Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

無原罪の御宿りと恩寵の充満の関係、聖母が無原罪の御宿りによって天主と私たち一人一人と一致しておられること

2023年12月14日 | お説教・霊的講話

マリアと天主を、そしてマリアと私たち一人一人を一致させる無原罪の御宿りについての説教

ドモルネ神父 2023年12月10日

はじめに

この前の金曜日、私たちは聖母の無原罪の御宿りをお祝いしました。この唯一無二の特権は、天主の御母および共贖者としての使命に備えるため、童貞聖マリアに与えられたものです。今日はまず、無原罪の御宿りと恩寵の充満の関係についてお話しし、次に、童貞聖マリアが、無原罪の御宿りによって、天主と、そして私たち一人一人といかに一致しておられるかについてお話ししたいと思います。

1.無原罪の御宿りと恩寵の充満

聖性とは何でしょうか。「聖性」という言葉は、「他者から切り離され、天主に奉献されていること」を意味します。例えば、教会は天主に奉献された場所であり、世俗的な活動に使用されるものではないため、聖なるものだと言われます。人の聖性とは、天主に奉献されていて、天主への愛のためにすべての行動を行うことです。人が聖であればあるほど、天主との一致もさらに強くなります。

聖性は、消極的な面と積極的な面で捉えることができます。消極的な面で言えば、聖性は、罪から清められていること、天主から私たちを引き離すものすべてから清められていることを意味します。積極的な面で言えば、聖性は、私たちを、天主、私たち自身、そして私たちのすべての行いが天主をお喜ばせするようにさせるものとする恩寵を意味します。私たちはこの二つの面を区別していますが、私たちは恩寵によって罪から清められると同時に、天主をお喜ばせするようにされるのですから、この二つの面は必然的に繋がっているのです。

聖母の聖性を考えるとき、私たちはこの二つの面に関してそれを考えます。消極的な面で言えば、聖母の聖性は、聖母の無原罪の御宿りと罪を犯されないことです。積極的な面で言えば、聖母の聖性は、恩寵の充満です。これらは同じ聖性の二つの面ですから、無原罪の御宿りをお祝いすることは、マリアの恩寵の充満をお祝いすることでもあり、その逆もまた然りです。教会が無原罪の御宿りのミサの福音に、大天使ガブリエルがマリアに、「めでたし、聖寵充ち満てるお方」と言った受胎告知の話を選んだのは、これが理由です。

では、マリアが無原罪の御宿りと恩寵の充満によって、イエズスに次いで、どの被造物よりもいかに天主と一致しておられるかを見てみましょう。

2.無原罪の御宿りによって、マリアはイエズスに次いで他の誰よりも強く天主と一致しておられる

聖母は原罪なくして受胎されましたから、無知、悪意、弱さ、情欲といった、いかなる原罪の結果によっても傷つけられることはありませんでした。聖母は地上の全生涯において、ほんの少しの小罪さえも、いささかでも不完全な行いさえも、なされることはありませんでした。受胎の最初の瞬間から、マリアは天主との一致を妨げるあらゆるものから清められていました。マリアは、常に自由意志をうまく使われました。つまり、常に自分のご意志を天主のご意志に合わせることを選ばれました。ですから、聖母に対する天主の愛の計画は、聖母の地上の生涯の最初の瞬間から最後の瞬間まで、いかなる妨げも不慮の出来事もなくなされることが可能だったのです。聖母は、天主が聖母のために用意されていたすべての恩寵を妨げなしに受け取られたのです。ですから、マリアは聖寵充ち満てるお方なのです。

そして、聖母に与えられたこの恩寵の充満は、天主が天使や聖人にお与えになるすべての恩寵を上回っています。これは驚くべきことではありません。天主はすべての人に、その人の身分に応じて恩寵をお与えになりますが、被造物にとって、天主の御母となること以上に高い身分はありません。マリアの恩寵の充満とは、まず第一に、マリアの成聖の恩寵の段階が卓越していることを意味します。聖母は、他のどの被造物よりも、より天主の命にあずかっておられます。聖ベルナルドは、マリアは神性との境目に達するほど天主と一致している、と言っています。マリアの恩寵の充満とは、また、マリアの卓越した段階の徳、賜物、特権、助力の恩寵も意味し、それによって、マリアは他の誰よりも天主のみわざに参加しておられるのです。聖母は、他の誰よりも、心、霊魂、力を尽くして天主を愛しておられるのです。

聖母の無原罪の御宿りをお祝いすることは、天使や聖人をしのぐ聖母の最高の偉大さをお祝いすることです。しかし、この偉大さのせいで、私たちは怯えたり、聖母を私たちあわれな罪人にとって遠い存在、近づきがたい存在と考えたりしてはなりません。それどころか、無原罪の御宿りによって、マリアは私たち一人一人に対して最も近いお方、最も愛してくださるお方、最も配慮してくださるお方となられたのです。

3.無原罪の御宿りによって、マリアはイエズスに次いで他の誰よりも強く私たち一人一人と一致しておられる

その第一の理由は、隣人愛は天主への愛と切り離せないことです。天主が愛しておられる隣人を愛することなしに、私たちは天主を愛することはできません。ですから、無原罪の御宿りと恩寵の充満のゆえに、他のどの被造物よりも、心を尽くし、力を尽くし、霊魂を尽くして天主を愛しておられる聖母はまた、イエズスに次いで、誰よりも私たちを愛しておられるのです。聖母は、私たちの善、私たちの永遠の幸福を望んでおられるのです。そして、エステル王妃がアハシュエロス王との一致を用いて自分の民を助けたように、マリアはイエズスとの一致を用いて私たちを助けてくださるのです。

しかし、それ以上に、無原罪の御宿りと恩寵の充満のゆえに、イエズスは、聖母をご自身の贖いのみわざと結びつけ、聖母を私たち全員の霊的な母とすることがおできになったのです。アダムとエワが失った超自然の命をすべての人に取り戻すために、新しいアダムと新しいエワのように、母子の絆を通して、イエズスはマリアとカップルとなることがおできになったのは、聖母の無原罪の御宿りと恩寵の充満のゆえだったのです。イエズスは、マリアを通して私たちに超自然の命をお与えになります。イエズスが十字架上でマリアに、「婦人よ、あなたの子を見よ」と言われたのは、私たち全員について言われたのです。その瞬間、マリアは無原罪の御宿りと恩寵の充満によって、天主の御母の名に値するお方となられただけでなく、すべての人の献身的な母、私たち一人一人を最も愛してくださる母となられたのです。

無原罪の御宿りがマリアと私たちの間につくり上げた、この深くて親密なきずなという現実を示す目に見えるしるしは、不思議のメダイです。このメダイは、信心をもってそれを身につけた人々に多くの不思議な奇跡が与えられたことから、「不思議の」という別名で呼ばれるようになりました。しかし、それは誰のメダイなのでしょうか。無原罪の御宿りの聖母のメダイなのです。

結論

童貞聖マリアの無原罪の御宿りをお祝いするとき、私たちは、マリアの並外れた偉大さと尊厳だけでなく、またマリアの天主への完全な愛だけでなく、私たち一人一人への計り知れない個人的な愛もお祝いします。聖母の無原罪の御宿りは、聖母を近づきがたい存在、私たちとは異なる存在にするものではありません。それどころか、この驚くべき特権は、一方では聖母を天主と、他方では聖母を私たちと、驚くほどに一致させるのです。

ですから、私たちは、私たち一人一人に対する無原罪の聖母の愛を知り、その愛にお応えしましょう。そのためには、どのようにすればいいでしょうか。私たちのマリアへの奉献を更新することによって、不思議のメダイを身につけることによって、そして、いつもどこでも、マリアに対して、私たちに「あなたの母を見よ」と言われたお方と同じ配慮と愛を持つように努めることによってです。


ミサ聖祭のいくつかの儀式の意味:2回の告白の祈り、ミサ典書の移動、ぶどう酒に混ぜられる一滴の水、パンとぶどう酒に香を撒く

2023年12月14日 | お説教・霊的講話

聖なるミサのいくつかの儀式の意味についての説教

ドモルネ神父 2023年12月3日

はじめに

前回と前々回の主日、私は、聖なるミサで使用する典礼用具の象徴的な意味についてお話ししました。祭壇、殉教者の聖遺物、光、花、香といったものです。今日は、信者の皆さんから一番よく質問のある、ミサのいくつかの儀式の意味について説明したいと思います。

2回の告白の祈り

ミサの第一部は、開祭から信経までです。祈りと朗読を通して、司祭と信者は、ミサのいけにえを捧げる準備をします。この第一部に関して、二つのことについてお話しします。それは、2回の告白の祈りと、ミサ典書の祭壇の右側から左側への移動です。

祭壇は通常、カルワリオの丘を思い起こさせるように、床から一段上あるいは三段上に上げられています。司祭は、祭壇に上がる前に、告白の祈りを唱えることで、へりくだって、自らを清めます。詩篇31篇で、義人はこう言っています。「私は言った、『主に私の不正を告白しよう』。あなたは私の罪とがを赦された」(詩篇31篇5節)。これが、司祭が告白の祈りを唱えるときにすることです。司祭は自分が罪人であることを認め、他の人々のために祈る前に、自分のために祈ります。司祭は自分の罪を童貞聖マリアに告白しますが、それは、聖母が罪のせいで多くの苦しみを受けられたからです。司祭は大天使聖ミカエルにも告白しますが、それは、聖ミカエルが、私たちを死後の審判に導く方だからです。司祭は洗者聖ヨハネにも告白しますが、それは、聖ヨハネが、人が罪の償いをし、天主と和解するよう助けるからです。司祭は聖ペトロと聖パウロにも告白しますが、それは、彼らが、イエズスが罪を赦す力を与えられた教会のかしらたちであるからです。司祭はすべての聖人たちにも告白しますが、それは、彼らが私たちのために効果的に執り成しをすることができるからです。司祭は参列するすべての信者にも告白しますが、それは、聖ヤコボがこう言っているからです。「互いに罪を告白し、治されるために互いに祈れ。義人の熱心な祈りがあれば、効果がある」(ヤコボ5章16節)。次に、同じ理由から、信者が告白の祈りを唱えます。

ここで次の疑問が生じます。なぜ、司祭と信者が告白の祈りを一度だけ全員一緒に唱えるのではなく、別々に唱えるのでしょうか。それは、司祭と信者の違いを強調するためです。司祭はイエズス・キリストの、奉献された役務者であり、司祭のみが天主にいけにえを捧げます。信者が天主にいけにえを捧げるのは、司祭を通してだけです。ですから、まず司祭が自分を罪から清め、次に司祭とともにいる信者が自らを罪から清めるということが論理的なのです。

ミサの間のミサ典書の移動

さて今度は、ミサの間のミサ典書の移動についてお話ししましょう。司祭は、書簡の朗読では祭壇の右側にいて、福音の朗読では左側にいます。このように司祭の向きが変わるのはなぜでしょうか。これを理解するためには、まず、教会は東、つまり昇る太陽の方角を向くとされていることを思い出す必要があります。昇る太陽は、私たちの主イエズス・キリストを象徴しています。それはちょうど、ザカリヤがその賛歌の中で、「朝日は上からわれらに臨み、闇と死の陰に座る人々を照らし、われらの足を平和の道に導き入れる」(ルカ1章78-79節)と言っているようにです。ですから、正しく建てられた教会では、司祭は東を向いてミサを捧げます。司祭が書簡を朗読するときは南側にいて、東を向きます。司祭が福音を朗読するときは、北を向きます。これらのことは何を意味するのでしょうか。北は、サタンの王国とすべての罪人を象徴しています。実際、預言者イザヤによれば、ルチフェルは、こう言って天主に反逆しました。「私は天に昇り、天主の星たちより上に、私の座を立てよう、北の果ての極みの契約の山に住もう。高き雲の上に昇り、いと高き者に似た者となろう」(イザヤ14章13-14節)。福音は北を向いて朗読されます。イエズスの言葉はサタンに対して語られ、イエズスの言葉はすべての罪人を天主に回心させるために語られます。「義人ではなく、罪人を招いて悔い改めさせるために私は来た」(ルカ5章32節)。

北がサタンの王国とすべての罪人を象徴するように、南はキリストの御国とすべての信者を表します。司祭は南側で書簡を朗読しますが、それは書簡が、主に信者のためのものであるからです。司祭は昇る太陽に向かって書簡を朗読しますが、それは書簡が、私たちの主イエズス・キリストを信者によりよく知らせるために、主について朗読されるものであるからです。

