<新・とりがら時事放談> 旅・映画・音楽・演芸・書籍・雑誌・グルメなど、エンタメに的を絞った自由奔放コラム
宇宙エンタメ前哨基地



ルパン三世の銭形警部の声を演じていた声優の納谷悟朗が亡くなった。
かなり、ショックだ。

納谷悟朗といえば銭形のとっつあん以外にチャールトン・へストンの吹き替えが印象に残っている。
テレビの洋画劇場で放送された「猿の惑星」では、納谷悟朗の声で、「ちくしょー!ここは地球だったんだ」と砂に埋もれた自由の女神を背景に砂地を拳で叩くチャールトン・ヘストンが私には印象的で、この場面を見る度に、頭に去来するのは納谷悟朗の声なのであった。

このように、有名な声優さんが亡くなると困るのがキャラクターの生命。
声はいなくなってもキャラクターは生き続けるわけだから、声優の都合で声が変わってしまうキャラクターはある意味いい迷惑だ。

最近は劇場映画が吹き替えで多く上映されているのに対して、テレビの海外番組が字幕スーパーなんてことが少なくない。
私の世代からすると、かなり変な状況だ。
劇場映画の吹き替え版はめったに見ないのだが、声優さんはどういう基準で選ばれているのだろうか。
広告を見ると、人気アイドルや漫才師が声を当てたりしているので、ろくなものではないような気がしないでもない。
怖くて見る気が起こらない、というのが正直な気持ちだ。

私の子供の頃は海外テレビドラマが吹き替えで、演じる役者に応じて個性豊かな声優さんが見事な演技を披露していたものだ。
従って、今も声を聞くだけでそのキャラクターがイメージとして浮かんでくる。

野沢那智の声を聞けばアラン・ドロン。
広川太一郎の声を聞けばロバート・レッドフォードかジーン・ワイルダー。
小池朝雄はピーター・フォークで、小林昭二はジョン・ウェインで、川合伸旺ならポール・ニューマン。
城達也ならロバート・ワグナー、山田康雄ならクリント・イーストウッド。


多くのキャラクターが亡くなっている一方、声優さんもベテランの多くが亡くなっている。
上にあげた声優さんはすべて鬼籍に入ってしまってもう新作で素敵な声を耳にすることはできないのだ。

生身の俳優やキャラクターが生きていて声が別人になるという。
この当たり前だが、姿が同じでもキャラクターが別物になってしまったような、なにかやりきれない気持ちになるのだ。




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「おばあちゃんは戦後やったら死なんですんだかもしれんへんねん。」

私の母方の祖母は昭和15年に39才で亡くなった。
母が小学校2年生の時で、母や伯父伯母の話を総合すると風邪かインフルエンザをこじらせて肺炎で亡くなってしまったらしい。
あまりに若く、あっけない亡くなり方で、当然のことながら従姉妹の中に祖母を知るものは一人もいないし、母は5人兄弟姉妹の真ん中なので、年下の叔父伯母は祖母のことを覚えていない。
亡くなる時に、母を含め子供の名前をひと通り呼んで息を引き取ったそうだが、戦前のこの時代、このような病気で突然亡くなってしまうことは珍しいことではなかったのかもしれない。

「戦後やったら死なずに済んだ」
というのは、戦後だったら肺炎に効く化学物質「ペニシリン」が開発されたからで、もし現在だったら、祖母は入院さえする必要が無かったかもしれないのだ。

J・パーレサン、ベニー・クルーター著「スパイス、爆薬、医薬品ー世界史を変えた17の化学物質」(中央公論新社)は有史以来、人類が動植物から抽出、あるいは合成で創りだした17のカテゴリーに属する化学物質が、どのように人類の歴史文化に大きな影響を与えてきたのかを、専門的だがわかりやすく書かれている「化学読本」だ。

学校の歴史で習う胡椒に端を発する大航海時代の貿易、さらには植民地化や、なぜ黒人が奴隷として南北アメリカ大陸へ連れていかれたのか、といったことも化学式を交えながら詳しく、しかし、一般人にもわかるように興味深く記述している。
しかも、化学式の見方まで詳しく書いていて、
「化学は苦手」
という人にもとっつきやすくしているところは、凄いというほかない。

グリコーゲンから爆薬、ノーベルのダイナマイト開発の物語、ドイツの化学メーカーの表面と暗黒面、など、知っているようで知らないことが満載だ。

確かに、本書で取り上げられている17の化学物質の1つでも欠けていたら、人類の歴史は、とりわけ近代の歴史は大きく変わっていただろうと思う。
祖母の時代にはなかったペニシリンに始まる抗生物質は多くの病を怖いものではなくしてしまった。
人の寿命を大幅に伸ばしたその科学技術は、高齢化人口という新たな問題も発生させたが、たった100年前には原因さえわからなかった恐怖から開放されるという幸福をもたらしている。
化学が発達し、物流もそれに伴い近代化された今、高価で手に入れることが極めて困難だったスパイスさえも安定供給され庶民のものとなっている。
ビタミンC。
アスピリン。
麻酔薬。
石鹸。
どれか一つが欠けても今の生活は成し得ない。

