経過と実質、解かれるもの
第62話 夜秋act.2―side story「陽はまた昇る」
ほろ苦くあまい香がふっと届いて、英二は微笑んだ。
向かい合うパソコン画面に診察室はルームライトに映り、声が3つ白衣の背に愉しい。
デスクランプの下に資料の印刷していく音とプリントチェックする傍ら、つい会話が聞こえる。
「でね、先生?そのハイカーのおばちゃん、30分も喋っていったんですよ、」
「30分ですか、それだけゆっくりされたなら元気になったでしょう?」
「そりゃもう元気いっぱいで帰りました、でも30分も喋るって凄くないですか?ねえ、原さん、」
「俺なら2分だな、」
「あははっ、カップ麺より保たないんだ、原さん?」
カップ麺より保たない、そんな藤岡の表現が面白い。
それを気楽に言われるようになった原の、馴染み始めた空気に安堵できる。
―原さん、このまま馴染んでくれると良いな。特に藤岡とは、
気楽に話せる相手が同じ寮に居ることは、この仕事では正直ありがたい。
そんなふう藤岡と原が認め合えたら真逆のタイプ同士、たぶん良いコンビになるだろう。
あっけらかんと明るい話し上手だけど忍耐の持久力が強い藤岡、言葉少ない寡黙でも意外な愛嬌がある原。
そんな二人の会話を2週間の朝晩に見てきた感想は「漫才」だ?そう思いながら仕事する背後で会話が聞えてくる。
「カップ麺って言えば原さん、昼の自主トレで食ってたカップ麺って焼きそばでしょ?」
「ああ、」
「あははっ、やっぱりそうなんだあ、あっはっは、」
カップ焼きそばの何が可笑しいんだろう?
そんな疑問を意識の隅っこに資料を捲る、その背に解答が笑った。
「湯きりしないでカップ焼きそば食ったでしょ、原さん?そのままソースの粉入れちゃって、大野さんと変だよなあって言ってたんすよ、」
―なにその食べ方?
心ひとり言につい顔あげてパソコン画面を見てしまう。
その背後から低い声がいつもの一本調子で、普通に答えた。
「つゆ焼きそばってあるし、山の水分は貴重だ、」
その通りだけど味が薄いだろう、っていうか汁あり麺を選べばいいし?
そう突っこみ入れたくなる、なにより「なにも変ではない」という原のトーンが面白い。
つい笑いそうになる口許を拳で押えて、それでも頭脳はチェックに集中する意識へ藤岡が大笑いした。
「あっはっはっ!確かに水分貴重ですけどね、だったら普通のラーメンの食べれば良いっすよね?」
「あれも旨いんだ、」
「味、薄くないですか?麺だけで調度いいソース量なのに、あははっ」
「あれで俺はいい、」
「でも原さん、最初の一口目で『うっ?』ってなりましたよね、」
「気のせいだろ、」
大笑いと一本調子の応酬に笑いたくなる、きっと今、吉村医師も笑っているだろう。
つい顔だけ笑いながらも視線は資料を確認して、ファイル保存すると電源を落とした。
パソコンデスクを片づけてディスクと書類を携えると、英二は吉村医師に笑いかけた。
「先生、お待たせしました。書類はいつもの箱でよろしいですか?」
「はい、お願いします。予定より速かったですね、お菓子もう1ついかがですか?」
「ありがとうございます、」
穏やかな笑顔を向けて奨めてくれる、こんないつも通りが嬉しい。
嬉しく頷きながら書類たちをしまって、白衣のポケットで携帯電話が動いた。
―来た、
予感と電話を開きながら見た窓は、最後の残照がもう淡い。
この時間になれば山中は全くの闇、そんな刻限の覚悟と通話を繋いだ。
「はい、宮田です、」
「週休にすまん、道迷いだ。鷹巣山で三十代男性ほか1名、」
岩崎の声に英二は胸ポケットから手帳を出し、ペンを持った。
いまは真夏で陽が長い、それでも19時半の谷は昏い。
ミニパトカーを降りて見上げる空も雲が張りだし、風は湿っている。
この観天望気に英二は素早くザックを開きながら、原へと提案した。
「原さん、集中的な雨が降ると思います。念のためレインスーツのパンツだけでも履きませんか?」
「そうだな、」
原も素直に頷いて、同じように装備を整えてくれる。
すぐ終えてザックを背負い、ヘッドランプを点灯すると英二は後藤副隊長へ無線を繋いだ。
「宮田です、今から原さんとノボリ尾根に入ります、」
