Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

十字架の道行は、最も重要な信心、キリスト教の初代から行われてきた信心、多くの霊魂たちを聖化してきた信心

2023年12月06日 | お説教・霊的講話

十字架の道行は、最も重要な信心、キリスト教の初代から行われてきた信心、多くの霊魂たちを聖化してきた信心

2023年3月26日(主日)東京での9時のミサ 

サマーズ管区長様の説教

親愛なる兄弟の皆様、
私たちは今日から最も神聖な御受難の季節に入ります。
ですから御受難について、十字架の道行について、話をすることがとてもふさわしいと思います。
特に十字架の道行の信心と、それの実践についてお話します。

【十字架の道行は、最も重要な信心】
十字架の道行は、私たちの信仰の中で最も高い最も重要な信心と言えます。
なぜかというと、イエズス様御自身がそれをなさることによって、この十字架の道行をなさることによって、私たちに与えられたからです。
私たちは、この信心をすることによって、頭の中に主の御死去を思い出させます。
私たちの罪のためにお受けになった御受難をも考えさせます。
私の弟子になりたいならば、自分を捨てて十字架を取って私に従え、と言ったお言葉をも思いださせます。

【十字架の道行は、キリスト教の初代から行われてきた信心】
マリア様、聖ヨハネ、マグダラのマリア、その他の聖なる婦人たちが、主の御跡を慕って、十字架の後につき従ったということを思い出させます。
イエズス様が昇天なさったのちにさえも、マリア様あるいは聖ヨハネなど、ほかの信者たちは、主の十字架の道行を何度も行って、そこを黙想して通った、ということを思い出させます。
この信心は、カトリック信者によって、マリア様の後何世紀も続けられてきました。特に世界中からエルサレムに行って旅行・旅をして、そして主の本当にお歩きになった道行きをして来ました。
しかしイスラム教徒が聖地を占拠してしまい、聖地に行くことができなくなってしまった時に初めて、カトリック信者は、この信心をそれぞれの教会に持ち込んで、そして教会で十字架の道行をするようになりました。
多くの偉大な教皇様たちは、この十字架の道行の信心に、贖宥や特別の祝福を与えたので、これこそが教会の中で最も祝別された信心となりました。
最も重要であり、また私たちにとって最も有用な役に立つ信心です。

【十字架の道行は、多くの霊魂たちが聖化された信心】
私たちの主が、十字架の道行をやりながら、その信心を作り出しているその最中でさえも、多くの霊魂たちはこれによって聖化されました。
キレネのシモンは、全く関心がなかった男でしたけども、しかし、主の十字架を担うようにと強制させられて変わりました。
キレネのシモンが回心したのみならず、彼の二人の子どもたちもキリスト教信者となって、司祭・司教となって、最後には殉教の恵みをも得ました。
主の十字架の道行をやりながらそれに従いながら、キレネのシモンは、回心の恵み・聖化の恵みまた召命のお恵みをも、殉教のお恵みをも、得ました。
また主が十字架の道行を続けると、ある婦人は主の姿を見て、その姿に、慰めを与えようとして、御顔を拭くためのタオルを出します。
これは私たちに、もしも誰かが苦しんでいるのを見てそれを助けようとすると、特に私たちの主に対する愛をこめてそれを助けようとすると、回心の恵み、聖化の恵みを受けることができるということを教えています。
十字架につけられて高く挙げられた時に、主はまた回心の恵みを与えました。
右につけられた良き盗賊ディスマスは、主にこう言います、「主よ、あなたが御国にいたるときに私を思い出してください」と。
生涯犯罪とそして邪悪を犯して来たこの罪の男ですが、しかし十字架の道行のお恵みによって、彼は改心の恵みを受けて、その夜天国に行きました。
百部長は私たちの主に苦しみを与えていた兵士たちの責任者でしたが、その責任がある男だったにもかかわらず、主の十字架のご様子を見て、そしてそののちにおこった奇跡を見て、回心のお恵みを受けました。そこで信仰告白をしました。
福音書には「多く人たちが群集が十字架で起こったことを見て、みな胸を叩きながら、打ちながら、家に帰って行った」とあります。回心のお恵みです。
この同じ人たちが、聖ペトロが聖霊降臨の時に説教をすると、回心したのです。
これは、最初の十字架の道行で行われた多くのお恵みのほんのちょっとした例にすぎません。
まったく同じお恵みが、私たちが十字架の道行をするたびごとに、特に信心と愛をこめて、罪の痛悔の念をもって行うごとに、与えられます。
天主は場所や時間に制限されていません。ですから、同じお恵みを、どのような国であっても どのような時代であっても どのようなところであっても、聖化のために、私たちが十字架の道行をするために、これを与えることができます。

【十字架の道行は、罪人のためにとっても聖人にとっても有用である】
十字架の道行は、罪人であっても罪のなかに生きる人であっても、また、聖人のためであっても、聖性の状態にいる人のためであっても、両方とも有用な真理です。

罪のなかに生きている人々、あるいは罪に愛着を持っている人々は、十字架の道行から私たちは多くを学ぶことができます。
彼らは、主が苦しみご死去されるのをみますが、それは自分たちの罪の負債を支払うためであるということを、知ることができます。
ここで 天主の恐ろしい正義と 罪の恐ろしい代価を、知ることができます。
また自分たちの霊魂に対する主の偉大な愛をも、知ることができます。
私たちの主が罪を償うために何度も何度も苦しみを受けることの準備ができている、よろこんで苦しむことができるということを、その愛を、彼らは否定することができなくなります。
この考えは、罪人たちが罪を悔い改めるための大きな助けとなって、天主に立ち戻ることができるようにしてくれます。

聖ボナヴェントゥラは、「主の苦しみは、最も冷たい凍り付いた心でさえも、暖かく燃え立たせてくれる」と言っています。
たとえ自分の意見に凝り固まった人でさえも、あるいは自分の肉欲あるいは誘惑に襲われている人であったとしても、主の御受難とご死去を黙想すればするほど、ついには回心せざるを得なくなります。

