新・遊歩道

日常の中で気づいたこと、感じたこと、心を打ったこと、旅の記録などを写真入りで書く日記です。

江戸時代のクナシリ、エトロフ、カラフト・・・『間宮林蔵』吉村昭 ①/2

2022年04月07日 | 本・新聞小説
間宮林蔵。人知を越した苦労を重ねて樺太が「半島」でなく「島」であることを発見し蝦夷・樺太の地図の作成に名を残しましたが、後に幕府の隠密になりシーボルト事件にも絡み、世間の評価が急降下···。シーボルト絡みで少し知っていますが、もう少し詳しくと吉村昭『間宮林蔵』を選びました。
70ページほどの舞台はエトロフ。19世紀前後の北方の地政学は、江戸幕府はクナシリ島を支配下に置き、ロシアはウルップ島に植民地を設けていました。幕府はその二つの島の間に位置するエトロフ島の開発に積極的に取り組み、1798年に「大日本恵登呂府」の標柱を建てて日本領土と定めました。
これにより、ウルップ島はロシア領、択捉島は日本領となり、両島間の海峡が国境線になりました。この頃の両国は小康状態を保っていました。この均衡が崩れたのが1807年、ロシアによるエトロフ襲撃です。

エトロフ島で測量をしていた林蔵もこの事件に巻き込まれます。奉行所管轄下の会所の者は、抗戦することなく逃げ出したということで厳しい処罰を受けますが、抗戦を訴えた林蔵はただ一人許されて再び蝦夷地勤務を命じられます。

この事件は蝦夷地の防備を強化することになりました。1808年、林蔵は樺太北部の調査を命じられ、松田伝十郎と共に樺太に向かいます。伝十郎40歳、林蔵29歳。

雪と氷に阻まれ、水·食料の不足に難渋を極めながらもラッカに至ります。そこで二人とも樺太は「半島」でなくて「島」だと推測しますが、ラッカから先には進めずに証拠はありません。ここまでで終わり、林蔵がたどった距離は633㎞にもなりました。

しかし林蔵は推測でなく「島」である証拠を見極めたいと、すぐに2度目の探索に赴きます。アイヌ人は従順で人柄が良く、漕ぎ手のアイヌ人抜きの調査は考えられないほど、どれほど助けられたかしれません。

寒気にてこずり、凍傷で手に傷を負い、行きつ戻りつしながらも北端のナニオーにたどり着きます。そこでアムール河口の潮流が北と南に二分していることから、大陸とは繋がっていない「島」であることを確信します。


最大の目的は達したもののノテトに踏み留まり、ギリヤーク人と生活を共にしながら東韃靼に入る機会をうかがいます。
ロシアの蝦夷地襲撃が相次いでおり、ロシアの影響は東韃靼にまで及んでいるのかを知りたかったのです。

酋長からアムール河の下流に「デレン」という町があり、そこに清国の出張所があることを聞かされました。林蔵は酋長が貢物を持っていく時に同行し樺太から大陸に渡ります。
往きは河を登り山を越える困難な行程でデレンに着き、帰りはアムール河を下って海に出ました。

デレンでは好意的に迎えられ、出張所や風俗人種をしっかり観察して文字や絵で細かく記録した充実した数日間を過ごしました。
上記の地図はネットからお借りしました。赤のラインが1度目の探索、青色が2度目の探索です。

樺太が島であることを実証し、東韃靼に足を踏み入れたこと、北樺太に最も影響力を持っているのは清国であること、樺太にロシアの影響は及んでいないことを確信しました。
困難な旅の中でも樺太西岸の地勢、村落の地名、村と村の間の距離を書き連ね、旅の経過、叙述、住民の生活、気候、風土も書き加えていきました。
こうして1年2か月の調査の旅を終えて出発点のシラヌシに戻ることができたのは奇跡ともいわれています。

林蔵は、使命感と冒険心と国禁を犯すことの罪悪感の狭間で葛藤に苦しみました。
「鎖国中に東韃靼に渡ったことは国禁を犯したことになるか、否、幕府の命じた樺太北部は清国の支配にある、東韃靼に足を踏み入れても命令の範囲をそれほど逸脱したものとはいえない。北方経営を志す幕府に限りない利益を与えるはずだ」と事実を積極的に報告することにしました。
そして出来上がったのが「東韃地方紀行」「北夷分界余話」、地図は「北蝦夷島図」としてまとめ上げます。

樺太、東韃靼の調査の詳細部分が200ページほど。残りのページの部分が林蔵の後半の人生になります。
本は1冊で500ページの文庫本ですが、二つに分けて書くほどに違った人生を生きることになります。



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