイエズス様が霊魂に来てくださることができること。宣教師は自分の命の危険を冒してまで、宣教地へ出向かれて、そこで自分の命以上のもの、ご聖体における御体御血御神性を、与えてくださること。そこにおいて天主を本当に(私たちの霊魂に)与えるのです。というお話は、胸に浸みました。

神父というお仕事に召命を受けた方が、このような崇高な任務を受けているということをあらためてよく知ることができました。

かつて、宣教師は世界の各国で、さまざまな危険を冒して、救いの御業を述べ伝えてくださいました。その危険とは自然的なものから来る病気や政治的なものから来る迫害や人間としての無知などだったかもしれません。今も政治的なものによる迫害殉教は絶えないままです。そのような国へ宣教に赴く司祭様方のためにお祈りいたします。

日本では宣教における危険な時代はもはやすっかり去ったかのようです。でも日本などにおいては、この世のものの方へとことごとく注意をそらして、真の救いへの希望を見失させようとする力が働いているように感じられます。宣教が真の救いのことを教えるものであるとしたら、今の日本はその意味で、宣教を必要とする国なのかもしれません。霊魂の滅びの怖れのことを話してくださって、私たちの霊魂にイエズス様を与えてくださるための御ミサをたててくださる司祭が、とても必要です。現在、さまざまな危険を冒してまで宣教しようする望み夢を与えられようとする若者への攻撃のいちばん大きなものは、この真の救いー霊魂の救いということを教えられないことから来る眠りなのかもしれないと、ふと考えました。

そのように考える私自身が、果たして本当に、救いとはいったいなにかということを、よくわかっているのかというと、少し不安でした。いつも何か大切なことをまだよくわかっていないという想いに襲われていました。でも近頃は、汚れなき御心のマリア様によって、“身ごもる童貞”でいらっしゃいます聖母によって、救いとは何かを教えていただいているような気がいたします。ロザリオの玄義を繰るごとに、マリア様のご生涯が私たちの歩む道を照らしてくださるようです。この一年はファチマ百周年で、ファチマのマリア様のお話をたくさんお話しいただいて、霊魂の救いのため、国の救いのため、世界の救いのため、救いのために今何が必要か教えていただくことができました。
聖ピオ十世会の神父様によってこのような恵みをいただけるように導かれていますことを感謝申し上げます。

聖ピオ十世会の神父様方は、ルフェーブル大司教様が創設された修道会で伝統的な正統のカトリック信仰にもとづく神学校において養成されたまことのカトリックの司祭様ですので、この霊魂の真の救いということに関して少しも躊躇することなく働いてくださっておりますこと、心から感謝申し上げます。レネー神父様、これまで日本のためにたくさんの御ミサをありがとございます。

御ミサに続いて、M.I.の入会式がありました。
最初に「ヴェ二・クレアトール」と「アヴェ・マリア・ステラ」を歌いました。
入会式の訓話の、聖書(旧約聖書と新約聖書)における "汚れなき" という言葉といけにえ・犠牲という言葉の関係のお話が、とてもよかったです。

"天主を自分自身よりも愛する"、―、この十戒の第一戒を守る事の証明は、私たちが犠牲をお捧げすることですと教えていただきました。そしてそのときに、 "汚れなき" ものであるインマクラータが、私たちの保護者となってくださることを教えていただきました。十字架の道を歩むにおいて、マリア様についていくなら助けてくださるというお話に勇気をいただきました。

“汚れなき”マリア様は十字架のもと犠牲・生贄になられた、その聖母が犠牲になられたことによってこそ、そのためにその代わりに私たちが贖われた、マリア様が共償者として十字架の下で苦しまれたその結果私たちが贖われたというお話を胸に納めました。

「十字架は目的ではなく、復活を得るためのものです、しかし民衆の前で十字架につけられたイエズス様に倣うために私たちも自分の信仰を宣言しなければなりません」とのレネー神父様の言葉に、現代において純粋にカトリックの信仰を守ることの難しさをあらためて思いました。

たくさんの人が聖伝の無原罪聖母の騎士会に入会されてうれしく思いました。私もあらためて無原罪聖母の騎士として気持ちを新たにすることができました。

レネー神父様、御ミサとM.I.の入会式をありがとうございました。神父様は夕方の大阪の御ミサのためにまた新幹線に向かわれましたが、私達のために本当にありがとうございます。


2017年9月1日(初金)  「至聖なるイエズスの聖心への信心―集祷文が提案する2つのこと」

2017年12月18日 | お説教・霊的講話
2017年9月1日(初金)至聖なるイエズスの聖心の随意ミサ
小野田神父 説教


聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。今日は2017年9月1日、9月の初金曜日です。今日の御ミサの後にいつものように聖時間を過ごす事に致しましょう。

“Deus, qui nobis in Corde Filii tui, nostris vulnerato peccatis,infinitos dilectionis the sauros misericorditer largiri dignaris.”

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

9月の初金曜日を迎えました。今日この御ミサと、この御聖体拝領と、聖時間を、イエズス様の聖心に対して、特に愛と、崇敬と、罪の償いを行う為にお捧げしましょう。

そこで、このイエズス様の聖心が私たちに何を要求されているのか?一体なぜ要求されているのか?という事を一緒に黙想して、この今日の御聖体拝領と聖時間をより良く過ごす為の黙想のきっかけとする事を提案します。

「イエズス様の聖心に対する信心」というのは、天主への愛の信心です。

この地上の私たちの全ての目に見えるもの、目に見えないものは、天主の愛の結果です。私たちが今こうやって息を吸って、心臓が動いて、食べるご飯があって、この平和な日本で生活する事ができるのも、天主の愛のお恵みです。私たちに家族や友人があって、私たちにこの今、ここでこうやっている事ができるのも全て、天主のお恵みです、愛の結果です。

この地上を全て美しくきれいに、太陽と月と星々と花々と森と動物たちを私たちの為に創った、私たちをすばらしくお創りになったのみならず、天主の愛は私たちにもっと与えようと思いました。それは、私たちが動植物のようなこの自然界だけの命だけではなく、真理を知り、永遠を知り、無限の幸せの天主の命の中に入る事ができるように、その為に私たちを創って下さいました。

私たちがその天主の計画を破壊した後にも、傲慢によってそれを打ち捨ててしまった、無に帰してしまった後にも、無限の憐れみによって、私たちを更に天主への愛に、天主の命へと引き上げて下さる為に、イエズス・キリストが天主の御一人子が私たちの元にへり下って人となられたのでした。

私たちを引き上げる為にへり下られた天主の御子、ここに天主の満ちる愛があります。イエズス様の御託身と贖いの業はまさしく、天主の憐れみの御業です。

特にこの憐れみの業が、天主の愛が燦然と輝いているのは、イエズス・キリスト様が作った秘跡の中にあります。特に「御聖体の秘跡」においてです。なぜかというと、御聖体の秘蹟において日々、毎日、世の終わりまで、あたかもイエズス様がマリア様の御胎内に人となって御宿りになったように、イエズス様は日々私たちの目の前で、パンの姿で、パンの見かけ外見のもとに、私たちの元に下られて、そして私たちの体内に、私たちと一つになろうと、私たちの糧となろうと、祭壇の上に留まり給うからです。私たち一人一人と緊密に一致する事ができるように、天主の御子が、無限の王である王の王が、パンとなって、私たちに与えられるからです。

この御聖体の中に天主の御子の、人となった天主の御子の御体と、御血と、御霊魂と、御神性が、充満の内に詰まっております。このちょうどイエズス様の心臓は、イエズス様の御体の中に御血が詰まっており、そしてイエズス様の御霊魂、御神性の充満があるのと同じです。

聖パウロは、「キリストの心を心とせよ」と私たちに命令しましたけれども、イエズス様の心を心とする事ができるように、私たちは御聖体が与えられて、イエズス様と一つとなる事ができるようになっています。

イエズス様は聖マルガリタ・マリア・アラコックに言いました、御自分の心臓を見せて、御自分の聖心を見せながら、愛徳の炎で燃える心臓を見せながら、「見よ、人類をこれほどまで愛した私の聖心を見よ。」これほど被造物を愛する天主の愛は、私たちの想像を超えるほどです。

そこで教会は、集祷文の中で非常に美しい言葉をもって私たちに祈らせます、「私たちの罪によって傷付けられた御子の聖心、御子の心臓において、そこにおいて私たちに憐れみをもって豊かに与えようとされる天主」

私たちがイエズス様の聖心を罪によって傷付けてしまったにもかかわらず、まさにその聖心をもって、私たちに更に憐れみをもって与えようとされるこの聖心を、私たちはその聖心の愛を考えるように、この聖心の愛の、無限の愛を、無限の宝に思いをやるように、と初金毎に招かれています。

イエズス様の聖心は、私たちに善を与える事しか考えていません。私たちを死から奪い取り、私たちに永遠の命を与え、自然の命を与え、永遠の命を与え、私たちを飢えから救い、養い、洗い浄め、自分の御血をもって洗い浄めて、平和を与える、安息を与える、この謙遜で柔和なその広大な愛、果てしない大海原のような愛を、愛徳を、私たちが考えるように、と招かれています。

イエズス様の愛は、「これを与えたからこうする」という計算をはるかに超えた、惜しみのない、「与えれば与えるほど嬉しい」という愛です。イエズス様の聖心がなぜ傷付けられたかというと、それは愛によって傷付けられているからです。目に見えないイエズス様の聖心、イエズス様の愛が、目に見える形で私たちに示されたからです。

永遠の昔から私たちの事を愛して、想い、考えて、そして私たちに祝福と幸せを与える事だけを望んでいるその愛。私たちを救う為に、私たちが永遠に幸せである為に、自分の事はすっかり忘れて、辱しめを受ける事さえも何とも思わずに、そして人となって、人間となって、貧しい生活を送られ、十字架の上で自分の命を与える事さえも喜んで望んだイエズス様の愛。私たちの為に十字架の死をも喜んで受けるほどさえ愛されたこの愛を私たちが黙想する、それが初金曜日です。

私たちを喜ばせて、幸せにして、豊かにして、祝福して、私たちに与え尽くして、自分の全てを与え尽くして、更にそれでも与え尽くしたいというイエズス様の無限の宝が詰まっている聖心、愛の聖心、愛熱の燃ゆる竃、それがイエズス様の聖心です。

いにしえの第1のアダムは、罪と傲慢によって、「天主の如くなろう」と思って全てを失ってしまいました。しかし第2のアダムは、謙遜と、愛徳と、従順によって私たちに全てを返し、更にそれよりも失ったものを取り返してもまだ余りがあるほどの、更に豊かなものを与えようとする愛でした。

今なお私たちを愛し続けるその天主の愛、私たちがどれほどイエズス様に対して悲しい思いをさせて、苦しみを与えたにもかかわらず、イエズス様は私たちを憐れみ続けるその愛、これがイエズス様の聖心です。

私たちを愛するが為に盲目となってしまった、あばたもえくぼとなってしまった、愛に傷付かれた心を持つイエズス様の聖心、死ぬほどまで私たちを愛してもやまないイエズス様の聖心、それがこの初金の聖心の信心の核心です。

この黙想は私たちに一体どのような事を促すでしょうか?

それは集祷文の次に書かれています。愛には愛をもってでなければ報いる事ができません。イエズス様が私たちから求めている事は、この愛を愛で返す事です。これほどまでも私たちを愛された御方を、どうして愛さないでいられるでしょうか。王の王が、自分の栄光の王国を離れて、私たちの元にやって来て、惨めな姿をとられた、身を卑しくして私たちの元に来られて、私たちを救う為私たちを探して、悪人であるかのように縄目を受けて鞭打たれて、そして死を受けられた。自ら進んで、御自分の命を私たちの為に与えたその王の王、永遠の天主、この世の最高の存在者、創造主、全知全能永遠の天主、この王の愛に、私たちはいつまで応えずに、冷たく冷淡でいる事ができるでしょうか。なぜ私たちはその本当の愛に応えようとしないのでしょうか。冷たく無関心でいるのでしょうか。

私たちにそのイエズス様の愛が理解できればできるほど、「イエズス様をますます愛したい。イエズス様を何とかしてお喜ばせしたい」と思わずにはいられなくなります。それがイエズス様の聖心の信心です。

そこで集祷文が提案するのは2つです。

私たちが信心の務めを果たす、イエズス様に対する崇敬の念を果たすという事です。つまりそれは何かというと、「イエズス様の考えを自分の考えとしたい。イエズス様の聖心を私の心としたい。イエズス様の望みやお好みを私の好みとしたい。イエズス様が御望みの事を私もしたい。イエズス様が嫌だと思う事を私も嫌だと思う」という事です。

もう、もはや自分の好みや自分勝手ではなくて、イエズス様のお望みのように、イエズス様を愛するが為に、イエズス様をお喜ばせする為に、イエズス様の為に何かしたい。私たちの為にこんなにも尽くして下さる、命さえもかけて下さった方の為に、私の命も使いたい、人生を使いたい。その為に、愛する方の為に愛をもって生きる。これがイエズス様の聖心に対する信心です。自分の望みではなくて、イエズス・キリストの望みを生きる。これが私たちのイエズス様の聖心に対する崇敬の表れです。自分を残らず捧げたい、与えたい。

愛する方に自分を与える、これこそが愛でなくて何でしょうか。キリストの為に生きるというのが、まさにこれです。この事は奉献、「イエズスの聖心に対する奉献」と言われています。

もう1つ、それのみならず、私たちがイエズス様のお望みの通りに生きるというのみならず、イエズス様のお望みの通りに生きない人、他の人々に代わって、それらの償いをしたい。これらから受ける悲しみや、侮辱や、冷淡や、無関心を、私たちが何とかして償って慰めたい。忘恩、冷淡、無関心、侮辱を償いたい。

この「償い」という事も集祷文で言われています、「償いの務めをする事が、ふさわしい償いを果たす事ができますように」と。

イエズス様からこれほどの愛を受けた私たちは、イエズス様の為に、イエズス様のお望みのように生きて、イエズス様のお望みのように生きない人たちの償いをする、まさにこれこそがカトリックの生き方であって、福音の精神であります。イエズス様の聖心を果たす、信心をするという事はまさに、福音の精神を生きるという事です。

イエズス様の聖心はそのような霊魂たちを、更に祝福と幸せで満たして、そのような霊魂と、そのような家族や、そのような家庭、そのような社会をますます祝福されます。

イエズス様の特に愛されたフランスの話を最後にさせて下さい。

イエズス様は特にフランスを、聖会の長女として、カトリック教会の長女としてお愛しになりました。ですからヨーロッパではフランス語は共通の言葉であって、世界のどこに行ってもフランス語が外交上の言葉というのは、教養のある人が必ず話す言葉というのは、なぜならば聖会の長女の言葉であったからです。

そればかりではありません。イエズス様は、フランスがイエズス・キリストを愛し、そのイエズス・キリストを慰めるという、イエズス・キリストの聖心の御旨を果たしたい、という事をすればするほど、フランスを多くの祝福で満たしてきました。そしてフランスの王の最高潮だった時代があります。それはルイ14世、太陽王と言われ“Roi Soleil”と言われて、ベルサイユ宮殿を造り、フランスの王権の最高点を、そのフランスの繁栄と王の絶大の権利を持っていた時代でした。ヨーロッパの最高の、他の王たちがその繁栄を嫉妬して羨むようなものでした。ルイ14世。

そのルイ14世は、実はとても信心深いお父さんルイ13世の長男でした。実はルイ13世は子供がなかったのですけれども、イエズス様の幼年期に対する特別の信心によって、特別の奇跡的な身ごもりによって授かったお恵みの子供でした。信心深く育てられてカトリックの教育を受けた、玉のような男の子でした。

ところで、イエズス様の聖心は、このルイ14世にちょっとしたお願いがありました。どんなお願いかというと、今までイエズス様の聖心は、フランス王国をお恵みに次ぐお恵み、祝福に次ぐ祝福、勝利に次ぐ勝利、繁栄に次ぐ繁栄を与えてきましたが、このヨーロッパでキリスト教の最高の王、聖会の長女の王、このルイ14世にしたお願いというのは、イエズス様が御受難を受けた時に、この地上の王たちから非常に屈辱を受け、軽蔑され、辱しめを受けたので、この地上のカトリックの王であるルイ14世が、ヨーロッパのカトリックの最高の王として、イエズス様の聖心を崇敬するように、そしてイエズス様が、真の王の王であるイエズス様が、御受難の時に受けた全く無とされた屈辱、その苦々しい体験や、この地上の王から唾せられ、辱しめを受けられたものを償う為に、ちょっとだけイエズス様の聖心に対する崇敬を表してほしい、という願いでした。