「吉村の手伝い日にすまんなあ。でもそのルートは宮田が強いからな、頼むよ?この時間と空だ、無理せずビバークしてくれよ、」
伸びやかな後藤の声はいつも通り健康的で、病など嘘だと思いたくなる。
けれど吉村医師に任された通りに英二は提言と微笑んだ。
「了解です、後藤さんも無理は絶対にしないでください、」
「お、吉村に聴いたんだな?」
すぐに察して無線の向こう笑ってくれる。
この明るさは救いだ、その感謝に階段を昇りながら英二は頷いた。
「はい、異変はすぐ言ってくださいね?対応があるので、」
「ははっ、そっちも頼りにしてるよ、すまんなあ。さあ、今回も全員無事に帰還だ、いいな?」
大らかな笑い声と言葉が今、ただ温かい。
この最高の山ヤが頼りにしてくれる、その信頼と誇りに英二は微笑んだ。
「はい、行ってきます。」
「おう、俺も水根から登ってるよ、帰りは交番に寄ってくれな、」
伝達事項に意思疎通を笑いあって無線を切った。
すぐ原を振り向くと、登りきった階段の先を示し微笑んだ。
「ここがノボリ尾根の入口です、今は使われていませんが榧ノ木山頂にまだ道標があります、」
「ふん、地図の無いヤツが迷うな、」
ヘッドライトに精悍な目を細め、かすかに笑ってくれる。
皮肉屋にも見える笑い方だけれど瞳は昏くない、そう今は解かるようになった。
原の本質はさっぱりとして話しやすい、ただ口重たいところが誤解されがちでいる。
―だから異動のことも原さん、周りに色んな誤解をされてるんだ。きっと遠征訓練のことも、
今回の異動を原は「不服」だと周囲に思われていた、けれど本当は違うと青梅署では理解され始めている。
たぶん海外遠征訓練の辞退にも原なりの理由があるだろう、それを聴いてみたい。
けれど、ここ数日の原は英二に対して時おり途惑うような素振をする。
それも吉村医師に相談してみたいと思いながら、しそびれた。
―自分で聴いてみるしかないな、ここは山だし、
山で焚火を囲んだら、原の重たい口も開かれやすいだろう。
そんな話の切り出し方を考えながらも五感を山に空に向け、昏い道を踏みしめ登っていく。
登山靴の下はザレ場の急登で踏み跡も無い、ここを夜間に進むのは通った経験者でなければ難しい。
後藤が自分をこのルートに配備したいのは当然だ?そう微笑んだ後ろ話しかけてきた。
「よくルートが解かるな、まだ一年で、」
低いけれど夜陰にも透る声はぶっきらぼうでも、どこか温かい。
幾らか一本調子なトーンは原らしくて何か良い、前方を向いたまま英二は微笑んだ。
「俺の指導係は厳しいんです、お蔭で一年でもなんとかなってます、」
「ふん、国村さんか、」
頷く気配に背後のヘッドライトもゆれて深い木立に光ゆれる。
辿っていく尾根は痩せて狭い、ここを夜間に歩くのはライト無しでは危険だ。
けれど今回の遭難者も照明器具を持っていない、その事実に軽くため息吐いた後ろ原が訊いた。
「ライトが無い登山者、奥多摩は多いんだろ?」
「はい、三品のうち皆さん持っているのは水くらいです、」
水筒、雨具、照明器具、この3つは軽ハイキングでも必携とされ山の三品とも言う。
けれど奥多摩のハイカーは水以外を持たないケースが多い、それが遭難に繋がってしまう。
この現実は警視庁の山岳レンジャーである以上は当然知っている、その通りに原も言ってきた。
「地図も無い、ライトも雨具も無い。もう登る前から遭難してるな、」
これを遭難と言うならさ、登る前から遭難しているよ。
そう去年の秋も同じ台詞を聴いた、それが初めてこの廃道を登った時だった。
あの後も強盗事件の時に辿っている、どちらも光一が先頭でリードして登った。
そして今は自分が先頭を登っていく、そんな時間経過と経験値に過去はもう、遠い。
それでも確かに存在していた過去の自分を思い、着実に登山靴を運びながら英二は笑った。
「一年半前の俺も、登る前からのクチでした、」
一年半前の自分は世界を何も知らなかった。
高級住宅街と便利な都市部だけが自分の世界だった、笑顔ひとつで全てが誤魔化せると思っていた。
ただ人間的都合しか知らない、それが昔の自分でいる。この事実に笑った背中を可笑しそうな声がノックした。
「ふっ、顔だけならそんな感じだな、」
「やっぱり俺、顔が問題ですか?」
こんな山中でも顔を言われるんだな?
