エジプトのルクソールで発生した気球事故は、遺跡などを空から眺める気球ツアーが、やはりかなりの危険を伴ったものであることを改めて感じさせる出来事ではなかったと再認識されるものになった。
そもそも空を飛ぶ乗り物の中で気球ほど不安定なものはないのではないだろうか。
飛行機や飛行船は自力で方向を定めて飛行することができるが、気球は風まかせ。
多少のコントロールは効くけれども、突然の気象の変化や緊急事態ではなかなか思うようにいかない。
その制御精度はたぶんスカイダイビングのパラシュート操作よりも低いのではないか、と思うところ少なくない。
かくいう私も気球に乗れる機会はこれまで何度かあった。
そのうち最も可能性が高かったのはミャンマーのバガンを訪れた時で、この時は気球に乗ろうかとさえ思ったほど、その遺跡群の景色は素晴らしいものがあった。
だが、気球に乗ることを思いとどまらせる強い要素が存在した。
料金がUS200ドルもしたのだ。
そもそもミャンマーの物価は東南アジアでも最も安く、例えばシャン麺というラーメンのような食べ物が1杯10円ぐらい。
スイカも1玉10円から20円。
労働者の賃金が日当100円から200円。
そんな国で200ドルも取る気球に乗るがものすごくアホらしく思えたのであった。
200ドルといえばミャンマーでは医大の半年分の学費と同等である。
しかし、この高直な費用が気球搭乗を回避した最大の理由ではなかった。
最大の理由は、私は高所恐怖症であることであった。
時々言われるのだが、
「あなた平気で毎週のように飛行機に乗って出張しているけど、ホントに高所恐怖症なの?」
と質問をぶつけられる。
しかし、高所恐怖症であっても飛行機は乗れるのだ。
だいたい飛行機は飛ぶように作られており、嵐の際は怖い思いをするけれども、大体においては科学の粋を集めた「安全」という安心感があり、そもそも飛んでいる飛行機から自分が落っこちるなんてことは不可能なのだ。
そういう意味ではスカイツリーでも通天閣でも中にいるぶんには恐怖は感じない。
なぜなら落ちようがないからだ。
しかしながら、吊り橋、煙突、電柱、ドドンパのたぐいは自分のミスで、もしかすると落っこちてしまうかもしれない、という恐れがあり、それが高所恐怖症を煽るのである。
気球も畢竟、籠に乗ってお空に登るなど、正気の沙汰とは思えず、ついつい思い出すのは気球にのって太平洋横断を試みた気球おじさんのような運命を辿るのではないか、という恐怖心と滑稽さだけがのこることになるのだ。
ということで、私にとっての気球はロイカートンで飛ばす玩具の熱気球であって、ホントに乗って飛ぶのは映画の中だけにしたい乗り物なのである。
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