別にルイ14世が鞭打たれ、辱しめを受けられるというのではなくて、ただルイ14世がカトリックの王として、フランスの王として、イエズスの聖心に対する崇敬を表せばそれでよかったのです。

どのようにすれば良いかというと、自分とその自分の宮廷をイエズス様の聖心に奉献する、「イエズス様の聖心のままに生きます」と宣言するという、非常に簡単な事です。またイエズス様の聖心の御影を自分の宮殿に飾る事、「自分はイエズス様を崇敬しているのだ」という事を見せる、他の自分の肖像画大きな肖像画があるのならば、なぜイエズス様の小さな肖像画が描く事ができないでしょうか。

またこの王の旗に、イエズス様の聖心も付ける事。もしもそうしたらこの軍隊はフランス軍は、どのような敵にも打ち勝つ事ができるだろう。

さらに、もしも特別な聖堂を造って、イエズス様の聖心が飾られて、そしてフランスの王国がイエズス様の聖心に奉献されるなら、イエズス様はフランスを更に祝福して、更に敵たるどもを粉々に打ち砕いて、「私はこのフランス王の忠実な友となる、フランスを祝福で満たす、フランスを栄誉で満たす。その王国は決して滅びない。私はフランスの保護者となり、擁護者となり、王が必要なものはどのような事であれ、事業を開始する時はそれを祝福で満たす、成功させる。そしてその王に対する反対する、目に見えるあるいは目に見えない全ての敵を打ち砕く」と、ものすごい約束をされます。

「そして永遠の救いを約束するし、決して裏切らない忠実な友となる」と約束をするのです。

それをその言葉を聖マリア・マルガリタ・アラコックに委ねました。その日は1689年6月17日でした、イエズス様の聖心の大祝日。ぜひこの言葉を、このお願いを、そんなに難しいお願いではありませんでした、当時のフランスにとって。「ちょっとしたフランス王に対するお願いを伝えてほしい」と。特にその時に聖女マルガリタ・マリア・アラコックの指導司祭としてイエズス会のド・ラ・シェーズ(de la Chaise)神父様が特に選ばれて、イエズス会は特にイエズス様の聖心に対する信心を伝える修道会として教皇様から任命されていたので、このフランスの王にこれを伝える事ができるようにと任命されました、「この自分の望みを、フランス王に伝えるように。」

その当時イエズス会は、どこのヨーロッパの王国でも、王様の王室にも指導司祭として、あるいは聴罪司祭として、王子の教育の為に関わっていました、とても力のある修道会でした。何万人と会員を全世界で持ち、これほど力のある豊かな、そして知的で、指導力のある修道会はありませんでした。

ところで見て下さい。ド・ラ・シェーズ神父様は、このイエズス様の聖心の願いをどうも果たしませんでした。なぜ果たさなかったのかよく分かりません、少なくともその王にはっきりとそれを確認する事をしませんでした。

すると、イエズス会に何があったかというと、まずポルトガルでイエズス会は廃止されました、1759年。フランスでもイエズス会は禁止されました、1764年。スペインでも、創立の場スペインでもイエズス会は禁止されました、1767年。イエズス会はヨーロッパの王国から各地から追放されて、そしてついには1773年には、教皇様によってイエズス会は廃止され、もう会が終わってしまったのです。後に復活するのですけれども。イエズス様の聖心のその簡単な望みを果たさなかったが為に、イエズス会は大きな辱しめを、大きな不幸を招きました。

フランスも同じでした。ほんのちょっとの事だったのにもかかわらず、それをやるにも簡単な事だったにもかかわらず、フランス王ルイ14世はしませんでした。後にイエズス会以外の所からその望みを、イエズス様の望みを教えられるのですけれども、しませんでした。

すると、カルヴィン派のオランダ、あるいはフリーメーソンのイギリス、オレンジ公のウィリアム、あるいはプロテスタントのプロシアがどんどん力を伸ばして、フランスはますます力を弱めてしまわなければなりませんでした。

ちょうど、イエズス様の聖心がその望みを伝えた時からちょうど100年、1789年6月17日には、フランスの第3階という第3身分が反動を起こして、そしてフランスの正当な王権に対して、それをNO!と言うようになりました。フランス革命の始まりでした。その1ヶ月後にはバスティーユでフランスの革命が起こり、そして王は牢に閉じ込められました。遂にルイ14世の孫の第2代目、ルイ16世はギロチンで、フランス王朝はフランス王国は本当に終わらなければなりませんでした、ギロチンを受けなければなりませんでした。

イエズス様の聖心に従って生きる、イエズス様の聖心に対して受けた屈辱を償うという事を怠ったが為に、何という不幸をイエズス会もフランス王も受けた事でしょうか。

私たちはそのような事がないように、ぜひこのイエズス様の聖心に沿って生きるように、そしてイエズス様の聖心に対して罪の償いをするように、その特別のお恵みを乞い求めましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。



2017年8月27日(主) 聖霊降臨後第12主日のミサ 「新約の素晴らしさ」

2017年12月17日 | お説教・霊的講話
2017年8月27日(主日)聖霊降臨後第12主日のミサ
小野田神父 説教


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。今日は2017年8月27日、聖霊降臨後第12主日のミサです。

愛する兄弟の皆さん、そして巡礼者の皆さん、
今日第12主日のミサで一体教会は何を言おうとしているのでしょうか?
今日のミサは特に、「新約の素晴らしさ」という事を強調しています。

そこで私たちは新約について、まず教会がイエズス様がなす導入文、福音に従って黙想致しましょう。

第2に、聖パウロと奉献誦が話すモーゼについて、黙想しましょう。

最後に、私たちは遷善の決心を立てる事に致しましょう。

イエズス様は、実は今週の主日は、先週の主日の続きだったのです。先週の主日にはイエズス様が御言葉、口から出る言葉、空気の振動の御言葉による真理のみならず、口から出る御唾をもって、人の耳を開け、舌を正しくして、聞いたり、話したりする事ができるようにさせた、その続きで、「あぁ、新約のお前たちはどれほど幸せか、ただ天主の言葉を聞いたり話したり、天主を讃美するのみならず、天主の現実を見る事ができる、そういう事を聞く事ができる、何と幸せな者か!」

一体どこにその幸せがあるかという事を、どうして新約の時代がこれほど素晴らしいかという事を、イエズス様は話そうとされるのです。どういう話をされるかというと、ちょうど人類という巡礼者についての話があります、「エルサレムからイエリコに行く人がいた。」

実はこれは、人類の話なのです。なぜかというと、人類は地上の楽園にいながらも、罪を犯して地上の楽園から追放されて、天国へと歩かなければならない巡礼者となったからです。私たちは特に、盗難に遭ったり、スリに遭ったり、強盗に遭ったり、半死半生でお金も全く失ってしまって、暴力を受けて着のみ着のまま打ち捨てられて、そして旅券もなくパスポートもなく、そして独りぼっちで道端に、「あぁ」もういつ死ぬか死なないか、傷付いて倒れているのです。

これはちょうど悪魔にそそのかされて、罪を犯し、そして天主の聖寵を全て奪われ、天主の御恵みを奪われ、天国への権利を奪われ、天国へのパスポートとビザを失い、もう何も功徳というお金もなく、もうこのまま息果てて、地獄へと落ちるしかない人類を表わしています。

そんな時に、旧約の司祭がやって来ます。しかし旧約の司祭にはこの憐れな人類を見る事すらせずに、横をつたってそのまま通り過ぎて行きます。レヴィ族も、旧約の司祭職に属する人たちもやって来ますけれども、何もする事ができずに通り過ぎるだけです。

そこでやって来たのが、サマリア人、良きサマリア人。これはまさに、イエズス・キリスト御自身の事です。そのような傷付いている人類を見て憐れに思い、同情の念を起こして、その傷付いた人類に近寄って来て、そして油を注ぎ、ブドウ酒で洗い、傷を癒やそうとします。

この「油」というのは、「天主の聖寵」の、聖霊の御恵みのシンボルです。また主の優しい御教えの、憐れみの御教えのシンボルです。次に、「ブドウ酒を注いだ」というのは、これはもしも油が天主の聖寵のシンボルであり、秘跡のシンボルであったとしたら、ブドウ酒を注いだというのは、「御聖体」のシンボルであります。この人類に御自分の御体、御血を与えた、ブドウ酒を与えた、という事です。そして癒そうとしたという事です。

そればかりではありません。ちょうど私たちがカタコンベで見た、良き牧者がこの迷った羊を自分の肩に乗せて、群れに戻すように、この憐れな道に倒れて半死半生の傷だらけの男を動物に乗せて、そして宿屋まで運ぶのです。宿屋まで運んだら、「どうぞこの男の人の面倒を看て欲しい。もしもお金が必要なら、私が帰ったら全て払おう。」

この「宿屋」というのは「カトリック教会」の事であって、「宿屋の主人」というのは「聖職者」たちの事です。

「イエズス・キリスト様は、私たちの半死半生の人類を救う」という事を望んだ、「旧約の時代にはできなかった事を、イエズス・キリストは良きサマリア人としてする、している」という事を意味します。

巡礼を特に経験した私たちにとって、どうやって行ったら正しい道に着くのか、「あぁ、本当にガイドがいなければ案内者がいなければ、本当にどの道を行ったら良いか、どうやったら良いのか」という事が、「右も左も分からない」という事がありますけれども、そしていつスリがやって来るか、どんなアドバイスがあれば良いのか、という事が分かりませんが、しかしその私たちにとって旅の危険や、あるいは宿屋やその世話をしてくれる人の重要さ、という事をよく分かっている私たちにとって、確かにカトリック教会が私たちを、天国への巡礼の為に私たちを癒やして導いて下さり、そしてイエズス様はそれを全て背後で支払って下さる、支配して下さる、という事がしみじみとありがたく分かります。

そこで奉献とそこの福音を囲むように、包むように、奉献文と書簡がモーゼの話をするのです。この2つの話の2つの事を読まれるテキストの核心は何かというと、「新約のイエズス・キリスト、栄光を受けた本当の第2のモーゼこそ、旧約のモーゼをはるかに勝る者である」という事です。「旧約においては文字しかなかった、しかし新約においては文字を生かす精神がある。」「命を殺すような律法よりも、命を生かす精神が新約にはある。」

そのところで、パウロが言うのは、「モーゼは、そのような旧約の力の無かったモーゼであってさえも、その旧約にはものすごい栄光があった。」例えばモーゼは 天主を見て、その天主を見た栄光を自分が受けて、その見た後には御顔は天主の栄光でいっぱいであって、いつもモーゼは自分の前にベールを被っていなければならないほどであった。なぜかというと、主を見たモーゼの輝きがあまりにも素晴らしかったので、人々は直接見る事ができなかったから。

奉献文では、「モーゼが祈るとそれは聞き入れられて、そして主はそれによって怒りを鎮められた。」

「もしもモーゼがそうであれば、新約の本当のモーゼ、律法をただ私たちに伝えただけのモーゼでなく、律法そのものである、律法を作ったイエズス・キリスト、御恵みそのものであるイエズス・キリストの、本当のモーゼであるイエズス・キリストの栄光は、どれほどであろうか。イエズス・キリストが御ミサの中で、御血と御体を御傷を天主御父に見せて、私たちの為に取り次いで下さっている。それの取り次ぎの力は、旧約のモーゼに比べてはるかに大きなものであって、私たちはそのものすごい憐れみと栄光を受けているのだ」という事を教えています。

そればかりではありません。皆さんの私たちの目はどれほど幸せな事でしょうか、耳はどれほど幸せな事でしょうか。モーゼは主のただ御顔を見ただけで、自分の顔が燦然と輝いて、そしてもうそのあまりの輝きの為にベールを被らなければならないほどでしたが、私たちはモーゼよりも更に幸せだと言えるからです。

なぜかというと、私たちはこのミサにおいて、イエズス様の御体を受け、御聖体を受け、私たちの胸にモーゼがする事ができなかった事さえもしているからです。ミサを受けた後、御聖体拝領を受けた後に、私たちはどれほど燦然と輝かなければならないでしょうか。モーゼよりも光に満ちていなければならない事でしょうか。

もしもローマの聖ペトロ大聖堂の巨大な建物と、ローマの各地にあるものすごい豪華爛漫な教会の数々が、イエズス・キリストの使徒のために捧げられたとしたら、イエズス・キリストの本当の栄光はどれほどのものでしょうか。これらの教会は実に、ミサを捧げる為に捧げられたもので、造られたものであるからです。

では、私たちは遷善の決心として、この天主様に感謝をお捧げ致しましょう。新約の時代に生き、イエズス・キリストの御言葉を知り、そしてイエズス様の御体を受ける事ができるその特別の恵みを感謝致しましょう。

そしてイエズス様の御助けによって遂には、教会の導きに従って、遂に巡礼の最後の目的地である天国にまで辿り着く事ができますように、その為に私たちは日々、栄光のモーゼイエズス・キリストの体に常に養われて、その良きサマリア人イエズス・キリストに従って天国にまで辿り着く事ができますように、養われて癒やしを受ける事ができますように、最後にマリア様に、私たちがそのイエズス様のその恵みの偉大さを深く理解する事ができるように、お祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


12月17日、24日、25日の東京での聖伝のミサ(トリエント・ミサ、ラテン語のミサ、旧典礼のミサ)の予定

2017年12月16日 | 聖伝のミサの予定
アヴェ・マリア・インマクラータ

愛する兄弟姉妹の皆様、

 東京での聖伝のミサにご招待いたします。今回はレネー神父様の最後の訪問です。多くのお友達をお誘いになっていらしてください。ありがとうございます。

 天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


【東京】東京都文京区本駒込1-12-5 曙町児童会館(地図) 「聖なる日本の殉教者巡回聖堂」

    12月17日(主) 待降節第3主日(1級)バラ色(或いは紫)(レネー神父様司式)
            午前09時頃 グレゴリオ聖歌の練習及び告解
            午前10時  ロザリオ及び告解
            午前10時半 ミサ聖祭
            正午12時半 聖伝の無原罪の聖母の騎士についての講話と入会式
         (皆で歌う晩課はこの日はありません)

    12月24日(主) 主日の主の御降誕の前日(1級)紫(レネー神父様司式)
            午前08時半 実物大の聖骸布の展示と説明
            午前10時  ロザリオ及び告解
            午前10時半 ミサ聖祭
         (皆で歌う晩課はこの日はありません)

 この日は、実物大のトリノの聖骸布を展示する予定です。これを見るだけで、多くのお恵みがあります。レネー神父様の講話もあります。ミサの前です。どうぞ多くの愛する兄弟姉妹の皆様、お友達を誘っていらし下さい!