罪人のみならず、成聖の恩寵に生きる人々のためであっても、十字架の道行はとても役にたちます。
これは私たちに、罪の邪悪さをわからせ、罪を忌み憎む恵みを与えてくれます。
キリストが私たちのために苦しまれたということをみると、私たちも愛へと動かされます。
主の聖なる徳を十字架の道行のなかで私たちはみることができます。ですから これに倣って、私たちも同じような徳を実践したいと思わせます。
またこれを通して、この地上における私たちの生活がいったい何かということを、ますますはっきりと見ることができるようになります。
主の苦しみ・御受難・死を黙想すればするほど、私たちにとってこの世で何が大切なのか、私たちの優先順位が何か、ということを、よく理解することができます。ですから、主が私たちのために苦しまれたということを周知すると、この地上におけるすべてのことがより簡単になります。
ハイ、十字架の道行は罪人のためにとっても、また成聖の恩寵に生きる人々にとっても、もっとも役に立つものです。

この十字架の道行の信心を四旬節だけに限ってはなりません。私たちはたとえ家の中にこの十字架の道行の絵がなかったとしても、主の御受難を黙想するようにしましょう。
この信心は主によって与えられて、そしてマリア様がこの信心を行いました。
これによって、私たちは主の祝別、そして回心、罪の痛悔を私たちが受けることができます。
私たちの前に生きていた多くの聖人たちが受けたものと同じお恵みを受けることができます。
主の御受難よ、我らを清めたまえ。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


お告げの三つの神秘:天主の御言葉が人間となられた、御言葉の御父への従順と聖母の従順、新約の完全な司祭職の成立

2023年12月05日 | お説教・霊的講話

お告げの三つの神秘:天主の御言葉が人間となられた、御言葉の御父への従順と聖母の従順、新約の完全な司祭職の成立

2023年3月25日(土曜日)修道院での説教

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

今日はお告げの大祝日です。三つのポイントがあります。
第一は、天主の御言葉が、今日この日に人間となられたという神秘です。
第二は、御子の御父への従順と聖母の従順です。
第三は、完全な司祭職が成立したことです。

第一のポイントは、天主の本性と人間の本性が、三位一体の第二のペルソナの位格において合体して、わかちがたく一つになったことです。天地創造は、無から、私たちが有へと創造されましたが、私たちにとってこれに匹敵するこれにも勝る偉大な出来事が、今日起こりました。それは人間の本性が天主の本性と一致した、そこで私たちも天主の本性に一致することができるようになった、という神秘です。

第二のポイントは、これはイエズス・キリストの御父への従順と、そしてマリア様の従順によって、この二つによってなされたということです。聖パウロによると、「イザヤの書の最初に”主のみ旨を果たすために私は来た”と書かれている」と、聖パウロが言っています。イエズス様が天主の御言葉が人となったのは、天主の御父のみ旨を果たすためでした。それだけでは足りませんでした。人類を代表してマリア様が「ハイ」と、「主のみ旨のとおり我になれかし」「あなたのお言葉のとおりに私になりますように」とおっしゃる必要がありました。
今日このマリア様が「ハイ」と言ったその瞬間、主のみ旨を受け入れた瞬間、天主御子は人と人間本性を取ることができるようになりました。
もちろんマリア様は、聖書の預言をよくご存じでした。天主の御母となることがどれほどの苦しみとあるいは苦悩をもたらすということをよくご存じでした。それにもかかわらずマリア様は「ハイ」と言いました。マリア様は童貞女でしたから、もしも童貞でありながら子供を身籠るということはどのようなことか、聖ヨゼフがどのような反応をするか、どのように疑われるか、もしかしたら石殺しになってしまうかもしれない…「仰せの如くわれになれかし」。マリア様はすべてのことを、主のみ旨として既に受け入れておられました。そのおかげで私たちには救い主が与えられました。

最後の点は、今日、天主の御子が人間となるということで、これは天と地を結ぶ大司祭が誕生したということです。旧約の司祭職が、新約のイエズス・キリストの大司祭によって完成させられたということです。そして新約のすべてのカトリック司祭たちは、イエズス・キリストの司祭職に与るものとなることができた、すべての司祭の源泉はこの御托身の瞬間に起こった、イエズス・キリストの司祭職にある、ということです。

今日この日にルフェーブル大司教様さまがお亡くなりになったというのも、非常に御摂理にかなうことです。なぜかというと、ルフェーブル大司教様はカトリックの司祭職を守るために、そしてカトリックの司祭が捧げなければならない生贄を守るために、ミサ聖祭を守るために一生を尽した方だったからです。

是非マリア様に御取次ぎを請い願いましょう。私たちの中から聖なる司祭たちがたくさん輩出しますように。そして私たちもイエズス様とマリア様に倣って主のみ旨を果たすことができますように。そして、これこそが聖徳の鍵であるということを、よく深く理解することができますように。私たちも、「仰せの如くわれになれかし」というこの言葉を生きることができますように、お祈りいたしましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


聖パウロのよきキリスト者となることができるための四つのアドバイス:いったいどういう意味なのか。

2023年12月05日 | お説教・霊的講話

「愛される子らとして、天主に倣うものであれ!キリストが私たちを愛されたように、愛のうちに歩め。聖徒たちにふさわしいように、あなたたちの中では、淫行すべての穢れ・強欲を口にさえするな。人の空しい言葉に騙されるな。光の子として歩め。」

2023年3月12日(主日)東京での11時半のミサ 説教

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

今日は、四旬節第三主日のミサを捧げています。

四旬節は、償い、悔い改めの聖なる時期です。また特に洗礼志願者の洗礼を準備する時期でもあります。

今日の聖パウロの書簡は、私たちがよい悔い改めをすることができるように、また求道者の方々がよきキリスト者となることができるために、四つのアドバイスをしています。聖パウロは最後に結論としてこう言います。「あなたたちは闇であったが、今は主において光である。光の子として歩め」。この聖パウロの書簡を是非一緒に黙想いたしましょう。

