私の生まれ育った大阪府堺市は全国市町村で唯一の県から市に格下げになった自治体だ。
このこと、堺市の小学生や中学生は学校で習うことなく成長していくので、おとなになってから知るとびっくりする。
何も隠すことはないと思うのだが、ぱっと聞くとあまり名誉なことと思えないので教育委員会としては隠したい事実なのか、疑いたくなる。
だから堺市の子どもたちは地元歴史の授業で名誉あることしか学ばない。
「堺は中世自由と貿易で栄えた環濠都市」
「千利休の生まれた街」
「与謝野晶子の生まれた街(←これが名誉とは思えませんが)」
ということばかりで堺市が堺県であったことは習わないのだ。
実は私もおとなになってから知ってビックリした口で、
「え〜、なんで〜」
となったのは言うまでもない。
その堺市が堺県であったほんの14年間を歴史資料でたどる特別展が堺市立博物館で開催されている。
展覧会情報のWEBサイトでこの特別展を発見して、
「これは必見!」
と急ぎ訪れてきたのだ。
展示内容は大きく分けて2点。
1つ目は土佐藩士がフランス人水兵を攘夷殺戮した堺事件関連の資料展示。
そして2つ目が初代県知事と二代目県知事の優れた行政に関する資料であった。
堺事件は森鴎外や大岡昇平などが小説やノンフィクションとして著していて幕末維新に詳しい人であれば知られている事件だ。
時代は維新を迎える慶応4年に発生。
堺に上陸してきて狼藉を働くフランス人水兵を堺の土佐藩士が天誅を加えるべく11名を殺害。
当然外交問題に発展し、攘夷天誅を実行した土佐藩士は切腹となった。
この切腹の凄まじさが記録として残っていて、フランス人行使立会のものとに実施され切腹はフランス人たちに「途中中止」を余儀なくさせるほどのものであったという。
特別展では奉行の傘や土佐藩士たちの墓の写真など展示されていた。
堺事件はたった150年前の事件であることをリアルに認識するとともに、土佐藩士たちの行動は当時は決して非難できないものであったが、それをさせない時代の趨勢の哀れを感じざるを得ないのであった。
さて、堺が県になったのは「廃藩置県と全く関係ない」というのが、もしかすると最大の話題かもしれない。
なんといっても廃藩置県が宣言される2年前に堺県は誕生。
もともと大阪と同じで幕府直轄領だったからかもわからない。
でもそういう要素というか中世からの遺伝的要素からか、全国のどこよりも先に近代的な行政を開始したのだった。
初代知事の大分出身の小河一敏という人で、絶対的仁政を掲げ中央政府と対峙して解任されるほどの堅物なのであった。
どういう事をしたかというと、大和川の氾濫に苦しむ住民が何度も治水工事を願い出たが政府がそれを聞き入れなかったので、独断で自身を含む堺県職員の給与を大幅カット。加えて無許可の県札を発行して資金を集め治水工事を断交してしまったという。さらに殖産興業に力も投入。東洋紡やカネボウなどの大阪の繊維産業隆盛の礎のひとつとなった。
でも、こういう人だからこそ中央の新政府は「好まん!」ということでクビを切ったのだろう。
二代目の薩摩の税所篤。
西郷隆盛が入水を図った時に意識を回復するまで西郷の手当をした人物だ。
この人の行政手腕がまたずば抜けていたという。
日本ではじめての博覧会を堺の南宗寺で開催したかと思うと、近代的な公園整備に乗り出し、浜寺公園、大浜公園、奈良公園と今も残る広大な市民のための公園整備を実施たのだった。
で、ここで「なんで奈良公園なの?」と疑問が浮かぶだろう。
堺県の範囲は現在の堺市にとどまらず岸和田市や泉佐野市、河内長野市、藤井寺市などの旧河内国、和泉国はもちろんのこと大和国まで含んでいたのであった。
このあまりに広範囲な行政エリアが経済政治機能が急速に弱体化した大阪府の嫉妬につながった。
結果として中央政府は堺県を大阪府に統合する形で堺市が誕生。
堺県の旧大和国は大阪府に組み入れられるも間もなく奈良県として独立して現在に至っているというわけだ。
特別展では、なぜ東京、大阪、京都が「府」でその他が「県」になったのかという理由も解説されていて、とっても勉強になる展示会なのであった。