    12月25日(月) 主の御降誕(1級祝日、八日間付き)白(レネー神父様司式)
            午後5時半 ロザリオ及び告解
            午後6時 ミサ聖祭
 ミサ聖祭の感謝の祈りの後で、レネー神父様を囲んでささやかな謝恩会兼クリスマス・パーティーをすることを願っています。簡単な食べ物などを持ち寄ってくだされば幸いです。もちろん手ぶらでもパーティーに参加なさって下さい。クリスマス・キャロルなどの歌を、神父様に歌って差し上げて、感謝の念を表したいと思います。

    12月26日(火) 最初の殉教者聖ステファノ(2級祝日)赤
            午前7時 ミサ聖祭


2017年8月18日(金) ファチマ巡礼 聖母の汚れなき御心の随意ミサ 「天主様が私たちにくださった最高の最後の手段」

2017年12月14日 | お説教・霊的講話
2017年8月18日(金) ファチマ巡礼 聖母の汚れなき御心の随意ミサ
小野田神父 説教


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

このお説教では、シュテーリン神父様のお話し下さった内容の要点を、皆さんにお伝えしたいと思います。

天使がまず子供たちに現れて、御出現の準備をしました。その時に天使たちが私たちに教えて下さった事は、「天主が真に存在する。唯一の真の天主、三位一体が真に存在する。私たちがその天主創造主に対してしなければならない事は、この天主を真の天主を信じ、礼拝し、希望し、そしてこの天主を愛する」という事です。そうする事によって私たちは、天国の永遠の福楽に行く事ができます。

マリア様は5月13日に子供たちに現われました。ルチアは非常に単純にマリア様に聞きます、「あなたは一体どこからいらしたのですか?」「私は天国からの者です。」「私も天国に行きますか?」「はい、あなたも行きます。」

こうしてマリア様は子供たちに、そして子供たちを通して私たちに、私たちの創造の目的を、究極の目的を、なぜ私たちが今この地上に存在しているのか、なぜ短い人生を、80年100年 120年の短い人生をここに地上で過ごしているのか、その唯一の目的は「天国に行く事である」という事を教えています。私たちがここに存在するのも、生まれて来たのも、創られたのも、創造されたのも、天国に行く為だけだという事です。

そしてマリア様はその事を教えました、「私は天国からの者です。」「はい、あなたも天国に行くでしょう。」

でも、もしも私たちが天主に対する真の関係を、天主に対して、天主を信じ、礼拝し、希望し、愛するという事をしないとしたら、ある者は冒瀆、ある者は天主に対して罪を犯して屈辱する、ある者は無関心、「あぁ、天国なんか関係ない。天主はいるかもしれないけれども、あまり関係ない。それよりももっと面白い事がある。」無関心。そのような霊魂たちはどうなるかという事を、マリア様は教えてくれます。

「ダス・ニヴェスは?」「はい、マリア・ダス・ニヴェスは今天国にいます。」「アメリアは?」「アメリアは、煉獄にいます、世の終わりまで煉獄にいます。」アメリアは、天主の救いの業に対して無関心であったようです。

私たちもどれほど多く無関心であった時があった事でしょうか。本当なら天主の栄光を、霊魂の救いを、天主に対して讃美と、感謝と、礼拝を、愛を捧げなければならないのに、無関心で、「世間体が気になった。」あるいは「他の人が何と言うか、という事が気になった。」あるいは「こうすると、ちょっと都合が悪くなるんじゃないかと思った。」無関心であった、あまり神経を使わなかった、主の御旨を果たすというよりは、自分の事だけに興味があった。

世の終わりまで、苦しみの浄めの場所にいなければならない、という現実を教えてくれます。

そればかりではありません。マリア様は7月13日に火の海をお見せになって、「多くの霊魂たちが地獄に落ちている」という現実を子供たちに、小さな年端のいかない子供たちに教えてくれます。それほどものすごい数の多くの霊魂が、バラバラバラバラバラバラと地獄に落ちている。

ルチアは司祭たちに聞かれます、「おぉ、本当に地獄に落ちる人がたくさんいるのですか?」「はい、たくさん、ものすごいたくさんの霊魂が地獄にいます。もう数えきれないほどの、たくさんたくさんの霊魂が落ちている。」「本当に、地獄にそんなにたくさんの霊魂いるのですか?」「はい、神父様。たくさんの霊魂が、たくさんたくさんの。」

もはや煉獄の事も、地獄が存在するという事も信じられなくなかったこの現代の世界に、ファチマのマリア様は本当の事を教えてくれます。多くの霊魂が主を信ぜず、礼拝せず、希望せず、主を愛さなかったが為に、地獄に落ちているという、冒瀆し、瀆聖を犯し、主に背き、そしてあまりにも、自分の救霊と主の御胸を果たす事に無関心だった霊魂があまりにもいるが為に、主はもうこの罪に対して非常に悲しまれておられる、マリア様も悲しまれておられる、そして多くの霊魂が地獄に落ちている、という事を教えてくれます。

では、私たちは一体どうしたら良いのでしょうか?

マリア様は天主様は私たちに、最後の手段を、この時の終わりの私たちに下さいました。ルチアの話によると、「この最後の手段という事は、もうこの他に、もしもこの手段を使わなければ、もう他にはもう行く場所がない、もう最後のこの一発を打ってしまったら、もう他に弾はない、他にもうやる術がない、これで終わりのこれしかない、というものを震える手で、もうこれを取ってくれるかどうか分からないけれども、これしかない、『さぁ、最高の最後の手段を、使いなさい。』震える手で私たちに下さったのが、天主の最高の傑作、この全宇宙の全ての美を集めてでも更に美しい、マリア様の汚れなき御心でした。天主の創造の全ての知恵と、全ての愛と、全てのものがこのマリア様の汚れなき御心に詰まっています。聖寵に充ち満てる御方です。」

なぜかというと、イエズス様は、天主御子が人となって、天主の三位一体の御子の、天主の血潮を十字架の上で私たちに流されました。無限の功徳を十字架の上で立てられました。そして自分の立てたその全ての聖寵と、功徳と、恵みと、祝福と、お恵みをマリア様の御心の中に全て詰めてしまったからです。このイエズス様の聖心の溢れと、イエズス様の聖寵の御溢れと、全てのお恵みは、マリア様の御心に全てある、全てのお恵みはマリア様の御心から流れ出るからです。

この最高の傑作を、私たちに遂に与えようと啓示してくれました。6月13日、100年前に。マリア様はご自分の御心を子供たちに見せました。茨の冠で被せられ、私たちの為に、私たちの罪の為に、傷付けられ悲しんでおられる、そして罪の償いを要求する御心でした。

では、御心に対する信心、最後の最後の手段とは一体何だったのでしょうか?

それは「ロザリオの祈り」と、「聖母の汚れなき御心に対する信心」です。

では、聖母の汚れなき御心に対する信心をする事によって、どうして私たちが天国に行くという目的を果たす、悪魔に対して打ち勝つ事ができるのでしょうか?

なぜならば、マリア様の汚れなき御心は、私たちの最高の避難所であるからです。たとえどんな暴風雨があっても、大洪水があっても、雷があっても、放射能に汚染されても、どんな悪魔からの攻撃があっても、外はどれほど嵐で台風で稲妻で恐るべきものであったとしても、真っ暗闇であったとしても、この中に入れば必ず守られる安全な避難所が、マリア様の御心であるからです。悪魔の誘惑、罪の汚れ、この世の誘い、肉の誘惑、全てはマリア様の汚れなき御心の中に入る事によって、避難所として守られるからです。マリア様の汚れなき御心は最も安全な場所であり、私たちを天国へと導く、天主へと導く確実な道であるからです、迷う事のない道であるからです。

私たちはファチマの至聖所に行くにも、このホテル・ドンゴンサロに行くにも、正しい道を通らなければ迷ってしまいます。マリア様の御心こそ、天主へと確実に導く道であるからです。マリア様の汚れなき御心に対する信心をするという事は、マリア様の事を汚れなき御心の事を考えて、これをお慰めして、これに対して罪の償いをしたい、マリア様の道具となりたい、マリア様のお恵みを他の、他の霊魂たちにも伝えたい、とマリア様に手助けする事です。マリア様はそのような霊魂を求めています。

ですから8月19日に、「多くの霊魂は地獄に落ちています。なぜかというと、彼らの為に祈る人たちが誰もいないからです。祈り、たくさん祈って下さい。もしも私たちがマリア様の汚れなき御心に対する信心をするならば、多くの霊魂は救われ、この世界に平和が起こるでしょう。もしもそうでなければ多くの霊魂は失われ、この地上は地獄のように、戦争と、飢餓と、教会に対する迫害が起こるでしょう、教皇様はたくさん苦しまなければならなくなり、義人も多く殉教し、無くなってしまう国々もあるでしょう。」

今日、この聖母の汚れなき御心の随意ミサを、ファチマのこの地で捧げる事ができて、とても幸せに思います。最初のファチマのミサは汚れなき御心のミサで、何というお恵みでしょうか。

どうぞ今日のこの御聖体拝領を、マリア様の汚れなき御心をお慰めする為にお捧げ下さい。私たちにもマリア様の御心に対する信心を実践できますように、御恵みに溢れた御心をますますお慰めする事ができるように、このミサでお祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

2017年8月16日(水)童貞聖マリアの御父聖ヨアキムのミサ 「聖ヨアキムの偉大さ」

2017年12月13日 | お説教・霊的講話
2017年8月16日(水)童貞聖マリアの御父聖ヨアキムのミサ
小野田神父 説教


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。

愛する巡礼者の皆さん、そして兄弟姉妹の皆さん、

今日は聖ヨアキムの大祝日を祝っています。聖ヨアキムというのは、マリア様のお父様、すなわちイエズス様のお爺様です。今日この聖ヨアキムの典礼について黙想して、聖ヨアキムの御取り次ぎを願って、私たちの人生の旅を、また巡礼を、聖ヨアキムの保護に委ねる事に致しましょう。

実は聖ヨアキムについては、中世の頃からそのミサがあったのです。しかし、ちょうどプロテスタントのマルチン・ルターが反乱を起こした時に、聖ピオ五世教皇様が、プロテスタントの人々がカトリックに戻る事が容易になるように、聖書に特に載っていなかったマリア様のお父様とお母様の祝日、聖ヨアキムと聖アンナの祝日を廃止してしまいました。聖ピオ五世が。しかしそれも数10年の間で、その後にはもう一度復活されました。

その特にマリア様の祝日、聖ヨアキムはマリア様の被昇天の間の8日間にある主日に祝う事になっていました。それを聖ピオ十世教皇様が、「そうではなくて、マリア様の被昇天のそのすぐ翌日、8月16日に祝うように」と定められました。

そして私たちは今日、聖ヨアキム様のお祝いを今日、2級祝日で祝っています。

なぜ聖ヨアキムがそれほど偉大であったかというと、まずイエズス・キリスト様のお爺様であり、マリア様のお父様であるので、もしも聖ヨアキムがマリア様に、「こうしなさい」と言えば、もしもイエズス様に聖ヨアキムが、「こうしてほしい」とお願いすれば、マリア様もイエズス様も、聖ヨアキムの願いを、小さなかすかな望みさえも拒むわけにはいかないからです。

聖ヨアキムはでは一体、どのような人柄だったでしょうか?

聖ヨアキムは聖伝によると、非常に憐れみの深い人でした。「ヨアキム」というのは実は「準備、主の準備」という意味でした。ヨアキムの妻は「アンナ」「お恵み」という名前で、マリア様を救い主の御母を準備する方、特別のお恵みを準備する方として、まさにふさわしい御方でした。

ダヴィドの王家の子孫で、非常に憐れみ深い人でした。自分の財産を3つに分けて、3分の1は自分の為に、後の3分の1は貧しい人々の為に、そして残る3分の1は神殿の為に捧げていました。特に自分の財産の3分の1を貧しい人に与えました。

そこで典礼では入祭誦の時に2回繰り返して、“Dispersit dedit pauperibus”また昇階誦も、“Dispersit dedit pauperibus”、3回同じ言葉を繰り返しますが、そのラテン語の意味は、「貧しい人たちに彼は分配して与えた。」「分配した、また、与えた。」これは聖ヨアキムの寛大さを表しています。

かといって、実はヨアキムはアンナとの間に子供がありませんでした。かなり年を取っても子供がありませんでした。「救世主を準備する」ために、イスラエルの人々にとって「子供ができる」という事は非常に大切な事でした。それが与えられないという事は、「あぁ、天主様から呪われているのだ」とさえ誤解を受けていました。そこである時には、せっかく神殿に捧げられたその自分からの奉献物も、誤解された為に、「呪われた金だ」として受け入れられなかった事もあった、と伝えられています。

しかし聖ヨアキムと聖アンナは、その屈辱にも耐え、それを奉献し、祈りと寛大さとを示していました。そのようなヨアキムは、苦しい人、あるいは悩む人、あるいは不当な取り扱いを受けるような人々に対して、特に寛大な心を持っていました。このような聖ヨアキムと聖アンナを天主は恵まれて、遂にマリア様を与えました。

マリア様はヨアキムとアンナに与えられた最初の、そして唯一の子供でした。これは天主の御一人子を生むべき御母として、初子が唯一の子供が与えられたというのは、真にふさわしい事でした。

マリア様は幼い頃から既に、寛大なる聖ヨアキムの手を離れて、ヨアキムの手によって神殿に奉献されました。せっかくの子供ですが、既に天主様のものとなされました。

これを見ると聖ヨアキムは、貧しい私たちにどれほど憐れみ深く、どれほど私たちの苦悩や苦しい事を理解する同情の心に溢れているか、という事が分かります。どれほど天主様の事に寛大であるか、そしてヨアキムに願う者にどれほど寛大に「恵もう」と思われるかという事が分かります。

親愛なる巡礼者の皆さん、ですから私たちも、特に巡礼の始まる前にマリア様の元に馳け寄る前に、ヨアキムに今日お祈りしてヨアキムの保護を願うのは、非常に素晴らしい御摂理に合った事だと言わざるを得ません。

ヨアキムが私たちを憐れんで、私たちに取り次いで、マリア様とイエズス様からたくさんのお恵みを分配して与えてくださいますように、私たちは貧しい者として聖ヨアキムに乞い求めます。ヨアキムはこの私たちの願いを、決して拒否される事はありません。

では今日は特に、マリア様のお父様に、そしてイエズス様のお爺様、聖ヨアキムを称えて、このミサを捧げていきましょう。

明日は朝6時にミサがあります。そしてそれによって遂に、マリア様の汚れなき御心の元にファチマに行くその準備、最後の準備を致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


2017年聖母小黙想会【13】 8月15日 童貞聖マリアの被昇天のミサ 「被昇天を可能にした霊的な3つの段階」

2017年12月12日 | お説教・霊的講話
聖母小黙想会【その13】 2017年8月15日(火)童貞聖マリアの被昇天のミサ
小野田神父 説教


聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。

今日は2017年8月15日、聖母の被昇天の大祝日を祝っています。

今日この御ミサが終わりましたら、簡単な軽食が準備される予定です。

13時頃から、雨が降っても、嵐になっても、聖母行列をして、この近くの公園までマリア様と共に行列をする予定です。

その為に警察からの、公道や公園を使用する許可も取っております。特に日本の平和を求める為に、世界の平和を求める為に、マリア様に感謝する為に、この聖母行列をしたいと思っています。
特に日本は、マリア様に特別のお恵みをこの日に頂いておりますので、どうぞ皆さんいらして下さい。



聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日はマリア様の被昇天の大祝日、マリア様のいわば「帰天」の記念を行う日です。

そこで、この被昇天というのは一体どういう事だったのか?一体何が起ったのか?という事を黙想して、

被昇天が起こる、その被昇天を可能ならしめたマリア様のその素晴らしさというのは一体何だったのか?なぜマリア様にはその事が起こったのか?という事を黙想して、

ではそのマリア様の被昇天は私たち、21世紀に生きる現代の日本に生きる私たちにとってどのような意味があるのか?私たちにとってどんな意義があるのか?私たちにとってそれは何なのか?を黙想して、

最後に遷善の決心を立てる事にしましょう。

今日は多くの方がお墓に行って、先祖の死を弔ってお祈りをする日だ、日本中ではそうですけれども、実は、私たちが記念すべき、最高の私たちの霊的御母の「死」を記念する時であります。この死というのはあまりにも清い愛に満ちた、聖なる祝福に満ちた、幸せな死であったので、肉体も霊魂も天に上げられたという「死」であったので、この事を教会は昔から、マリア様の「お眠り“Dormitio”」と言って祝ってきました。

この祝日が、マリア様のお眠りがマリア様の被昇天が、歴史に残る限り最初に現れたのが、それは4世紀初頭、三百数年、つまりキリスト教が自由になって、そして既にその文献を残す事ができる事になったその時から、既に「マリア様の被昇天はエルサレムで祝われていた」という文献が残っています。

「このマリア様の被昇天は、全ローマ帝国で祝われなければならない」と定めたのは、ローマ皇帝マウリシウスでした。その時に文献によれば、「8月15日に荘厳に祝わなければならない」と記録を残しています。ローマ皇帝が全帝国に6世紀にそのような勅令を出しましたけれども、私たちの記録に残る限り、文献が私たちの手の元に残る限り、ローマのミサ典書の中にも既に7世紀の物には、マリア様の4大祝日の内の1つとして荘厳な典礼が定められて、記録に残っているのが伝わっています。

そして8世紀になると、レオ四世教皇様が、「マリア様のこの祝日はあまりにも重要なので、その前日のミサと、そして8日間の間毎日そのミサの記念をして、そして8日目には最大に荘厳にミサするように」と定めているのが分かります。それほど教会にとって大切な祝日でした。

なぜこれほど大切な祝日なのかというと、これはマリア様が天で、天にお生まれになった、天に凱旋された、天に荘厳に入場された、そしてイエズス・キリストの御母、天主の御母として、天主御父の愛する娘として、聖霊の花嫁として、三位一体の聖なる汚れ無い神殿として戴冠を受けた、私たちに先立って栄誉を受けた、マリア様は既にイエズス様の御受難に先立って、その御受難の功徳を先取りされて、無原罪の御孕りを受けました。

私たちの復活は、肉体の復活は世の終わりに起こります。しかし、イエズス様は、ご自分の母親の、罪の無い汚れの無い母の、その肉体の腐敗を許そうとしませんでした。そこでマリア様のお眠りと同時に、マリア様の肉体を天に上げられたのでした、同時に上げられたのでした。

これを見ると、マリア様のこの被昇天、お眠りというのは、ちょうど第1のアダムが眠っている間、この地上の楽園で眠っている間、その脇腹からエヴァが取られた創られたのとその似ていると考えられます。なぜかというと、このアダムが寝ている時において、アダムの配偶者であるエヴァが創られたのですから、天主はイエズス様が昇天された時に、「第2のアダムが一人でいるのは良くない。伴侶が必要だ」と思われ、そしてマリア様のお眠りにおいて、その伴侶を天国に作られました。第2のエヴァ、新しいエヴァが天国に上げられました。

まさにイエズス様が、第2のアダム新しいアダムが十字架の上で死の眠りについた時と、今日のマリア様の被昇天は似ています。なぜかというと、第2のアダムは十字架の上で眠っている時に、死の眠りについた時に、その目覚めは復活でありましたから。第2のエヴァにとっても、この被昇天の眠りは天国での先取った復活の目覚めによって、凱旋ある目覚めを得たからです。ちょうどアダムの、第2のアダムの目覚めと同じでした。

第2の点で、一体なぜマリア様にはそのような被昇天が与えられたのでしょうか?一体マリア様の被昇天を可能にしたのは何だったのでしょうか?