聖パウロは四つのアドバイスをしています。
一つは「愛される子どもとして、天主に倣う者であれ。」
もう一つは「キリストが私たちを愛したように、愛のうちに歩め。」
三番目は、「聖徒たちにふさわしいように、あなたたちの中では、淫行や全ての穢れ、強欲を口にさえするな。」
第四は、「人の空しい言葉にだまされるな。」です。
このアドバイスはいったいどういう意味なのでしょうか。少し黙想してみましょう。

(1)聖パウロは言います、「天主に倣え」。大自然を見ると、天主の偉大さや完璧さ、その知恵や力の偉大さを私たちに示しています。大海原の果てしない巨大な海、夜空に輝く星々、散らばれた大宇宙の神秘、その果てしなさ、太陽の光の力強さ、熱、あるいは高くそびえたつ山々、何千何万という野生の動物や植物たち。しかしこれらは知性の無い理性の無い動物や植物や鉱物にすぎません。天主は人間を特にご自分の似姿、肖像に象って作られました。真理を認識する知性と、善を自由に選ぶ意志とを、私たちに備えてくださいました。これによって私たちは天主に倣うことができるようになります。天主の偉大さやその力強さのみならず、もっと崇高なところで、天主に倣うことができるようになります。真理を知り、善を求める、それだけではありません、聖パウロが言うのは「愛される子どもたちとして、天主に倣え」。

何故かというと、これは私たちが天主から、特別にとても大切なものとして愛されている(caríssimi)子どもたちだからです。特に洗礼を受けることによって私たちは、超自然のお恵みに与る者になりました。天主の養子となりました。言葉だけでなくて、本当の子どもになりました。ですから私たちの行動は、天主の子どもとしての行動ですから、天主御父に非常にこころよい嘉する天主と親和性のあるものなのです。イエズス様はおっしゃいました。「あなたたちの天の父が完全であるように、あなたたちも完全であれ」。わたしたちはそれができるようになったのです。

(2)聖パウロはもっと言います。「キリストが私たちを愛したように、愛のうちに歩め」。なぜかというと、目に見えない天主を私たちはどうして真似したらよいか、と戸惑うことがあるからです。しかし、イエズスさまはおっしゃいます。「私を見た人は父を見た」と。ですから主はご自分の聖徳の完成、極み高い聖なるすべての徳を私たちに見せることによって、私たちがそれを真似ることができるようにしてくださいました。と言っても主の高みは、あまりにも高くて、エベレストよりも高くて、いったいどうしてあんなに高い山に登ることができるだろうか、と思われるかもしれません。しかし、エベレストの山頂まで行くエレベーターを、近道を、キーポイントを、聖パウロは今日教えてくれます。

聖パウロが言う近道はこれです。「キリストが私たちを愛してくださったように歩め」。愛の模範を、真似しようということです。これはどういうことでしょうか。キリストの愛を真似するとはどういうことなんでしょうか。

ここで聖パウロは、聖徒たちにふさわしいように、聖なる人々にふさわしいように、私たちは愛において歩まねばならない、と教えています。


(3)ところで聖パウロがこう語った時には、ギリシャ・ローマの腐敗した肉欲に溺れた時代の事でした。ですから、人々が誤解してしまうことがないように、言います。
「私たちのために捧げ物・香ばしい香りの天主の生贄としてご自分を渡されたキリストのように、倣え。だから、キリストの愛というのは、非常に貞潔なものであって、清いものであって、慎み深いものである。だから、私たちはキリストの愛に反するような不潔なことや慎みに欠くことは口にさえもしてはいけない」といいます。聖なる者にふさわしいように…。

何故かというと、イエズス様はこうもおっしゃったからです。「あなたたちが知っているように、"姦通するな"と教えられている。しかし、私はいう。色情をもって女を見れば、その人はもう心の中で姦通したのだ。」
「心でさえも思ってはいけない」と主は言われます。「口にするなど、とんでもないことだ」ということです。

また貞潔に反することを口にするということは、他の人々を罪へと誘惑する危険があります。ですから、口にするさえも、避けられるべきなのです。特に若い子どもや青少年たちにとっては、大きな躓きとなる危険があります。子どもたちを躓かせることについては、主は厳しい言葉で臨まれています。「私を信じるこの小さなものを一人でも躓かせるなら、その人は、ろばのひき臼を首にかけて、海の深みに沈められるほうがましである。」憐れみの主がおっしゃるには あまりにも厳しい言葉です。

いったいなぜでしょうか。なぜかというと、主は深い全能の愛によって、一人の男と一人の女性が、一つの決して壊れることのない決して解消することができない家庭を作って、そして互いに助け合い愛し合って、そこから健全な子供たちが生まれることを、お望みになりました。

これはイエズス・キリストと聖なるカトリック教会が一つの神秘体を作る、という影となるからです。それを現すしるしとなるように、お望みになりました。

このような家庭は非常に幸せで、そして愛する兄弟姉妹の皆さん、私たちもどの人間でも子供は自分の肉体の私たちを生んでくださったお父さんとお母さんがいつも仲良く一緒に平和に生活することを望んで、それを見ると幸せです。このような家庭は国家が存在する前から存在しています。そして国というのは、そのようなしっかりとした家庭に基づいています。

ですから主がお望みのように、私たちもまた社会全体も国も、女性を、お母さんとしてあるいは母親となる方として尊重し大切にしなければなりません。もしもキリスト教文明で、女性が大切にされて―レディファースト―あるいは女性に対する特別の保護が為されて優しさがなされて尊敬が払われて最も大切にされたとしたら、それは母親であり母親となる方であるからです。もしも女性が母親となるべく方であれば、男性は父親として、また父親となるべく者として、尊重されなければなりません。なぜかというと子供には良き母親と良き父親の両方が必要であるからです。そしてそのような社会は、子どもたちをも尊重します。もしもそうでなければ、一番の犠牲者は子どもたちです。子どもたちが傷つき、そして不幸になり、悲しみ、そして一生癒されることのない不幸な生活を送らなければならなくなります。またその次の犠牲者が女性です。そして男性です。そして社会全体が不幸に苦しみに陥ってしまいます。