福音の後、ミサ典書が南側に戻されないのはなぜかと、不思議に思われるかもしれません。それは、祭壇の南側は、ぶどう酒と水を持ってくるためにあけておかなければならないからです。ですから、ミサ典書は、司祭の左側に置いたままにされます。しかし、聖体拝領後の清めが終わるとすぐに、つまり、祭壇の南側が再び何もない状態になるとすぐに、ミサ典書は南側に戻されます。ミサ典書は教会と信者の祈祷書であるため、最もふさわしい置き場所は南側なのです。

ぶどう酒に混ぜられる一滴の水

ミサの第二部は奉献であり、これは信経から序誦までです。司祭は、イエズス・キリストの御体と御血となるパンとぶどう酒を準備し、また、いけにえが捧げられるなだめの意向を表明します。この第二部のうち、二つのことについて述べます。それは、ぶどう酒に混ぜる一滴の水と、パンとぶどう酒への撒香です。

司祭はカリスの中にぶどう酒を少し注ぎ、水を一滴垂らします。ぶどう酒は秘跡の質料であり、イエズス・キリストの御血となります。しかし、水を一滴加えるのはなぜでしょうか。まず、歴史的な理由があります。聖伝が伝えるところによれば、イエズスは、最後の晩餐のとき、ユダヤ人の習慣に従って、ご自分が聖別されるぶどう酒に水を少し混ぜられました。この歴史的理由に加えて、教父たちは、ぶどう酒に一滴の水を加える二つの理由を示しています。第一の理由は、信者と私たちの主イエズスとの一致を表すためです。以下は、聖チプリアヌスが述べたことです(チェチリウスへの書簡)。「カリスに注がれる水はキリストの民を表し、ぶどう酒はイエズス・キリストの血を表す。カリスの中で水とぶどう酒が混ぜられるとき、それはイエズス・キリストと一致した贖われた民を意味する。カリスの中で、水とぶどう酒は、互いに分離できないように混ぜられる。同じように、信者が信仰を堅持する限り、イエズス・キリストから教会、すなわち信者を切り離すことはできない」。司祭がぶどう酒に一滴の水を加える第二の理由は、私たちの主イエズスの刺し貫かれた心臓から流れ出た水と血を表すためです(ヨハネ19:34参照)。

司祭は、葬儀ミサの場合を除いて、この一滴の水をカリスに注ぐ前に、その水を祝別します。このような違いがあるのはなぜでしょうか。一滴の水はキリストの民を表し、司祭はキリストの民を私たちの主と一致させる前に祝福します。しかし、葬儀ミサでは、一滴の水は、主にミサが捧げられる意向の煉獄の霊魂を表します。司祭が煉獄の霊魂を祝福しないのは、彼らには、もはや司祭の祝福を受ける意義がないためです。

奉献でパンとぶどう酒に香を撒くこと

歌ミサでは、司祭は奉献の間に、私たちの主の御体と御血となるべきパンとぶどう酒に香を撒きます。司祭はこの撒香を、興味深い方法で行います。煙の出ている香炉を使って、司祭はまず、カリスとホスチアに、十字架の形に3回香を撒きます。これは何を意味するのでしょうか。十字架の形での撒香は、イエズスがパンとぶどう酒の外観の下に更新される十字架のいけにえを表しており、立ち上る香の香りは、このいけにえが天主を最もお喜ばせするものであることを表し、撒香は、このいけにえの完全性を表すために、3回行われます。

次に司祭は、パンとぶどう酒の上に、さらに3回、円を描くように撒香します。2回の円は反時計回り、1回は時計回りです。これは何を意味するのでしょうか。円は始まりも終わりもないため、永遠の象徴です。天主のみが永遠ですから、この円は天主を象徴しています。3回の円は、いけにえが捧げられる対象である、天主の三つのペルソナを表しています。2回の反時計回りの円は、いけにえを天主に捧げることを表し、時計回りの円は、捧げられたいけにえに応えて、天主の御あわれみが私たちの上に下ることを示しています。

結論

親愛なる信者の皆さん、これらの説明が、皆さんがローマ典礼の聖伝のミサの典礼をもう少しよく理解し、ミサをもっと祈りやすくする助けとなりますように。聖伝のカトリック典礼は、非常に豊かな意味を持っており、信者の信仰と信心を効果的に養うに適したものです。一方、新しいミサ典礼はどうしようもなく退屈なもので、人々の信仰と信心を生ぬるくし、ミサの至聖なるいけにえを軽んじさせてしまうだけのものに過ぎないのです。


2024年の秋田巡礼:5月2日(木)夕方に到着、5月3日から5月6日(月:振替休日)まで

2023年12月13日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2024年も、聖母の月である五月に恒例の秋田巡礼を行う予定です。
期間は、5月2日(木)夕方に到着、5月3日から5月6日(月:振替休日)までです。
2024年も、最低三名の司祭が巡礼者の方々と行動を共にする予定です。

多くの巡礼者が予想されます。また宿泊施設は65名の定員があります。そのために2024年からは最初から最後まで参加される巡礼者の方々を優先させなければならなくなりました。
部分参加をご希望される巡礼者の方々については、近くの宿泊施設の利用をお願いすることになりそうです。
何卒ご理解をよろしくお願い申し上げます。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


聖ピオ十世会日本:今後の予定や新聖堂でのお知らせ事項

2023年12月13日 | 聖伝のミサの予定

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

【1:聖ピオ十世会の私たちの共同体を、聖母の汚れなき御心に奉献する】
12月24日(主日)には、大宮に新しい聖堂が与えられたことを感謝して、9時の歌ミサの後に私たちをもう一度、聖母の汚れなき御心に私たちを奉献する予定です。

アルスの聖司祭ヴィアンネ神父様にならって、私たちの名前を全て書き込んでマリア様の御影(ごえい)に埋め込みます。日本の最上位の守護者である聖母の汚れなき御心への奉献に私たちの名前を刻むことをご希望の方は、次の主日(12月17日までに)お名前を提出してください。

私たち聖ピオ十世会の信者さんたちのなかには、遠い県に住んでいる方々もいらっしゃいます。毎週主日のミサに与りたくても、遠距離のためになかなかミサに与れない方もいらっしゃいます。2017年の時は、遠方にお住いの方々も、ご希望の方は一緒にお名前をマリア様の御影に埋め込んで奉献いたしました。もしもご希望されるなら、その旨と名前などをお知らせいただければと思います。

この奉献には何かの拘束力などは特にありません。12月24日の機会を逃すと、しばらく(数年間)このようなことはないと思われますので、ご案内させていただきました。

以前奉献した方も、今回、新しいものと交換し更新して奉献しますので、お忘れなくご提出をお願い致します。

【2:命のための祈りの会】
12月17日(主日)には、午後に「命のための祈りの会」が大宮の新聖堂で行われます。

【3:御浄めの祝日】
2024年2月2日(初金曜日)は、聖母の御浄めの祝日です。大宮でも大阪でも、夕方のミサの前にロウソクの祝別と簡単なロウソク行列を行う予定です。ロウソクの祝別をご希望のかたは、その日にお持ちください。

【4:ファイファー神父様の来日ミッション】
10月にはお母様が亡くなったために来日ができなくなってしまったファイファー神父様は、2024年2月に来日されて、無原罪の聖母の騎士についてのお話をしてくださいます。大阪(2月9-10日)と東京(2月11-12日)で行われる予定です。

【5:ドモルネ神父さまの謝恩会とワリエ神父様の歓迎会】
予想外の人事異動を受けて、私たちはあっという間に過ぎてしまった三年の間にお世話になったドモルネ神父様の謝恩会を、東京では2月12日(振替休日)に行う予定です。
ワリエ神父様の歓迎会は、東京では2月23日(金曜日:天皇誕生日)に行う予定です。

【6:灰の水曜日】
2024年2月14日(水)は、灰の水曜日です。その日は、午前7時と午後6時半にも大宮の新聖堂で聖伝のミサが捧げられる予定です。

【7:聖堂の中での沈黙】
新聖堂では御聖櫃に御聖体を安置する予定です。私たちの主イエズス・キリストがまことにましますので、聖堂の中では沈黙を守っておしゃべりなどはご遠慮ください。

【8:新聖堂での聖体拝領】
御聖体拝領をするかたは、祭壇の近くに前にお座りの方々から始まって、椅子の並べてある中央の廊下にでてくださり、列をお作りになって、前に進んで祭壇の前でいつものように横に一列になって跪いて口でうやうやしく御聖体拝領をなさってください。御聖体拝領がおわりましたら、立ち上がって、書簡側の方は右の方を向いて、壁にそって御自分の席にお戻りください。福音側で聖体拝領をなさった方々は、左の方が聖体拝領をするのを少しお待ちになってから立ち上がって、順次、左のガラスの壁にそって御自分の席にお戻りください。

【9:新聖堂の入り口と聖堂の間の廊下】
廊下には光をたくさん取り入れるためにガラスの壁があります。特に小さな子供たちが廊下では走って転ばないように、注意してあげてください。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


【訃報】シスター・マリ・エスペランスの祖母さまがお亡くなりになりました。

2023年12月13日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

昨日の午後6時に、シスター・マリ・エスペランスの祖母のマリア上道さんがお亡くなりになりました。愛する兄弟姉妹の皆様のお祈りをお願い致します。その霊魂が安らかに憩われますように!

 


イエズスの聖心は、無限の愛によって、私たちを養い天国に導くために、ご自分に代わって働く良き牧者たちを与えることを欲した。それがカトリック司祭たち。

2023年12月13日 | お説教・霊的講話

イエズスの聖心は、無限の愛によって、私たちを養い天国に導くために、ご自分に代わって働く良き牧者たちを与えることを欲した。それがカトリック司祭たち。

2023年4月23日説教

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、今日は2023年4月23日復活後第二主日、良き牧者の主日です。

【1:良き牧者であるイエズス・キリストの特徴】
「良き牧者は羊のために命をあたえる。」
イエズス・キリストは、私たちのために十字架の上で命を与え、御自分の御体と御血を、秘跡を通して、贖われた羊である私たちに与えておられます。
ですから良き牧者は、狼が来ても、危険の時でも、逃げません。羊のことを心にかけているからです。「私は、羊たちに命を、豊かな命をあたえるために来た。私は良き牧者で、良き牧者は羊のために命をあたえる。」

「私は良き牧者で、自分の羊を知っている。」
良き牧者は、羊が必要とするものが何か、羊にとって最も良いものは何かを知っています。主は、御自分の愛する者たちを一人ひとり知っておられ、主の羊たちもまたイエズス・キリストの声を知って聞き分けます。しかし、雇い人は羊のことを心にかけず、知りもしません。

【2:良き牧者は羊を牧する:】
主は、この地上で良き牧者として羊である私たちに、真理の御言葉を教え、罪の赦しを与え、慰めを与え、ご自分を十字架のいけにえとして捧げました。主は、世の終わりまで、羊である私たちを愛し、私たちを牧することを望まれます。

しかし「キリストは、苦難をうけて栄光にはいるはず」(ルカ24:)でした。そこで、イエズスの聖心は、無限の愛によって、私たちを養い天国に導くために、ご自分に代わって働く良き牧者たちを与えることを欲しました。そのために永遠の大司祭である主は、憐れみ深い愛によって、司祭というものを創り上げました。それがカトリック司祭です。

キリストの教会に、司祭たちが存在するのは、この地上で、私たち人間に対する主の愛の業をたゆまずに続けるためです。つまり、真理の御言葉を教え、罪の赦しを与え、慰めを与え、ご自分を十字架のいけにえとして捧げつづけるためです。

(1)イエズス・キリストは、この地上で真理の言葉を教えました。天国への道を指し示しました。何故ならば、私たち人間は、超自然のことにあまりにも無知であるからです。罪や情欲のために、知性が暗んでしまっているからです。洗礼を受けた後であってさえも、不確実なことや世俗の誘惑の闇に包まれています。

司祭は、霊魂たちにイエズス・キリストの輝く真理を教えます。天主への崇高な道を指し示します。司祭の使命は、変わらない普遍の真理を教えることです。まことの良き牧者であるキリストの声を響かせることです。罪の醜さを教えて、聖徳の美しさを知らせます。天主の御旨を伝えます。「私は良き牧者であり、自分の羊を知っており、私の羊もまた私を知っている。」

(2)イエズス・キリストは、この地上で罪を赦しました。何故ならば人祖アダムとエワの罪によって、その子孫である私たちは悪と罪に対する悪い傾きをもって生まれて来たからです。人間は全て弱さをもっているからです。洗礼によって超自然の聖寵を受けた後でさえも、残念なことに、罪を犯して私たちは霊魂を汚してしまいます。