なぜかというと、私たちの霊的な生活には3つの段階があると言われるからです。つまり「浄めの段階」「照らしの段階」そして「一致の段階」です。

浄めの段階というのは、私たちが罪から浄められる、この地上への愛着から浄められる、という霊的な段階の事です。

第2の照らしの段階というのは、イエズス様の愛に照らされて、私たちはますますイエズス様の事を愛する、という霊的な段階です。

第3の段階というのは、私たちが浄められ、照らされて、そしてイエズス様と一致するという一致の段階です。

マリア様は、この3つの段階をあっという間に、跳躍的に成し遂げられた御方であるからです。

マリア様は無原罪の御孕りによって、浄さそのものでしたので、ルルドでマリア様は言います、「私は無原罪の御孕りである。」地上のもの、被造物を欲しくて、被造のものを愛するが故に何かをするのではありませんでした。唯一、聖霊の息吹きによって、聖霊の望む事を、聖霊の動かすままに、地上での生活を全てなした方がマリア様でした。全くの汚れの無い、罪の汚れの無い、無原罪の御孕り、汚れ無きインマクラータでありました。マリア様にとって最初の段階から、罪からの離脱は完成していました。

またマリア様は、イエズス様の照らし、イエズス様への愛に轟々と燃える愛熱の炎でした。イエズス様への愛、イエズス様への憧れ、イエズス様への熱望、イエズス様を追求するその望み、イエズス様の御意志と全く同意して、それをのみ望むその渇望、これはマリア様が、「我は主の婢女なり。仰せの如く我になれかし。」「私のする事は主の御旨、それだけです」というその望みに表れています。

ですからこそマリア様は、被造物が達成する事のできる最高の一致をしました。天主の御母。天主聖父の愛娘。聖霊の浄配。

これを見ると、マリア様ほど天主と一致している方は、被造物はあり得ないと分かります。だからこそマリア様の霊魂は、この地上でもはや生きる事ができませんでした。この肉体の上に留まる事はできませんでした。イエズス・キリストとの一致を、天国での一致しか、もうもはや生きる術はありませんでした。

ではマリア様のこの被昇天は、私たちにとって21世紀にとって、どのような意味があるでしょうか?

特に今年、特別な意味を持っています。マリア様はこう仰いました、ルチアにこう仰いました。
「あなたは一体、どこからいらっしゃいましたか?」
「私は、天国からの者です。」

『天に壮大なしるしが現れた。太陽をまとい、12の星を被る王冠に被る婦人が現れた。』

まさに太陽の奇跡を起こして、太陽を自由自在に動かす事ができる、正義の太陽のすぐ近くに居て、太陽をあたかも着ているかのような、イエズス・キリストを着ている、一心同体になっているマリア様、無原罪の御孕り、天主の御母マリア様、その方が私たちに、「私は天からの者です。」そして私たちを天国に連れて行く事を熱望して、そしてその為に私たちを呼びに来ました。

私たちもルチアと共に言わなければなりません、子供たちと共に言わなければなりません、「私は、天国に行きますか?」「はい。」マリア様は私たちに教えています、「私たちはこの地上の為に作られたのではない。私たちは天国でイエズス様と一致する為に、永遠の命を楽しむ為に、永遠の無限の命を生きる為に、本当の幸せに入る為に生きているのだ。」

マリア様の神々しい、その光に輝く美しい、燦然と輝くその姿を見て、ルチアや子供たちは全くうっとりとしていました。「早く天国に行きたい!」

フランシスコは牢獄に入れられて、油で「茹で上げにされるぞ。さぁ!」と言うと、「やった!もうすぐ天国に行く!」喜びに満ちていました。

マリア様は私たちに天のしるしを見せます。私たちも天国に行く為に作られました。「この地上のものに愛着を持ってはならない。地上の汚い、汚れた、汚らしい、残酷な不潔な罪ではなく、天上の事を愛するように。地上の事から離脱するように」と。

「あぁ、マリア様。私たちを天国に連れて行って下さい。私たちが早く天国に行くように助けて下さい。天国に行く道を守って下さい。蛇の頭を踏み砕いて下さい。私たちを誘う、悪魔の誘いから守って下さい。イエズス・キリストを忘れる事がないように、イエズス・キリストだけを愛する事ができるように、イエズス・キリストへの愛の為に生きる事ができるように助けて下さい。私たちの目がいつもマリア様にしっかりと固定されていますように、見つめていますように。」

十字架の上で、イエズス様は私たちに言いました、「見よ、汝の母ここにあり。」マリア様には言います、「見よ、汝の子ここにあり。」マリア様は私たちを本当の子供として、天から愛を込めて見守っています。私たちも遂には、マリア様と共に天国に凱旋する事ができるように、既にマリア様において実現された、その栄光と喜びが私たちにも与えられますように、マリア様は待っています。天国でイエズス様に取り次いでおられます。

もしもマリア様が天国に上げられたのならば、天国で凱旋しているのならば、天国で天と地の女王として、元后として支配しているならば、憐れみの女王としてあるのならば、それはただ単に、憐れな私たちを助ける為です。私たちを天国へと導く為です。その為に100年前、ファチマで私たちを招きに来られました。

特に8月15日には、私たちにお恵み与える為に来られました。私たちの元に来られています。特に日本は、8月15日には特別のお恵みを受け続けてきました。今日も受けます。
「あぁ、マリア様、私たちのこの逐謫の終わらん後に、尊き御子イエズス様を示して下さい。仁慈、甘美、童貞なるマリア。」

では私たちは今日、どのような決心を立てなければならないでしょうか?

被昇天のマリア様に、汚れなき御心に、お祈り致しましょう。この「私たちがマリア様のこの凱旋を共に祝って、マリア様の後に続く事ができるように、地上の愛着を全て取り払って下さい」とお祈り致しましょう。

第2には、マリア様に倣って、イエズス様の為だけに愛する事ができるように、早くイエズス様の御元に行く事ができるようにお祈り致しましょう。

最後に、マリア様はもしかしたら私たちに、ルチアのように仰るかもしれません、「はい、ジャシンタとフランシスコはすぐに天国に連れて行きましょう。しかしあなたたちは、この地上にしばらく残って、イエズス様があなたたちを使って、私の御心を知らせ、愛させるようにする事を望んでおられます」と仰るかもしれません。

マリア様がお望みのままに、マリア様の御心を慰め、マリア様の栄光の為に、私たちが良い道具となる事ができるように、お祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


「無原罪の御宿りと結婚について」:聖ピオ十世会司祭 レネー神父様

2017年12月11日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
レネー神父様の霊的講話 「無原罪の御宿りと結婚について」の日本語訳をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

12月10日 大阪の説教
無原罪の御宿りと結婚について


親愛なる兄弟の皆さん、

「汚れのない」という言葉は、旧約聖書では六十回以上使われていますが、新約聖書では九回だけしかありません。旧約聖書ではしばしば、犠牲のいけにえの動物の必要条件の一つとして使われています。小羊は汚れのない状態でなければならず、天主に捧げられる動物は汚れのない状態でなければなりません。新約聖書では、この同じ意味で二回使われています。聖パウロはこう言います。「聖霊によって、汚れのないご自分を天主に捧げられたキリストの御血が、私たちの良心を死のわざから清めて、生きる天主に奉仕させ得ないであろうか」(ヘブライ9章14節)。また、聖ペトロはこう言います。「あなたたちが祖先から受け継いだむなしい生活から贖われたのは、金銀などの朽ちる物によるのではなく、汚れもなくしみもない小羊のような、キリストの尊い御血によることをあなたたちは知っている」(ペトロ前書1章18-19節)。

しかしながら、汚れのないという言葉は、新約聖書では結婚に関しても二回使われています。まさに結婚のミサで使われるエフェゾ人への書簡の中で、聖パウロはこう言います。「夫よ、キリストが教会を愛し、そのためにいのちを与えられたように、あなたたちも妻を愛せよ。キリストがいのちを捨てられたのは、いのちの言葉を伴った水を注ぐことによって教会を清め聖とするためであり、また汚れもしわもすべてそのようなもののない、輝かしく清く汚れのない教会をご自分に差し出させるためであった」(エフェゾ5章25-27節)。キリストと教会との結婚において、私たちの主イエズス・キリストは「汚れのない小羊」であるだけでなく、主の花嫁である教会もまた完全に清められて汚れのない状態になるように、主は御自らをお捧げになりました。

聖母は「汚れのない」状態という賜物を、無原罪の御宿りにおいて、そのいのちの最初からお受けになりました。教会は、終わりにはこの賜物を完全に持つことになるのです。「いのちの言葉を伴った水を注ぐこと」である洗礼によって、信者たちはすでに罪の状態から清められていますが、彼らはまだ完全な状態ではなく、不幸にもしばしば多くの人々が再び罪に落ちてしまい、悔悛の秘蹟によってもう一度清められなければなりません。大罪に陥ることは決してなかった幼きイエズスの聖テレジアのような最も素晴らしい人でさえも、依然として小罪がいくつかあるのです。しかし、終わりには、私たちの主イエズス・キリストの恩寵によって、この清めが完全なものになります。聖人たちは、地上での艱難という清めのかまどを通っていき、あるいはその後に煉獄を通っていき、火で精錬された輝く黄金のようになるのです。

二回目は、聖パウロのヘブライ人への言葉です。「みな婚姻を尊び、寝床を汚れのないものとせよ。私通者と姦通者は天主に裁かれる」(ヘブライ13章4節)のであり、ここで「裁かれる」とは、聖書にある多くの表現のように、地獄行きの有罪宣告をされるということです。ですから、結婚において、清さ、貞潔が必要なのは明らかです。

実際、結婚による善の一つは貞潔の徳、清さの徳の実践です。私たちの現代世界は、結婚の行為の目的自体を見失ってしまっています。それはいのちの伝達です。いのちを伝達することによって、両親は非常に深遠な方法で天主とともに働きます。実際、子どもが二つの目を持ち、二つの手を持ち、二つの足を持つといったことを決めるのは両親でないことは明らかです。そう設計なさったのは天主です。天主はいのちの作者です。両親はいのちをつくるのではなく、自分たちが受けたものを伝達するだけです。両親は、自分たち自身の両親を通じていのちを受けたのですが、その両親たち自身もまた経路に過ぎなかったのであって、本源であったのではありません。究極的には、彼らはいのちを天主から受けたのであり、天主だけがいのちの作者です。

結婚の行為そのものにおいて親は天主とともに働くのですから、その行為は天主が設計なさったようにあるべきです。そして、天主はそれを子どもの善のために設計なさいました。すべての子どもは父親と母親を必要としますが、それは短い間ではなく、その後も長年にわたって両親を必要とします! それゆえに、天主は、いのちが一人の男と一人の女の生涯にわたる忠実な結合の中で伝達されるように設計されました。この結合が結婚です。結婚において、結婚の行為は善であり神聖であり、聖であるのです。

しかしながら、結婚以外では、この行為は不適切であり、重大な悪です。なぜなら、それは子どもから正当な両親を奪ってしまうことだからです。そして、これは事態をさらに悪化させ、最初は避妊によって、また多くの場合妊娠中絶に訴えることによって、しばしば完全に子どもを拒否することにつながるのです。男と女が天主とともに働くのを拒否するのです。非常に密接にいのちと結び付いたそのような問題で天主に逆らうことは、重い罪です。

結婚においてさえ、「貞潔」と呼ばれる一定の「節度」が必要です。両親が節制を実践すべき場合があります。それは病気の場合や出産前後などです。両親は、結婚がどんなことでも何をしてもいいという許可を受けたことと考えるべきではありません。結婚の行為を自然に逆らうものにするような不自然な行為がありますが、それは結婚においてさえも常に禁じられているのです。もっと普通にある避妊行為(そして明らかに妊娠中絶)は、天主が結婚の行為を設計なさった目的そのものに反する重い罪です。

清さに反するこれらの罪の根本には、多くの人々が結婚の行為に自己満足と快楽を求めているだけであるという事実があります。結婚の行為を天主が制定なさったその目的から切り離すがゆえに、非常に多くの無秩序と悪につながるのです。また、現代世界は、インターネットによるポルノの拡散によって状況をさらに悪くしてきています。

いったい、どうしたらいいでしょうか? 聖パウロの言葉を思い出しましょう。「みな婚姻を尊び、寝床を汚れのないものとせよ。私通者と姦通者は天主に裁かれる」(ヘブライ13章4節)。結婚の寝床は、結婚が清さと童貞を守って準備され、婚姻の儀式ののちには完全な忠実を続けるとき、汚れのないものとなります。ですから、ここにおいては、汚れのない生活の模範である聖母以上に大いなる助けとなる方はあり得ません。

そのような汚れのない生活は、非常に単純に要約できます。罪は問題外です! 決して罪とともに生活を始めてなりません! 決して罪の道で生活を始めてはなりません。罪に至るのを避けるだけでなく、罪を始めることさえ避けるのです。洗礼において、私たちはサタンを捨て、そのわざ(罪)を捨て、その誘惑(罪の機会)を捨てました。毎日、私たちは、このサタンを捨てること、すべての罪と罪の機会を捨てることを更新しなければなりません。毎日、私たちは、天主を選ぶことを、「仰せのごとくわれになれかし」(ルカ1章38節)と言われたマリア様とともに私たちの「fiat(なれかし)」を更新しなければなりません。

多くの人々が、罰せられることなく天主に対して罪を犯すことができると考えているように見えます。これは絶対に間違っています。すべての罪は、私たち自身の中に害をもたらし、私たちはそのために、結局苦しむことになるのです! そしてその害は、私たちが引き起こしたのです。私たちは、それについて天主に文句を言うことはできません。告解に行くことができさえすれば、すべての決着がつくと考えている人々がいますが、そうではありません。まだ、その害に対する償いをする必要があります! そしてそれは簡単ではありません! 聖母がなさったように、完全に罪を避ける方がずっと良いのです。聖母は完全に罪のないお方です。聖母の霊魂には、そんな害の一かけらさえもありません! それゆえに、聖母の生活は、天主の光と愛によって完全に満たされており、何の障害もありませんでした。聖母は、十字架のいけにえになることを選ばれた主のように、十字架の下で苦しまれなければなりませんでしたが、その苦しみは天主の愛に満ちていたため、宝石となるのです!