ですからそのような家庭を守るために、聖パウロは、私たちに口を慎めと言います。なぜかというと、天主の御摂理により、私たちが命を維持してご飯を食べたりあるいは結婚したりするために、特別の欲望を私たちに作りました。これはスポーツカーの最高のエンジンよりも、あるいは核融合の原子炉よりもさらに強い力を持っているものです。ですから私たちはコントロールしなければ、爆発してしまったり、核爆発をしてしまったり、あるいは大事故を起こしてしまったり、そして多くの人々がそれによって苦しむようになってしまいます。そのコントロール・制御するためにこそ、特別の注意と慎みとそして賢明さが必要です。「淫行やすべての穢らわしいことは口にさえ言ってはならない」と聖パウロは言っているのです。

(4)最後の第四に、聖パウロは、私たちに、「あまりにもほかの社会が乱れているので私たちは騙されてはいけない」と警告します。その当時は、異教のローマ・ギリシアの文明と呼ばれるものに対する警告でした。そのような人たちは快楽至上主義というのでしょうか、面白おかしくすればそれでよいのだ、一番悪いのは苦しむことだ、そして誰でも自由に快楽を求める権利がある、そして快楽こそが本当の幸せだ、と言って、家庭も顧みず食べたいまま、あるいは自分がやりたいまま、快楽を肉体の欲望を満たそう満たそうとしていました。しかしその代わりに起こったことは、不幸でした。もとめても求めても満たされない虚ろな心でした。社会は、家庭は、壊れて行きました。子どもたちは犠牲者になりました。女性も搾取されました。商品となりました。

カトリック教会は二千年間、それらの快楽主義に対して、「違う!騙されるな!一人の男性と一人の女性が一体となって結婚するのだ、それ以外の何ものでもない。天主の御摂理による本当の幸せの秘密はここにある」と教え続けました。そして、カトリック教会は人類にものすごい貢献をしました。それはキリスト教文化というとてつもない偉大なものを、私たちに残してくれました。大きな大聖堂あるいは音楽・文学・芸術・美術・法律その他すべては、この社会の最も大切なここから、生れて来ました。カトリックの道徳から、生れて来ました。そこから、ものすごい立派な聖人たちが、天主への愛に燃えて、キリスト教文明を築いてきました。

現代社会では、この二千年前の古い異教の考えが頭をもたらしています。日本にもいまそれが襲っています。自分が思うままにやりたい放題すれば、それこそが幸せだ、どんな子供でも誰でも快楽を追求する自由がある権利がある。そこでいま文学や小説や雑誌や写真や動画多くのものが不潔と口で言うことができない低俗なもので満ち溢れています、汚物で溢れかえっています。多くの子どもたちは、お母さんのおなかの中で殺害されています。大人が子供を邪魔だというからです。多くの女性が商品化されています。口にするのも恥ずかしいほどです。

教育という名前で、子どもたちに、ポルノあるいは子どもたちにふさわしくないものが当然である、罪でない、それが自由だ、自然なことだ、と教えるようにしています。たとえばユネスコ(UNESCO)が中心になって国際セクシュアリティ教育ガイダンス(ITSE, International technical guidance on sexuality education)というものがあります。幼稚園児から五歳から八歳から、教える内容は「どのような家庭も全く価値が同じだ、壊れた家庭も、私達が天主のみ旨に反して罪だというようなことも、これは等しく価値がある、全く同じだ、権利がある、そしてカトリック教会が罪であると教えてきたことも自然な行為だ」私は言葉にすることもできません。あるいは「本人たちの同意があれば何をしてもよい、何でもしてもよい、ただ唯一の制限が本人たちの同意があることだけだ、それ以外のことは何でもやってよい」。

しかし、核融合しているような 燃え盛るような原子炉で、情念に燃えてしまって理性を失ってしまっているような若い子どもたちが、同意する・しないという問題ではなくなる時があります。天主の私たちに与えた最も幸せな道を盲目にさせてしまう時があります。

聖パウロは私たちに言います「人の空しい言葉にだまされるな。不従順な者の上に天主の怒りを呼ぶのはそれらのことがらである」と。聖パウロは、現代どれほど大きな声で、くり返しくり返し私たちに警告していることでしょうか。「主の道に立ち戻らなければならない。主のみ旨に戻らなければ本当の幸せがやってこない。私たちは不幸になってしまう、滅びてしまう。傷ついてしまう」。

【遷善の決心】
では最後に、四旬節の決心を、また新たにいたしましょう。この機会に私たちが悔改めをすることができますように。ヨナの言葉を聴いて、ニネベの人たちは悔い改めました。現代人の私たちも、悔い改めなければなりません。主に、たちもどらなければなりません。特に貞潔に対する遷善の決心を立ててください。それを目にも耳にも口にもしないように、よい決心を立てましょう。子どもたちを守らなければなりません。

愛される子らとして、天主に倣うものであれ!キリストが私たちを愛されたように、愛のうちに歩め。聖徒たちにふさわしいように、あなたたちの中では、淫行すべての穢れ・強欲を口にさえするな。それらの者は、キリストと天主との国において、遺産を継がない。人の空しい言葉に騙されるな。あなたたちは闇であったが、今は主において光りである。光の子として歩め。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


二組の兄弟:エザウとヤコブ、放蕩息子とその兄

2023年12月05日 | お説教・霊的講話

二組の兄弟:エザウとヤコブ、放蕩息子とその兄

2023年3月11日(土曜日) 修道院での説教

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、
今日ミサでは二組の兄弟の話が出ました。
イザクの二人の子どもたち、エザウとヤコブ。
それから、福音では放蕩息子とそのお兄さんの話です。