この馴れてしまった指摘に今は、衒いなく笑えてしまう。
そんな自分になれた事も可笑しくて笑って、けれど後ろは率直に言ってくれた。
「いや、今の面構えは悪くない。この辺からトラメガやるか?」
褒め言葉と業務連絡を交えてくれる。
そんな原らしい態度が何か嬉しくて、微笑んで英二は頷いた。
「はい、呼びかけお願いします、」
「おう、」
頷き、歩きながら原はトランジスターメガホンをセットしてくれる。
その慣れた手つきを見ながら無線を繋ぎ、岩崎へと連絡した。
「宮田です、これからノボリ尾根にて呼びかけを始めます、」
「了解、30秒間隔で頼む。その合間に榧ノ木尾根もやるよ、」
「解かりました、それで副隊長に報告しますね、」
「頼んだよ、」
無線を切って、すぐにまた後藤副隊長に繋ぐ。
榧ノ木尾根との伝達事項を報告する傍ら、原と岩崎の呼びかけは始まった。
15秒ごと雨降谷を挟んだ声は谺していく、その共鳴に求める応答を探しながら無線も会話する。
「副隊長、遭難者からの反応はありますか?」
「おう、いま携帯が繋がったよ。どちらも大きく聞こえるそうだ、」
「じゃあ雨降谷か、榧ノ木山から水根山の間でしょうか?応答は聞えないので、風向きから山頂方向だと思います、」
「その辺の可能性が高いな?あとは入奥沢かもしらん、浅間尾根の山井たちにやらせてみよう。原と岩崎は一旦停止だ、」
「はい、岩崎さんへの連絡を原さんにお願いします、」
話す無線の向こう、他の話し声が2つ聞こえてくる。
それを聴きながら英二もジェスチャーで停止を告げ、原はトラメガを切って無線を繋いだ。
今度は左手の尾根から呼び声が響きだす、この同じタイミングに後藤が教えてくれた。
「宮田、この呼びかけも聞こえるらしいぞ、どう考えるかい?」
「水根沢林道と榧ノ木尾根が交差する、あの辺りで尾根に近い仕事道ではないでしょうか、」
後藤の問いに脳内に登山図を眺め答えて、原に山頂方面を指し示す。
その応答に無線の向こう、楽しげに後藤が笑ってくれた。
「良い判断だ、それで頼むよ?ちょいと風が湿ってきたな、雨に警戒しろよ?」
「はい、ありがとうございます。では水根山に向かいます、」
無線を切って見上げた空は、星の数が減っている。
これだとスコールのよう突然降りだすかもしれない、この観天望気に英二は振向いた。
「原さん、じきに降るかもしれません、その後たぶん霧が出ます、」
「おう、急ごう、」
短い返答にヘッドライトの下、精悍な目が少し笑ってくれる。
英二の観天望気を信じた、そんな目に微笑んで歩きだす道は木の香が先刻より濃い。
嗅覚にも湿度の変化を計りながら登る耳元、虫の羽音が掠めて草いきれ蒸れあがる。
滲みだす汗にも大気の重さを感じながら速めていく足に、背後の足音も離れず遅れない。
―雨の前に、場所だけでも特定したいけど、
遭難者の居場所だけでも今夜中に確認したい。
この暗さでは疲労した初心者の下山は難しいだろう、それでも場所がわかれば声掛けが出来る。
近くに救助隊がいる、そう解るだけで精神的に救われて頑張れるはず。そんな想いにも念のため無線を繋いだ。
「宮田です、遭難者の方は雨を避けられる場所にいますか?あと5分ほどで降りだしそうです、」