結婚生活においては、完全な忠実によって完全に罪を避けなければなりません。結婚前であっても、童貞を守ることによって罪を避けなければなりません。忠実な結婚への準備として童貞を守ることは、美しいことです。しかし、さらに美しい童貞性もあります。聖トマス・アクィナスは、貞潔には三つの段階がある、と教えています。第一の段階は、結婚した人々の結婚の貞潔であって、これは結婚における忠実そのものにあります。第二の段階は、配偶者を亡くした人々の貞潔であり、そして第三は童貞を奉献した人々の貞潔です。この第三の段階の人々は、「小羊の行くところにどこにでもついていく」(黙示録14章4節)のです。彼らは、より高い段階にある愛を、キリストと彼の教会との結婚という段階にある愛を探し求めるのです。彼らは「キリストの花嫁」なのです。

親愛なる兄弟の皆さん、結婚しているすべての夫婦のために、汚れなき童貞に祈りましょう。彼らが結婚を汚れのないように保ち、聖母に倣って、すなわち罪と妥協することなくこの貞潔の第一の段階を実践することができますように。若者たちのために祈りましょう。彼らが清さと童貞を守ってそのような良き忠実な結婚の準備をすることができますように。そして、さらに高い段階の愛、またさらに高い段階の天国での終わりなきキリストとの結婚を求める召命のために祈りましょう!

アーメン。

2018年の聖ピオ十世会典礼カレンダーは、なぜ津和野がテーマなのか。バーク枢機卿の警告の言葉を引用する。

2017年12月10日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2018年の聖ピオ十世会典礼カレンダーは、できる限り12月17日(主日)に、12月24日(主日)には、完成品をお渡しできるように一生懸命準備しております。

この美しい典礼カレンダーを今年もこのようにお手元にとっていただけることは、私にとって大きな喜びです。

皆様は、津和野の殉教者についてはご存知でしょうか?

名前は聞いたことはあるけれども、詳しくはちょっとわからない、とおっしゃられる方が多くおられると思います。2018年は、この津和野の殉教者を中心に、日本の殉教者たちについて光を当ててこのカレンダーは作られました。

2017年は私たちは、ファチマ100周年を記念し、できるだけ盛大に祝いました。私たちはできるだけ、天主がお望みのように、聖母の汚れなき御心への信心をするように促進しました。聖母は約束しました。「もし人が聖母の要求を聞くなら、ロシアは回心し平和がやってくるでしょう」と。私たちは平和を希求しているからです。私たちは聖母の汚れなき御心に助けを求めます。何故なら天主は聖母を通して私たちに平和を与えることを定めたからです。ジャシンタがリスボンの病院に行って亡くなる前に、ルシアにこう言っているからです。「私たちはマリアの汚れなき御心を通して平和を求めなければなりません。何故なら天主は平和を聖母に委ねたからです」と。

ところで、ファチマ100周年は終わりましたが、聖母の汚れなき御心への信心はますます促進させなければなりません。この信心を行わない方々に代わって、ますます熱心に行いたいと思います。もしもこの信心が十分に行われなければ、ファチマの聖母の懇願するお言葉によれば、次のような悲しい結果が待っているからです。

「さもなければ、ロシアはその誤謬を世界中に広め、戦争と教会に対する迫害とをもって挑発するでしょう。多くの善良なものが殉教し、教皇様は多く苦しまねばならないでしょう。無くなってしまう国々もあるでしょう。」(1917年7月13日)

*誤謬の世界中での拡散
*世界中での戦争
*教会に対する迫害
*多くの義人らの殉教
*教皇様の多くの苦悩
*消滅する民族や国々

秋田の聖母も次のように、私たちに愛を込めて警告しています。
「前にも伝えたように、もし人々が悔い改めないなら、おん父は、全人類の上に大いなる罰を下そうとしておられます。そのときおん父は、大洪水よりも重い、いままでにない罰を下されるに違いありません。火が天から下り、その災いによって人類の多くの人々が死ぬでしょう。よい人も悪い人と共に、司祭も信者とともに死ぬでしょう。生き残った人々には、死んだ人々を羨むほどの苦難があるでしょう。」(1973年10月13日)

*全人類に前代未聞の艱難
*人類の多くの人々が滅亡
*義人も悪人もともに死ぬ
*生存者には更なる苦難

私たちの主イエズス・キリストも預言されています。
「その時には、世のはじめから今までにもなく、のちにもないほどの大難難が起るだろう。その日が縮められないなら救われる人は一人もないが、しかしその日は、選ばれた人々のおかげで、縮められるだろう。」(マテオ24章)

私たちの主の言われる「その時」とは、いつでしょうか?レイモンド・バーク枢機卿は、カトリック・ヘラルド誌(Catholic Herald Magazine)のパウロ・ガンビ(Paolo Gambi)とインタビューをして、「その時」が来たのかもしれない、と言っています。その内容が同誌2017年12月号に掲載されました。

バーク枢機卿は、最近、婚姻と家庭とに関する根本的な教えに関して、カトリック教会内で、混乱と誤謬が拡散していることを嘆き、「人間の生命の全秩序と教会自体の秩序も危険にさらされている」と言い、次のように言います。

「現代世界は、完全な人間中心主義のアプローチによる世俗主義に基礎をおいている、このアプローチによって私たちは命に関する自分自身の意味を創り上げ、家族の意味などなども創り上げることができると考えている。教会自身も混乱しているようだ。この意味において、教会は外見上、天主の掟に従いたくないように見えている。そうなら、もしかしたら私たちは時の終わりに到着したのかもしれない。」(バーク枢機卿)

では、私たちはどうしたらよいのでしょうか?

私たちの主は、その日は、大患難時代は「選ばれた人々のおかげで、縮められるだろう」と予告しています。平和を乞い求める私たちは、その日が縮められるように聖母の汚れなき御心にひたすら祈願しましょう。それと同時に、今、私たちはそのような力も勇気もないように思われますが、私たちの先祖の寛大な犠牲と信仰の精神を見習いたいと思います。何故なら、多くの義人らの殉教や消滅する民族や国々があることがファチマの聖母によって預言されているからです。願わくは、私たちがこの殉教者たちの取次ぎを祈りながら、2018年を過ごすことができますように!

ところで、2018年というのは、「浦上四番崩れ」という弾圧の150周年です。この弾圧によって、250年以上の血まみれで残酷なキリシタン迫害を生き抜いた長崎浦上の信徒たちは、日本の各地に流刑されました。津和野には、1868年6月に28名のキリシタンたちが送られました。神道研究が盛んだった津和野で、神道による教化や改宗の試みをし、それは拷問による棄教の強要と化していきました。しかし、虐待を受けた信徒にマリア様が現れ、慰め、励ましてくださいました。

私たちも、日々の生活を津和野の精神で送ることができますように! マリア様とともに私たちのいのりと犠牲を毎日捧げることができますように! 津和野殉教者と「旅」にでた浦上の信徒たちの精神が、愛する兄弟姉妹の皆様によって知られますように!

どうぞ、このカレンダーを使って、私たちの祖国の偉大なる祖先の取次ぎを祈りつつ、2018年をますます聖母の汚れなき御心に適う年となることを願っています。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


【参考資料】
PG Your Eminence, you have recently referred to our times as “realistically apocalyptic”. And you added that the “confusion, division and error” within the Catholic Church coming from “shepherds” even at the highest levels indicate that we “may be” in the End Times. Would you help us to understand what you meant by this?

CARDINAL RAYMOND BURKE In the present moment there is confusion and error about the most fundamental teachings of the Church, for example with regard to marriage and the family. For instance, the idea that people who are living in an irregular union could receive the sacraments is a violation of the truth with regard both to the indissolubility of marriage and to the sanctity of the Eucharist.

St Paul tells us in his First Letter to the Corinthians that before we approach to receive the Body of Christ, we have to examine ourselves, or we eat our condemnation by receiving the Eucharist in an unworthy way. Now the confusion in the Church is going even further than that, because there is today confusion as to whether there are acts which are intrinsically evil and this, of course, is the foundation of the moral law. When this foundation begins to be questioned within the Church, then the whole order of human life and the order of the Church itself are endangered.

So there is a feeling that in today’s world that is based on secularism with a completely anthropocentric approach, by which we think we can create our own meaning of life and meaning of the family and so on, the Church itself seems to be confused. In that sense one may have the feeling that the Church gives the appearance of being unwilling to obey the mandates of Our Lord. Then perhaps we have arrived at the End Times.


PG Could you please give us an update on the “formal correction” [of Amoris Laetitia]?

CRB I cannot say too much. On November 14, it will be a year since the dubia were published. The whole question is still to be determined as to how to go forward, since we have not received any response at all, not even an acknowledgment of the dubia, which are very serious questions. I think I cannot say anything more than that right now.

PG What is the correct interpretation of your recent reappointment to the Apostolic Signatura?

CRB As a cardinal I have served various dicasteries of the Roman Curia. As a matter of fact, I am right now serving only two dicasteries, the Congregation for the Causes of Saints and the Pontifical Council for Legislative Texts. Certainly, I have preparation in canon law and especially in jurisprudence, so in a certain way, my new appointment is a logical one. Beyond that I would not want to speculate about what it may mean.

PG The secretary-general of the Italian bishops’ conference, Bishop Nunzio Galantino, has recently declared that the Reformation was “an event of the Holy Spirit”, and every day we read about prelates winking at the Protestant world. In the meantime, we read about a commission that is working on the hypothesis of a common sacramental interpretation of the Eucharist [a rumour later denied by the Vatican]. Will we all die Protestant?

CRB Well, I don’t see how you can say that the division of the Church was an act of the Holy Spirit. It simply does not make sense. And I don’t know what the nature of this commission is, but it is not possible to have a common Eucharistic celebration with Lutherans, because they don’t believe in the Eucharist as the Catholic Church teaches, and, very significantly, they don’t believe in the doctrine of transubstantiation, that the substance of the bread and wine, at the moment of consecration of the Mass, is changed into the substance of the Body and Blood of Christ. For Catholics to engage in some kind of ecumenical Eucharist would be abandoning the Catholic Faith. This is a profoundly false ecumenism which would do grave harm to the Faith and to souls.

PG In a homily you stated: “The nature of the reform of the Rite of Mass has significantly darkened in a sense; the divine action in the Holy Mass, which is the union of heaven and earth, has led some to mistakenly thinking that the Holy Liturgy is an action that we have fabricated in a certain way and with which we can therefore experiment.”

Is it true, as many people think and say, that this new way of celebrating the Mass is a necessary consequence of Vatican II?

CRB The precise form of the revised Rite of the Mass is not a necessary consequence of the Second Vatican Council. In fact, the reform of the Rite of the Mass as it was carried out did not follow as faithfully as it should have what the Second Vatican Council taught us and wanted. That is why we are talking today about a “reform of the reform”: in other words, we should examine again how the Rite of the Mass should be more faithfully reformed according to the Council.

Certainly, the Council mandated some reform of the Rite of the Mass. However, some condemned the reform as it was carried out as too violent, in a certain way, in terms of removing so many aspects of it that it was difficult to see the continuity between the rites before and after the Council. Of course, that continuity is essential, because the Rite of the Mass has come down to us from the first Christian centuries as an organically living reality; you can’t have a “new” Mass in the sense of a totally new Rite of the Mass. We must in some way express the Apostolic Tradition as it has come down to us.


PG Is it possible nowadays to ask for the traditional liturgy and not be considered, for this reason, an “enemy” of Pope Francis and perhaps even of the entire Church?

CRB Yes; in fact, the celebration of both forms of the Roman Rite – the more ancient or traditional form, and the Ordinary Form – is to be considered normal in the Church. Since the motu proprio Summorum Pontificum of Benedict XVI in 2007, priests are free to celebrate the Extraordinary Form.

So there should be no reason to believe that celebrating the Extraordinary Form of the Roman Rite is a sign of being somehow a protester or an enemy of the Pope.


PG But how can we use the word “Catholic” to describe both a cardinal who celebrates the ancient Mass and defends the values of the family and, for example, a bishop like François Fonlupt of Rodez et Vabres, who has recently ordained a priest following a rite with Hindu elements? What can keep all of us together?

CRB Better than “what” is “who”. Who keeps us together is Jesus Christ, who comes to us in the unbroken tradition of the Church, in her teaching, in her sacred worship, in her discipline and in her government. I haven’t heard about the episode that you mention, but a bishop who pretends to ordain a priest according to a strange rite has broken communion with the Church.

聖伝のミサ(ラテン語ミサ トリエント・ミサ)の報告: 12月10日(主日)大阪で午後6時から聖伝のミサがあります。Traditional Mass in Osaka at 6 PM on Dec 10

2017年12月09日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 明日、待降節第二主日は大阪で午後6時からレネー神父様の司式による聖伝のミサがあります。たくさんの方々がミサに与ることができますようよろしくお願い致します。

 待降節第1主日のミサのご報告などをいただいたので、愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。

 明日は、ロレトの聖母の家の祝日でもあります。(ナザレトから天使によってイタリアに運ばれた聖母の家、そこで聖母がお告げを受けた家のことです。)お告げの神秘を黙想することも提案します。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

待降節第一主日の御ミサをありがとうございました。
今回は特に、クリスマスまで、「主に私の心を上らせ奉り」て、「マリア様とともに過ごす待降節になるように」と決心をすることができました。

クリスマスに向けてイエズス様の御降誕を待ち望む日が始まりました。我が家には小さなプレセピオがあります。それは木製で、流れ星のもと、洞窟の中にいらっしゃるマリア様とヨゼフ様と小さなまぐさおけとそして布にくるまれている赤ちゃんのイエズス様、それからろばと牛だけのとても質素なプレセピオです。これを買い求めたころにはまだどうして牛とろばがこのセットに入っているか、わからなかったかもしれません。

それがイザヤ書の最初の言葉(第1章第3節)に由来していると知った時に、造り主である天主様を知らずに生きてきた自分とそして救い主が人間のもとを訪れてくださったのに知らず悟らない惨めで哀れな人間のことを痛切に思い知らされた気持ちでした。

「人間は天主様に逆らった」というのだということを、旧約時代からの救いを求めるユダヤの民の祈りと、救い主がどれほど苦しみを受け軽蔑され捨て去られてしまうと預言されていたか、ということをこのイザヤ書の冒頭の言葉から知らされて、深い想いに包まれたことを思い出します。

2000年前にマリア様が赤ちゃんのイエズス様をその手に迎えられまぐさ桶に寝かせた時、その傍らには牛とろばがいたのでしょう。マリア様はそのとき、このイザヤ書の最初の言葉を思いめぐらして「牛はその飼い主を知り、ろばは主人のかいばを知るのに、イスラエルは知らず、私の民は悟らない」の預言が成就したと思われたでしょうか。とうとう救い主が来られた!でも!・・・、同時にその後に続く御言葉の残酷な未来がご自分の可愛らしい赤ちゃんに待ち受けていることをも思われたのでしょうか。それでもきっと、喜びが勝っておらたと思います。

お説教で神父様はそのイザヤ書からのお話をしてくださいました。「救い主が人類の犯した罪の罰を受けとろうとされる」。神父様のお説教を聴きながらマリア様の深い喜びとそれと同じくらい深い悲しみに少しだけちょっと思いを巡らしました。そして、旧約から続く私たちの罪の救い、救済への願い、の深さを自分の内側からも湧き出る望みとして、わたし自身も心からお祈りいたしました。「主よ、御憐れみを示し給え、われらに救いを与え給え。」

私たちがいつも灌水式で、Osténde nobis,、Dómine,misericórdiam tuam.、”主よ、御憐れみを示し給え、われらに救いを与え給え”、とお祈り申し上げる聖歌を、この日はアレルヤでもさらにもう一度、”御憐れみを示し給え、われらに救いを与え給え”、と歌ってお祈りするのですと、教えていただきました。これまで気に留めることのないワンフレーズでしたが、深い意義を教えていただきまして、うれしく思います。

そして、私には救い主が必要です、どうぞ主よ来てください!、という想いは、Ad te levávi ánimam méam. ”主に心を上らせ奉る”という一文に集約されていると教えられ、入祭文でもまた奉献文でも祈っているとのこと、この待降節中できるだけいつも主の方へ心を向けようと思いました。

この、主に私の心を上らせ奉るという言葉が、マグニフィカトの「我が霊魂は主を崇め奉る」ととても似ている表現のようですと伺い、ご訪問の時にマリア様が主に心を挙げて祈られたこと、そして喜びにあふれてご挨拶をしたことを思いました。

「全能にまします御者、われに大事をなし給いたればなり。」
ご聖体拝領にて霊魂にイエズス様を受け奉ることの大事を思うと、「わが精神はわが救い主なる天主よりて喜びに堪えず。」と申し上げます。そして、マリア様が受けたそのお喜びを想い、マリア様とともに溢れ出る喜びを天主様にお捧げできますように、と思います。