(1)イザクの二人の兄弟、長男エザウは、モーゼの記録によると、この世的で肉欲に自分を制御することができない男でした。長男であったにもかかわらず、お腹が減って帰って来たときに、自分の弟ヤコブが作っていた豆のスープを食べたいと言って、いまこのお腹が減っている時に長子権がいったいなんだ、いまこの世の楽しみのためにあたかも天国とはいったい何だ、と言っているかのようです。この目先の事だけの楽しみのために、将来の最も大切な長子権を売ってしまいました。

今日の書簡で、お母さんレベッカの話のとおりに、お父さんの一番望んでいることは何か?ということを聞いて、お母さんの言うとおりにヤコブはします。そして、お父さんのイザクから、本当ならエザウにやるべき祝福を自分が受けるようにしてしまいました。確かに長子権をエザウは売ってしまったのですから、エザウからヤコブにその祝福が行って当然だと言えるかもしれません。天主の神秘はそれを許しました。教父たちによると、エザウはユダヤ人たちを意味していて、そしてヤコブは新約の私たち異邦人を意味していると言います。

私たちにとってその聞くべき母とは、聖なる公教会でありそしてマリア様です。なぜなら公教会とマリア様こそが、天主の御旨を一番よく知っているからです。祝福を受けるべきためにいったい何をすればよいかということを、私たちに教えてくれるからです。

(2)今日の福音は、この二人の兄弟をもっと説明します。実は、異邦人たちは、私たちは、天主の国から非常に遠く離れたところに住んでいた者でした。天主からの遺産を実は受けていたにもかかわらず、それから離れて好き放題に闇に住んでいた、ということです。主のみ旨を果たさないばかりか、それに反することを行っていた。やりたい放題にやっていた。

その父の家から離れていると、自分があまりにも惨めだ、動物よりも惨めだ、豚よりも惨めだ、豚の食べているものさえ自分は食べることができない、それに気がついたのです。ちょうど現代人のようです。

天主のみ旨は、聖なる家庭をつくることだ、男が父親となることだ、女性が素晴らしい母親となることだ、そして愛の家庭をつくることだ、一人の男と一人の女性が決して壊れることがない家庭をつくり、そしてその家庭のなかによって互いに愛し合うことだ、そしてその愛し合った二人はその家庭をすべて主に捧げることだ。 そこから、その愛の円居(まどい)において、主が宝物として、贈り物として、プレゼントとして、子どもたちを新しい命を与えてくださる、そのプレゼントを受け取ることだ。そこにこそ主のみ旨がある。

けれども、そうではなくて、遠く離れてしまって、「自分の思い通りに愛すればよい、自分のとおりにすればよい、自由だ、男も女もあるか」と言っている現代人たちです。しかしそうすることによって、男性は傷つき、女性は更に傷つき、子どもたちはもっと、もっともっとひどく傷ついています。苦しんでいます。ですから、その苦しみの中で、今日の放蕩息子は「ハッ、お父さんのもとに帰ろう」と思いました。

これは、今年の復活祭の時に洗礼を受けようとする求道者たちの願いと、心の中と、一致しています。「お父さんのもとに帰ろう、お父さんのもとだったらもっとも下っ端の召使いの奴隷であっても、私よりももっと良い生活をしている、幸福を味わっている。お父さんのもとに帰ろう。」

父親は遠くから子供が帰るのを待っていました。いまかいまかと待っていて、そしてすでに小さな姿を見つけると走り寄って行って、子供を向かえ入れます。「よく帰って来た。待っていた。よく来た。」

子どもは跪いて「お父さん、私はあなたと天に対して罪を犯しました。ごめんなさい。もうあなたの子どもなどと呼ばれる資格はありません。召使いのもっとも奴隷の、もっとも下っ端の、一番下においてください。それも、そんな価値もありませんけれど、どうぞ家の中に入れさせてください。」と言います。

父親は、その子どもを立ちあがらせて、召使いに言って、「さあ、この子に一番良い服を着せるように。この子は裸足だ、靴を履かせるように。この子には私の子どもとしての指輪をはめさせるように。」そして、子供としてのすべての特権を与えてくれたのです。

そればかりではありません。この子供のためには、父親を離れたことがなかったお兄さんにもすることがなかった大宴会を開きました。一番超えた動物を屠って、一番おいしいワインを飲んで、一番おいしい料理を大御馳走を並べた大宴会を開いて、音楽を奏でました。オーケストラが美しい音楽を奏でて、子供が帰って来たのを喜びました。

これは、天主御父が、私たち異邦人がその御もとに帰ってくるのをお待ちになっているということです。たとえ私たちがどれほど罪を犯していたとしても、どれほどの主から遠い生活をしていたとしても、惨めな生活をしていたとしても、動物のような生活をしていたとしても、主のもとに立ち返るならば、子供として最も良いものを与えてくださる、成聖の聖寵の恩寵を下さる、新しいキリストの衣服を着せてくださる、天国の遺産を受けることができる指輪を与えてくれる、本当の自由人としての靴を与えてくださる、そればかりではなく御子を屠って御聖体として私たちに与えて養ってくださる、と私たちに教えています。

私たちも、今年の洗礼志願者のために、また私たちが主の御もとに帰ることができるように、そして主のみ旨を果たすことができるように、教会の二千年間の聖伝の声とそしてマリア様の声を、聴くことにいたしましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


第六の封印「太陽は荒い毛の布のように黒くなった」(黙示録6章12節)の意味と解釈

2023年12月04日 | カトリックとは

第六の封印「太陽は荒い毛の布のように黒くなった」(黙示録6章12節)

2023年11月28日

The Sixth Seal: “And the sun became black as sackcloth of hair” (Apoc. 6: 12)

ロバート・ラズ・クミタ(レムナント・コラムニスト、ルーマニア)

