Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

奇跡的な漁と福音宣教の活動についての説教:イエズスが人類に天主の教えを授けられるのはカトリック教会を通してのみ。

2023年07月07日 | お説教・霊的講話

奇跡的な漁と福音宣教の活動についての説教

ドモルネ神父 2023年6月25日

はじめに

福音で、教会は私たちに奇跡的な漁の話をします。この話は、私たちの主イエズス・キリストの神性を証明する歴史的な事実であるだけでなく、カトリック教会と福音宣教の活動に関連するいくつかの教えを含んでいます。

1.ペトロの舟

私たちの主イエズスは、天主について、また天主の私たちに対する優しさについて、そして、私たちがそれに応えて心を尽くして天主を愛し、それによって永遠の幸福を得ることの必要性について、人々に教えておられました。人々がイエズスに引き寄せられたのは、イエズスの優しさ、奇跡、生き方の聖性、そして話の力によるものでした。その日、イエズスは、ご自分の前に人々を集め、ご自分の声をもっとよく聞かせるために、ペトロの舟に乗り込まれて、そこから説教されました。

イエズスが聖ペトロの舟を選ばれたのは、偶然ではありません。それには意味があります。聖グレゴリウスは、イエズスが人々に教えられたこのペトロの舟は、イエズスによって創立され、聖ペトロとその後継者たち、すなわち教皇たちに託されたカトリック教会を意味する、と述べています。イエズスが人類に天主の教えを授けられるのは、この教会を通してのみです。舟の外には、波の荒い水しかなく、私たちは溺れてしまうように、カトリック教会の外には、一貫性のない教えしかなく、人は生きている間に無駄に疲れ果ててしまい、死ぬときには絶望以外に何も残らないのです。

2.聖ペトロの使命

群衆に説教なさった後、私たちの主イエズス・キリストは、聖ペトロにこう命じられます。「沖に乗り出して、網を下ろして漁をせよ」。イエズスは実際、夕食用の魚を捕ることを気にしておられたのでしょうか。もちろんそうではありません。この命令にも、霊的な意味があります。イエズスは、使徒たち、特に聖ペトロに、たとえ地の果てに住んでいる人々であっても、たとえ誤謬と不道徳の淵に沈んでいる人々であっても、すべての人を聖性の高みへと引き寄せるために、行って探し求めるという使命をお与えになりました。カトリック教会には、天主とイエズス・キリストの栄光のために働くこと、すなわち、天主とイエズス・キリストをすべての人に知らせ、愛されるようにし、そうすることで、人が自らの幸福を得るようにさせること以外の目的はありません。実際、人が自らの真の幸福を得ることは、天主にのみ完全に存在し、イエズス・キリストを通じてのみ私たちに与えられる真理を知り、美を賞賛し、善を愛することにおいてのみ可能となるのです。

ご昇天後、聖ペトロと彼の後継者たちは、自分たちが受けた使命を果たしました。彼らは、世界中に、北極圏やヒマラヤ山脈、アフリカや南米の赤道直下の森林地帯など、最も過酷な地域にも宣教師を派遣しました。彼らは、諸民族の残酷な敵意にもかかわらず、危険や病気にもかかわらず、多くの死にもかかわらず、たゆまず宣教師を送りました。人類の歴史全体の中で、今日までこのような活動を行ってきたのはカトリック教会だけです。それはなぜでしょうか。そのような活動をするためには、その創立者であるイエズス・キリストからカトリック教会のみが得ている天主の御力を必要とするからです。

3.夜に漁をすること

イエズスの命令を受けて、聖ペトロはこう答えました。「先生、私たちは夜じゅう働いて何一つとれなかったのです。けれども、お言葉ですから網を下ろしてみましょう」。聖ペトロは、夜が漁に最も適した時間であり、もし夜の間に何も捕れなければ、おそらく昼も何も捕れないだろうと述べました。しかし、聖ペトロとその仲間たちは、イエズスの御言葉を信じて、網を投げると、「大量の魚がかかって、網は破れそうになった」(ルカ5章5-6節)のです。この福音史家は、ただこの漁の奇跡的な面を強調するためだけの目的で、昼や夜の漁についての聖ペトロの言葉を伝えたのではありません。ここには、重要な霊的な意味もあるのです。

イエズスはこう言われました。「私は世の光である。私に従う人は、闇の中を歩かず、命の光を持つであろう」(ヨハネ8章12節)。昼の間に漁をするということは、イエズス・キリストを通して、人が真、美、善を手に入れることができるように、導くことを意味します。夜の間に漁をするということは、イエズス・キリストから離れて、人がそれらのものを手に入れられるように、導くことを意味します。しかし、これを行おうとした人々は失敗しました。人類の歴史を振り返り、私たちが賢人、哲学者、霊的指導者と呼ぶ人々、例えばブッダ、孔子、老子、ムハンマド、ダライ・ラマなどを見てください。彼らは、人が真理、平和、聖性、幸福を手に入れられるように導くと主張してきました。しかしすべては無駄でした。人類の歴史の中で、諸民族を、残虐や暴力から秩序や平和へ、無知から最高の知的科学の発展へ、不道徳から美徳の実践へと導くよう、変容させることができた、ただ一つの存在は、何者でしょうか。それはカトリック教会です。カトリック教会は、どのようにして、このようなことができたのでしょうか。それは、人々にイエズス・キリストを知らせ、愛させ、そして人々が主の愛の法を実行するのを助けることによってです。欧州文明が地上の他のすべての文明をはるかに凌駕してきたのは、カトリック教会が、何世紀にもわたって、この文明を他のどの文明よりも鍛え上げてきたからにすぎません。