そんな化学物質の物語は、読み始めると止めることの出来ない面白さだ。


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昨年の東京スカイツリーの開業以来、全国各地のタワーが元気だ。
私の地元大阪のシンボルでもある通天閣は、スカイツリーの開業以前から色々な試みをやっていて、ちょっとした注目スポットと化している。
というのも、通天閣は最上部のアンテナを含めても高さが100メートルしかなく、昭和31年建造でコンセプト的にも実年齢的にもお年をめしているのだ。
実際、通天閣から歩いて15分ほどの天王寺駅前には高さ300mの日本一高い高層ビルあべのハルカスなんかんかが建設されているわけで、通天閣の通天閣たる所以をしっかりしないとビルの谷間に埋もれてしまいそうなのだ。

そこで通天閣が展開しているのがアートイベント。
通天閣を中心に周辺の新世界地区に芸術家の卵達を集めて「ツムテンカク」なるイベントを開催し、かなりの注目度になっている。
もともとこの辺りは漫画「じゃりン子チエ」の舞台になっているような庶民の街なので、こういうイベントを開催するのはかなりの勇気が要ったことだろうが、昨年、そして今年と回を重ねることができているので、、きっと未来は明るいに違いない。

関西のタワーといえば通天閣だけではない。
大阪には他にシンボル的なものとして岡本太郎作の太陽の塔があり、こちらは日本が最も元気だった頃のシンボルとしても価値があるランドマークだ。
また高校野球で有名なPL教団が所有するPLタワー(別の名前があるそうですけど、大阪ではこの名前で通っています)も、あまり前面に出てこないけれども不気味なデザインで南大阪の丘陵にそびえている。
残念ながら万博のもう一つの象徴であったエキスポタワーや朝日放送の大阪タワーは取り壊されてしまったが、それはそれである意味歴史の流れかも分からない。

大阪以外のタワーでは神戸ポートタワーと京都タワーがあるけども、印象深いのはなんと言っても京都タワー。
古都京都の玄関口、JR京都駅前にどどどっと聳える燭台のようなデザインの京都タワーは東寺の五重塔と並んで新幹線から見えるランドマークとして価値は高いと思っている。

昨日仕事で京都へ行ったらその京都タワーが工事中で休館していた。
何をどうリニューアルするのかわからないが、リニューアルするところを見ると、大阪タワーやエキスポタワーと違って今も価値を持ち続けているタワーなのだと思った。
それにしても正直言って、京都という場所では趣味の悪い建物ではある。

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エジプトのルクソールで発生した気球事故は、遺跡などを空から眺める気球ツアーが、やはりかなりの危険を伴ったものであることを改めて感じさせる出来事ではなかったと再認識されるものになった。

そもそも空を飛ぶ乗り物の中で気球ほど不安定なものはないのではないだろうか。
飛行機や飛行船は自力で方向を定めて飛行することができるが、気球は風まかせ。
多少のコントロールは効くけれども、突然の気象の変化や緊急事態ではなかなか思うようにいかない。
その制御精度はたぶんスカイダイビングのパラシュート操作よりも低いのではないか、と思うところ少なくない。

かくいう私も気球に乗れる機会はこれまで何度かあった。
そのうち最も可能性が高かったのはミャンマーのバガンを訪れた時で、この時は気球に乗ろうかとさえ思ったほど、その遺跡群の景色は素晴らしいものがあった。
だが、気球に乗ることを思いとどまらせる強い要素が存在した。
料金がUS200ドルもしたのだ。
そもそもミャンマーの物価は東南アジアでも最も安く、例えばシャン麺というラーメンのような食べ物が1杯10円ぐらい。
スイカも1玉10円から20円。
労働者の賃金が日当100円から200円。
そんな国で200ドルも取る気球に乗るがものすごくアホらしく思えたのであった。
200ドルといえばミャンマーでは医大の半年分の学費と同等である。

しかし、この高直な費用が気球搭乗を回避した最大の理由ではなかった。
最大の理由は、私は高所恐怖症であることであった。

時々言われるのだが、
「あなた平気で毎週のように飛行機に乗って出張しているけど、ホントに高所恐怖症なの?」
と質問をぶつけられる。
しかし、高所恐怖症であっても飛行機は乗れるのだ。
だいたい飛行機は飛ぶように作られており、嵐の際は怖い思いをするけれども、大体においては科学の粋を集めた「安全」という安心感があり、そもそも飛んでいる飛行機から自分が落っこちるなんてことは不可能なのだ。
そういう意味ではスカイツリーでも通天閣でも中にいるぶんには恐怖は感じない。
なぜなら落ちようがないからだ。