終末の時代の前に起こるであろう宇宙的な出来事に関する聖書の預言の中には、太陽が暗くなることについて言及しているものがある。当然のように、このしるしは旧約聖書で繰り返し言及されている。預言者ヨエルは、「地がおののき、天が震え、太陽と月は暗み、星はその光を失う」(ヨエル2章10節)と語っている。預言者エゼキエルの書では、天主ご自身が語り、歴史への摂理的な介入の結果をこう告げておられる。

「おまえが倒れ死ぬとき、私は空を暗くし、星を暗ませ、雲で太陽を隠し、月に光を放たせない」(エゼキエル32章7節)。

同様に、預言者イザヤは、「月は赤らみ、日は青ざめる。万軍の主が、シオンの山とエルザレムに君臨されるとき、その老人たちの前に主の栄光は輝く」(イザヤ24章23節)と述べている。例外なく、これらすべてのテキストにおいて、太陽が暗くなることは歴史への天主の介入と関連している。この介入は、特定の文脈での選ばれた民に適用される審判を通じてのもの、あるいは世の終わりに起こるであろう普遍的な審判を通じてのものである。

共観福音書(マテオ、マルコ、ルカ)のテキストには、私たちの主イエズス・キリストご自身が歴史の終わりに関する預言の中で言及された、太陽が暗くなるしるしが記されている。福音史家マテオは、「日は暗くなり、月は光を失い、星は空から落ち、天の力は揺れ動く」(マテオ24章29節)と、一連の宇宙的な出来事について広範囲に描写しており、これを福音史家マルコ(13章24-25節)も繰り返している。福音史家ルカはもっと簡潔に表現し、「日、月、星にしるしが現れる」(ルカ21章25節)と述べている。このように、太陽が暗くなることが言及されている例は数多くある。しかし、すべての中で最も興味をそそられるものは、聖書の黙示録にある。

「小羊が第六の封印を切ったとき、私は大地震が起こるのを見た。太陽は荒い毛の布のように黒くなり、月は全面血のようになった。天の星は、いちじくの木が大風に揺らいで青い実を落とすように、地に落ちた」(黙示録6章12-13節)。

「荒い毛の布のように黒くなった」太陽のイメージは、私を魅了してやまない。注意深く考えてみると、日食というよりも、太陽が覆われ、隠されているのであり、太陽の表面は小さな隙間がいっぱいで、そこから光が断続的に漏れているのだ。避けられない疑問は明らかである。この太陽が神秘的に覆われていることには、どんな意味があるのだろうか。可能性のある答えを読み解くには、私たちはまず、この黙示録の箇所に関する聖人たちや教会博士たちの解釈を検討しなければならない。

七つの封印は、七つの時代のことだと考えられてきた。これは、黙示録の5章と6章に記述されている小羊であるイエズス・キリスト、人となり給うた天主だけが、戦闘の教会の地上での設立で始まる期間全体にわたって展開させるものである。第六の封印について、聖書の最も重要な解釈者の一人である尊者聖ベーダ(672年頃、または673-735年)は、この封印は「反キリストの時代に起こるであろう」[i]歴史上のその期間の出来事を指している、と述べている。この解釈に沿って、中世の著名な学者であるヨークのアルクイン大修道院長(735-804年)は、「地震によって、反キリストの下での最後の迫害を理解すべきである」[ii]と主張している。ペッタウの聖ヴィクトリヌス(-304年)とブルゴーニュ人、アルルの聖セザール(470年または471-543年)も同じ見解を示している[iii]。しかし、聖ジョン・ヘンリー・ニューマン枢機卿の解釈に関する記事ですでに見たように、その迫害の種類はニュアンスの異なる読み方を受ける可能性のある主題である。

月は教会の象徴であり、自らの光を太陽である天主から受けるが、血のように変わるため、反キリストの時代に真の信仰を持つ信者が受ける殉教のしるしと考えられている。しかしながら、聖ベーダは、迫害の最も苛烈な面は、物理的な次元ではなく霊的な次元に関係していることを示唆しているように思われる。第一に、彼は第六の封印を切ることと救い主キリストの十字架刑との間に神秘的な相関関係をこう確立している。「主が週の六日目に十字架につけられた時のように、世は暗黒と恐怖で揺り動かされる」(太字は私の強調)。

尊者アンナ・マリア・タイギが預言した暗闇の三日間の解釈のケースで見たように、これらのことは、世および闘う教会の歴史の中のある期間、つまりイエズス・キリストの十字架上の死によって始まる三日間に象徴的に対応する反キリストの時代のことを指すことが可能だ。しかし、太陽が暗くなることの意味は何だろうか。以下の聖ベーダの注解が、再び私たちを照らしてくれるだろう。

「これは、まるでキリストの力が隠されるか、あるいはキリストの教理が一時的にぼかされるかベールで覆われるかのようであり、そのとき、反キリストのしもべたちがキリストのしもべたちを攻撃するために登場するのである」。

ここから何が理解できるだろうか。太陽は天主の力と天主の超自然の啓示(すなわち、「天主の教理」)を象徴している。毛は「反キリストのしもべ」なのか。いや、そうではない。このことを正しく理解するためには、毛のイメージを熟考し、その意味を完全に引き出す必要がある。毛は私たちの頭を飾り、毛は頭皮から出ている。この細部に注目したとき、私たちはすぐに何を思い浮かべるだろうか。私たち自身の考えだ。いろいろな考えが「頭をよぎる」と言わないか。どんな考えか。残念だが、中立的なものもあり得る。例えば、「私は食べるつもりだ」というようなものだ。あるいは、「自分の生き方を改めるために告白し、悔い改めようと思う」というような、肯定的で天的なものもあるだろう。しかし、否定的な、邪悪な、異端的な考えもあり得る。歴史上で初代教皇である聖ペトロが、イエズスが命を捧げるためにエルザレムに行くのを阻止しようとした瞬間を覚えているだろうか。救い主がペトロに言った答えはこうだ。

「サタン、引き退れ。あなたは天主のことではなく、人間のことを考えている(φρονέω)のだ」(マルコ8章33節)