日本の歴史における最大の不幸は、17世紀の日本の政治指導者たちが、イエズス・キリストを排斥し、カトリック教会が日本にその慈善的な影響を広めることを禁じるという選択をしたことです。聖フランシスコ・ザビエルが日本に来たとき、教会の慈善活動が始まり、聖性の最初の実りが現れました。天主の原動力によって、論理的に言えば、教会が、欧州で欧州文明に対してなしたように、日本文明を独自の精神の頂点へと導くはずでした。しかし、残念ながら、それは起こりませんでした。なぜでしょうか。日本の政治指導者たちが、高慢という選択を、つまり、自らのうちに、自らによって、理想を見いだすという選択をしたからです。その結果、彼らは自らと国民のほとんどを、人間の心の無知の中に、人間の意志の悪意と弱さの中に、閉じ込めてしまったのです。聖母はマグニフィカトの中でこう言われました。「天主は驕る思いの人々を散らし、権力者をその座から下ろし、低い人々を高め、飢えた人を良いもので満たし、富む人を空手で返されます」(ルカ1章51-53節)。

結論

親愛なる信者の皆さん、私たちは、日本や他の国々の歴史をやり直すことはできません。しかし、どこにいても、聖ペトロのまねをすることはできます。「お言葉ですから、網を下ろしてみましょう」。網を下ろすとは、霊魂の救いのために働くことを意味します。イエズスのお言葉によってそうするということは、私たちの主の御旨に従って、また主と一致して、いつでもどこでも働くということです。私たちがイエズスの御旨に従って働くのは、イエズスが私たちの人生の中で出会わせてくださる人々に、私たちが、イエズスを知らせ、その人々がイエズスを愛するように、私たちが努めるときです。私たちがイエズスと一致して働くのは、私たちが、ただ天主の栄光と霊魂の救いだけを求め、また、霊魂の回心のために、私たちが自分の技術よりもイエズスの恩寵を頼りにするときです。実際、人々の心を天主の真理の光へと開き、彼らの心を天主の愛へと動かすことは、人間の仕事ではなく、天主の仕事なのです。

使徒の聖母が、天主の栄光と霊魂の救いのために働くたゆまぬ熱意を、私たちに与えてくださいますように。


シュナイダー司教「聖伝のラテン語ミサの禁止は教会権力の濫用であり、その禁止に従わないことは実際には不従順ではない」

2023年07月06日 | カトリック・ニュースなど

シュナイダー司教「聖伝のラテン語ミサの禁止は教会権力の濫用であり、その禁止に従わないことは実際には不従順ではない」

"The prohibition of the traditional Latin Mass is an abuse of ecclesiastical power and noncompliance with its prohibition does not in fact constitute disobedience"