夏でも雨から低体温症を惹き起すことがある。
おそらく遭難者は彷徨で心身とも消耗した、そこに雨うたれたら弱い。
その心配に問いかけた向こう、頼もしい声が応えてくれた。
「ビニールシートをかぶれって言ってあるよ。よく木が繁った場所らしいから平気だろう、お蔭で展望が効かんから位置確認できんがな、」
「よかった、ありがとうございます、」
やっぱり後藤は気を配ってくれてある。
いつもながらの信頼に笑った向こう、明るいトーンが言ってくれた。
「こっちこそだよ、俺も雨降りの心構えが出来たよ。後は霧かもしれん、足許に注意で無理するなよ?」
「はい、気を付けます、」
感謝しながら通話を終えて無線をしまい、ウエストからレインスーツの上着を解いて着こんだ。
その後ろで着終えた原は空を仰ぎ、ヘッドライト照らした梢から雫が横切った。
「雨だ、」
午後20時半、降りだす山の雨かわして緩やかな尾根に着いた。
(to be continued)
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第62話 夜秋act.2―side story「陽はまた昇る」
ほろ苦くあまい香がふっと届いて、英二は微笑んだ。
向かい合うパソコン画面に診察室はルームライトに映り、声が3つ白衣の背に愉しい。
デスクランプの下に資料の印刷していく音とプリントチェックする傍ら、つい会話が聞こえる。
「でね、先生?そのハイカーのおばちゃん、30分も喋っていったんですよ、」
「30分ですか、それだけゆっくりされたなら元気になったでしょう?」
「そりゃもう元気いっぱいで帰りました、でも30分も喋るって凄くないですか?ねえ、原さん、」
「俺なら2分だな、」
「あははっ、カップ麺より保たないんだ、原さん?」
カップ麺より保たない、そんな藤岡の表現が面白い。
それを気楽に言われるようになった原の、馴染み始めた空気に安堵できる。
―原さん、このまま馴染んでくれると良いな。特に藤岡とは、
気楽に話せる相手が同じ寮に居ることは、この仕事では正直ありがたい。
そんなふう藤岡と原が認め合えたら真逆のタイプ同士、たぶん良いコンビになるだろう。
あっけらかんと明るい話し上手だけど忍耐の持久力が強い藤岡、言葉少ない寡黙でも意外な愛嬌がある原。
そんな二人の会話を2週間の朝晩に見てきた感想は「漫才」だ?そう思いながら仕事する背後で会話が聞えてくる。
「カップ麺って言えば原さん、昼の自主トレで食ってたカップ麺って焼きそばでしょ?」
「ああ、」
「あははっ、やっぱりそうなんだあ、あっはっは、」
カップ焼きそばの何が可笑しいんだろう?
そんな疑問を意識の隅っこに資料を捲る、その背に解答が笑った。
「湯きりしないでカップ焼きそば食ったでしょ、原さん?そのままソースの粉入れちゃって、大野さんと変だよなあって言ってたんすよ、」
―なにその食べ方?
心ひとり言につい顔あげてパソコン画面を見てしまう。
その背後から低い声がいつもの一本調子で、普通に答えた。
「つゆ焼きそばってあるし、山の水分は貴重だ、」
その通りだけど味が薄いだろう、っていうか汁あり麺を選べばいいし?