このとき、ギリシャ語のテキストが私にとって最大の助けとなった。なぜなら「考えている」と訳されている動詞はφρονέω(phroneó)であり、「理解する、考える」という単純にして明快な意味だからだ。言い換えれば、ペトロが、イエズス・キリストが私たちの救いのために十字架上で命を捧げようとするのを妨げようとするとき、彼の頭にあるのは「人間的な考え、悪魔の霊感による人間的な考え」なのだ。つまり、天主のご意志や物事の理解に反対する考えである。私たちが異端と呼ぶことのできるこれらの考えは、あの「布」の形で織られ、太陽の光、つまりキリスト教の信仰を通して私たちの心を照らしてくれる超自然の啓示を暗くすることになる「毛」なのである。

この理由で、聖ベーダは「反キリストのしもべたち」、すなわち、信仰について自分たちの考えや解釈を持っていて、真の信仰に忠実であり続けるキリストのしもべたちを攻撃する異端者たちについて語ることができるのである。第六の封印が切られた後の出来事が語られる際の黙示録の描写の「雰囲気」は、一種の総力戦である。正統な信仰(=太陽)を守る者たちと、「私たちが津波の水面下にいるように沈んでいる支配的な新近代主義の象徴である荒い毛の布袋の中に詰められた無数の異端」を推進する者たちとの間で行われる戦争である。

ヨークのアルクインは、自分がよく知っていたこの解釈を否定せず、同時に有効であり得るもう一つの解釈を提案している。それは、福音に忠実な人々の「ライフスタイル」、つまり、生命(親がすべての子を受け入れる)、貞潔(純潔、慎み深さ、良いマナー、控えめな服装が尊重される)、清貧(一時的なこの世のものが永遠の命という霊的なものに厳格に従う)という価値観に従った生き方に関するものである。しかし、このキリスト教的なライフスタイルは、悔い改めを拒む人々の目には、アルクインの主張によれば、耐え難いものであり、受け入れがたいものなのである。

「太陽はまた、宣教する者たちの光輝く生き方を示すこともある。つまり、終末の時代には、太陽は荒い毛の布のようになるのである。なぜなら、宣教する者の光輝く生き方は、不道徳な者の目には粗暴で卑劣に映るであろうからである」。

提案されている二つの解釈は互いに補完し合っている。一つ目は、「荒い毛の布」(すなわち新近代主義)という形で、天主によって啓示された正統な教理をぼかしてしまう異端の総合を指している。二つ目は、キリスト教徒の生き方の道徳的な面に関するものである。永続的に受け入れられている十戒の価値観を通して光輝くキリスト教徒の生き方は、不道徳な者たちの目には暗くなったように見えるのである。彼らは、それを惨めなもの、つまり、布袋のように荒れたもの、あるいは中世の修道院で着用されていた痛悔者の衣のようなものと捉えるからである。

時々、細かい点まですべてが適合しているように見えることがある。しかし、もしそうであるならば、それは第六の封印が切られたことを意味するのではないか。このことは、賢明な慎重さをもって答えなければならない重要な疑問である。

[i]黙示録6章に関する聖ベーダの注釈は、https://sites.google.com/site/aquinasstudybible/home/revelation/st-bede-on-revelation/chapter-1/chapter-2/chapter-3/chapter-4/chapter-5/chapter-6。[アクセス:2023年11月11日]

[ii]アルクインの黙示録の注釈はこちらで読むことができる。https://sites.google.com/site/aquinasstudybible/home/revelation/alcuin-of-york-commentary-on-revelation[アクセス:2023年11月11日]

[iii]ラテン語による黙示録注解、ウィリアム・C・ワインリッチ著、IVPアカデミック、2011年。

黙示録 第6章 私はまぼろしを見た。
小羊が七つの封印の第一を切ったとき、四つの動物の一つが、雷鳴のような声で「近よれ」というのを聞いた。そして私は、白い馬が現われるのを見た。乗っている者は弓をもっていた。この人に冠が与えられた。かれは勝つ者であって勝つためにでていった。
第二の封印を切ったとき、第二の動物が「近よれ」というのを聞いた。するともう一頭の炎のような色の馬がでてきた。それに乗っている者には、人間が殺しあうために地上から平和を奪いとる力が与えられ、大きな剣がわたされた。
小羊が第三の封印を切ったとき、第三の動物が「近よれ」というのを聞いた。私は黒い馬が現われるのを見た。それに乗っている者は、手に秤をもっていた。私は、四つの動物の中から出る一つの声のようなものを聞いた。その声は「小麦一ケニクスは一デナリオ、大麦三ケニクスは一デナリオ、油とぶどう酒とには触れるな」といった。
第四の封印を切ったとき、第四の動物が「近よれ」というのを聞いた。私は浅黄色の馬があらわれるのを見た。それに乗っている者は死とよばれ、冥府がそれにしたがっていた。かれらには、剣と飢えとペストと地上の猛獣とをもって、地の四分の一を殺す力が与えられた。
それから小羊が第五の封印を切ったとき、私は、天主のみことばのためと、また、自分たちがそれを証明したために殺された人々の霊魂を、祭壇の下に見た。かれらは大声に、「聖いお方、真実の主よ、審判と、地上に住む人への私たちの血の復讐のときを、あなたはいつまでのばされるのですか?」といった。かれらおのおのに白い服が与えられ、かれらと同じように死にわたされるしもべと兄弟との数が満たされるまで、もうしばらく忍耐するようにといい聞かされた。
小羊が第六の封印を切ったとき、私は、大地震が起るのを見た。太陽は荒い毛の布のように黒くなり、月は全面血のようになった。天の星は、いちじくの木が大風にゆられて、青い実を落すように、地に落ちた。天は、巻物を巻くように見えなくなり、すべての山と島とは、その場所を変えた。地上の王、君主、千夫長、金持、勢力者、奴隷も自由民もみな、洞穴と山の岩間とにかくれ、山と岩とに向かっていった。「私たちの上に落ちて、玉座に座るお方のみ顔と小羊のおん怒りからかくしてくれ。おん怒りの大なる日はきた。だれがそれに耐えられよう?」。(…)