アタナシウス・シュナイダー司教の以下の声明は、今日、多くの場所で発表されている。

聖伝のラテン語ミサの禁止は教会権力の濫用であり、その禁止に従わないことは実際には不従順ではない。

  1. 聖伝のローマ・ミサ典礼は、私たちのカトリックの先祖たちの典礼であった。それは、欧州諸国(一部の東欧諸国とアンブロシウス典礼、モサラベ典礼は除く)、すべての米州諸国、そしてアフリカ、アジア、オセアニア諸国のほとんどに伝わったミサの形式であった。
  2. 「以前の世代が神聖だとしたものは、私たちにとっても神聖で偉大なものであり続ける」(教皇ベネディクト十六世)。
  3. 「新しいミサ典礼書の問題は、常に連続していたミサ典礼書の歴史を、聖ピオ五世以前と以後で放棄したこと、また、(古い素材を編集したとはいえ)完全に新しい書物を作り出したことにある」(ヨゼフ・ラッツィンガー枢機卿)。
  4. 新しいミサ典礼書の「出版には、それ以前にもたらされたすべてのものに対する一種の禁止が伴っていた。これは、教会の法および典礼についての歴史において前例のないことである」(ヨゼフ・ラッツィンガー枢機卿)。
  5. 「私は、公会議での議論についての私の知識と、私が繰り返し読んだ公会議の教父たちが行った演説に基づいて、確信を持ってこう言うことができる。これ[すなわち、現在、新しいミサ典礼書の中にある改革]は、第二バチカン公会議の意向とは一致しない」(ヨゼフ・ラッツィンガー枢機卿)。
  6. 聖伝のローマ・ミサ典礼は、少なくともこの千年間全てにわたって、私たちが知っているラテン典礼の聖人たち全員の典礼であった。そのため、その典礼の年齢は千年に及ぶものである。一般には「トリエント」ミサと呼ばれているが、全く同じ形式のミサがトリエント公会議の数世紀前にはすでに使用されており、その公会議は、その由緒ある(尊敬すべき)教理的に確実なローマ教会の典礼形式を法典化することだけを求めた。
  7. 聖伝のローマ・ミサ典礼は、教会の普遍的で途切れることのない典礼法規を証言しているという点で、東方諸典礼と最も近い親和性がある。「聖ピオ五世のローマ・ミサ典礼書には、東方のいくつかの典礼と同様に、司祭が聖なる秘跡の前で最も深い感覚の謙遜と敬意を表す非常に美しい祈りがある」(教皇ヨハネ・パウロ二世)。
  8. それゆえ、教皇と司教たちは、千年以上にわたって聖人たちが捧げてきた、このような由緒ある形式の聖なるミサを禁じたり制限したりする権限を持っていない。それは、教皇や司教たちが、由緒ある形式の使徒信経やニケーア・コンスタンティノポリス信経を禁じたり大幅に改革したりする権限を持っていないのと同じである。
  9. 前例のない教会の危機の時代に、現在の教会人たちによって不幸にも出された、その由緒ある形式の聖人たちのミサを濫用的に禁止することに従うことは、偽りの従順となる。
  10. 教皇と司教たちを認め、彼らを敬い、彼らのために祈り続けるならば、聖伝のミサの禁止を遵守しなくても、その事実【遵守しないこと】によって離教者となることはない。
  11. ローマ教会の奪われ得ない財産をこのように前代未聞のやり方で禁止することに形式的に従わないことで、実際には、全時代のカトリック教会と、その由緒ある法典化された形式のミサを熱心に捧げ、保存を命じたすべての教皇に従うのである。
  12. 聖伝の典礼のミサを現在禁止していることは、一時的な現象であり、やがて終わるであろう。ローマ教会は今日、一種の典礼追放、すなわち、聖伝のラテン語ミサがローマから追放されるということを経験しているが、この追放は、確実に、いつか終わりを迎える。
  13. 聖伝のラテン語ミサは、千年以上にわたって途切れることなく使用され、時を超えて普遍的に受け入れられることによって、聖人たちによって、またローマ教皇たちによって、聖化されたのであるから、それはローマ教会の奪われ得ない財産に属する。従って、将来、ローマ教皇たちは間違いなく、その聖伝のミサ典礼の使用をもう一度認め、再確立するであろう。
  14. 将来の教皇たちは、困難な時代に、あらゆる圧力や偽りの不従順の非難にもかかわらず、教会への、また聖座の名誉への真摯な愛の精神をもって、聖伝のミサという偉大な典礼の宝を維持し、後世に伝えたすべての司祭と信者に感謝するであろう。

+ Athanasius Schneider
+アタナシウス・シュナイダー
2023年6月29日、聖ペトロと聖パウロの祝日

Bishop Schneider: Neither Pope nor Bishops Have Authority to "Forbid or Limit" Access to Traditional Latin Mass - Catholic Family News


カルロ・ヴィガノ大司教 2023年6月16日 LGBTQセクトの冒涜的な暴挙を償うための聖体行列の参加者へのメッセージ

2023年07月06日 | カトリック・ニュースなど

【参考情報】ヴィガノ大司教の「冒涜的な『修道女』、LAドジャース、償いの聖体行列」についてのメッセージ

Abp. Viganò’s Message on Blasphemous “Sisters,” LA Dodgers, and Eucharistic Procession of Reparation

カルロ・マリア・ヴィガノ大司教 2023年6月16日

LGBTQセクトの冒涜的な暴挙を償うための
聖体行列の参加者へのメッセージ

イエズス・キリストに賛美。天主および私たちの聖なる宗教に向けられた最近の暴挙に対する償いのために、今日、荘厳な聖体行列に参加される司祭、修道者、信者の皆さんにご挨拶申し上げます。教会における非常に深刻な危機、そして天主の掟と自然法に対する猛烈な攻撃の時に、ロサンゼルス大司教区が共謀したように、また恐れを抱いているように沈黙し、この世の感受性を怒らせずに、実際にそのアジェンダ(行動計画)(こちら)に従って、ほとんどそれを先取りすることに関心を持つ一方で、私たちの主が侮辱され冒涜されているまさにその瞬間に主を裏切っているという事実には全く関心がないことに、私たちはみな打ちのめされ本当に悲しんでおります。これとは対照的に、テキサス州タイラー教区のジョゼフ・ストリックランド司教に感謝の意を表したいと思います。彼の勇敢な公的償い行為の呼びかけ(こちら)が、彼の兄弟である司教たちに対する模範となり、警告となりますように。彼らの沈黙は、聞く耳を持たぬかのようなものであり、またその沈黙は、至聖なる聖心の連祷を唱えるようにとの米国カトリック司教協議会(USCCB)の訴え(こちら)が、償うべき冒涜的行為にもその加害者や共犯者にも言及していないことによって強調されています。

今日、私たちはイエズスの至聖なる聖心(みこころ)の祝日をお祝いします。この祝日は、主が1673年にフランスの修道女で神秘家の聖マルガリタ・マリア・アラコックにご出現になり、ご聖体の祝日の八日間後の金曜日に荘厳に祝うようお命じになったものです。イエズスはシスター・マルガリタ・マリアに対して、9カ月連続の初金曜日に、ふさわしくご聖体を受ける霊魂には、成聖の恩寵の状態で死ぬという賜物を与えると約束されました。私たちの主は国王ルイ十四世に、フランスを主の至聖なる聖心に奉献し、国旗に聖心を描くよう求められ、もし王がそうしなければ、敵が王政を破滅させると告げられました。しかし、もし国王がフランスを奉献しなかったことが、血なまぐさい革命によってこの輝かしい国を霊的にも物質的にも破滅させることができたとすれば、またもしロシアをマリアの汚れなき御心(みこころ)に奉献しなかったことが――1917年に聖母が告げられたように――、物質主義の無神論および共産主義という誤謬を世界中に広めることを誘発することができたとすれば、サタンのしもべと悪魔崇拝者によって現在支配されているこの反逆の世界に、今どのような罰が下ろうとしているのでしょうか。また、高位聖職者たちが、新世界秩序のグローバリズムの体制に従うことを日々公言し、天主の御目の前で復讐を叫ぶ罪をも正当化し、キリストの敵どもが冒涜を吐き出して、私たちの宗教の最も神聖なものを侮辱するときに、罪深く沈黙しているという教会の体に、今どのような罰が下ろうとしているのでしょうか。