しかしながら、吊り橋、煙突、電柱、ドドンパのたぐいは自分のミスで、もしかすると落っこちてしまうかもしれない、という恐れがあり、それが高所恐怖症を煽るのである。
気球も畢竟、籠に乗ってお空に登るなど、正気の沙汰とは思えず、ついつい思い出すのは気球にのって太平洋横断を試みた気球おじさんのような運命を辿るのではないか、という恐怖心と滑稽さだけがのこることになるのだ。

ということで、私にとっての気球はロイカートンで飛ばす玩具の熱気球であって、ホントに乗って飛ぶのは映画の中だけにしたい乗り物なのである。

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最近の図書館はその存在価値が変化しているために様々な試みを展開している。
例えば鳥取県立図書館は図書館という機能に加えて地元企業支援の運営を行なっているという。
具体的にどういうことをやっているかというと、中小の企業ではなかなか買うことの出来ない業界紙やマーケティング資料を集めている。
ご存知の方も多いと思うがマーケティング資料というものほど高価な本はない。
どの商品がどのくらいどの地域で販売されているのか。
その起業のマーケットシェアはどのくらいか。
価格は。
といったデータが満載なのだが、こういう物を発行している会社というのは、秘密情報をネタにしているだけに、かなりもったいぶる。
一冊10万円ぐらいするのは当たり前だが、実際どういう中身なのか買わないとわからないのがほとんどだけに、思い切って買うということができない。
アマゾンドットコムのように中身拝見というようなサービスは展開していない。
もし中身を見られたら、あまりのしょうむなさに買う人がいなくなるからかもわからない。
だからこういう書物を揃えるのも公立の図書館の役目として動いているのだ。

ここの凄いところは書物を揃えるだけではない。
その書物の分野に精通したスペシャリストを配していることで、これも例えば仮にですけど、
「温度や湿度、硬度などによる金属疲労の進行に関する見方を教えて下さい」
というと、そいういう分野で活躍していたシルバー人材がいて相談に乗ってくれるのだという。
まさにインキュベーション機能も果たしているというのだ。

この図書館の試みはいかに凄いかは図書の購入に当てられる予算の取り方が半端ではなく、ちょっとした大都市の図書館でもびっくりするようなアカデミックな熱意が溢れているところなのだ。

また、別の図書館では大学や研究所などと連携し、研究室を設けて知の蓄積だけではなく、知の拡充や展開を試みているところもあるのだという。
図書そのものが電子化されつつあり、書籍の保管に場所を取らなくなってきているのが背景にあるともいう。
で、どのくらい電子化が進んでいるかというと、日本はどちらかと言うと後進国で、図書館には現物の書籍が溢れているというのが現状だが、またまた例えば、沖縄県恩納村にある国立沖縄科学技術大学院大学を訪れると、その図書館にびっくりする。
ほとんど書棚がないのだ。
図書館にはMacやiPadなどの電子デバイスが並び、書籍を呼び出して画面上で読む仕組みになっているのだ。
恩納村というリゾートエリアでじっくりと最新の研究をする場所として国費が数百億(と私は思っている)が投じられて設立された大学ではあるわけだ。

図書館がこうだから書店も変わりつつある。

まず、規模が超大きくなっている。
大阪梅田の淳久堂と丸善のコラボ書店。
大阪難波のジュンク堂書店。
東京丸の内の丸善。
東京代官山の蔦屋書店。
などなど。
共通するのは大きいだけではなく、各ジャンルの本について精通したスタッフがいるらしく一般書籍から専門書まで、痒いところに手が届くこと素晴らしいということろだ。

私の場合、ノンフィクションがお気に入りで、その中でもサイエンス、紀行ものを好んで読む。
こういうものを好んで読み進んでいくと、やがてマニアックでニッチな世界に突入し、読みたい本がなかなか見つからず結局アマゾンで買うことになる。
ところが前述の大型書店では痒いところに手の届く本が信じられないことに平積みになっていたりするので、アマゾンでは不可能な現物を手にとって買い求めるということのできる利便性がある。
これは無視できない傾向なのだ。
もちろん中小の書店でも、例えば大阪本町の紀伊國屋書店やブック1stの一部などは、なかなかチョイスが素晴らしい。

ただ単に新聞や雑誌の書評で評価されたものを選んでます、という感覚がないのが好感が持てるのだ。

こういう技は書籍のことを熟知しているスタッフが必要だ。
このスタッフをなんでもブックコーディネータと呼ぶそうで、司書とも違う現代の知のガイドとも言うべき、面白い職業があるという。

こういうことを考えると、リアル図書館、リアル書店は多分、なくならないのが日本の文化という気がして、やっぱりKindleやKoboなんかそれほど売れないだろうな、と思うのであった。


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