聖ピオ十世会の「聖母の汚れなき御心聖堂」と「聖なる日本の殉教者教会」とを聖母の汚れなき御心に奉献する

2023年12月01日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

11月29日から無原罪の御やどりの祝日を準備するノベナが始まっています。

東京では、2017年7月16日に行ったように、新しい聖堂が与えられたことを感謝して、来る12月24日(主日)の歌ミサの後にもう一度、聖母の汚れなき御心に私たちを奉献する予定です

アルスの聖司祭ヴィアンネ神父様にならって、私たちの名前を全て書き込んでマリア様の御影(ごえい)に埋め込みます。日本の最上位の守護者である聖母の汚れなき御心への奉献に私たちの名前を刻むことをご希望の方は、信徒会長あるいは受け付けの方にお名前を提出してください。

聖ピオ十世会東京の「聖なる日本の殉教者教会」を、聖母の汚れなき御心に奉献する祈り

おお、聖母の汚れなき御心よ、イエズスの聖心の母にして、われらの元后にして母なる聖母よ!
御憐れみをたれて、この 聖ピオ十世会東京の「聖なる日本の殉教者教会」  に御眼差しを注ぎ給え。われらは御身に、忠孝の愛を示し、この荘厳な奉献によって御身に崇敬を表すことを望み奉る。
われら、 聖ピオ十世会東京の「聖なる日本の殉教者教会」  の司祭、信徒は、御身にわれらの全てを、肉体も霊魂も、能力も感覚も、人生の全ての悲しみも喜びも、われらの持てる全てを、われらそれ自身を、われらが愛する全てを、御身にことごとく捧げ奉る。
汚れなき童貞女よ、天主の御母にして全ての人々の母よ、われらは御身の聖母の汚れなき御心に、われら自身とわれらの 聖ピオ十世会東京の「聖なる日本の殉教者教会」  とを奉献し奉る。われらを御身の子供として受け入れ給え。
御身の汚れなき御心が、われら 聖ピオ十世会東京の「聖なる日本の殉教者教会」  の司祭、信徒らにとって、若きも老いたるも、健康なる者も病の者も、熱心なる者も罪を犯した者も、また将来の会員らにとっても、天主へと導く道とならんことを。
われらの愛する御母よ、われらを統治し給え。われらが豊かなときも貧しいときも、喜びの時も悲しみの時も、健康の時も病の時も、生涯に亘っても死後も、いつも御身のものたるために。
聖母のいとも憐れみにあふれる御心よ、童貞の元后よ、われらの心も精神も守り給え。御身はファチマにて、人々の傲慢や不貞潔や異教精神をいたく深く嘆き悲しみ給うたり。われらをして現代にあふれるこれらの洪水から逃れしめ給え。
今より後は、御身は当会の元后にして母なり。われらの霊的かつ物体的な善を世話し給え。われらの祈りを聞き給いて、この世の悲しみと困難の時、特にわれらの臨終の時にわれらに慰めを給え。
われらは、われらの家族、当 聖ピオ十世会東京の「聖なる日本の殉教者教会」  、われらの祖国、全世界に、正義と愛徳における天主の平和を呼び求め奉る。
われらは、われらの能う限り、御身の御助けにより、償いと改悛との精神をもって御身の諸徳に倣い、真のキリスト教的生活を送り、世間体を気にせずに、頻繁な改悛の秘蹟と御聖体の秘蹟を受け、典礼に敬虔に与り、公教要理を注意深く学ぶことを謹んで約束し奉る。
おお、聖なるロザリオの元后よ、われらはロザリオの祈りを毎日欠かさずすることを約束し奉る。
われらは、御身の助けを持って、キリスト教生活が私たちに要求する犠牲を全て受け入れ奉り、それらを御身の汚れなき御心により、御身の聖子イエズス・キリストのミサ聖祭の犠牲と一致して、イエズスの聖心に捧げ奉る。
美しい愛の母よ、われらの心に、また当会とわれらの家庭に、天主を愛する愛の火を燃え立たしめ給え。願わくは、この愛の火によりて、われらの身分上の努めに常に忠実ならしめ、天主の聖寵により、われらの模範と犠牲と祈りとを通して、われらの隣人と憐れな罪人たちに対する熱心な使徒とならしめ、彼らを真の信仰生活を送るように導くことができるようなさしめ給え。
願わくは、イエズスの聖心の御国が、御身の汚れなき御心の御国と共に、 聖ピオ十世会東京の「聖なる日本の殉教者教会」  とその全ての信徒らに来たらんことを。われらの元后にして母なる聖母よ、われらが御身を愛し御身に奉仕し、御身に真に奉献された生活を送ることにより、われらがついに至聖なる三位一体との永遠の至福に至るにふさわしき者とならんことを。アメン。
「わが天主よ、われ、信じ、礼拝し、希望し、御身を愛し奉る。われ、信ぜぬ人々、礼拝せぬ人々、希望せぬ人々、御身を愛さぬ人々のため、御身に御赦しを願い奉る。」
「至聖なる三位一体、聖父と聖子と聖霊よ、我、御身を深く礼拝し奉る。世界中のすべての御聖櫃のうちにましまし給うイエズス・キリストのいとも尊き御体、御血、御霊魂と御神性を、イエズス・キリスト御自身が受け給う侮辱、冒涜、無関心を償うために、御身に捧げ奉る。イエズスの至聖なる聖心とマリアの汚れなき御心の無限の功徳によりて、あわれな罪人の回心を御身に願い奉る。」

【大阪では、この奉献を2017年5月13日に行い、2019年7月19日に更新しましたが、再び、来る12月8日に行う予定です。】

12月25日(月)私たちの主の御降誕は、大阪では午前10時半から、東京では大宮の新しい聖堂で午後6時半から歌ミサを行う予定です。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】