おそらく私たちは、現在の背教を、教会の中で、裏切りが強まる中で、今や60年間続いてきた不忠実を罰するために天主がお許しになった鞭とみなし始めるべきでしょう。その裏切りの唯一の目的は、私たちには今では認識できることですが、主が使徒たちに教えられたカトリック信仰を取り消し、教会をフリーメーソンの破壊転覆的な原理と人間の崇拝に触発された、人道的で水平的な偽物の教会に置き換えることです。

今日、私たちはイエズス・キリストの無限の愛(愛徳で鼓動して燃え上がる心臓に象徴されます)の神秘を祝います。主は托身し給い、私たちのために十字架上で苦しんで死なれ、原罪以来人間が犯したすべての罪の完全な償いを永遠の御父にお捧げになるというところまでされたのです。その天主の愛、最も完全な愛である天主は、まるで主が祭壇の聖なる秘跡における現存において私たちに残してくださった愛の遺産を封印なさるかのように、ご聖体の祝日の八日間を締めくくるためにやって来られます。主が至聖なるご聖体を制定したいと思われたのは、実際、私たちへの愛のためです。主は、多くの善き霊魂、多くの子どもたち、多くの若者たち、多くの夫婦がひざまずいて、ご聖櫃の前にいるのを、あるいは輝く聖体顕示台の周りに集まっているのをご覧になるという慰めを得るために、不敬と冒涜に苦しむこともいとわれず、ご聖体のパンという謙遜なベールの下に現存し続けておられます。また、主に立ち返り、主の聖なる助力を信頼し、自分が赦しと恩寵を必要としていることを謙虚に認識することによって、欠点や弱さを癒やすためにやって来る、多くの罪人たちに対しても同じです。

では、なぜこれほどまでに「善」に対して激しい怒りが向けられるのでしょうか。隣人への奉仕に人生を捧げる善き人々に対するこの怒りは、なぜなのでしょうか。もし、償うべき過ちがあることや、罪を犯した人間性があることを否定し続けるがゆえに、贖いがあることを認めない人々が、永遠の救いを高慢にも拒絶しているためでないとしたら。【きっとそうなのです】。修道女を滑稽にまねる人々は、この聖なる女性たちが修道院の沈黙のうちに自分たちのためにさえ祈っているという、奉献生活の価値について何と理解していないことでしょうか。そして、この世から非難を浴びるべき行為を容認し、承認している一般人と野球チーム「ロサンゼルス・ドジャース」は、どちらも何という臆病者なのでしょうか。

皆さんが聖なる秘跡にましますイエズスをたたえておられる間、西洋世界中の他の不幸な人々は、公的機関の支援、宗教指導者の奨励、多国籍企業の後援、娯楽と情報の世界の参加を得て、天主の掟と自然法そのものを侵害するという「プライド」を祝っています。このことは、今日、真に差別されている人々は、キリスト教信仰を棄てて「目覚めた」(woke)偶像崇拝を受け入れようなどとは決してしない人々であることを理解させるのに十分でしょう。

有名な陰謀家たちが押し付け、資金提供しているグローバリストの独裁体制は、多様性に価値を見いだすのではなく、むしろそれを無効にしようとしています。その独裁体制は、私たちの自由ではなく、私たちを悪徳の奴隷とすること、共犯者にのみ報酬を与える変質した権力に私たちを依存させること、私たちが、誰も選ばず、誰もあえて大逆罪で逮捕しようとしない腐敗した人々のエリート階級に服従することを求めているのです。

金銭、権力、快楽、成功、不老不死、邪悪なものの誘惑はいつも同じです。「おまえたちは天主のようになる」(創世記3章5節)と、蛇はアダムとエワに言って、嘘をつきました。サタンが、私たちの最初の父祖に天主に背くように説得するために仕掛けることができたとは、どれほど不条理な約束、どれほど図々しい詐欺だったのでしょうか。しかし、二人は、全能の天主に反抗する被造物が、自分たちを天主のようにし、善悪の知識、すなわち、何が正しくて何が正しくないかを決める能力(これは天主の独占的な特権です)を与えてくれると信じたのです。