マリア様とともに過ごすことで、ご胎内に宿されておられるイエズスさまによって、マリア様が私たちの周りの人々を聖化してくださいますように。
主なるイエズス様が、隠れて見えないちいさな方として私たちの住むこの肉体を持つ世界に来られて、マリア様をとおして洗者聖ヨハネの罪が許されたのですから、同じようにマリア様に近づく多くの人たちの罪が許され洗礼へと導かれますように。
われらの地は実を生む、という言葉が、マリア様がたくさんの実を実らせたことを指すなら、マリア様とともに過ごす私たちの周りでももっとたくさんの者が、このクリスマスには罪の赦しをいただくようになりますように、と祈りと犠牲をお捧げしたいと思います。

マリア様が、身重の身体で聖エリザベトを訪問されて身の回りのご奉仕されましたように、私もご聖体拝領によってイエズス様とともにいる恵みを受けたことを忘れずに周りの人々に仕えてご奉仕することができますように努めようと思います。

神父様は、イエズス・キリストの3つの到来についてお話しくださいました、子羊として、友として、裁判官として来られますとのこと、今回はローマの聖マリア大聖堂のまぐさ桶を拝見する機会をいただいたことを思い出して、そこにちいさな赤ちゃんの子羊としてのイエズス様がおられるお姿を思い浮かべました。(その3つの到来についてのお話の内容は、私には初めて聞く内容でとても興味深かったです。)

ご聖体拝領後しばらくしてすぐ主を忘れてしまう惨めな情けないものであることを反省して、いつも心を上に上げるとこができますよう特にこの待降節中に努めたいと思います。御降誕祭まで、ご訪問のマリア様の玄義を思いめぐらして、イエズス様をお迎えする準備をしたいと思います。神父様、いつもありがとうございます。


【公教要理の時間の報告】
今回は、スライドで、主にフラ・アンジェリコの絵画作品を拝見しました。黙想や観想のために読書、香や音などの他に、絵画やステンドグラス・タピストリーなどによっても、準備や手助けが得られるとのこと、今回は初土の信心をよくするために、15分の黙想のための一例としてお告げの玄義について、受胎告知の絵を見ながらお話を伺いました。

最初に、ナザレトにあるお告げの教会の写真を拝見しました。この辺一帯は貧しいところであったけれどナザレトだけは平和な町であり続けていますというお話が印象的でした。この教会のたつところが「御言葉は人となって我らとともに住み給うた」というその場所だということです。この教会には上部と地下部分があり、地下にお告げを受けた洞窟があるとのこと、そこに置かれた祭壇には「御言葉はここで人となった」と書かれていました。マリア様はここで、大天使ガブリエルからお告げを受けて、そしてこの場所で天主様が人間になってくださったということなのですね。こうしてしっかりと保存されて残されていて、なんて素晴らしいと思いました。

絵画の方は、フラ・アンジェリコの受胎告知の三つのバージョンの映像をもとに、お話いただきました。(まとめてみました)、

最初に描かれた絵の特徴は、とても装飾的説明的な絵であるということ。、
御父や鳥(ツバメ)が描かれて、左側に三位一体を表す手がみられそこから聖霊が降る様子も描かれています。、アダムとエヴァが大きめに描かれ、楽園から追い出されている様子とその庭には禁断の実も落ちています。マリア様の椅子は女王様のような布の罹った椅子で、本を読み立ち上がるなら天使よりも背が高いように、大きく描かれています。



次の絵は、Cortonaという所の祭壇に掛けられているもの。アダムとエヴァは門から出されていて、より小さく描かれて上の片隅に見えるだけになります。ツバメの姿と手(三位一体)は消えて、聖霊だけです。天使の羽根に色がついて服の色も少し変わります、そして口から言葉が(ラテン語で)発せられています。絵画の下の部分に、マリア様のご生涯(お誕生から被昇天まで)を表している絵が添えられています、その最後の部分では、マリア様が聖ドミニコにロザリオを与えています。



最後に描かれた絵は、San Marco、の、修道院の廊下に飾られているもの。、
門は閉じていてアダムとエヴァの姿は見えない。御父は描かれず飾りがあるだけで天使から発せられる言葉(ラテン語)もなくなっている。マリア様は、本も持っていないし、身につける服も質素で、座る椅子も豪華な背もたれもなく丸い質素なものとなる。マリア様のお顔も単純化されたものとなる。天使の服も質素になり、羽根はカラフルなものとなる。
奥の部屋があるのがわかるが、それは修道士の部屋のようだ。

そしてこの最後の絵が飾られているところが、修道院の廊下で、中の階段を上る時に目の前に見える壁に掲げられているとのことでした。修道士がたが、いつもロザリオを唱えながら過ごすなか、この階段を昇るとき、ちょうど目の前にこの受胎告知の場面があらわれるような仕組みとのことです。絵の中の特徴的な柱は、サン・マルコ修道院にある柱と同じ形であって、サン・マルコ修道院をマリア様の家のように思って描いていたためのようです。





三枚の絵画のバージョンのそれぞれを詳しく説明していただいた後に、最後の絵がシンプルに描かれた理由をお話くださいました。

フラ・アンジェリコが、この絵画を芸術作品として描こうとした結果、単純でシンプルな美を持つものになったのではなくて、毎日の聖務とロザリオの祈りをより良くする助けのため、信仰を日々生きるなかで、最後にこのような作品が残されたとのことです。修道生活を熱心に勤めロザリオを毎日祈る中で、その霊魂の中もいっそう単純化されるようになられたのでしょうか。、
よく、観想が深まるにつれて、いろいろなことが単純になるのですと、言うことを読んだことがあります。作品を作る人の信仰がその作品に命を与えているということにあらためて気づかせられました。
フラ・アンジェリコの受胎告知の絵というのにもいろいろなバージョンがあることも、初めて理解できました。とても好きな絵でしたので、いろいろなお話が聴けて、とても良かったです。
神父様、とても興味深いお話をありがとうございました。

【お便り】
レネー神父様が、来年の2月からオーストリアの学校の校長先生となられる為、12月で日本に来られるのは最後だという事で、とても急なニュースで寂しい気持ちになりました。
小野田神父様がブログで書いて下さった事を読みながら色々、本当にそうだ、と思い涙が出そうになりました。
レネー神父様が日本にいらして下さるようになって、もう6年くらいになりますでしょうか。
1日で韓国と日本に移動してミサを2回捧げるというハードなミッションを毎月私たちの為に行なって下さり、
大阪で毎月主日の御ミサが捧げられるようになったのも、大阪で毎月初金曜日と初土曜日に御ミサが捧げられるようになったのも、レネー神父様がおっしゃって下さったからだ、
と小野田神父様が仰って下さった事を思い出します。
本当に私たちはレネー神父様のおかげで大変多くの御恵みを頂き、その愛徳、博識、御謙遜に、私たちはいつも、「日本には小野田神父様とレネー神父様という素晴らしい神父様がミッションに来て下さり、本当に御恵みだ」という話しをしておりました。

また御説教も「天主の十戒」シリーズや「七つの秘跡」シリーズなど、シリーズでも色々お話して下さり、とても勉強になりました。プロテスタントの誤謬や、聖ピオ十世会がまことに使徒継承のカトリックの教えを守っていることなども、誰も反論することができないほど理路整然とお話して下さり、レネー神父様の御説教もいつか本として出版されたりして、日本のもっと多くの方々が、レネー神父様がして下さった素晴らしい貴重な日本語訳の御説教を読んで下さるようになれば良いなと思います。

この日本で最後の月となる12月に、レネー神父様がこんなにたくさん日本で、東京でも御ミサを御捧げくださるようになっていて、本当にマリア様の大きな憐れみの御摂理を感じました。
2017年のクリスマスの御ミサが、大阪ではレネー神父様の最後の御ミサとなるのですね。感謝と共に過ごしていきたいと思います。

残り少ない2017年、マリア様がファチマでの御出現で毎回必ず仰って下さったロザリオを、
毎日できる限り心を込めて唱えていきたいと思います。

【お便り】
12月の御ミサの予定をアップして下さりありがとうございます!(*^▽^*)
これだけたくさんの御ミサが日本で捧げられるというのも、ファチマ100周年の終わりにあたって、マリア様からの日本へのとても大きなボーナスプレゼントのような気が致します♪♪
デオ・グラチアス!聖母の汚れなき御心に感謝!

2018年のカレンダーは津和野の殉教者の方々という事で、恥ずかしながら私はあまりまだよく知りませんので、是非カレンダーを通して、
津和野の殉教者の方々の精神に与らせて頂きたいと思います。
永井隆博士も「津和野の殉教者物語」という本を書かれているそうなので、そちらも読んでみようかなとも思っています。

【報告】
マリア様に対する忠実、どのような機会もマリア様を愛する為に、イエズス様を愛する為に、罪人の回心の為に、犠牲の機会として使い、
そして天国への熱望、そしていつもロザリオを唱えていた、このファチマの3人の子供たちにいつも倣う事ができますように!

【報告】
今年はミサ典書を読むたびに、非常にその時の自分自身の状況と重なっていて、いつも天主様が私の気持ちを理解して下さっているという慰めを感じることができました。デオ・グラチアス!ファチマのマリア様に感謝!

この今まで天主様から受けた御恵みを感謝することを忘れず、そして自分は本当に無に過ぎない憐れな罪人であることを忘れず、天主様の憐れみを讃美して、マリア様の謙遜に倣って、日々祈りと犠牲をお捧げすることができますように!

全くの無に過ぎない、罪しか犯すことのできない憐れな私たちの為に、御一人子を私たちの罪の償いの為にこの世にお与え下さった聖父。そして無である私たち人間の罪の償いのために、私たちを地獄から天国へと引き上げるために、天主でありながら人間となり、十字架の贖いの御業を果たして下さった聖子。そしてその十字架の贖いの実りである全ての聖寵を、天主の御旨を果たす事だけをいつも考えておられたマリア様の汚れなき御心にお与え下さった聖霊。
その計り知れない天主イエズス様の愛、聖主の御旨を果たすためにイエズス様と共に私たちの贖いの御業に参与して、私たちの母となって下さったマリア様の汚れなき御心。

そのイエズス様とマリア様の聖心をお慰めするために、その全ての聖寵の仲介者であるマリア様の汚れなき御心のお恵みの運河となるために、その贖われた私たちが、私自身の罪の償いのために、罪人たちの回心と罪の償いのために、ファチマの3人の子供たちに倣って、マリア様の汚れなき御心の信心をする事によって、ますます祈りと犠牲を御捧げしていく事ができますように!そしてそれを果たす事ができる為に、いつも天主様の御旨、マリア様のお望みを果たす事だけを考え、マリア様の汚れなき御心の謙遜の御恵みを頂くことができますように!

聖母の汚れなき御心よ、我らの為に祈り給え!

【報告】
レネー神父様への霊的花束の呼びかけをありがとうございます。

本当に日本の司教様方が、マリア様がこんなにも愛して下さっている日本を、マリア様の汚れなき御心に奉献して下さいますように、強く願います。
その為に、ロザリオをもっと心を込めて唱えたいと思います。

【報告】
クレカリですが、神父様の入祭唱のお話、とても良かったです。
詩編についてのお話と私たちの最大の悪とは・・についてのお話が特に印象に残りました。

【報告】
【グレゴリオ聖歌】待降節第一主日のミサの入祭唱 Ad te levavi を黙想しましょう  有り難うございました。
とても嬉しゅうございました!
「我が天主よ!」
1人で祈っているのではない!教会と一緒に祈っている。
聖母様の御胎にもうイエズス様は居られる!
感謝致します!


2017年聖母小黙想会【12】 8月14日「聖母と日本との深い愛の結びつき」を黙想する

2017年12月08日 | お説教・霊的講話
聖母小黙想会【その11】 2017年8月14日(月)
小野田神父 霊的講話 [8]
「聖母と日本との深い愛の結びつき」


聖母の黙想会はまだ明日も続きます。黙想会は明日の聖母行列をもって終了します。

でも特別の講話と黙想はこれで終わりなので、ぜひマリア様が日本をどれだけ愛しておられるか、マリア様と日本との繋がりがどれだけ緊密であるか、特にファチマのマリア様と日本との関係が深いという事をみましょう。

それから明日、聖母行列の最後にする「奉献」について、奉献とは一体どうあるべきか、という事を黙想します。話が行ったり来たり、あっちにこっちに行ったりするかもしれませんが、どうぞ堪忍下さい。

まず、「日本に最初に福音を伝えたのは、ポルトガルという国だ」という事をよく知って下さい。天主様の御摂理によって、ポルトガルが選ばれました。

ポルトガルというのは、イベリア半島の先っちょに付いている海岸の国で、その一番の首都は港町のリスボンです。ポルトガルはスペインから最初に教皇様を領主として独立しました。

ポルトガルはその当時から、「マリア様の土地」と言われていて、特別の特権を持っていました。特に使徒職に宣教についてポルトガルは、パトロナードと言われる特権を持っていました。これは教皇様がポルトガルという国に、特にポルトガルの王に、宣教の為の他の国々には無い特権を与えて、そして王がその王の使命として、宣教地での教会を建てたり、司教団にするとかという事について、全く王に委任していました、任せていました。

それでポルトガルというのは、国が元々海岸沿いの小さな国だったというので、宣教する時にも、どこかの土地を全部占拠してしまう、あるいは占領してしまうというのは全く頭にありませんでした。ポルトガルがよく普通やろうと思ったのは、海岸沿いの拠点を、ちょっとした所を自分の安全な港の拠点として置いて、そこをセンターとして宣教するというやり方でした。

それにひきかえスペインは、ポルトガルを除いてイベリア半島を全部持っている国なので、ですからスペインはそこに行くと、征服者として、コンキスタドールとしてよく行動しました。例えば、そこを自分の王の下に置く、「スペイン王の配下のもとに置いて、自分のものとする」としていました。ですからメキシコとか、あるいはラテンアメリカはスペインの支配下に置かれます。

ところが、実はブラジルもポルトガルの領土になるのですけれども、しかしブラジルは例外的でした。

ポルトガルは例えば、インドのゴアとか、あるいはインドシナのマラッカとか、あるいはマカオとか、そういう港町を転々と拠点にして、あとは海岸端をキリスト教的にさせようと思っていました。海岸に沿って宣教を始めていきました。

ところがスペインは、例えばフィリピンもそうでしたけれども、フィリピンはスペインのものとなりました。

フィリピンはスペインが宣教しましたけれども、日本はポルトガルが宣教しました。その宣教したその国の違いによって、違いがあります。

ですから昔から日本とは、ポルトガルの繋がりが非常に強かったのです。

一体ポルトガルの、イベリア半島の小さな所から西の果てから、日の出ずる日本まで、正義の太陽イエズス様の光を届けようとしたのは、聖フランシスコ・ザヴェリオでした。聖フランシスコ・ザヴェリオは、ポルトガルの王の命令によって、教皇様の公使として、パウロ三世の代理として教皇の代理として、まずインドのゴアに、そして遂には日本の鹿児島に上陸しました。

上陸したその時は、最初に福音をもたらそうとしたその日が、聖母の被昇天の日でした。1549年8月15日です。

ですからこの8月15日というのは、日本にとっては非常に意味が深く、マリア様の大祝日に来た、ポルトガルから来たという事で、しかもイエズス会の聖フランシスコ・ザヴェリオが教皇の大使として来たという事は、非常に意味があります。

日本人もすぐに後に、大名の御曹子たちが日本の特使として大使として、ポルトガルのリスボンを通して教皇様に会いに行きます、イエズス会の指導の元で。私たちも今度ファチマに行く時には、まずリスボンの空港に着いて、リスボンの港を見る事ができるといいですけれども、そのリスボンの港から、多くの宣教師たちが日本にやって来ました。

8月15日はそれだけではありません。聖フランシスコ・ザヴェリオが聖フランシスコ・ザヴェリオになったのも、8月15日があったからです。これはパリのモンマルトルという所で、イエズス会が結成された時にやはり、8月15日の被昇天の大祝日に、イエズス会ができました。

聖イグナチオ・ロヨラと聖フランシスコ・ザヴェリオ、そしてその他の同志が結成したのです。その内の1つに、清貧・従順・貞潔などの誓願の他に、「聖地に行く」という、「できれば聖地に行きたい。」なぜかというと、聖イグナチオ・ロヨラが聖地に行きたくて行きたくてたまらなかったのです。

「できれば聖地に行きたい。」「行きたい」という事で請願を立てます。でも聖フランシスコ・ザヴェリオは聖地にエルサレムに行く代わりに、日本に来ました。インドと日本に来ました。8月15日。

この日から、私たちの日本には、多くの光とお恵みが雪のように降って、大人も子供も、大名も貧しい人も、洗礼の恵みを受けてきました。日本の数多の人々の体の中には、イエズス様の御体を肉として、御血を血として、多くの日本人が司祭になり、教会が建てられて、聖母被昇天の教会、マリア様のロザリオの教会などたくさん建てられて、そして聖母行列、御聖体行列、クリスマスなどはものすごい人が集まってミサをしていました。

何十万人もの人々が洗礼を受けました。それだけではありませんでした。日本人はイエズス様の御血に養われたのみならず、自分の血をイエズス様の御血に合わせて捧げてきました。26聖人。205福者。更に118名の福者。

大名の子供たちが、「ローマに行った!リスボンに行った!教皇様と会った!」と言ったとすれば、殉教者たちは、「俺たちは天国に直行する!イエズス様に王の王に会う!マリア様に会う!」と、特別の愛をもって殉教していきました。その殉教者の中には、特にマリア様について熱心に祈っていました。

キリシタンは、「貧しい人がいる」というとそれを助け、「病気の人がいる」というと看病し、病院を建て、「孤独の人がいる」というと慰めて、孤児を引き取り、寡婦を養い、隣人に奉仕して、それで、その為に、愛徳と憐れみの事業を行ったがために、「そのような事を教える邪宗門を信じた」と、拷問を受けて殺されていきました!