司祭は、イエズス・キリストのいとも尊き御血の功徳を委ねられたものとして、罪の傷を負う霊魂を癒します。秘跡という天主の薬をつかって、特に洗礼の秘跡、そして悔悛の秘跡という二つの秘跡によって、成聖の聖寵を回復させ天主の命を与えます。「私は、羊に命を、豊かな命をあたえるために来た。」

(3)イエズス・キリストは、この地上で慰めを与えました。何故なら、原罪の結果を身におびる私たちは、労苦と悲しみに取り囲まれているからです。昨日は恐れと疑いに悩み、今日は不安と涙に明け暮れ、そして明日は病と死に苦しむからです。主は、とくに御復活をもって悲しみを喜びに変えられました。

司祭は、超自然の慰めを霊魂たちに与えます。司祭は苦しみが持っている価値を人々に知らせます。今の悲しみの報いとして永遠の喜びがあるという希望を与えます。天主の憐れみ深い愛とは何か、を指し示します。孤独や苦痛に苦しむ霊魂たちに主の無限の愛の深みを見せます。「私は、羊たちに命を、豊かな命をあたえるために来た。」

(4)イエズス・キリストは、天と地とを結ぶ架け橋である十字架のいけにえとしてご自分を捧げました。何故なら、人間は天主なしには何もできないからです。天主を離れては、人間は苦しむだけだからです。それにもかかわらず、人間は、天主に近づこうともせず、人間の憐れさ・みじめさはあまりにもひどい状態であります。さらに、天主の聖性と真理と正義は、あまりにも偉大で清らかでそして高くそびえたっているので、人間が天主に近づくためには、天主と人間との間を橋渡しする仲介者が必要です。天と地を結ぶ方、それが大司祭イエズス・キリストです。しかも、キリストと人間との間でさえも、人間はあまりにも罪に深く陥っているので、キリストと人間とを結ぶ仲介が必要です。それがカトリック司祭です。

司祭は、聖別された手で御聖体に触れて、天主なるいけにえであるイエズス・キリストを天に捧げます。カトリック司祭職の最大の聖なる務めは、十字架の流血の犠牲を、無流血のやり方で秘跡的に再現することです。つまりミサ聖祭です。天主に嘉される唯一のいけにえが祭壇上に捧げられるとき、この地上に無限の憐みがあふれるばかりに注ぎ込まれます。「私は、羊たちに命を、豊かな命をあたえるために来た。私は良き牧者で、良き牧者は羊のために命をあたえる。」

【3:現代世界はカトリック司祭を必要とする】
現代世界は、ますます天主の愛から離れて遠くに行こうとしています。その結果、人間はますます苦しんでいます。多くの羊たちは、狼の餌食になって滅ぼされています。真理の御言葉がこの世の精神と嘘によってかき消されているからです。罪が良いことであるかのように宣伝されているからです。この世のはかない虚ろな楽しみだけしか慰めとして与えられていないからです。自分のやりたいことだけをするのが良いことであるとして、苦しみが最大の悪であると教えられているからです。

現代の人々は天主の愛を知りません。人間を愛するがあまりに人間となった天主のことを知りません。現代人は、天主など存在しないと言い張ります。それどころか天主の地位を奪おうとさえしています。現代人は、自分こそが神だというからです。何が善で何が悪かを決定するのは私だ、と言います。
「私は、やりたいことをする。自由だ。男であるか女であるかも自分で決定するし、決めることができる!子供が生まれるか、生まれないかも、私が決める。避妊薬を飲む、堕胎薬を飲む、堕胎手術も自由にする権利がある。自由だ。」と言っています。
さらには、「快楽さえあれば子どもはいらない。結婚もいらない。自由だ。パートナーは男だろうが女だろうが何人だろうが自由に選ぶ。」

その結果、現代人は「天主によって愛された子供、天主の子供たち」という高貴な地位から、単なる消費者になりさがっています。さらには生産者になって、お金で買うことができる「労働力」となりました。つまり奴隷です。いえ、奴隷以下です。人間は「商品」「製品」に成り下がっているからです。つまりモノです。

たとえば、現代人はこう言います。子どもが必要なら、工場製品のように部品を買って生産すればいい、と。子供を人工的に「生産」すればいい、と考えているからです。子どもたちは受精卵の時に、「生産品」として凍結させられて、実験のために使われて、そして不要になれば廃棄されています。モノ以下です。

また子供たちは、モノであるかのように、お金で買われて、同性愛カップルによって育てられています。そうしてそのようにして生まれてきて買われてきた子供たちは、自分の本当の父親と母親について知る権利を奪われています。父親と母親と一緒に生活する権利を否定されています。

天主を知らない人間は、モノ以下で、必要がないとさえ考えられています。たとえば多くの子供たちは、生まれる前から、お母さんのおなかの中にいながらでさえも、自分の親から捨てられています。親は子供を邪魔だと考えて、殺害します。堕胎です。選択の自由だと言います。親に自分勝手に子供を殺す権利があると言っています。犠牲者となった子供たちの数は、過去の大戦争の犠牲者の数を遥かに超えています。生まれてきた子供たちも、親の離婚によって孤児となっています。

日本でも同じです。子供はモノ以下だと考えられています。一昨日、2023年の4月21日、人工妊娠中絶を薬で行う「経口中絶薬」について、厚生労働省の分科会は国内で承認することを了承しました。今後、厚生労働省が正式に承認の手続きを行うとのことです。

生まれてきた子供たちは、幼少のころから、幼稚園や小学校でポルノのような性教育を受けています。自分の性別を自分で決めることができると教えられて、ホルモン療法や外科手術を受けることが合法的にできるとされています。多くの子供たちは、幸せな純粋な幼少期を奪われています。

現代世界こそ、天主へと立ち戻って、主の愛を知らなければならない時代はありません。人間は、主から離れれば離れる程苦しみ、本当の天主の愛に近づけば近づくほど、幸せになるからです。

では私たちはそのためにどうすればよいでしょうか?イエズス・キリストは、主に近づくために必要な全てを与えてくださっています。主の御聖体と主の司祭職です。イエズスの聖心がお望みの通りの、聖伝のミサと聖伝の司祭たちです。人間が天主に戻ることによって、本当の命と本当の完成を得ることができます。それと同じように、司祭も、イエズスの聖心に近づくことによってのみ、本当の司祭生活の本当の命と完成にたどり着くことができるのです。

良き牧者としてのイエズスの愛を続けるために、主の聖心を愛する司祭たちを、主は求めています。イエズス・キリストがこの世に来た目的、つまり霊魂の永遠の救いのために、主に協力する司祭たちをカトリック教会は必要としています。そのような司祭たちを全世界は探し求めています。

もしも主への愛のためではなくて、この地上の利益のために、あるいは地上のイデオロギーのために、主の羊の世話をするならば、これは牧者ではなく、雇い人です。なぜかというと、雇い人は、天主ではなくて、地上のことを求めているからです。天主以外のことを愛しています。

もしもイエズス・キリストが蔑(ないがし)ろにされるならば、御聖体が敬われないならば、ミサ聖祭が世俗化してしまうならば、ミサが人間中心のただの食事会になってしまうならば、司祭が社会活動家になりさがってしまうならば、その時司祭はこの地上のために働くことになってしまいます。つまり、その時、司祭は良き牧者ではなく、雇い人です。ですからもしもイエズス様をないがしろにして、「洗礼を受けることは大切だが、教会の他にも救いはあるし、神は神だけが知っている方法で、他の宗教の人たちも救うに違いない」というようなひとがいたら、そのような声は主の声ではありません。主はこう言われているからです。「まことにまことに私はいう。私は羊の門である。(…)私を通って入ってくる人は救われる、出入りして牧草を見いだすだろう。しかし、盗人は、盗み、殺し、ほろぼすためだけくる。」これが主の御言葉です。

【4:良き牧者に従う21世紀の司祭たち】
イエズスの聖心は、憐れみ深い愛に満ちておられ、司祭を通して羊たちに豊かな命を与えることをお望みです。今日、良き牧者の主日に、主に祈りましょう。私たちに多くの聖なる司祭を与えてくださるように祈りましょう。イエズス・キリストを愛し、霊魂たちに、つまり主の羊たちに、イエズス・キリストを、全てを与える司祭が与えられますよう祈りましょう。御聖体、ミサ聖祭、秘跡、悔悛の秘跡を聖なるものとして、大切にする司祭たちが多く与えられますように、祈りましょう。

このお説教を聴いてくれている青少年たちに言います。最も気高いこと、最も崇高なことのために人生を使ってください。主が、私に何をすることをお望みなのか、よく祈ってください。

将来、宇宙の秘密を探って多くの人々に素晴らしいことを教える先生や教授や博士になりたいと思いますか? 最高の真理は永遠の真理の御言葉です、イエズス・キリストです。世界中の多くの人々に、イエズス・キリストを教えてください。

将来、医者となって病気に苦しむ人々を助けたいと思いますか? 最高の健康は霊魂の命の救いです。最高の薬はイエズス・キリストがくださる秘跡です。世界中の多くの人々が永遠の命を得ることができるように助けてください。

将来、食べ物を生産し、よい製品を作って、建築し、人々の役に立ちたいと思いますか? 肉体の必要を満たすことも大切ですが、霊魂の必要を満たすことはもっと大切です。肉体のことがうまくいくためには、霊魂のことがうまくいかなければならないからです。霊魂の良き牧者となってください。

将来、音楽や文学、芸術やスポーツを究めることで人々に喜びや慰めを分かち合いたいと思いますか? 限りある喜びではなく、無限の歓び、地上の物が与えることができない慰めがあります。イエズス・キリストは司祭を通してそれを私たちに与えようとしています。

将来、警察や消防あるいは自衛隊に入って、あるいは政治家となって、自分の命を捧げて、地域や国の安寧や福祉のために働きたいと思いますか? 自分の命と一生を捧げる最高の価値があるのは、天主です。なぜなら、天主こそが究極の幸福と平和の源だからです。

最後に聖母に祈りましょう。良き牧者イエズス・キリスト、最高の司祭イエズス・キリストは、聖母によって私たちに与えられました。イエズス・キリストに続く聖なる司祭たちが、良き牧者たちが、私たちに与えられますように、聖母が主に取り次いでくださりますようにお祈りいたしましょう。

「私は羊たちに命を、豊かな命を与えるために来た。私は良き牧者で、良き牧者は羊のために命を与える。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


もしもキリストが私たちのうちに留まることを欲するなら、私たちの五感を罪の機会に対して閉ざしている必要がある

2023年12月12日 | お説教・霊的講話

もしもキリストが私たちのうちに留まることを欲するなら、私たちの五感を罪の機会に対して閉ざしている必要がある

2023年4月16日(白衣の主日)の説教

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、
今日は2023年4月16日、白衣の主日です。

今日の福音には「弟子たちが集まっていたところの戸は、ユダヤ人たちを恐れて閉じられていたが、イエズスがおいでになった。そして彼らの中に立って「あなたたちに平安!」と仰せられた」とあります。

聖トマス・アクィナスは、神秘的な意味で、このことを通して次のことが理解されると言っています。外のこと、つまり外的な感覚が閉じられているとき、キリストは私たちに現れる、と。

祈りにおいて「あなたたちが祈る時には、自分の部屋にはいり、戸を閉めよ」(マテオ6:6)、また世の終わりに「用意していた乙女たちはいっしょに宴席にはいり、そして戸は閉ざされた(マテオ25:10)。

そこで、聖アルフォンソ・デ・リグオリは、もしもキリストが私たちのうちに留まることを欲するなら、私たちの五感を罪の機会に対して閉ざしている必要がある、と訴えています。そこで、今日は、罪の機会について黙想いたしましょう。

【1:罪の機会を避けないという危険性】
聖アルフォンソ・デ・リグオリは、キリストとラザロの二つの復活を比べてこう言います。

キリストは、死者のうちからよみがえり、もはや死ぬことはありません。しかしラザロはよみがえり、再び死にました。

キリストは埋葬の布を残して墓からよみがえりました。しかしラザロは「手と足とを布でまかれ、顔を汗拭きで包まれたまま出てきた」(ヨハネ11:44)のです。

罪を許されて聖寵の命によみがえっても、ラザロが布で巻かれたままであったように罪の機会に取り囲まれたままであるなら、また罪を犯して聖寵を失ってしまうでしょう。ですから、永遠の命へとたどり着くためには、罪だけではなく、罪の機会、つまり私たちをして罪を犯す危険となる状況さえも捨てなければなりません。