同じ偽りの殺人的な約束が、私たちが誘惑に服従するときはいつでも、私たちに対して繰り返されます。なぜなら、邪悪な者【悪魔】は、私たちが罪を犯すように仕向けるだけでなく、私たちがどのように行動すべきかを決定する権限を天主から奪い、その行動が罪深いことを否定したいと思っており、それによって私たちは自分に、キリストのご受難の苦しみの責任を負わせてしまうのです。しかし、天主の御稜威(みいつ)に代わって、何が善で何が悪かを決める私たちとは、何者なのでしょうか。罪深い人間の心を惑わし、人間にイエズスの聖心を愛徳で燃え立たせる天主の愛を軽んじさせ、私たちの創造主にして贖い主に対する消えることのない憎しみで永遠の滅びを好み、「初めから人殺し」(ヨハネ8章44節)である者の腕の中に死体として身を投げ出すようにさせることができるとは、どんな全能だという錯乱なのでしょうか。そして、天主の秩序をこのように地獄的に破壊転覆させる共犯者となるよう、いと高き御者の役務者たちを駆り立てるとは、どんな狂気の盲目(十字架のふもとにいた最高法院[サンヘドリン]を思い起こさせます)なのでしょうか。

半世紀以上にわたって進行した教会の世俗化によって、カトリック位階階級は、真理を、御父の永遠の御言葉である天主の御子を、キリストを、恥じるようになりました。キリストが、天主の権利によってだけでなく、蛇の誘惑に屈して死と滅びを選んでしまった私たちを、ご自分の犠牲によって、尊き御血という代価で、取り戻してくださったがゆえに、征服の権利によっても教会と諸国の主であり王であるにもかかわらず、です。

この世俗化は、異端と高慢という二つの知性による罪と、姦淫と自然に反する罪という、それに劣らず深刻な二つの意志による罪が相まって可能になりました。この逸脱は、多くの司祭や司教の間に浸透しており、思い込みで彼らの精神を盲目にし、不純で彼らの意志を鈍らせました。

「おまえたちは天主のようになる」。ジェンダー論、憎悪に満ちたLGBTQの教化による子どもや若者の堕落、配偶者の愛の倒錯、代理母出産、中絶、安楽死、性別移行、性器切断、遺伝子操作などはすべて、創造の行為そのものにおいて天主の座を奪おうとし、人間から、そして自然そのものから、創造主の神聖な刻印を消し去ろうとし、罪と悪徳で人間の霊魂を、至聖なる三位一体が、そこに住まわれ、それを祝福で満たすことができるようにするために、恩寵によって清く聖なるものとされるその霊魂を、殺そうとするグロテスクな試みなのです。

永遠に敗北した者【悪魔】の側による激怒した聞く耳を持たないかのようなこの嫉妬、この憎しみ、これこそが悪魔に、キリストのご受難と死を無効にできるという妄想を抱かせ、できるだけ多くの霊魂を天主から奪い取ろうとさせるのです。このため、悪しき者【悪魔】の怒りは、主にキリストの神秘体である教会に対して放たれるため、教会は、その天主なるかしらと同様に、苦しみと試練を受ける運命にあります。しかし、これは狂気の妄想であり、失敗する運命にあります。なぜなら、私たちの主はこの世に打ち勝ち給うたのであり、この勝利を変えたり軽減したりすることはできないからです。これらの恐ろしいことによる罰は、すでにその本質そのものに含まれています。それは、不毛であり、生命を生み出したり伝達したりすることができず、またその逆に、与えることができるのは、絶望、苦痛、病気、死だけだからです。

親愛なる兄弟の皆さん、サタンの大いなる欺瞞は、霊魂たちに、天主なしでもやっていけると信じさせることにあり、「人間的兄弟愛」がキリスト教の愛徳に取って代わる世界、天主への愛や天主の私たちへの愛に基づく代わりに隣人への愛に基づく世界を築くことができると信じさせることにあるのです。しかし、このユートピア的な世界、すなわち、人間が自らをキリストにおいて永遠の御父の子であると認識せずに、兄弟であるべきだというこの楽園は、実際にはこの世の地獄であり、反キリストの国を準備するためにサタンが打ち立てようとするディストピアなのです。母親が胎内の子どもを殺したり、子どもを持てない夫婦に売ったりするという地獄です。子どもたちを、決してなれないもののように見せるという錯覚に陥らせて去勢し、恐ろしくも切断する一方で、胎内にいる何百万もの子どもたちに死を宣告するという地獄です。高齢者、病人、貧しい者を、その命が生きるに値しないという理由で殺し、同時に小児性愛、臓器捕食、未成年者の人身売買、貧者や移民の搾取という恐怖を容認、あるいは奨励さえするという地獄です。

私たちは、米国人イエズス会士【ジェームズ・マーティン】の発言を、恐怖をもって聞いています。彼は、今日、公会議の教会内でLGBTQの大義の擁護者として歓迎され、多くの優れた牧者とは違ってベルゴリオによって温かく歓迎され、励まされています。このふさわしくない修道者が悪徳の推進者となり、聖心を祝うことと「プライド」の卑猥なデモとの間に矛盾はないと断言するのを聞くことは、信者にとってつまずきの原因であり、聖なる教会にとって不名誉であり、私たちの主に対する冒涜的な暴挙です。これらの発言の重大さに気づかず、このような逸脱にまで至ることができるのは、心得違いの霊魂だけです。さらに、この異端者のイエズス会士は、罪に固めることで同性愛者を喜ばせようとする熱意によって、自然法と天主の法が罪深いと定めているものを、自分自身と支持者のために正当化しようとはしてはいないのだろうか、とさえ思われます。