ロザリオの会というのは、ドミニコ会の指導者によって創られました。最初は江戸で創られました。江戸であまりにも何万人と会員になるので、長崎でも創られました。1ヶ月に2万人会員ができました。皆ロザリオを首にかけて、腕に巻いて、ロザリオの話をしない人はいなかったそうです、最新のファッションでした。信者でない人もロザリオをかけていました。

豊臣秀吉なども非常に喜んで、南蛮からのロザリオを首にかけて見せびらかしていました。信者はもちろんロザリオを唱えて、「ロザリオのマリア様の御影がある」と言うと、もうそれを競って「欲しい!」と言いました。

聖母の連祷を皆暗記していました。殉教に穴に吊られながら唱えていたのも、聖母の連祷でした。一番最初に穴吊りにあったのが、福者ニコラオ福永です。イエズス会の会員でした。聖イグナチオの祝日に亡くなります、息絶えます。その時に、最初、水が欲しい、「喉が渇いた」と、すごい苦しんでいました。

役人が「もしも、お前、棄教したら水をやるぞ」と言ったら、ニコラオ福永は、「もういらない」と。なぜなら、「ある美しい女性の方がやって来て、私に水をくれたので、もういらない。」

そして聖母の連祷を唱えながら亡くなっていきました。マリア様は殉教者をこうやって、記録に残されていなかったとしても、慰めてやって来ました。

島原では今行くと、この打たれた弾がロザリオに代わって出てくるのです。島原にいた人たちを、それをはるかに超えるものすごい武士たちがそれを包囲して攻撃するのです。けれども、なかなか降伏しません。城は落とせません。たまたま一人の寝返った者がでて、彼をお金で買って、彼が城の中の内情とか地図を告白したが為に、それでそこから弱点が知られてしまったのです。それにもかかわらず、皆ロザリオを唱えていました。

雲仙の殉教者たちは、特に御聖体に対する信心が強くて、殉教する時は、「いとも尊き御聖体は讃美せられさせ給え!」御聖体の旗を自分の旗としていましたけれども、島原でもやはり、御聖体の旗を軍旗としていました。

いろいろな信心会がありました。信心会はラテン語でコンフラテルニタスと言われています。その中で一番人気があったのは、ミゼリコルディアの奉仕の組、ロザリオの組、御聖体の組でした。

「御聖体」と「マリア様」、これはキリシタンにとって決して分かつ事ができないものでした。

後に、聖ドン・ボスコが夢を見ます。教会が嵐の中に、もう沈没するかもしれないような時に、色んな船がチンピラの海賊の船が、教会の船を周りを囲んで攻撃するのです。その攻撃の弾と見えたのは、悪い本とか不信の本とかだったのです。そして教皇様の乗っている船はもう沈没するか、弾によって倒れたり、多くの人が倒れたり、「もうこのままダメだ!」という時に、いきなり2つの柱が現れて、1つは「御聖体」もう1つは「マリア様」です。

そこで教皇様がその2つの柱に船を留めると、ピタリと攻撃が止まって、教会はまた栄え始めた。日本の教会も全く同じでした。御聖体とマリア様、この2つにがっしりと繋がっていました。

長崎に巡礼した時に、「キリシタンが、七代ずっと続いてはっきりと教理を覚えていて、そして誰がどれが本物のパードレで、そうでないか偽者か、という事を七代までちゃんと伝えられた事ができた地域には、必ずマリア様の御像があった、マリア様の信心があった。そうでないところは、伝えがあまりうまく伝えられなかった」という事を知りました。マリア様の御像はどんな時であっても隠されて、ロザリオを唱えながら、喜びと苦しみと栄えの玄義を黙想しながら、信仰を保ってきました。

考えてもみて下さい。もしも、皆さんの七代末の子孫は、まだ聖ピオ十聖会の司祭を待っている、ということを。その様なことが起こったとしたら奇跡です。大奇跡です。

毎年色々な尋問や迫害があったのです。それにもかかわらず信仰を保つ事ができたのは、マリア様のおかけでした。マリア様に関する遺物が、大学の博物館や資料として残っています。日本の色んな所のキリシタンの遺物の中に、マリア様のものがたくさんあります。日本のキリシタンがどれほどマリア様の事を愛していたかという事は、その遺物を見ると分かります。これを宝として持っていました。

そこで悪魔は、非常に恐ろしい事を考えました。この自分はその方の踵によって踏まれたので、「マリア様を踏んでやろう」と。そこでピエタとか、マリア様の御像、あるいは御メダイを、毎年信者に踏ませようとしました。二百年間、二百何十年間。こうやって迫害を受けたキリシタンと一緒にマリア様も迫害を受けて、苦しまれました。

そういう最も厳しい迫害の時に、イタリア人のジョヴァンニ・バッティスタ・シドッチという神父様は日本のことを知り、「こういう日本に行きたい」と思っていました。

それで日本に何かどうしたら良い、何を持って行ったら良いか、その中でもちろん持って行くミサの道具とか、色々な物に制限がありました。その中でも、「特別にこれを持って行く!」といって特別に選んだのが、「御悲しみの聖母」です。

今でもこれは東京の国立博物館にあります。涙が一滴、頬に垂れていて、親指を出している悲しみの聖母です。当時日本は、慰めもない、深い悲しみの中にいた、十字架の迫害と、弾圧と、殉教の血で染まった時代でした。その時にマリア様も、涙を流して日本にやって来ました。今でもシドッチ神父様の持って来たマリア様のお姿が東京にあります、残っています。

シドッチ神父様はそのまま数年日本にいたまま、日本の為に捕えられて、地下牢で殉教しました。新井白石と尋問して、「立派な教えだ。」日本の最高の頭脳が、「立派な教えだ。この神父様を返したい」と「何とかしたい」と思ったのですが、結局「ここに残る」という返事を受け、新井白石は何もできませんでした。

マリア様によって守られた日本の隠れキリシタンたちの信仰は、フォルカード神父様が那覇にやって来て、沖縄にやって来て、そこで日本を、「日本の宣教の為に一番必要なのは何か」というと、「マリア様の汚れなき御心に奉献する事だ」と信じて、日本をまず汚れなき御心に奉献しました。1844年の5月1日です。その「汚れなき御心に奉献する」という事の素晴らしいこのアイデアは、一体どこから来たのでしょうか?

おそらく、パリの勝利の聖母、当時その主任司祭のデジュネット神父様、モンマルトルのすぐ下の、実は良くない風紀の乱れた地区にある教会で、主日にもあまりミサに来る人がいませんでした、数人しかいません。はい、数人です。何百人の間違いではありません。ほんの数人でした!

「あぁ、本当に今日はダメだ、本当に残念だ。」特にフランス革命の直後でしたので、もう信仰はほとんど忘れられているような所でした。それでも聖フランシスコ・ザヴェリオのその祝日に、聖フランシスコのミサをする時に声を聞くのです、「この教会を、私の汚れなき御心に奉献しなさい。」

「ん?気のせい?」と思っていると、「この教会を私の汚れなき御心に奉献をしなさい。」

「ちょっとへんだな?でも気のせいだ。」

しかし3回も、ミサの途中に聞きます。

神父様は「これは本物だ」と思って、その次の主日の時に、本当にその通りにします。すると教会は、今まで数名だったものが、信者さんでごった返るようになります。そのそれが汚れなき御心に対する信心のセンターとなるのですけれども、リジューの幼きイエズスの聖テレジアもそこに巡礼に行きます。

フォルカード神父様も、おそらくその話を聞いたに違いありません、ちょうど同じ時代です。日本をすぐに聖母の汚れなき御心に奉献します。このフォルカード神父様は、実は日本で宣教したかったのですけれども、日本にいる事はできませんでした。後にフランスのルルドで、聖ベルナデッタのいた修道院のヌヴェールの司教として、ベルナデッタがマリア様に自分を奉献する、その時の立会い人になっています。もちろんマリア様はルルドで、日本の建国記念日に現われました。もちろんマリア様は色んな日を選ぶ事ができました。2月11日を選ばれました。「私は、無原罪の御孕りです。」

ではキリシタンたちにとって、本物のパードレ、本物の伴天連、天国に私たちを連れて行って、一緒に伴って連れて行ってくれる人、伴天連、パードレ、そしてそれを区別して、そして私たちの信仰を守って下さる一番重要な方は誰か。2つの単語でした。「サンタ・マリア」です。はい、「サンタ・マリア」。

そこで、フランス寺が建てられた、遂に外国のお寺が建てられたのです。

隠れキリシタンたちは、政府の目を、まだ幕府の厳しい目を、監視の目を伺いながら、信仰告白をすべきかしないか、本物かどうか、ここで言ってしまっては、生きるか死ぬか、殺されるか殺されないかの時でした。非常に慎重に、フランス寺にやって来た一団の人々がいます。

1865年3月17日の事でした。まず聞いたのは何か。

「サンタ・マリアの御像はどこ?」

そしてプチジャン神父様が、マリア様を見せます。

すると人々は「あぁ、サンタ・マリア様!」、「あぁサンタ・マリアだ」「サンタ・マリアさまだ」「あぁサンタ・マリア様!」「マリア様!ジェズス様を連れてらっしゃる!」「あぁ!これだこれだ!」「これこれ!」

そして「あなた様の心と私の心は同じ。」「え!?」

そしてこうやって、キリシタンの七代の後の子孫が、マリア様を通して発見されました。

実はその人たちは、その前にプロテスタントの所にも行ったようです。そしたらプロテスタントの牧師さんが、「あぁ、妻を紹介します。」「あぁ、そうですか、ノーサンキュー」と言って帰って行ったそうです。

なぜかというと、もちろんこのキリシタンが求めていたのはプロテスタントの奥さんではなかったからです。イエズス様のお母様でした、サンタ・マリアでした。

このキリシタンたちは、実はその後に流刑の処罰を受けます。でもそうやって流刑された子供たちをマリア様は、その流刑の地まで行って慰めて、励ましていました。有名なのは、ジョアン・バプチスタ安太郎が津和野にいた時に、「青い服を着た美しい女性の方が、真夜中になると私に話しかけて下さる」と言って殉教しています。

こうやって、1917年のポルトガルのファチマで、人類の為にマリア様は私たちに、ご自分の汚れなき御心を教えて下さいました。そして、「この御心に奉献するのを望む、御心に対する信心を確立する事を天主は望んでいます」と言われました。日本は既にそれよりもずっと前から奉献されていたのですけれども、ポルトガルでようやくその事を仰いました。

しかもその同じ年に、同じ100年前、ローマではコルベ神父様が特別のインスピレーションを受けて、「マリア様の為に何かをしたい。マリア様の為に自分を全て奉献する。汚れなき聖母の、インマクラータの騎士会を創る」という特別の信心会を創りました。そしてこのコルベ神父様を、まず祖国ポーランドで働かせるのですけれども、このコルベ神父様を送った行った別の国があります。日本でした。

他に色々な国もあったかもしれません。コルベ神父様を受け入れるにふさわしいような国々もあったかもしれません。もっとマリア様を愛するような国があったかもしれません。マリア様は、この100年前に選ばれた特別のこの男を、「日本に行け」と「長崎に行け」と送りました。

マリア様の道具として、コルベ神父様は世界の色々な所があったにもかかわらず、カナダのケベックもあっただろうし、ブラジルのサンパウロもあっただろうし、チリのサンチアゴもあったでしょうし、中国の上海もあったかもしれません。フィリピンのマニラもあったかもしれません。でもコルベ神父様は、日本に来ました。日本で無原罪の園を創立しました。

日本のカトリック信者の私たちの先祖が、全く何もできない、その意思決定に全く力がなかったにもかかわらず、日本は戦争に突入していきます。キリスト教は迫害を受けています。「キリシタン、外国の宗教だ」という事で、監視や意地悪を受けます。しかし日本の信者たちはそれでも、日本にいつも忠実で、日本の平和の為に、世界の平和の為に祈っていました。

日本の平和を、終戦を決定的にしたのは、長崎の大部分の信徒が原爆で亡くなって、犠牲として捧げられた時でした。そのちょうど8月9日、東京では御前会議があって、そして「戦争をこのまま続けるか、続けないか」、その会議が始まったその時に、原爆が長崎で炸裂しました。そして犠牲者となったのは、聖母の被昇天の為に準備をしていた、長崎の信徒でした。12000名の内の8500名が原爆で亡くなったそうです。大部分。するとその原爆の被害を受けた信徒たちは、「みははマリア、身も心も、とこしなえに捧げまつる」と言って、歌を何度も何度も歌って、息絶え絶えに歌って、亡くなっていきました。

長崎の、マリア様に捧げられた無原罪の御孕りに捧げられた大聖堂が、東洋一大きいと言われた大聖堂が、灰となって、夜中に崩れ落ちてしまうのですけれども、ちょうどその崩れ落ちたその瞬間、結局天皇陛下が、「戦争はもう終わりだ!」という決断をしました。

昭和天皇は民主主義を信じていたので、議会制度を信じていたので、議会が議員が決める大臣が決めるままに、「そうかそうか」と判子を打ってただけだったのですけれども、それを無視して、自分が「自分の意志はこうだ!」と決めた時が一生涯で2回ありました。1回は2.26事件という時で、もう1回はこの終戦の時でした。戦争を始めるのも本当は嫌で嫌で仕方がなかったのです。でもそれを言っちゃうと困るので最初には言うことがありませんした。しかし戦争を終える時には、天皇陛下は自分の意思をはっきり言いました。でも「それができたのも、長崎の信徒の犠牲があったからだ、それに違いない」と永井博士は言います。

横浜の教区長だった、戸田帯刀神父様という方がいて、この方は山梨の甲府の貧しい所で生まれた子供でした。頭が良くて、ローマに行って勉強して、そして日本に帰って来て、戦争が終わる為に夜中に起きて、毎日毎晩2時間、御聖体の前でファチマのマリア様にお祈りしていました。祈りと犠牲を捧げていました。50日間ずっとやっていたそうです。

戦争が終わった時、パウロ永井隆博士は、11月の慰霊祭の時に弔辞にこう言いました、「日本は、聖母に捧げられた国であり、我が浦上の天主堂も、特に聖母に捧げられたものである事を思い出します。信仰の自由の無い我が国において、豊臣、徳川の迫害にも滅ぼされず(マリア様のおかげで)、明治以来、軍・官民の圧政にも負けず(マリア様のおかげで)、幾多殉教の血を流しつつ400年(マリア様のおかげで)、正しき信仰を守り通した我が浦上教会こそ、まこと世界中より選ばれて、天主の祭壇に捧げられたる清き子羊の群れではないでしょうか。浦上が浦上教会が世界中から選ばれて、燔祭に捧げられた事を天主様に感謝します」と、感謝しました。

こうやって、この戦争が終わった、マリア様からの終わったというその実はその日は、8月15日、マリア様の被昇天の日でした。

すると日本の司教は、「これはマリア様の御取り次ぎでなければあり得ない。」なぜならば、日本の国はもう国民一丸となって、竹槍を持って、「もう全滅しても自分たちは戦うのだ!」と言っていた、小学生も竹槍を持って準備していたのですから、「これで降参だ」なんて言う事は考えられませんでした、実は、本当は。