使徒聖ペトロはこう書いています。引用します。「節制し警戒せよ。敵である悪魔は、ほえる獅子のように、食いあらすものをさがしながら、あなたたちのまわりを回っている。」(ペトロ前5:8)と。引用を終わります。悪魔は特に、私たちよりも前に、私たちにとっての罪の機会の周りにいて、私たちを狙っているのです。

シエナの聖ベルナルディーノは、キリストの全ての助言のうちで最善の助言、宗教の基礎とも言えるものは、罪の機会を避けよということだ、と言っています。

人祖の罪は、罪の機会を避けることを怠ったことから始まりました。天主は禁断の木の実を食べてはならないと命じたのみならず、触れてもならないとされていました。何故ならエワは「天主は私たちにそれを食べてもならず、触れてもならないと命じられました」(創世記3:3)と答えているからです。しかし、エワはそれを見て、触れて、ついに食べてしまったのです。

聖チプリアノはこう言います。「泥棒が近くにいるなら、財産は決して安全ではない。同じ小屋に狼がいるのなら羊は安全ではない」と。つまり、罪の危険に近づき続けるならば、聖寵の命という貴重な宝は安全ではない、ということです。

つい最近、徳之島の出身の方が私にこう教えてくれました。徳之島ではハブが出るので草地には入らないようにしているとのことです。

私たちの主は、罪の危険となって永遠の破滅を起こしうるものであるならば、霊魂を失うよりは罪の機会を捨て去ることを勧めています。引用します。「右の目がつまずきになるなら、抜き出してすてよ。あなたにとって、全身がゲヘンナに投げこまれるより、体の一部をうしなう方が、ましである。右の手がつまずきになるなら、切りすてよ。全身がゲヘンナにいくよりは、体の一部をうしなう方が、ましである。」(マテオ5:29)目や手という大切なものであっても、永遠の命を失ってしまうよりは、それを捨てるほうがまだましであると言う言葉は、永遠の命を得るためであるなら、私たちは罪の機会を捨てる覚悟ができていなければならないということを教えています。

【2:貞潔に反する罪、信仰に反する罪】
私たちが避けなければならない罪の機会のうち、特に重要なのは貞潔に反する罪と信仰に反する罪に関する機会です。

聖アウグスチヌスは、不潔の罪は全ての人々に対して戦いを挑むが、それに対して勝利を収める人は少ない、戦いはよくあるが、勝利は稀だ、と言っています。だからこそ、私たちはこの罪の機会を避ける必要があるのです。聖イエロニモは、この戦いに勝つための聖寵を得るには、罪の機会を避けることによって、貞潔の徳を実践することによって、与えられると言います。

イザヤの預言によると「全ての肉は草だ」(40:6)とあります。聖ヨハネ・クリゾストモは、純潔の徳を保つことができると期待して罪の機会に身をさらすことは、火が付いたたいまつを藁につけても燃えないでいると期待するかのようだ、と言っています。

聖ベルナルドは、罪の機会に身をさらしながら貞潔を守るとしたら、死者をよみがえらせるよりも大きな奇跡だと言っています。

信仰に反する罪の機会も同様です。

聖アルフォンソはマウリタニアにいる熊がどうやってサルを捕まえるかという例を出しています。そこのサルは熊を見るとすぐ木に登って逃げます。すると熊はあたかも死んだかのように地面に寝転ぶのです。サルが木から降りるのを待って、近づいてきたところを飛び起きて捕まえてサルを食いつくしてしまうのです。聖アルフォンソは、悪魔も同じことをすると言います。時には誘惑は死んだかのようにおもわれますが、霊魂が安心して罪の機会に近づいてくると、誘惑は霊魂に飛びついてとらえるのです。

主は祈る時に「我らをこころみにひきたまわざれ」と祈れと教えてくださいました。

【3:遷善の決心】
罪の機会を避ける霊魂に、天主はその現存をもって留まられます。では私たちにとって罪の機会はなんでしょうか。避けるべき罪の機会とは何でしょうか。

捨てなければならないテレビ、映画、インターネット、悪しき友人、悪しき場所、悪しき交際は私たちにとって何でしょうか?
また私たちにとってカトリック信仰を危険にさらすような機会とはいったい何でしょうか?

マリア様にお祈りいたしましょう。聖母の御取り次ぎによって、私たちが罪の機会を避け、主の現存をいつも保つことができますように。

「弟子たちが集まっていたところの戸は、ユダヤ人たちを恐れて閉じられていたが、イエズスがおいでになった。そして彼らの中に立って「あなたたちに平安!」と仰せられた」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


聖木曜日:最も熱心で最も敬虔な聖体拝領をするために:四つの心構え

2023年12月11日 | お説教・霊的講話

2023年4月6日(聖木曜日)大阪でのミサの説教

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、今日は聖木曜日です。
私たちの主は今日、ミサ聖祭と御聖体・カトリック司祭職を制定されました。
二千年前の初ミサが終わった後、イエズス様は使徒たちとゲッセマニの園に向かいました。祈るためです。主の御受難が始まります。そこで教会はそのことを象徴するために、このミサが終わった後、御聖体を仮祭壇に移し、祭壇の布を取り外して、そして祭壇を裸にします。これは私たちの主がご人性だけですべての苦しみをお受けになる、ということを意味しています。
教会の意向によれば今日は12時まで御聖体を礼拝することができます。それでもしも聖体礼拝されたいという方は、12時まで礼拝することができます。

今日は、特に御聖体が制定された日ですから、今日の御聖体拝領は最も熱心で最も敬虔な聖体拝領になることを祈っています。いったいどうしたらよいでしょうか。

私たちの主は、使徒たちに御聖体をお授けになる前に、もう使徒たちが清かったにもかかわらず、使徒たちの足を洗いました。洗足式です。これは主が、御聖体拝領をする前には霊魂の最高の完全さ・最高の清らかさを求めておられる、ということを教えようとされたのです。

もしも私たちが、よく準備された心で御聖体を拝領するならば、聖寵の豊かな恵みをいただくことができます。しかしもしも準備無しに、主をわきまえずに受けると、御聖体拝領の効果がないばかりか、最大の不幸・損害を受けることになってしまいます。イエズス様からの最も尊い賜物は、よく準備された霊魂にとっては天国の栄光を勝ち取るための最も素晴らしい助けになります。しかし、そうでない心で受けるとそれは、永遠の死をもたらす原因となってしまいます。

旧約時代にはその前兆がありました。それは契約の櫃と呼ばれているものです。天主の十戒・マンナそしてアアロンの杖が入っていた契約の櫃です。これはイスラエルの民にとっては最も貴重で、主の無数の敵を倒し、数多くのお恵みをいただく源となっていました。しかし異邦のペリシテ人たちがこの契約を奪い取った時、実はこの契約の櫃はペリシテ人たちにとってめぐみをもたらすかわりに屈辱的な病気や災害をもたらすもととなりました。ですから、これをもうユダヤ人たちのもとに返す、と突き返して来ました。

私たちは自然界でも同じことを体験しています。脂ののったビフテキやあるいは繊維のたくさんついた野菜も胃が丈夫な健康な人にとっては体のために役に立ちますけれども、胃の調子が悪い病弱な人にとっては、却ってこれで病気になってしまいます。

では、いったい私たちは今日どのようにして、御聖体拝領を準備したらよいでしょうか。
トリエント公会議の公教要理によると、四つ挙げています。

一つは、今日聖パウロが言ったように主の御体をわきまえるということです。これは何を意味するかというと、天国のパンと普通のパンを、区別することです。つまり、私たちが受ける御聖体は天使たちが天において賛美している全知全能の天主イエズス・キリストの御体・御血それ自身ということを深く知り、これを信じることです。そして礼拝して、そのものとして拝領することです。

第二の心構えは、やはりトリエント公会議によると、私たち一人一人が本当に真実に真心から隣人を愛しているかどうかを自問することです。主はこう言われたからです、「だからあなたが祭壇に供え物を捧げようとする時兄弟があなたに何か含むところがあるのを思い出したら、供え物をそこ祭壇の前において、先ず兄弟のところに行って、和睦し、それから帰って捧げ物を捧げよ」。

第三には、私たちが、大罪の状態にいるのではないか、成聖の恩寵を失ってはいないかということを吟味して、もしも不幸にしてそうであったとすれば、痛悔の心を持って告白して罪の赦しを得ることです。なぜかというと、天主イエズスも、婚礼の服をつけずに主の婚礼の席に出る人は暗い牢獄に投げ入れられ永遠の罰に処せられることを、教えているからです。

第四にトリエント公会議の公教要理が教えていることは、私たちが沈黙のうちに祈って、主のこれほどの大きなお恵みを受けるのに自分はどれほどふさわしくないか、ということを黙想することです。そして、百部長が言った言葉を、私たちも心から言わなければなりません。なぜかというとこの言葉を聞いた主は、イスラエルの内にも私は誰にもこれほどの信仰を見たことがないと、主をして言わしめたからです。この百部長の言った言葉というのは、「主よ、私はあなたを私の内に迎えうる値打ちの無いものです。ただひと言宣(のたま)い給え。さればわが霊魂は癒される。」

このうち特に今日は、私たちは主の御前に近づくために私たちがどれほどふさわしくなかったのか、どれほど値打ちがないのか、ということを黙想致しましょう。

私たちはいつも心に痛悔の念を持っていなければなりません。痛悔というのは、犯した罪を心から悔やんで、忌み嫌い、そしてもう決して罪を犯すまいと、決心することです。ちょうど石が粉々に砕かれたように、私たちの心も粉々に砕かれた状態のことです。痛悔というのは、あるいは悔悛というのは、ただ罪を犯さないとか新しい生活を送るというだけではなくて、特に過去の罪を憎んでこれに対して償いを果たすということにあります。傲慢によって固くなった私たちの心が痛悔によって打ち砕かれなければならないということを意味しています。

良い痛悔のためには公教要理によると、四つのことが必要です。
痛悔は内的で、心の底からのものでなければならない。
痛悔は超自然のものでなければならない。
また痛悔は最高の極度のものでなければならない。
痛悔は普遍的でなければならない、といいます。

痛悔が心からのものというのは簡単に理解ができるかもしれません。

痛悔が超自然というのは、信仰に動かされて罪を悔やむということだからです。ただ自分が失敗したから、この世で恥を受けた、ということで後悔するという意味ではなくて、愛すべき主を悲しませてしまった、あるいは罪を犯したために天国の栄光あるいは超自然のいのちを失ってしまったということを悔やむ、という超自然の動機によるものです。

この痛悔は最高でなければなりません。極度でなければなりません。なぜかというと罪が最高の善である天主への侮辱であるからです。私たちは主を全てに超えて愛さなければならないにもかかわらず、その天主を犯してしまったので、天主から私たちを離させてしまう罪を極度に最高に忌み嫌わなければならないからです。最高度・極度に罪を悔やむというのは、私たちがこの地上で受ける不幸・嫌なこと・辛いこと・悲しいこと・家を失ってしまった・健康を失ってしまった・病気になってしまったということよりも、さらに、主を犯してしまった等々を悲しむことです。

また痛悔が普遍的であるということは、私たちの罪すべてについてこれを悔やむということです。

特に今日は御聖体をいただくにあたって、心からの痛悔を、心の内からの深い痛悔を、超自然の痛悔を、最高度の痛悔を、そして普遍的なすべての罪について痛悔の念を請い求めましょう。

主は私たちに、父のように、あるいは母親のように、ご自分のお持ちの物をすべて与えて、ご自分の御体さえも与えようとされます。私たちは放蕩息子がその父親のもとに帰ることにした時のような心で、御聖体に近づきましょう。私は主の子と言われる価値のないものです。僕(しもべ)のもっとも下の者として扱ってください。主は私たちにご自分の御体をお与えになられるに違いありません。私たちを母のように愛してくださる主に、心から子供の念をもって御聖体に近寄るようにいたしましょう。最後に、マリア様に、心からの痛悔の念を持って御聖体拝領を、愛をこめて御聖体拝領をすることができるように、お祈りいたしましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


アジア管区長のサマース神父様から新しい人事異動の知らせがありました。

2023年12月11日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
アジア管区長のサマース神父様から新しい人事異動の知らせがありました。
次の人事異動は 2024 年 2 月 15 日付で行われます。
ワリエ神父が、東京の新しい修道院長に任命されました。
ドモルネ神父は、マニラに任命されました。
小野田神父は、ワリエ神父の補佐司祭に任命されました。
サマース神父も、私たち暁の星 聖母修道院の全ての司祭も、私たちの新しい任務において、天主のみ旨をよく果たすことができるように、皆さまのさらなるお祈りを感謝いたします。

         人事異動

親愛なる信者の皆様、

ドモルネ神父の異動に関するニュースがあります。後任はワリエ神父で、東京の新しい修道院長となります。小野田神父は彼のアシスタントになります。

聖ピオ十世会の会憲第1章にあるように、任命と異動は従順の徳を実践するための特別な機会です。
もちろん、私たちは、司祭たちが現職で献身的に奉仕していることに感謝し、新しい職場で天主のみ旨に従う力を与えてくださる天主に感謝します。

これらの異動は2024年2月15日に行われます。

マリアにおいて
パトリック・サマーズ神父

Dear Brethren,
We received a new assignment from the district Superior Rev. Fr. Patrick Summers.
The following transfers will take place on February 15th of 2024:
Father Wailliez, is assigned as the new Prior in Tokyo.
Father Demornex will be assigned to Manila.
Fr Onoda will be a co-operator for Father Wailliez.
Father Summers and all the priests of the priory of Stella Matutina thank you of your continuous prayers to accomplish the Holy Will of God in our new assignements.