しかし、このふさわしくないイエズス会士よりもさらに悪いのは、彼を守る一方で、キリストが教えられ教会が守っている信仰の遺産に一致して説教する司祭たち――自分たちの目には罪を犯しているように見える――善き司祭たちを迫害している人々です。このような悪に対する寛容さは、司教たちが「プライド」の祝いのために教会を使用することを許可しながら、使徒継承のミサの挙行を禁止するという対立するケースで、権力の濫用を伴う場合には、また、教会法上の制裁が、高位聖職者や捕食者の司祭には適用されないものの、しかし、勇気をもって異端者や変質者の聖職者を非難する人々には教会法上の制裁が課されるような場合には、さらに卑劣なものになります。

この公的な償いの行列において、私は、天主の御稜威(みいつ)に対する公的な侮辱の責任を負う人々のために祈ってくださるよう皆さんに強く勧めます。同性愛を実践することは本質的に罪深いものではなく、カトリックの道徳によって非難されるべきものではないと――おそらく主流派の欺瞞に誘惑されて――考える人々の心に、また、健全な教育と堅実な内的生活があれば穏やかに正すことができたはずの傾向にふけるように仕向けられて、自分たちの行為は天主の恩寵を奪い去るものではないと――傭われたような牧者や小羊を装った狼によって――欺かれている人々の心に、主が触れてくださるよう願ってください。さらに、責任ある立場にありながら、自らの義務として、「目覚めた」狂気との協力に対する拒絶を起こさない人々のために祈ってくださるよう皆さんに願います。彼らは、国々の道徳が動揺することは、兄弟同胞が争う闘争や扇動、内戦――無秩序や、新しい統制・新しい制限・新しい差別の正当化を含む――の前提となることを認識していません。

このようなあわれな霊魂たちに、私はこう言います。だまされないでください。手遅れになる前に、この催眠術から目を覚ましてください。謙遜をもって、その至聖なる聖心が槍で貫かれ、そこから御血と水が流れ出た十字架のふもとへ走ってください。また、謙遜をもって、子どもの心で、悔い改めを、助けの求めを、天主の超自然の助けへの信頼を叫んでください。天主は、霊魂たちが倒れるのをご覧になるためではなく、霊魂たちが勝利のうちに立ち上がり、永遠の賞に値するようになるために、すべての人に試練をお与えになるのですから。

キリストが皆さんの人生に意味と目的をお与えになるように、またサタンが皆さんを堕落させて地獄の永遠の絶望に引きずり込むことがないように、その聖心を避難所としてください。あらゆる快楽に満足することも、卑猥な行為を傲慢に誇示することも、家族や夫婦の愛を滑稽にまねることも、決して皆さんの心に安らぎを与えることはできません。「おまえたちは決して天主のようにならない」、なぜなら、その幻想は、まさに自分の反抗の、つまり「私は仕えない」(Non Serviam)の結果がどうなるかを十分に知っている者【悪魔】から来るものだからです。

皆さんは平和を得ることができるでしょう――それはキリストの平和であり、この世の平和ではありません(ヨハネ14章27節)。しかもそれは人間の愛は天主の愛の反映です。私たちを創造され、十字架上で御血を流されたお方を愛さないのなら、またすべての人が救われることを望まれ(ティモテオ前書2章4節)、この救いを可能にする助けを一人一人に保証してくださるお方を愛さないのなら、また――サタンは私たち全員が滅びることを望んでいますが――、すべての人が聖となること(ローマ1章7節、テサロニケ前書4章3節)を望んでおられるお方を愛さないのなら、隣人を愛することができないということを、皆さんが学ぶときだけ平和を得るのです。

今日は、市民の共存と社会的道徳の基礎を崩すために皆さんを利用する人々、しかし明日は、新たな犯罪と新たな恐ろしいものが、服装倒錯者(transvestite)、性同一性障害(transsexual)、トランスジェンダー、トランスヒューマン、あるいは彼らが発明するであろう新たな犠牲者を必要とするとき、皆さんを躊躇なく消滅させるであろう人々に騙されないでください。皆さんの弱さを皆さんや皆さんの霊魂を害するように利用されないようにし、むしろこれを内的な改善の機会としてください。情熱や悪徳の奴隷になるのではなく、むしろ天主の恩寵によって、この世、肉、悪魔に勝利してください。

サタンは「この世の君」(ヨハネ12章31節)であり、その力は天主によって一時的に許容されているに過ぎません。それにもかかわらず、サタンは、世界、国家、社会、そして霊魂の唯一の真の王であるキリストの権威を簒奪し、支配することを要求します。Oportet illum regnare(天主は統治すべし)、キリストが統治することが必要です。なぜなら、キリストが支配されないところでは、簒奪者であるサタンが権力を握り、そのしもべたちとともに支配することになるからです。

しかし、キリストが統治し給うためには、荘厳な聖体行列でキリストをたたえるだけでは十分ではありません。すべての信者、そして彼らの牧者が、イエズス・キリストが私たちに持っておられる愛に対する寛大で活力ある応答として、イエズス・キリストへの愛に生まれ変わることが必要です。私たちはこの愛に圧倒されなければなりません。それは、体のあらゆる神経繊維、あらゆる思考、あらゆる心臓の鼓動が、天主の愛によって、天主のご意志を行う決意によって、この愛、この天主の愛徳をできるだけ多く広めたいという抑えがたい願望によって、動かされるようになるためです。司祭、修道者、司教、枢機卿、そして天主が望まれるなら、「愛徳において司る」(preside in charity)べき者【教皇】でさえも、天主の愛によって征服していただき、この霊的な炎に生かされて自分の務めを遂行するとき、主の応答が来るまで長く待つことなく、主の答えは私たちのすべての希望を上回ることでしょう。