しかしそれが聖母の被昇天の日に、「戦争は終わりだ」という事が分かり、そのお恵みを受けたので、日本の司教団はすぐに、「マリア様に、日本を聖母の汚れなき御心に奉献しよう」と決意しました。

ファチマのマリア様は、聖母の汚れなき御心についての信心も話しました。それと「そのファチマのメッセージの続きだ」と言われるものを、今度はマリア様は日本の秋田で、わざわざ日本に来られてお話になりました。するとポルトガルのファチマで仰った続きを、マリア様は仰っています。

「教皇、司教、司祭の為にたくさん祈って下さい。あなたは洗礼を受けてから今日まで、教皇、司教、司祭の為に祈りを忘れないで、よく唱えてくれましたね。これからもたくさんたくさん唱えて下さい。今日の事をあなたの長上に話して、長上の仰るままに従って下さい。あなたの長上は、いま熱心に祈りを求めていますよ」と。

「私の娘よ、私の修練女よ。全てを捨てて、よく従ってくれました。耳の不自由は苦しいですか。きっと治りますよ。忍耐して下さい。最後の試練ですよ。手の傷は痛みますか。人々の償いの為に祈って下さい。ここの一人一人が、私のかけがえのない娘です。聖体奉仕会の祈りを心して祈っていますか。さぁ、一緒に唱えましょう。償いの為に祈って下さい。教皇、司教、司祭の為に祈って下さい。」

「私の娘よ。主を愛し奉っていますか。主をお愛しするなら、私の話を聞きなさい。これは大事な事です。そして、あなたの長上に告げなさい。多くの人々は、主を悲しませております。私は、主を慰める者を望んでおります。天の御父の御怒りを和らげる為に、罪人や忘恩者に代わって苦しみ、貧しさをもってこれを償う霊魂を、御子と共に望んでおります。御父がこの世に対して怒り給うておられる事を知らせる為に、御父は全人類の上に、大いなる罰を下そうとしております。御子と共に、何度もそのお怒りを和らげるように努めました。御子の十字架の苦しみ、御血を示して、御父をお慰めする至愛なる霊魂、その犠牲者となる集まりを捧げて、お引止めしてきました。祈り、苦行、貧しさ、勇気ある犠牲的行為は、御父のお怒りを和らげる事ができます。あなたの会にも、私はそれを望んでいます。貧しさを尊び、貧しさの中にあって、多くの人々の忘恩、侮辱の償いの為に、回心して祈って下さい。聖体奉仕会の祈りを心して祈り、実践して贖罪の為に捧げて下さい。各自の能力、持ち場を大切にして、その全てをもって捧げるように。在俗であっても祈りが必要です。もはやすでに、祈ろうとする霊魂が集められています。形にこだわらず、熱心をもってひたすら聖主をお慰めするように祈って下さい。」

「あなたが心の中で思っている事は、まことか?まことに捨て石になる覚悟がありますか。主の浄配になろうとしている私の修練女よ。花嫁がその花婿にふさわしい者となる為に、3つの釘で十字架に付けられる心をもって誓願を立てなさい。清貧、貞潔、従順の3つの釘です。その中でも基礎は従順です。全き服従をもって、あなたの長上に従いなさい。あなたの長上は、良き理解者となって、導いてくれるでしょう。」

第3のメッセージです。
「愛する私の娘よ、これから私の話す事をよく聞きなさい。あなたの長上に告げなさい。前にも伝えたように、もし人々が悔い改めないならば、御父は全人類の上に大いなる罰を下そうとしております。その時、御父は大洪水よりも重い、今までにない罰を下されるに違いありません。火が天から下り、その災いによって人類の多くの人々が死ぬでしょう。良い人も悪い人も共に、司祭も信者と共に死ぬでしょう。生き残った人には、死んだ人々をうらやむほどの苦難があるでしょう。その時私たちに残る武器は、ロザリオと、御子の残されたしるしだけです。毎日ロザリオの祈りを唱えて下さい。ロザリオの祈りをもって司教、司祭の為に祈って下さい。悪魔の働きが教会の中まで入り込み、カルジナルはカルジナルに、司教は司教に対立するでしょう。私を敬う司祭は同僚から軽蔑され、攻撃されるでしょう。祭壇や教会が荒されて、教会は妥協する者でいっぱいになり、悪魔の誘惑によって、多くの司祭、修道者がやめるでしょう。特に悪魔は、御父に捧げられた霊魂に働きかけております。たくさんの霊魂が失われる事が私の悲しみです。これ以上罪が続くなら、もはや罪の赦しは無くなるでしょう。勇気をもって、あなたの長上に告げて下さい。あなたの長上は、祈りと贖罪の業に励まなければならない事を、ひとりひとりに伝えて、熱心に祈る事を命じるでしょうから。」

「まだ何か聞きたいですか?あなたに声を通して伝えるのは今日が最後です。これからは、あなたに遣わされている者と、あなたの長上に従いなさい。ロザリオの祈りをたくさん唱えて下さい。迫っている災難から助ける事ができるのは、私だけです。私に寄りすがる者は、助けられるでしょう。」

と、ファチマの続きを、日本に来られて仰って下さいました。ファチマのロザリオの各玄義の各連の祈りは、ファチマではマリア様が仰って下さいましたけれども、秋田では天使がシスター笹川に教えました。世界、色んな言葉と色んな国と色んな民族がありますけれども、このファチマのロザリオの祈りを教えてくれたのは、ポルトガル語と日本語だけでした。

そうして、悲しみのマリア様は、1975年の初土曜日から1月の初土曜日から、1981年の9月15日の悲しみの聖母の日まで、101回の涙を流します。日本の救霊の為に苦しむ涙です。それで同時に、日本をこんなにも愛しているにもかかわらず、無視されて、冷淡で、無関心で、マリア様の愛は足蹴にされている事を嘆いている涙でした。

天使はある時言います、「日本はマリア様に捧げられたという事を喜んでいるけれども、この信心は全く無視されている。非常に悲しんでおられる」と。

そこで、日本のカトリックの歴史の最初から深く根付いている、マリア様に対する信心と愛と、この汚れなき御心に対する奉献のこの精神は、今でもなければなりません。

マリア様をこのまま泣かせて、「それで平気だ」と言うわけにはいきません。私たちは聖母の小黙想会をこうやって、そしてその最後の冠として、最後の終わりの締め括りとして、マリア様に日本を奉献する、汚れなき御心に日本を奉献しなければなりません。

もしも日本がこのまま存続するか、滅びてしまうかは、マリア様の汚れなき御心を日本が尊重するか、しないかにかかっています。残念ながら、その事を理解その緊急性を分かる人は、残念ながらあまりいません。これがマリア様の御涙の理由の一つでもあります。

本当ならば、日本の司教様たちが皆に呼びかけて、「おい、日本の司祭たちよ、日本の全ての信者の皆さん、日本はマリア様からこれほど愛されている国ですから、何とか私たちはその愛に報わなければなりません。ですから、8月15日は仕事があっても休んで下さい。マリア様の特別な日として、この日はミサに来て下さい。マリア様をお慰めする為に、聖体拝領をして下さい、告解をして準備して下さい。聖母行列をして、マリア様を崇めましょう。キリシタンの時代からやっているこのマリア様の祝日を祝いましょう。そして日本の昔からの伝統に従って、日本の司教たちがやっていたように、最初のフォルカード神父様がやって下さったように、それを脈々と続いて、今年このファチマの100周年で、日本をマリア様の汚れなき御心に奉献しなければなりません。その奉献を更新しなければなりません。さあ、日本の為にも、世界の平和の為にも、日本の信者さん、教会に来て下さい!教会が小さかったら、甲子園に集まって下さい!甲子園でも足りなかったら、東京ドームに来て下さい!」と、本当ならばお話して下さって、リーダーシップをとって日本の人々に、是非このマリア様への愛を奉献をするようにして下さらなければなりません。

が、私の残念ながら知る限り、そのそうして下さるというニュースはありません。

もしもできれば、本当に日本中の司教様たちに会いに行って、「司教様、お願いです!跪いてお願いします!どうぞお願いですから、マリア様に日本を奉献して下さい。日本の子孫が、日本の平和の為に、日本の子孫代々の為に、どうぞなさって下さい!」とできるならばお願いしたいくらいです。

持っている力をかけて、できるだけの事をして、「本当に、司教様、」もしもそうして下さるならば、喜んでお願いしたいところです。

しかし、もしも司教様がなさって下さらない、お願いしてもなさって下さらない、神父様にお願いしてもやって下さらない、という事であれば、これは緊急手段を取るしかありません。もしも誰かが今、「命がもうこれで危ない」という時に、「助けて欲しい!」と言う人がいる時に、司祭は通って、お医者さんも通る時、看病する人がいなかったら、たとえ医者の免許を持っていなくても、行って何か応急手当をしなければならない義務があるじゃないでしょうか。もしもそれをそのまま放っておいたら、これは殺人を援助した、殺人幇助の罪に問われてしまいます。

そこで、カトリック教会から真に正式に公認されている、1970年11月1日に創られた修道会の、聖ピオ十世会の修道会の一員として、そしてその正当な長上であるフェレー司教様から、「日本で働け。」そのアジア管区の管区長から、「日本で働け」と言われた、その「日本の霊魂の為に応急手当てをせよ!」と言って命じられた、その命令とその義務と緊急状態を見て、できる限りの、私に与えられたできる限りの力で、権能で、力で、この伝統を明日続けようと思っています。

ですから、もちろん日本の司教様がして下されば良いのですけれども、それを補うつもりで、その地位にはないのですけれども、しかしできる限り応急手当てをして、日本を、まず私たちの全ての信者さんと、そして日本の国民と日本にいる全ての人々を、マリア様の汚れなき御心に奉献します。憐みのマリア様の御憐れみにひたすら乞い願って、この奉献を顧みて下さるようにお祈り致しましょう。

「奉献」には色んな意味があります。

マリア様はロシアを、聖母の汚れなき御心に対する信心の1つとして、聖母の汚れなき御心に対する「奉献」という事を話します。このこれをポルトガル語では、“consagração”英語では“consecration”「聖なるものとする」という言葉を単語を使うのです。

よくこの「聖なるもの」この“consecration”という事には、「聖別する」という単語を使います。なぜかというと、言葉の厳密な意味では、「天主様の為だけに、もう世俗のものには使わない為に、天主様に直接使う為に、これはしかも一時的ではなく、もう金輪際ずっとそうであるように、ある特別の儀式をもって、天主様に捧げる」という事を“consecration”と言うのです。

それで、4つの要素があります。

「天主様の直接的の奉仕する、その為にだけに使う」という事。

もう1つは、「その他天主以外のものには絶対使わない」という事。で、しかも「これは金輪際ずっとそうだ」という事。

そしてもう1つは、「特別な儀式をもって」という事。
例えばカリスを聖別する時に、「普通のもうその時には、ミサの時だけに使う」と、そして「もう他の、普通の一般の料理や何かの時には使わない」それから、「もう金輪際ずっとそうだ」という事で、私たちがいつも使っているこのカリスをですね、ティシエ・ド・マルレ司教様が特別の儀式でこう聖別してくれました、“consecration”してくれました。
あるいはカルメル会の童貞様が終生誓願を立てる時に、“consecration”「聖別」させられて、「もう祈りと奉仕の為に、天主様の為に生きる」という風になります。
司教様が司教様になる時も、「叙階」とだけ言うのじゃなくて、聖伝の言い方によると「聖別される」と言います。司教様はここに指輪をはめますけれども、これはもう、「教会と結婚する」という意味です。

ところで、マリア様にはそのそれよりも少しだけ大きな意味で、広義の意味で、“consecration”というのができます。なぜかというと、マリア様は天主三位一体とあまりにも密接に結び付いているので、救いの事に関して切り離す事ができないからです。

天主聖父の愛する娘、聖子の母、聖霊の浄配として、あたかも三位一体と一心同体であるかのようであるからです。そして三位一体は、イエズス様をマリア様に全く委ねて、イエズス様は自分をマリア様に全く奉献して、委ねて、マリア様のものとなって、金輪際マリア様だけのものになりました。それで聖霊も、マリア様と一心同体となり、聖霊の花嫁とも言う事ができるほど、聖霊が生きているかのように、マリア様と聖霊は1つになっています。これほどマリア様は三位一体の最高の傑作なので、天主と分かち難く結び付いているので、マリア様についても「聖別」“consecration”と言う事ができます、マリア様に自らを奉献する事。

なぜかというと、第2の理由は、「マリア様に奉献する」というのは、「マリア様を通して天主に奉献する」という事だからです。なぜかというと、マリア様は自分の事を自分に取っておかずに、全て三位一体に奉献するからです。

第3に、イエズス様がマリア様に全て自分を余す事なく与えて、30年間一緒にマリア様の為に生きたので、私たちはイエズス様の真似をしなければならない、キリスト信者というのはキリストに真似る者ですけれども、キリストに真似るという事は、つまりマリア様に全く身を委ねるという事です。

ただ日本語で訳す場合には、天主への特別の「聖別」というのと区別する為に、ここでマリア様に対する「奉献」という言葉を使いたいと思っています。

でもつまり、私たちは全くマリア様を通して三位一体のものとなって、イエズス様に倣って、という事で、天主に自分を聖別するという事と等しいのですけれども、その最も良い手段が、「マリア様に自分を奉献する」という事です。

このマリア様に対する奉献は、それでも色んな程度があります。

この洗礼を受けたばかりの赤ちゃんを、お母さんが、あるいは司祭が、「マリア様の元にこれを奉献します」と言う、でも赤ちゃんは、もちろんお母さんや司祭の事に同意しますけれども、でも赤ちゃんが自分の自らの力でその奉献という事をやったわけではありません。

「自分の意志をもって奉献する」といっても、2つの度合いがあります。

1つは、「自分の意思でマリア様に奉献する」と言いながら、マリア様の為に働くというよりは、「マリア様が、だから私たちの為に働かなければならない」という事をお願いする。「私はマリア様に奉献するので、マリア様はだから、ご自分のものとして私を守って下さい」という意味の奉献があります。「マリア様、私の眼を、耳も、鼻も、口も、手も全部マリア様に奉献します。だから、マリア様のものとして私を守って下さい」という奉献もあるのですけれども。

更に良い奉献は、もっと高度な奉献は、「マリア様のものとして奉献します。だから私は、マリア様の為に全てを使って生きます。マリア様の御心に従って生活します。マリア様の道具として使って下さい。私はマリア様の道具として生きます。マリア様のしもべとして生きます。マリア様の婢女として生きます。」マリア様も御告げの時に言いました、「主の婢女なり。仰せの如く、我になれかし。」それと同じ事を、私たちもマリア様に、「マリア様のしもべとして、どうぞ道具として使って下さい」という意味です。

そこで終戦後、日本の司教団がした奉献文を少し分析してみると、こういう言葉があります。

「願わくは聖母、御憐れみの御心を開きて、我らの願いを聞き入れ給え。我ら今、この世の全ての苦しみ、悩みを雄々しく耐え忍び、そを世の罪の償いとして天主に捧げ、その御怒りをなだめ奉り、わけても御身の汚れなき御心に倣いて、主の御旨を重んじ、身を清く持して、聖なる一生を送らんと決心する。」

そこで日本の司教団は終戦直後に「日本を奉献する」と言って、その奉献、「だから守って下さい」と言うのみならず、「私たちの全ての苦しみを耐え忍んで、それを償いとして捧げます。償いとして捧げて、御怒りをなだめるようにします。特に御心に従って、身を清く持して、聖なる一生を送ります」と約束します。

それから、マリア様の汚れなき御心の集祷文を引用して「全能永遠なる天主、主は童貞マリアの御心の内に、聖霊のいみじき御宿をしつらえ給いたるにより、願わくは御憐れみをたれ、かの汚れなき御心に日本を捧げ奉りたる我らをして、聖心に沿いて生くるを得しめ給え。」と祈ります。

つまり「私たちが主の聖心に沿いて生きます、主の道具として働きます」と言っています。

とても良い奉献文だと思います。私たちはこれを明日更新しようと思っています。

では、最後にめでたしを唱えて、祝福を受けて、解散とします。
この黙想は、ご自宅で後に個々でなさって下さい。

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】