         New Assignment

Dear Faithful,

Here you will find news about the transfer of Father Demornex. He will be replaced by Fr. Wailliez, who will be the new Prior in Tokyo. Fr Onoda will be his assistant.

As we read in the first chapter of our SSPX Ordinances, appointments and transfers are a privileged occasion to practice obedience.
Of course we thank our priests for their dedicated service in their current assignments and we thank God for giving them the strength to follow the will of God into their new positions.

These transfers will take place on February 15th of 2024.

in Maria,
Rev. Fr. Patrick Summers




枝の行列:私たちが棕櫚の枝を持って行列するということは、キリストの真理を証しするということ「栄光と讃美と誉れとは、王、贖い主なるキリストにあれ。」

2023年12月09日 | お説教・霊的講話

2023年4月2日(枝の主日)説教

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、今日は2023年4月2日、枝の主日です。

幾つかお知らせがあります。来たる聖金曜日は、カトリック教会の掟によれば、私たちは大小斎を守らなければなりません。満20歳から59歳までの健康な成人の男女の信徒は、大小斎を喜んでイエズス様の御受難に合わせて共に御捧げ致しましょう。

聖ピオ十世会日本では、今年の聖なる三日間(Triduum)は、大阪で、テネブレと呼ばれる朝課と讃課を午前9時から行う予定です。聖木曜日、聖金曜日、聖土曜日、どうぞテネブレに与るようになさってください。

今年の復活の徹夜祭にも、洗礼を受ける受洗を予定されておられる方々がおられます。新しく超自然の命に生まれる方々のために是非お祈りください。

今年もゴールデンウイークに、つまり5月3日から6日まで秋田巡礼を行います。大人も子供たちもカトリック信仰を深める祈りと研修の日々となるとても良い機会です。特に今年は秋田の聖母が私たちにメッセージを下さって50周年です。愛する兄弟姉妹の皆様を秋田巡礼に心からご招待申し上げます。

【枝の主日:過去の史実】
さて2000年前の枝の主日、イエズス・キリストがエルザレムに入城したとき、「群衆のうちの多くは、道にマントをしき、あるものは木の枝を切って道にしいた。また、イエズスの先に立ち、うしろに従う人々は、「ダヴィドの子にホザンナ。賛美されよ、主のみ名によって来るおん者。天のいと高き所にホザンナ」」と叫んだと聖書にあります。

今日、この典礼を通して、カトリック教会は、私たちもエルサレムの群衆に倣うことを欲しています。

イエズスに先立って賛美する人々は、旧約の義人たちを象徴しています。イエズスの後に従う人々は、私たちのことです。私たちも、イエズス・キリストこそが、全人類が待ち望んでいた本当のメシア、約束された救い主、私たちを地獄の火から守り、そして天国へと導いてくださるおん方、主の御名によって来(きた)るおん者である、と時代を超えて、そして場所を超えて、賛美いたしましょう。
「ダヴィドの子にホザンナ。賛美されよ、主のみ名によって来るおん者。天のいと高き所にホザンナ!」

【祝福された枝:将来の栄光】
私たちは、十字架の後を、棕櫚やオリーブなどの枝を手に持って行列で進みます。十字架はキリストが勝利する御旗(みはた)です。棕櫚の枝は、死と地獄に対する主の勝利を予告しています。黙示録にはこうあります。引用します。
「私は、すべての国と、民族と民と、ことばとの、数えきれない、おびただしい大群衆があらわれるのを見た。かれらは白い服をつけ、手に棕櫚の枝をもち、玉座のみ前と小羊のみ前とに立ち、大声に叫んで「救いは、玉座に座られる私たちの天主と小羊とのものである」といった。」引用を終わります。
棕櫚が勝利を示すとすれば、オリーブの枝は平和を予告します。ノエの箱船から放たれた鳩は、平和の印としてオリーブの枝をくわえてやってきました。

聖週間、キリストは自ら御受難へと向かわれます。私たちも、キリストに従い、「証し人」「殉教者」として信仰を告白し、ついには勝利の棕櫚をいただくために、典礼でも枝の配布を受けます。枝を受けるというのは、王たるキリストに従う者として、御受難に従う者としての恵みを受けるという意味があります。
私たちは、手に勝利の棕櫚の枝を持ち、歓喜してキリストに従う、新約の「ヘブライの子供たち」です。
祝福された枝を受け取って、典礼が終わりましたら、自分の部屋に飾ってください。それはキリストを証しする務めを持っているということを私たちに思い出させるためです。「救いは、玉座に座られる私たちの天主と小羊とのものである!」と枝を見るたびに思い出しましょう。

【枝の行列:典礼の神秘】
枝の行列の前に、私たちはこう聞きます。Procedamus in pace! 平和のうちに行こう。私たちはこう答えます。In nomine Christi. Amen! キリストの御名によって、アメン!私たちは、平和のうちに、キリストの御名によって、キリストの十字架と共に、勝利の行列を行います。何故かというと、キリストは必ず勝利をおさめるからです。キリストは、死と罪と地獄とに打ち勝つ唯一のおん方であるからです。私たちもキリストに従ってはじめて勝利します。
私たちの先祖キリシタンたちも、そして世界中の殉教者たちも証聖者たちも同じことを信じていました。キリストは必ず勝つと。
今日、典礼では、私たちはキリストの十字架に従って、御受難の地である十字架の道行きを行うのです。キリスト者は、十字架の後を十字架と共に道を行くからです。十字架の道行きであり、同時に、勝利者たちのマーチ、英雄たちの行進です。

枝の行列の最後の方では、オルレアンの司教テオドゥルフォの作った王たるキリストに対する賛歌を歌いながらこう言います。
「栄光と讃美と誉れとは、王、贖い主なるキリストにあれ。子ども等の美しい声は、敬虔なホザンナを、主に向けて歌う。」
また、こうも歌います。
「いと高き天の全ての群れは御身を褒め称える。死すべき人間も、被造物も皆、声を合せて主を称える。栄光と讃美と誉れとは、王、贖い主なるキリストにあれ!」
ついに聖歌を歌いつつ、行列は十字架を先頭に、教会の門の前に立ちます。天国の門にたどり着いたかのようです。

古くからの習わしによると、この王たるキリストに対する賛歌は、最後の最後に歌うことになっていました。行列が教会に到着すると、まず聖歌隊の二名だけが教会の中に先に入って、教会の門を閉めます。十字架を運んでいた副助祭は、二人のローソクを持つ侍者に挟まれて、教会の正門の前に立ちます。次に副助祭は十字架像を司式司祭の方に向け直します。つまり十字架像は後ろのほうを向くということです。
外にいる聖歌隊は、十字架像のイエズスを見るとこう歌います。「Gloria Laus et honor! 栄光と讃美と誉れとは、王、贖い主なるキリストにあれ!」

聖職者たちはこれを繰り返します。こうして教会の外で、王たるキリストに対する賛美を全て歌います。歌い終わると、副助祭は、十字架の足で教会の門を三度叩きます。すると教会の門は開き、行列をしていた共同体は、Ingrediente Dominoの聖歌を歌いながら、教会の中に入ることが出来るようになります。
アダムとエワの罪以来、天の門は固く閉ざされていました。誰もこれを開けることができませんでした。しかしイエズス・キリストがこの地上にやって来られて、十字架と共に天の門を叩く時、天の門は再び開くことができるようになりました。そしてキリストに従う者たちも天国に入ることが出来るようになりました。枝の主日の地上での行列は、天国への行列とつながっているのです。
「栄光と讃美と誉れとは、王、贖い主なるキリストにあれ。子ども等の美しい声は、敬虔なホザンナを、主に向けて歌う。」

【私たちの枝の行列】
愛する兄弟姉妹の皆様、枝の行列は、私たちの人生の縮図です。ミニチュアです。
私たちの最終目的地は天国です。天国の至福にたどる道は、イエズス・キリストの十字架の道を従う以外ありません。大司祭イエズス・キリストの十字架の生贄だけが、私たちに罪の赦しを与えることができます。

十字架につけられたイエズス・キリストに従う、これだけが、この地上において平和と本当の喜び、そしてついには天国で永遠の幸せを与えることができるのです。

イエズス・キリストの十字架、つまり聖伝のミサ聖祭、カトリック信仰の遺産、もしもこれがなくなってしまうのなら、この世界は地獄に変わってしまいます。

聖伝のミサに代わって新しいミサになって50年後、全世界はコロナ騒動を体験して、この真理を深く経験しました。私たちにはどうしても聖伝のミサ聖祭が必要です。非常に象徴的なものはキリスト教世界です。かつてキリスト教世界だったところでは、革命によって、徐々に学校から、病院から、司法から、立法から、行政から、社会生活から十字架像が取り除かれました。十字架像の代わりに入ってきたのは、なんでしょうか。それは社会の崩壊でした。

私たちが棕櫚の枝を持って行列するということは、キリストの真理を証しするということです。

どんな真理でしょうか。カトリックの真理です。信仰の遺産です。イエズス・キリストの私たちに伝えてくださった真理です。

ミサ聖祭が十字架のいけにえの再現であるという真理です。ご聖体はキリストのほんとうの御体、現実の体であるという真理です。ミサはただの食事会ではない、また御聖体はただのパンではないという真理です。新しいミサの定義は会衆の集会に成り下がってしまいました。イエズス・キリストの十字架の犠牲の再現としては定義されていません。新しいミサの結果、多くの人々がミサに対する信仰を失ってしまいました。御聖体に対する信仰を失ってしまいました。

私たちはもう目を覚ます時が来ました。私たちは棕櫚の枝を持って、堂々と、ミサ聖祭に対する真理を告白しなければなりません。私たちには聖伝のミサ聖祭が必要だと。これこそが私たちに平和と文明を与えてくれる秘密であると言わなければなりません。

私たちが棕櫚の枝を持って行列するということは、キリストの真理を言い続けることです。公(おおやけ)に言い続けることです。つまり、天主は人間を男と女とに作り、一夫一妻制の自然の結婚を制定したという真理です。結婚はこれ以外にはありえません。キリストはこの自然の結婚を秘跡にまで高めました。カトリック教会は人々を祝福します。すべての人々を祝福しますが、しかし罪は祝福することはできません。キリストの御意志に反し人々を不幸にさせてしまうようなLGBT運動を祝福することはできません。ローマは常にそう語っていました。聖書は、そう書いてあります。カトリック教会の教えは、公教要理は、そう私たちに教えています。

たとえ一部の日本の司教様たちが、あるいは外国の司教様たちが、LGBTについてほんとうのことを語らなかったとしても、それは本当の司牧ではありません、本当の愛ではありません。本当の愛徳ではありません。真理を語ることこそが愛徳であり本当の司牧であり、霊魂のためになることです。若しもお医者さんが、病気の人を前にして、どこが病気であるかを言わなかったら、これは偽物の医者です。本当の良い医者ではありません。司教様は真理を黙っていることはできないはずです。司教様こそが、声を上げなければならない方です。

もしもそうなさらないならば、私たちは目を覚まさなければなりません。今その時が来ました。もしも私たちが真理に目ざめなければ、本当の犠牲者は女性の方々です。弱い立場に置かれている女性の人々です。また子どもたちです。私たちは女性を子供たちを、守らなければなりません。カトリック教会はいつも女性と子供たちを守ってきました。私たちはこれを続けなければなりません。目を覚ます時が来ました。