+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ

2023年6月16日
われらの主イエズス・キリストの至聖なる聖心
Sacratissimi Cordis Domini Nostri Jesu Christi


【編集者注】ロサンゼルスでのイベント(抜粋動画はこちら)には結局、聖体顕示と聖体行列は含まれなかった。しかし、ドジャー・スタジアムの近くでは、大規模な償いの行列が行われた。

英語版 Abp. Viganò's Message on Blasphemous “Sisters,” LA Dodgers, and Procession of Reparation - Catholic Family News

イタリア語版 Viganò: l’apostasia della Chiesa è un flagello permesso da Dio.


主のいと尊き御血は天主が払った人類のあがないの値|イエズス・キリストは人間として苦しみましたが、天主の力により全ての苦痛を避けませ んでした

2023年07月06日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、2023年7月1日はいと尊き御血の祝日でした。

「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「いと尊き御血の祝日の説教」の動画をご紹介いたします。

この動画が気に入ったら、お友達にもご紹介くださいね。

SSPX JAPAN聖ピオ十世会日本にチャンネル登録もお願いいたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父

 

 


聖ピオ十世会 カトリック聖伝のミサの報告【東京】【大坂】Traditional Latin Mass in Japan SSPX Japan

2023年07月05日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2023年7月2日(主日)、東京のミサに来られた方は、子供達も入れて合計111人でした。大阪では40人でした。主日のミサのあとでは、先週の東京でのように、大阪でも叙階30周年記念祝賀会を兄弟姉妹の皆様が準備してくださいました。本当にありがとうございます。大阪でも霊的花束をいただきました。信徒の数を考えると、とても寛大なお祈りをいただきました。準備期間も十分にとってくださったのだと思います。(さらに他のプレゼント(記念カードとカリス)の目録をもいただきました。ありがとうございます!)

信徒一同から「霊的花束」
ミサ拝聴........408回
聖体拝領........406回
霊的聖体拝領..1,367回
十字架の道行....267回
ロザリオ......2,268環
小さき犠牲....1,490回
その他........1,183回
(その他=いろんな連祷/司祭のための祈り/その他の祈りや愛徳)



7月1日(土)には、大阪では一人の男性が受洗しました。新しく生まれたペトロさんのためにお祈りください。

同日、大阪で恒例のマーチフォーライフ大阪(第四回)を行いました。多くの兄弟姉妹や友人の皆様がファチマの聖母と一緒に御堂筋を行進してくださり、心から感謝いたします。今年はその時の様子がYouTubeのライブ配信でなされました。

2020年7月24日

2021年7月23日

2022年7月03日

2023年7月01日

カトリック教会は、お母さんのおなかの中にいる赤ちゃんが天主から与えられた贈り物であり、生まれていなくても立派な人間であることをいつも教え続けていました。私たちはそれをただ単純に続けているだけです。

有名なハヤット神父(1922年 - 2009年1月14日)が1952年に創立した「心のともしび運動」でも、同じことを伝えていました。ラジオ番組「心のともしび」はたった五分だけの放送ですが、赤ちゃんの命が天主さまからの贈り物を伝えていました。「心のともしび」を聞いて助かった赤ちゃんとお母さんたちが多くいらっしゃいます。

マーチフォーライフ大阪も、カトリック教会が伝えてきたことをそのまま伝えたい、と思いファチマの聖母と一緒に歩きました。大阪をお歩きになるマリア様をご覧になった方が、命を選択してくださることを祈りつつ歩きました。参加者の一人の方が「マーチフォーライフの時、拍手している小さな男の子を見かけました。」と教えてくださいました。大きな意味のある小さなしるしだと思っています。

ハヤット神父と共に働き、後継者となったマクドナル神父(1927年5月31日 - 2022年3月30日)が、ラジオ番組「心のともしび」で命が救われたことについて書いた有名な話がありますので、ご紹介します。

===引用開始===

赤ちゃんが救われた

マクドナル神父

話は今から約四十年前に遡ります。
場所は北海道。三人の子供を持つ妊娠中の女性が、近くの病院で中絶するため家でタクシーの到着を待っていました。彼女が何気なくラジオをつけると、ラジオ番組「心のともしび」が放送されており、その日は「生命」というテーマで、"「生命」は神からの贈り物であり、胎児は神からの特別の物である"という内容でした。
今までそのようなことを聞いたことがなかった彼女にとって、それは大変なショックでした。タクシーが到着するや、彼女は、ていねいに断り、一日中、胎児の生命について考えていました。その夜、仕事から帰宅した主人に、心のともしびの内容を一部始終語ったのでした。
彼女は数日後、カトリック教会の門を叩き、主任司祭に出会ったのでした。心のともしび運動のキリストのみ教え通信講座で勉強した彼女は、その年のクリスマス・イブに生まれた赤ちゃんと一緒に洗礼を受けたのでした。

