
沢木耕太郎の最新刊「キャパの十字架」は、歴史ミステリーの謎解きノンフィクションとしてスリリングで楽しい一冊だった。
私は沢木耕太郎のノンフィクションの大ファンで、新刊が発行されるのがいつも楽しみだ。
とりわけ紀行ものは「深夜特急」以来、自分の旅と重ね合わせることも部分的に可能なので大いに気に入っていて、新刊が紀行ものだと内容も何も関係なく、すぐに書店に足を運び買い求めることにしている。
「国道1号線を北上せよ」
は、そういった作品の中でもお気に入りで、読んでいるだけでベトナム旅行の雰囲気が蘇ってきてなんとも言えない心持ちになり、読み終えても数カ月後に再度読んでしまうくらい魅了されるのだ。
3年ほど前に発行された「深夜特急ノート」は、「深夜特急」を下地にしているだけに書店で発見した時は「おお~!」と思わず声に出してしまい、書店で本を選んでいる周囲のお客さんに変な目で見られるという、めったにない恥ずかしい想いをしたのであった。
もちろん他のノンフィクションもお気に入り。
アリスの谷村新司がチャンピオンを作詞作曲するときに、そのインスピレーションにしたというボクサーカシアス内藤を取材した「一瞬の夏」。
この作品は作者の若いころの作品だが、その文章のしっかりした内容と、ボクサーという職業の哀愁というものを感じ、今もたまに読み返していしまう1冊になっている。
他には「人の砂漠」のような短篇集もお気に入りだが、小説についてはまだ一冊も読んでおらず、そのうちトライせねばなるまいと思っているところだ。
なぜ沢木耕太郎の小説を読まないのか。
それはただ単に上質をのノンフィクションを書く作家が上質の小説を書いてもおかしくないが、もしかするとつまらないかも知れず、失望することが怖いので、一方的に読むのをためらっていることと、内容が暗そうなので、未だに手にとることができずにいるのだ。
この小説の他に、なかなか手に取れなかったのが翻訳物。
沢木耕太郎という作家がちゃんとした翻訳をしてくれているのかどうか。
プロの翻訳家が翻訳していない作品については、ずーと昔に手塚治虫訳「スーパーマン」というのがあって、まったくおもしろくなく、
「漫画の神様なのにどうしたの?」
といういやーな印象を植え付けられてしまった経験があるので、どうしても読むきっかけが掴めなかったのだ。
ところが「スーパーマン」と違って沢木耕太郎の翻訳した作品の主人公はロバート・キャパなのであった。
これは大きい。
私は学生時代、ドキュメンタリー映像を専攻の1つにしていたこともあり、当然のことながらキャパは重要なカメラマンなのだ。
もちろんキャパだけではないが、近代的なジャーナリズムに於いて、ロバート・キャパほど初めてスター性を秘めたキャメラマンとして登場した人物は他に見当たらにように思える。
フォトジャーナリズムについて詳しくない人でもキャパの名声を知っている人は少なくない。
従って、沢木耕太郎訳の、
「キャパ その青春」
「キャパ その死」
の二冊を選ぶのにそんなに時間はかからなかった。
そして当然のことながら、沢木耕太郎の分かりやすく、引き込まれるような文章で、すっかりロバート・キャパの人生を魅了されてしまったのであった。
その沢木耕太郎がキャパの最初の代表作「崩れ落ちる兵士」に関する「謎」に挑んだ作品「キャパの十字架」(文藝春秋社)が発行され、わくわくどきどきもので読み始めたのだ。
スペイン内戦をショットした代表的な写真である「崩れ落ちる兵士」には、かつてから色々な噂があった。
もしかすると「作り物」、つまり「やらせ」ではないかと。
フォトジャーナリズムに嘘があることは、例えば朝日新聞の沖縄サンゴ「KY」事件でも明らかなように、こんにちでも度々取り上げられる。
ましてや1930年代の、無名の若者カメラマンが撮影した映像が、本当かどうか。
疑ってかかる必要があるというものなのであった。
今回の作品の面白いところは、紀行的要素と事件的要素、そしてノンフィクションとしての正当な流れが同時に楽しめ、あっという間に読み進んでいかせるところだと思う。
いくつかの証拠や写真のプリントなどを分析していく過程は、ミステリーの謎解きだが、作り話のミステリーと違うところは、ホントにルポになっているところだ。
つまり現実感がある。
結局、写真の真贋はともかく、それ以上の予測される発見は、読者の興味を惹き、そしてキャパという「男の生涯」を冷静に見つめることで、人の生きざまとは何かを考えさせられることになる。
沢木耕太郎だから書くことの出来た面白いノンフィクションなのであった。
なお、88ページの写真のキャプションの間違えは、次の版から修正されるのであれば、第一版はコレクションとして買いであろうが、これは余談。
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