カトリック教会は 教皇様を頂点とする君主制です。民主制としては作られませんでした。イエズス・キリストは聖ペトロを頂点とした君主制を作りました。それがカトリック教会です。キリストの真理は時と場所によって変わり得ません。ですからいま流行のシノドス性のシノドというのはまったくの茶番です。おふざけです。ミュラー枢機卿様は前教理聖省の長官でしたが、シノドス性のシノドというのは茶番だとはっきりおっしゃっています。私たちは目を覚ます時が来ました。

愛する兄弟姉妹の皆様、枝の主日です。私たちは棕櫚の勝利の枝をキリストから受けましょう。そしてイエズス・キリスト様から受けた信仰の遺産を宣言し、告白しなければなりません。私たちは日本の尊い殉教者たち、そして世界中の殉教者たち、証聖者たちに連なって、イエズス・キリストこそが私たちの贖い主、来るべき御子であると、ダヴィドの子、主の御名の由りて来(きた)る者として宣言しなければなりません。

愛する兄弟姉妹の皆様、私たちは信仰を生きています。永遠の命がかかっているからです。全世界の運命がかかっているからです。私たち人類の存続がかかっているからです。マリア様にお祈りしましょう。悲しみのマリア様、汚れなき御心にお祈りしましょう。私たちがけっして主の御跡を離れることなく、主の跡を慕って、マリア様と共に十字架のもとに佇(たたず)むことができますように、特別の恵みと力を請い求めましょう。

イエズスの先に立ち、うしろに従う人々は、「ダヴィドの子にホザンナ。賛美されよ、主のみ名によって来るおん者。天のいと高き所にホザンナ」と叫んだ。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


マリア様は私たちに最後の手段「汚れなき御心に対する信心」をくださった。この信心は霊魂の救いのために聖母から今一番求められている

2023年12月09日 | お説教・霊的講話

マリア様は私たちに最後の手段「汚れなき御心に対する信心」をくださった。この信心は、世界の存続のために、日本の存続のために、カトリック教会の存続のために、霊魂の救いのために、聖母から今一番求められているものです。

2023年4月1日(土)大阪でのミサ説教

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、
今日は四月の初土曜日ですので、聖母の汚れなき御心の随意ミサを行っています。聖母の汚れなき御心の随意ミサは、初土曜日は二級の随意ミサとして捧げることができます。ですから三級の祝日があったとしても、私たちは三級の典礼があったとしても、ミサを捧げることが許されています。

今日は初土の信心をミサの後に行いましょう。ミサの後に御聖体降福式を行って、聖ピオ十世会を聖母の汚れなき御心に奉献し、これを更新して、そして十五分間マリア様のロザリオの玄義を黙想致しましょう。

なぜ初土の信心がそれほど重要なのでしょうか。今日はそれを一緒に黙想したいと思います。

マリア様からの秘密を受けたシスター・ルチアは、ある枢機卿様に死ぬ前に手紙を書きました。
「枢機卿様、悪魔は最後の戦いを家族・人間の命に関して、最終の戦いを行う、と言っています。悪魔は天主の創造の業を憎んでいます。特に、天主の似姿に従って造られた人間を、永遠の滅びに落とそうとしています。ですから、悪魔は人間の命を破壊しようと、そして命を生みだす最も神聖なものである家族を破壊しようと、天主の創造の御業を破壊しようと、今全力を尽くしています。」

いま皆さんもご存じのように、世界中のレベルで、性革命と呼ばれるものが展開されています。日本だけは大丈夫だということは、決してありません。

なぜか、ということを説明します。革命は、悪魔から始まりました。悪魔が「私は従わない。」「NON SERVIAM」と、言ったことから始まりました。被造物の分際でありながら、天主に逆らったのです。悪魔は地獄に落とされました。天主の創造の業を破壊して、多くの人間を地獄に引きずり降ろそうと思っています。その最初の犠牲者が、アダムとエワでした。

イエス・キリストによってたてなおされたお恵みの聖寵の世界、現実の世界の上に、超自然の世界が与えられました。天主への信仰、イエズス・キリストへの信仰、そして聖なるカトリック教会への信仰がありました。

しかし最初に(1517年)、マルチン・ルターが革命を起こしました。最初にカトリック教会を否みました。そして、秘跡を否みました。ミサ聖祭を拒否しました。教皇制とその客観的な聖伝を拒否しました。その結果生まれたのが、偽のキリスト教でした。

これは、プロテスタントの精神は、資本主義を生みだすようになりました。その結果、第二の革命がおこりました。それは、自由主義革命と言われるもので、特にフリーメイソンのロッジがそれを進めました。

もしも、プロテスタントの革命が1517年に起こったとしたら、フリーメイソンのロッジは最初にロンドンで1717年に創立されたと言われます。これが、このフリーメイソンたちが計画したのは、キリストという名前をこの地上から消し去ろうとすることでした。そしてキリスト教の文明、そのイエズス・キリストのもたらした福音それをすべてこの地上から消し去ろうとするものでした。

それはなぜかというと、それはお金がすべてだからです。お金儲けのためであれば、その邪魔になるものは消さなければならない。そのために邪魔だったのが、イエズス・キリストの福音でした。聖書の教えでした。

日本はいったい、そんなプロテスタントの革命には関係なかったではないか、と思わないでください。カトリックの宣教師たちが、聖フランシスコ・ザビエルから始まって日本に来た時に、それを妨害したのは、プロテスタントのオランダでした。プロテスタントのイギリスでした。そして、プロテスタントの精神に従ってカトリックを日本から排除させようと、為政者に促しました。そして、お金さえ、貿易さえできればほかはそれでよいとしました。

プロテスタントから生まれた自由主義革命は、更にその革命の原理をおし進めました。その自由主義の原理は、自由・平等・博愛です。この原理をもっと突き進めたところが、ついには天主の存在さえも否定する共産革命、ボリシェヴィキ革命でした。ロシアで1917年に最初に起こりました。そしてこれは世界中に広まることになりました。

カトリック教会のもとでは、私たちは天主の愛する子どもたちであって、天主の生命に与る者、天使たちの次に最も高貴なものとして創造されました。
しかし、自由主義革命では消費者となり、そして、ボリシェヴィキ革命ではただの労働力・機械の一部と物質の一部になりさがりました。

いま最後に悪魔が仕掛けようとしているのは、カトリック教会のみならず、イエズス・キリストのみならず、天主への信仰のみならず、現実をも否定しようとするものです。

私たちが目の前に見ている現実にもとづいた社会をも破壊しようとするものです。男・女・子ども・家族・社会・国家・人間の生命など、これをまったく破壊しつくそう、人間は邪魔だ、地球の保全のために人間はいらないとする、これが悪魔の主張です。悪魔は、人間の世界に対して、天主の創造の業に対して、いま最後の戦いを挑んでいます。

私たちはいま目の覚める時が来ました。テレビやマスコミを鵜呑みにする時はもう終わりました。家族を破壊させるために自然の秩序に逆らうことを、いま法律によって、性教育によって、子どもたちに押しつけようとしています。ジェンダー理論というのがあります。思春期の子どもたちや幼い子どもたちが、男であるか女であるかわからなくなっている、そしてもう一生取り返しがつかない手術を受けることをしています。多くの子どもたちが健康な体を切断しています。社会はいま大混乱に突入しようとしています。これは日本ではそんなことはないと思わないでください。私たちは男か女かわからず、どこの国の人かわからず、何を食べていいかわからず、毒をあるいは害虫を食べさせられるかもしれません。そうすることによって私たちは地球を守ることができると…。それに対して私たちはいったいどうしたらよいのでしょうか。

悪魔や、あるいは人工知能やあるいは世界の権力を牛耳るような人たちが後ろに控えて、イエズス・キリストの教会や信仰や現実に対して戦いを挑んでいます。私たちはいったい何をすればよいでしょうか。

私たちには天主がついています。全能の御父、私たちを愛するために御子をお送りくださった天主三位一体がついています。また、私たちには私たちを愛する御母マリア様がついています。マリア様は私たちを決して見放したりはしません。私たちが見放さないかぎり、私たちが「いい」と言わないかぎり助けてくださいます。マリア様は最初に、すでに蛇の頭を砕くと約束された方です。聖母の勝利は既に予告されています。「私の汚れなき御心は凱旋するでしょう、大勝利をおさめるでしょう」。

私たちには、希望する多くの理由があります。いま全世界で、聖伝のミサにカトリックのミサに立ち返る人が、特に青少年が全世界で広がっています。

司教様たちが反対している、司教様が聖伝のミサをしてはいけないと言っている、司教様が禁止している、ローマが禁止している・・・それにもかかわらず全世界で青年たちが、司祭たちが、教会の閉ざされた門の前で聖ピオ十世会とかぎらずに、門の前でミサを捧げています。なぜかというと私たちは知っているからです。私たちがもしもこの世界の文明を守ることを望むならば、手段は唯一これしかないということがわかっているからです。それがカトリックのミサです。マリア様に対する信心です。

御聖体をもうこれ以上粗末に与ることはできない、サーカスのようなミサはもうこりごりだ、イエズス・キリストはもうこれ以上侮辱されてはならない・・・多くの人たちが、特に若い人たちが、世界中で目覚めています、これが広がっています。この動きをいま誰も止めることができません。司教様であろうが、フランシスコ教皇さまであろうが、誰も止めることができません。なぜかというと私たちの永遠のいのちが、カトリック教会にかかっているからです。私たちの将来の世代が、子供達の永遠のいのちが、カトリック教会の聖伝が存続するか否かにかかっているからです。

そのためにマリア様は私たちに最後の手段を下さいました。汚れなき御心に対する信心です。ですから今日私たちはこれを行っています。この信心は、私たちにとってこの世界の存続のために、日本の存続のために、カトリック教会の存続のために、霊魂の救いのために今一番求められているものです。

教皇様は、確かにロシアを全世界の司教様と奉献しました。その後でマリア様の望んでいることは、この全世界にこの汚れなき御心の信心が確立されることです。私たちは今日その確立のために、このミサを捧げています。

マリア様の汚れなき御心を慰めるために、このいま壊されようとする世界を守るために、御聖体を拝領なさってください。十五分の黙想を致しましょう。マリア様の汚れなき御心に、私たちがいつも馳せ寄るお恵みを請い求めましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


十字架のもとで立たずむマリア様の御悲しみを黙想する

2023年12月08日 | お説教・霊的講話

2023年3月31日(金)大阪でのミサ説教

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

今日、聖母の悲しみの記念を行っています。

悲しみの聖母は、聖ピオ十世会のシスターそして奉献修道女たちの特別の守護の聖人マリアですので、聖ピオ十世会では特別に一級祝日として祝っています。このミサの直後に、四旬節の金曜日ですから、十字架の道行を行いましょう。今日は、マリア様の御悲しみを黙想しながら、十字架の道行を行いましょう。

このミサでは十字架のもとで立たずむマリア様の御悲しみを黙想致しましょう。

イエズス様は、十字架で両手を大きく開けて、私たちを迎えようとしています、ご自分の愛の王国に迎えようと。私たちの罪をすべて赦そうと、だから罪人たちに早く父のもとに帰るように、そのために唯一の橋である仲介者であるイエズス・キリストのもとにやってくるように、両手を広げて、待っておられます。

マリア様はそのイエズス様のお姿を十字架のもとで佇(ただず)んで、お待ちです。佇んでおられます。

イエズス様は罪がなく、お生まれになったときから、愛と憐れみと善だけを施してきた、聖にして聖にして聖なる御方、その御方が、いま全く正義に反して冤罪の死刑の罪を受けておられます。周りの人々は、権力も当局もローマ当局もユダヤの宗教当局、イエズス様を断罪しています。罪がないにもかかわらず。あれだけ恩を受けた群衆たちも、心無い人々は、イエズス様を罵(ののし)っています。なんという不正義、なんという理にかなわないこと、なんでこのようなことが許されるのでしょうか。私たちでしたら、どのように理解していいかわからない程です。しかしマリア様はそれをすべて、イエズス様とともにお捧げになります。

イエズス様の最初の言葉を聞いてください。
「父よ、彼らを許したまえ。彼らはその為すところを知らざるなり。」
マリア様もこれに合わせて言います。
「父よ、赦してください。人々を赦しください。憐れんでください。罪の赦しを与えてください。天国に導いてください。永遠の地獄の火から守ってください。」