この物語は、多くの人々にキリストの愛を広めることのできるマス・メディア宣教大さを証するもので、一九六四年、私が心のともしび運動で働き始めた時、この話をあちこちの教会の人々に述べ、この運動に協力してくださるようお願いしてきました。それ以来、北海道のこの女性は、私の仕事上の目に見えない守護の天使のようになりました。しかし、私は、彼女の名前も顔も知りませんでした。ところが、去年の秋、私が三十年ぶりに北海道を訪れた時、ぜひ、この女性の消息を知りたいと思い、彼女が四十年前に洗礼を受けたという教会を訪問したのです。残念ながら、現在の主任司祭はこの女性も、この話についても全く知らないというこでした。そこで、私は彼の許可を得て、洗礼名簿のコピーを頂き、京都へ帰ったのです。約三〇〇の名前が記載されている名簿に、何度も何度も目を通すのですが、名前を知らない私にとって、この女性を見つけることは不可能なことでした。
そこで、当時、その教会主任司祭をしていた神父を思い出し、彼に電話でたずねたのです。ところが、「彼女のことはよく覚えているが、彼女の名前を思い出すことができない」との返事。北海道の主任司祭の「洗礼名簿のコピーを持って行って、一緒に調べれば、彼は思い出すかもしれない」というアドバイスを受け、名古屋にいる訪問したのです。
彼は、洗礼名簿をみるや彼女の名前を思い出しました。やっと見つけられると喜んだのもつかの間、姓名は合っていたものの受洗状況が、私が聞いた話とは一致しなかったのです。私の努力を徒労に終わったかと思いながら、がっかりして京都へ帰ったのです。
翌日、私は、もう一度、洗礼名簿に目を通すことにし、約一〇〇人目の受洗名簿に来た時、二つの数字が私の目を引きました。よく見ると家族名も主任司祭が言っていたものと一致しているのです。
一九六〇年、クリスマス・イブ。母親と娘の名前。そして、洗礼名。
一九六一年、復活前夜祭、聖土曜日。彼女の夫と三人の子供たちの名前。そして、洗礼名。
はっきりと記載されていました。私は、さっそくこのグッド・ニュースを北海道の主任司祭に伝えました。
その教会の秘書の方が、電話に答えて、「その方なら、私の息子の代父さんのお母さんでしょう。その家族は、何年も前に隣の町の教会へ移りました。」と言いました。そして主任司祭が電話口に出てこう言ったのです。「その家族なら、私は、一カ月ごとに彼女の家に行って、ごミサをささげていますよ。」と。彼は、私が捜していた女性と、二ヶ月ごとに訪ねる家庭の女性とが同一人物とは夢にも思わなかったのです。
ついに私は、彼女を探し当てることができました。彼女に電話をすると、もちろん、そのことを鮮明に覚えており、「『私は神様に出会った」と昔によく言っていました。」と言い、続けて、「私はうれしくて、ハヤット神父さまに私と赤ちゃんの写真を送り、『私の赤ちゃんを救ってくださってありがとうございました」という手紙を書きました。すると、神父さまから、手紙がきたんですよ。」と四十年前の出来事を昨日のことのようにうれしそうに話しました。後日、彼女から写真と、大切に保管されていた四十年前の、ハヤット神父からもらった手紙と、通信講座のテキストが送られてきたのでした。
私は、今年の復活祭に北海道へ行って、ぜひ、この女性に会って次のように言いたいと思います。
「神様に出会って、赤ちゃんの命を救ったあなたの話しは、多くの人々に勇気と感動を与え、宣教活動のともしびの一つとなりました。」と

===引用終わり===

【沖縄での聖伝のミサ】
7月10日~12日には、沖縄のミッションがあります。
ミサの会場は、北中城村(きたなかぐすくそん)和仁屋(わにや)(字)275 Caleb J です。
ミサの時間は、次を予定しております。予約は不要です。
7月10日(月) 午後7時(19:00)
7月11日(火) 午前10時(10:00)
7月12日(水) 午前09時(09:00)

【国際シンポジウム:革命に反対するとはどういうことか?】
7月15日(土曜日) 午前10時~午後5時30分:台東区入谷ホール2階
7月17日(海の日) 午前10時~午後5時30分:新宿アイランドタワー4階






【名古屋での聖伝のミサ:7月16日】
7月は特別に名古屋でのミサは7月16日午前10時30分からです。
お間違えの無いようにご注意ください。

【マーチフォーライフ・東京】
7月16日(主日)には東京でマーチフォーライフがあります。
日比谷公園集合
日比谷公園:午後4時出発
愛する兄弟姉妹の皆様の多くのご参加をお願い致します。お友達にも教えてあげてください。

【報告】【東京】
Dear Fathers:

Shown below are the number of attendees at today's Sunday masses in Tokyo. The total number of attendees at today's Sunday masses in Tokyo was 111 including children.


09:00 mass
M: 30 (incl. 6 children)
F: 32 (incl. 8 children)
Total: 62 (incl. 14 children)

11:30 mass
M: 27 (incl. 3 children)
F: 24 (incl. 4 children)
Total: 51 (incl. 7 children)

Total of 2 masses (excl. 2 persons who participated in multiple masses)
M: 56 (incl. 9 children)
F: 55 (incl. 12 children)
Total: 111 (incl. 21 children)

OLMCA Joins the March For Life

Every year, thousands participate in the March For Life to stand together as a public body against abortion in Canada. This year, District Superior, Fr. Daniel C...

Our Lady of Mount Carmel Academy


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】