悲しみの極度にいながら、イエズス様とマリア様の御考えは一緒でした。

イエズス様の第二の言葉も、盗賊への赦しの言葉でした。
「汝、われとともに今日楽園にあらん。」

第三の言葉は、聖母を私たちに与える言葉でした。このような忘恩の罪人である私たちに対して、あまりにも寛大なイエズス様は、マリア様を私たちに母として与えようとされます。マリア様はその言葉を聞いて、私たちのようなものであったとしても、イエズス様と同じ態度と同じ愛をもって、自分の子どもとして愛し、そして育もうとされています。私たちはどれほどの母を持つ名誉を受けたことでしょうか。

マリア様は十字架のもとに佇んで、悲しみを極められておりましたが、それをすべて、私たちのために 私たちの母として、捧げてくださいました。マリア様に是非御取次を請い願いましょう。また、私たちに罪の痛悔の恵みと、そしてマリア様の足元に一緒に留まるお恵みを、請い求めましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


司祭というのは何なのか? なぜキリストは大司祭として来られたというのか。キリストが大司祭であるということは、私たちにとってどのような意味があるのか。

2023年12月07日 | お説教・霊的講話

司祭というのは何なのか? なぜキリストは大司祭として来られたというのか。キリストが大司祭であるということは、私たちにとってどのような意味があるのか。

2023年3月26日(主日)東京での11時半のミサ説教

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、
今日は2023年3月26日、御受難の第一主日です。
教会は今日から受難節に入ります。この聖なる季節において、教会は特に主の御受難を黙想します。
キリストの御受難をよく理解するためには、キリストの司祭職について理解を深めなければなりません。御受難というのは、キリスト自身が大司祭として捧げたいけにえであったという神秘だからです。
ですから今日のミサでは、聖パウロの書簡が読まれました。こう始まります。「キリストは、将来の恵みの大司祭としてこられた」と。

ではいったい司祭というのは何なのでしょうか? なぜキリストは大司祭として来られたということができるのでしょうか。キリストが大司祭であるということの論理的な結論は、二十一世紀の私たちにとって、どのような意味があるのでしょうか。一緒に黙想いたしましょう。

(1)【司祭とは何か?】
司祭の役割とはいったい何でしょうか。司祭の役割とは、天主と人々との仲介者、仲立ちであることです。ラテン語で大司祭のことを ポンティフェクスPontifex と言います。ポンティというのは橋という意味で、フェクスというのは作る人という意味です。天と地との間に橋をかける人、という意味です。なぜかというと、天の聖なるものを、たとえば、聖寵のお恵み、天主の掟、あるいは天からの教えなどを、天主の秘密を、真理の知識を人々に伝えるというのが、司祭の役目であるからです。

また司祭のことをラテン語では、サッチェルドsacerdos と言います。聖トマス・アクィナスによるとこの語源は、sacra dans 聖なるものを与える人、という意味です。やはり、天上の聖なる物を人々に与える人、これが司祭です。それだけではありません。天から下に、私たち地に聖なるものを与えるのみならず、地にある聖なるものを天に挙げる、これも仲介者、仲立ちの役割です。つまり、司祭は何をするかというと、人々の祈りや罪の償いを、天主に捧げるのです。人々が直接捧げるよりは、天主により近い仲介者である司祭を通して捧げた方が、より快く天主に受け入れられるからです。ですから聖パウロはやはりヘブライ人への手紙の中で、こう言っています。「大司祭はすべて、人間の中から選ばれ、天主に関することについて、人間のために任命されている。それは、罪を贖うそなえものといけにえとをささげるためである。」(ヘブレオ5:1)【神学大全3. q. 22. a. 1. c】

祈りや罪の償いを天主に捧げる、この祈りと償いのなかで、いけにえを捧げる中で、最も司祭に固有の役割は、犠牲を捧げること、いけにえを捧げるということです。

もちろん、祈りを捧げることは司祭にとってとっても大切な仕事であるし、司祭の祈りには特別の力がありますが、しかし司祭だけに限られたものではありません。皆が誰でも祈らなければならないからです。しかし、犠牲を捧げる、いけにえを屠って捧げるというのは、司祭だけにゆるされた特別な仕事です。

(2)【司祭の定義はイエズス・キリストにおいて完全に成り立つ】
では、この司祭の定義は、ヤーベによって旧約時代に与えられたまことの司祭の定義ですけれども、これはキリストにおいてどのように当てはまるでしょうか。これは、まさに完璧に、イエズス・キリストに当てはまります。なぜかというと、イエズス・キリストは、まさに天と地の仲介者・仲立ちであるからです。なぜかというと、天主の御言葉のペルソナにおいて、天主の本性と人間の本性がわかちがたく合体しているので、イエズス・キリストほど、天と地の仲介者として仲立ちとして立つにふさわしい方がおられないからです。

聖パウロはこう言います。「御父は、すべてのみちみちるものを御子に宿らせ、そして、かれによって、かれにおいて、すべてのものを和睦させ、御子の十字架のおん血によって、かれによって、地にあるものも、天にあるものも、平和にさせようとのぞまれた。」(コロサイ1:19-20)【神学大全3. q. 22. a. 1. c】

仲介者として、天と地を一つに和解させた。これがイエズス・キリストだと言います。仲介者・仲立ちのみならず、その、そうであるという存在のみならず、それの仕事もします、それの役割も果たします。イエズス・キリストは、聖なるものを天から人々に与えます。すべての天の最も尊いお恵みは、イエズス・キリストを通して、聖寵も掟も真理も与えられました。

聖ペトロはこう言っています。「キリストの天主としての力は、…命と敬虔とをたすけるすべてのものをくださり、また、それによって、私たちに尊い偉大な約束をお与えになった。」(ペトロ後1:4)

また、地から地上のものを天上へと挙げるという役割も果たします。
聖パウロはこう言っています。「ただ一度で永久にささげられたイエズス・キリストのおん体のささげものによって、私たちは聖とされた。」(ヘブレオ10:)

このイエズス・キリストの司祭職は、完璧である。この理由は、その天主の本性とその人間の本性が御言葉のペルソナにおいて完璧に一致している、というそれが根本的な理由ですが、その結果、イエズス様は旧約のすべての司祭職あるいは生贄を完成させた方であるからです。聖トマス・アクィナスによると、旧約のいけにえが意味があったのは、それはイエズス・キリストの象りであったからです。イエズス・キリストのいけにえの影であったからです。

聖パウロの言葉を聖トマス・アクィナスはこう引用しています。「律法は、実在の姿ではなく、将来のめぐみの影である」。つまり、旧約時代は本物ではなかった、ただの影にシルエットに過ぎなかった。本物の将来の来るべき恵みを待っていた。なぜかというと、聖パウロは、もっと言葉を取ります。「牡牛と牡山羊との血では、罪をとりのぞけない…」、「もしも動物の血が価値があったとしたら、イエズス・キリストの流される御血を意味していたからに過ぎなかった。」旧約の司祭職も全く価値がなかった。もちろん天主がそれを制定したものでしたけれども、それ自体としては価値がありませんでした。ただイエズス・キリストの司祭職を意味するか、影であるというがために、それは天主の御心に適うものでした。しかし、実物が 現実が到来したのちには、その影はもはや必要がありません。旧約時代、大司祭は、一年に一度だけ、至聖所と呼ばれる特別の幕屋に入ることができました。神殿の更にもっと奥に、一年に一度だけ、大祭司だけがたったひとり許される特別な聖なる場所がありました。聖にして、聖なる場所。至聖所です。そこに羊と小牛の血を携えて、その至聖所にあった祭壇にその血を振りかけます。これはただの影にすぎませんでした。

この旧約のいけにえもこの旧約の大司祭も、イエズス・キリストの到来によって、すべては完成させられました。成就しました。聖パウロの今日の書簡が、どのように完成したかを説明しています。キリストは旧約を完成させる大祭司、将来の恵みの大司祭として、復活して天国という完全な幕屋を通り、十字架上での御死去を通して流された自分の御血をもって、たった一度だけで永久に天主の至聖所にはいり、御父に御自分のいけにえを捧げ、永遠の贖いをなしとげられた。イエズス・キリストは、それですべての仕事を終わったのではなく、たえず御父の前にいて私たちのためにとりなしてくださっている、仲介者として仲立ちをしてくださっている、私たちのために祈ってくださっている、永遠の最高の完璧の大司祭であるということです。

この永久の司祭職、完成された司祭職は、御托身の瞬間から始まりました。3月25日にマリア様がお告げを受けて「われは主の使い女なり、仰せのごとくわれになれかし」とおっしゃったその瞬間、天主の御言葉がマリア様の御胎内に宿りました。そのときに、イエズス・キリストは司祭として、聖母の胎内に宿られたんです。これこそが最初の本当の新約の大司祭の叙階式でした。

旧約時代では、天主の聖霊のシンボルである聖香油を司祭に流して、叙階式が行われました。しかし、イエズス・キリストは天主本性ご自身と人間の本性が合体するので、そのような油は必要ありませんでした。天主の本性によって油をそそがれた者で、これこそが本物の油であったからです。

(3)【イエズス・キリストにおいて司祭職が完全に成就したことの結論】
これはいったい21世紀に生きる私たちにとって、どんな意味があるのでしょうか。それは、イエズス・キリストの司祭職、イエズス・キリストの捧げたいけにえ、これは最高のものであって、わかちがたく一致していて、そしてこれ以外に天主の御心に適う捧げ物はないということです。つまり、捧げる司祭は天主御自身、大司祭である。また捧げられたいけにえも、天主御自身のいけにえである、ということです。

旧約のいけにえはこの新約のいけにえを、この大司祭の到来をもってすべて廃止されました。もはや全く価値がなくなりました。いわんや、他のさまざまのいけにえなどは全く価値がないということです。

唯一、現代に生きる私たちにとって、天主の御心に適う罪の償いのためのいけにえ、これは十字架のいけにえ、これ以外にしかないということです。十字架の上に屠られた天主の子羊、十字架の上でいけにえを捧げる大司祭キリスト、これ以外には、わたしたちにとって捧げるべくいけにえはないということです。

この十字架のいけにえは、皆さんが今目の前で与っているカトリックの聖伝のミサにおいて、再現されています。

あたかも皆さんは十字架の足元に立つマリア様、聖ヨハネと、同じお恵みをミサに与ることによって、与えられます。カトリックの司祭は会衆の代表でもなければ、あるいは集会の司会者でもありません。そうではなくて、司祭は、叙階を受けた時にキリストの司祭職の刻印を、霊魂に刻みつけられます。これによってキリストの永遠の司祭職に与るものとなって、キリストの道具となります。ですからミサを捧げるのは、イエズス・キリスト御自身なのです。そして捧げるいけにえも、イエズス・キリスト御自身なのです。ですから皆さんはイエズス・キリストが捧げるいけにえに与っておられるのです。

全世界の宗教を見ると、今いけにえがあるのは、この聖伝の教えしかありません。

ユダヤ教では、昔いけにえが捧げられていました。しかし、それは廃止されました。特にエルサレムの神殿が崩壊されてからは何もすることができなくなりました。プロテスタントはいけにえを廃止しました。イスラム教はいけにえがありません。

しかし人類にとって最も大切なのは天主の捧げたこのいけにえを捧げ続けることです。ですから私たちにとって、十字架のこの犠牲、そしてそれの延長であるミサ聖祭は、最も大切な人類の宝です。これこそが、人類の存続を決定する最も重要な鍵となっています。そして皆さんはこのミサに、この十字架のいけにえに、今与っておられます。

どうぞ今日受難の聖なる時期に突入すると同時に、キリストの司祭職、キリストのいけにえというのがわかちがたく一致していて、一つを否定すればもう一つも否定されることになり、反対を否定すればもう一つも否定されることになることを、よく深めてください。私たちは最高のいけにえに与っているということを、ご存じになってください。

遷善の決心を立てましょう。全世界で、このミサは迫害を受けています。キリストの敵は、このミサがどれほど力があるか、ということをよく知っているので、これをなくそうと全力を尽くしています。私たちは天主の御恵みによってこのミサを守りつづけなければなりません。来たる金曜日は、七つの御悲しみのマリア様の特別の記念日です。マリア様に一緒にお祈りいたしましょう。十字架のもとに立ち止まって、決して十字架から離れることがなかったマリア様。私たちもいつも聖なる聖伝のミサ聖祭を守るお恵みを請い求めましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


2024年から大宮の新聖堂での主日のミサの時間が変更になります New Sunday Mass schedule from next year 2024

2023年12月07日 | 聖伝のミサの予定

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様を聖伝のミサ(これは「トリエント・ミサ」「ラテン語ミサ」とも言われています)にご招待します。

2024年1月から主日のミサが変更になります。

主日ミサは2回捧げられます。(8時30分と10時30分です)
08:30 ミサ聖祭 読誦ミサ
10:30 ミサ聖祭 歌ミサ(YouTube でライブ中継の予定
ミサの前後に告解の秘蹟を受けることができます。最初のミサの間にも告解をすることができるように告解のために司祭は待機しております。
 
住所: さいたま市大宮区東町2ー256ー8 林ビル2F

Google マップ: <https://goo.gl/maps/3AiQkmFkdGYtVC2B6>
※ JR 大宮駅から北東方向に1キロメートルほど歩いたところにある、ベージュ色の3階建のビル、林ビルの2階です。

大宮駅まで: JR 大宮駅へは、JR 宇都宮線・高崎線で東京駅から 31 分、上野駅から 25 分です。
大宮駅から: JR 大宮駅東口から、北東方向に歩いて約 14 分です。(ファイル New Chapel in Omiya-20231009.pdf をご覧ください)

大宮駅から新しい聖堂へ歩いての行き方ファイル:Walking from Omiya Station to the New Chapel


My dearest Brethren!

From next year 2024, we will have a new schedule for the Sunday Masses in Tokyo.

*****New schedule of the Sunday Masses in Tokyo:*****
On all Sundays there will be two (2) Masses.
08:30 - Low Mass 
10:30 - Sung Mass (YouTube live)

Mass location:

Address: Hayashi Building 2F, 2-256-8, Azuma-chô, Ômiya-ku, Saitama City
Google Map link: <https://goo.gl/maps/3AiQkmFkdGYtVC2B6>
* The chapel is on the 2nd floor of Hayashi Building, a beige-colored 3-story building, located approx. 1 km north-east of JR Ômiya Station.
To Ômiya Station: JR Ômiya Station is a 31-minute train ride (on JR Utsunomiya Line or JR Takasaki Line) away from JR Tôkyô Station, or a 25-minute ride from JR Ueno Station.

From Ômiya Station: From the East Exit of JR Ômiya Station, walk approximately 14 minutes in the north-eastern direction to reach the chapel. (Please see the file New Chapel in Omiya-20231009.pdf.)

File : Walking instruction from Omiya station to the New Chapel


2023年12月6日は、十二月の初水曜日(月の初めての水曜日)です 聖ヨゼフ!我らのために祈り給え

2023年12月06日 | カトリック・ニュースなど

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日、2023年12月6日は、聖ニコラオの祝日であり、初水曜日(月の初めての水曜日)です。聖母の汚れなき御心と聖ヨゼフとの取り次ぎを通して、私たちの主の御聖体に対する冒瀆的な取り扱いに対する償いを捧げましょう。

初水曜日ですからいつものように「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」について黙想することをご提案します。


聖ヨゼフはこの世で天主イエズス様と浄配なる聖母マリア様を最も良く知り、愛された御方であり、その隠れた徳ゆえに偉大なる御方、イエズス様とマリア様の最大の命の恩人であられました。

また、聖ヨゼフは、この世では、全てを天主の栄光のために、隠れてその生涯をささげられたが故に、天にて聖母の次に最大の栄光をあたえられていらっしゃいます。

聖伝では、水曜日は聖ヨゼフに捧げられた曜日であり、月の最初の水曜日を聖ヨゼフに捧げることで、聖ヨゼフを讃え、その御取次に信頼し、その御徳に倣って、聖ヨゼフを通して、天主イエズス様とマリア様をお愛しすることができますように。

初土曜日の「聖母の汚れ無き御心」への信心にならって、この「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」のどれかを「15分間黙想」することにいたしましょう。

聖ヨゼフの帯の信心については、下記リンクをごらんください。
聖ヨゼフの帯 cingulum Sancti Joseph

聖ヨゼフの御取次ぎにより、聖母の汚れ無き御心とイエズスの至聖なる聖心ヘの愛をますます与えてくださいますように!
聖ヨゼフの御取次ぎにより豊かな祝福がありますように!

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


聖ヨゼフの7つの苦しみと喜び

1 ああいと潔き御母マリアの浄配、栄えある聖ヨゼフよ、御身のいと清き妻を失なわんと心に思い煩いし時の苦しみはいと大いなるものなりき。
されど天使が御託身の玄義を御身に伝えられし時の喜びは、またひとしお大いなりき。この苦しみ、この喜びにより、今も臨終の時も我らの心を潔き良心の喜びと、イエズス、マリアのうちに自我を滅する尊き御身の心を示し、我らを慰め給え。



2 ああいと幸いなる保護者聖ヨゼフよ、御身は人となり給いし御言葉の潔き養父の位にあげられたれども、御身は幼きイエズスがいと貧しき中に生まれ給うを見て大いに悲しみ給いしが、
天使らのたえなる歌声を聴き、その輝ける夜の栄えを見給うや、その悲しみは天的の喜びと変じたり。御身のこの悲しみ、この喜びによりて、我らもまたこの世の歩みを終えたる後、天使らの賛美の歌声を聴き、天的光栄の輝きを受け得んことを願い奉る。



3 ああ御摂理にいと従順なしもべなる、栄えある聖ヨゼフよ、幼きイエズスが割礼にて流されたる尊き御血は御身の心を苦痛もて貫きたれども、
イエズスと命名されるや御身の心は喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らをこの世の悪徳より離れしめ、イエズスのいと尊き御名を心から唱えつつ心満たされてこの世を去るを得しめ給え。



4 ああいと忠誠なる聖ヨゼフよ、御身は救世の玄義の成就に身をもって大いなる役を果たされしが、シメオンの預言によりイエズスとマリアが受け給うべき苦難を予知せられ苦しみ給いたれど、
数限りなき人々の霊魂がこれによって救わるるとの預言によりて、天的喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らがイエズスの功徳と聖母マリアの御取次ぎにより、終わりなき栄えを得てよみがえる人々のうちに数えられる御恵みをとりなし給わんことを願い奉る。



5 ああ人となり給いし天主の御子のいとも注意深き保護者なる栄えある聖ヨゼフよ、御身はいと高きものの御子を養い給い、これに仕えるために多くの辛酸をなめられたり。わけてもそのエジプトへの逃避はいと苦しきものなりしが、
御身が常に天主御自身と共におられし喜び、またエジプト人らの諸々の偶像が地に落とされしを目の当たりに見られし時の安心はいと大いなりき。この御身の辛酸と喜びとによりて、我らが地獄的暴君より免れて、わけても危険なる機会より逃避する事を得しめ、我らの心のうちに地上的執着が落とされ、ひたすらイエズスとマリアに仕え奉りつつ日々の生活を送り、この世を幸いに終わる事を得しめ給え。



6 ああこの地上の天使なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の心を天の王に全く捧げられたり。御身がエジプトより戻られる喜びは、アルケラウスに対する憂慮にて不安の闇となりしが、
天使は再び御身にイエズスとマリアと共にナザレトにて楽しく住み給う事を約束せられたり。御身のこの苦しみ、この喜びによりて、我らの心を深い恐怖より免れしめ、潔き良心の平和を楽しみ、イエズスとマリアと共につつがなく世を送り、臨終においてはイエズスとマリアの御手に我らの霊魂を捧ぐる事を得しめ給え。



7 ああ全ての徳の鑑なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の誤りにあらずして幼きイエズスを見失い、三日の間苦しみもて捜し求められたり。
されど神殿の中に博士らに取り巻かれたるイエズスを見出されし時の喜びはいかに大いなりや。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らが大罪を犯しイエズスを失いたりせば、たゆまず彼を捜し求め、遂に再び巡り会えるよう、わけても臨終の時に彼と共にありて天国に至り、御身と共に天主の終わりなき御恵みを賛美し奉るようとりなし給わんことを心から願い奉る。



交唱 イエズスが教えをはじめたりしは三十歳ごろなり、人々、イエズスをヨゼフの子なりと思いたり。(ルカ3:23)

V 聖ヨゼフ、我らの為に祈り給え。
R キリストの御約束に我らをかなわしめ給え。

祈願 天主、御身のかしこき御摂理のうちに祝せられたヨゼフを至聖なるマリアの浄配に選び給いたれば、願わくはこの世の我らの保護者として崇め奉る彼が、我らの天のとりなし手となり給わんことを。 アーメン。

参考リンク
サンタフェ~奇跡の階段 コラレス通り1丁目 この記事に昔の階段の様子の写真があります。

聖ヨゼフの階段(アメリカのニューメキシコ、サンタ・フェにあるロレット・チャペル)



英語ではこちら。
THE SEVEN DOLOURS AND SEVEN JOYS.

i. St. Joseph, pure spouse of most holy Mary, the trouble and anguish of thy heart were great, when, being in sore perplexity, thou wast minded to put away thy stainless spouse: but this joy was inexpressible when the archangel revealed to thee the high mystery of the Incarnation.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee comfort our souls now and in their last pains with the consolation of a well-spent life, and a holy death like unto thine own, with Jesus and Mary at our side.
Pater, Ave, and Gloria.

ii. St. Joseph, Blessed Patriarch, chosen to the office of Father of the Word made Man, the pain was keen that thou didst feel when thou didst see the Infant Jesus born in abject poverty; but thy pain was changed into heavenly joy when thou didst hear the harmony of angel-choirs, and behold the glory of that night when Jesus was born.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee obtain for us, that, when the journey of our life is ended, we too may pass to that blessed land where we shall hear the angel-chants, and rejoice in the bright light of heavenly glory.
Pater, Ave, and Gloria.

iii. St. Joseph, who wast ever most obedient in executing the law of God, thy heart was pierced with pain when the Precious Blood of the Infant Saviour was shed at His Circumcision; but with the Name of Jesus new life and heavenly joy returned to thee.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, being freed in our life from every vice, we too may cheerfully die, with the sweet Name of Jesus in our hearts and on our lips.
Pater, Ave, and Gloria.

iv. St. Joseph, faithful Saint, who wast admitted to take part in the redemption of man; the prophecy of Simeon foretelling the sufferings of Jesus and Mary caused thee a pang like that of death; but at the same time his prediction of the salvation and glorious resurrection of innumerable souls filled thee with a blessed joy.
By this thy sorrow and thy joy, help us with thy prayers to be of the number of those who, by the merits of Jesus and his Virgin Mother, shall be partakers of the resurrection to glory.
Pater, Ave, and Gloria.

v. St. Joseph, watchful Guardian, friend of the Incarnate Son of God, truly thou didst greatly toil to nurture and to serve the Son of the Most High, especially in the flight thou madest with Him unto Egypt; yet didst thou rejoice to have God Himself always with thee, and to see the overthrow of the idols of Egypt.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us grace to keep far out of the reach of the enemy of our souls, by quitting all dangerous occasions, that so no idol of earthly affection may any longer occupy a place in our hearts, but that, being entirely devoted to the service of Jesus and Mary, we may live and die for them alone.
Pater, Ave, and Gloria.

vi. St. Joseph, angel on earth, who didst so wonder to see the King of heaven obedient to thy bidding, the consolation thou hadst at His return was disturbed by the fear of Archelaus, but nevertheless, being reassured by the angel, thou didst go back and dwell happily at Nazareth, in the company of Jesus and of Mary.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, having our hearts freed from idle fears, we may enjoy the peace of a tranquil conscience, dwelling safely with Jesus and Mary, and dying at last between them.
Pater, Ave, and Gloria.

vii. St. Joseph, example of all holy living, when, though without blame, thou didst lose Jesus, the Holy Child, thou didst search for Him for three long days in great sorrow, until with joy unspeakable thou didst find him, who was as thy life to thee, amidst the doctors in this Temple.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee with our whole heart so to interpose always in our behalf, that we may never lose Jesus by mortal sin; and if (which God avert) we are at any time so wretched as to do so, that we pray thee to aid us to seek Him with such ceaseless sorrow until we find Him, particularly in the hour of our death, that we may pass from this life to enjoy Him for ever in heaven, there to sing with thee His divine mercies without end.
Pater, Ave, and Gloria.

Ant. Jesus Himself was about thirty years old, being, as was supposed, the son of Joseph.

V. Pray for us, holy Joseph.
R. That we may be made worthy of the promises of Christ.

Let us pray.
O God, who in Thine ineffable providence didst vouchsafe to choose blessed Joseph to be the husband of Thy most holy Mother; grant, we beseech Thee, that we may have him for our intercessor in heaven, whom on earth we venerate as our holy protector. Who livest and reignest world without end. Amen.


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

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