そう突っこみ入れたくなる、なにより「なにも変ではない」という原のトーンが面白い。
つい笑いそうになる口許を拳で押えて、それでも頭脳はチェックに集中する意識へ藤岡が大笑いした。
「あっはっはっ!確かに水分貴重ですけどね、だったら普通のラーメンの食べれば良いっすよね?」
「あれも旨いんだ、」
「味、薄くないですか?麺だけで調度いいソース量なのに、あははっ」
「あれで俺はいい、」
「でも原さん、最初の一口目で『うっ?』ってなりましたよね、」
「気のせいだろ、」
大笑いと一本調子の応酬に笑いたくなる、きっと今、吉村医師も笑っているだろう。
つい顔だけ笑いながらも視線は資料を確認して、ファイル保存すると電源を落とした。
パソコンデスクを片づけてディスクと書類を携えると、英二は吉村医師に笑いかけた。
「先生、お待たせしました。書類はいつもの箱でよろしいですか?」
「はい、お願いします。予定より速かったですね、お菓子もう1ついかがですか?」
「ありがとうございます、」
穏やかな笑顔を向けて奨めてくれる、こんないつも通りが嬉しい。
嬉しく頷きながら書類たちをしまって、白衣のポケットで携帯電話が動いた。
―来た、
予感と電話を開きながら見た窓は、最後の残照がもう淡い。
この時間になれば山中は全くの闇、そんな刻限の覚悟と通話を繋いだ。
「はい、宮田です、」
「週休にすまん、道迷いだ。鷹巣山で三十代男性ほか1名、」
岩崎の声に英二は胸ポケットから手帳を出し、ペンを持った。
いまは真夏で陽が長い、それでも19時半の谷は昏い。
ミニパトカーを降りて見上げる空も雲が張りだし、風は湿っている。
この観天望気に英二は素早くザックを開きながら、原へと提案した。
「原さん、集中的な雨が降ると思います。念のためレインスーツのパンツだけでも履きませんか?」
「そうだな、」
原も素直に頷いて、同じように装備を整えてくれる。
すぐ終えてザックを背負い、ヘッドランプを点灯すると英二は後藤副隊長へ無線を繋いだ。
「宮田です、今から原さんとノボリ尾根に入ります、」
「吉村の手伝い日にすまんなあ。でもそのルートは宮田が強いからな、頼むよ?この時間と空だ、無理せずビバークしてくれよ、」
伸びやかな後藤の声はいつも通り健康的で、病など嘘だと思いたくなる。
けれど吉村医師に任された通りに英二は提言と微笑んだ。
「了解です、後藤さんも無理は絶対にしないでください、」
「お、吉村に聴いたんだな?」
すぐに察して無線の向こう笑ってくれる。
この明るさは救いだ、その感謝に階段を昇りながら英二は頷いた。
「はい、異変はすぐ言ってくださいね?対応があるので、」
「ははっ、そっちも頼りにしてるよ、すまんなあ。さあ、今回も全員無事に帰還だ、いいな?」
大らかな笑い声と言葉が今、ただ温かい。
この最高の山ヤが頼りにしてくれる、その信頼と誇りに英二は微笑んだ。
「はい、行ってきます。」
「おう、俺も水根から登ってるよ、帰りは交番に寄ってくれな、」
伝達事項に意思疎通を笑いあって無線を切った。
すぐ原を振り向くと、登りきった階段の先を示し微笑んだ。
「ここがノボリ尾根の入口です、今は使われていませんが榧ノ木山頂にまだ道標があります、」
「ふん、地図の無いヤツが迷うな、」
ヘッドライトに精悍な目を細め、かすかに笑ってくれる。
皮肉屋にも見える笑い方だけれど瞳は昏くない、そう今は解かるようになった。
原の本質はさっぱりとして話しやすい、ただ口重たいところが誤解されがちでいる。
―だから異動のことも原さん、周りに色んな誤解をされてるんだ。きっと遠征訓練のことも、
今回の異動を原は「不服」だと周囲に思われていた、けれど本当は違うと青梅署では理解され始めている。
たぶん海外遠征訓練の辞退にも原なりの理由があるだろう、それを聴いてみたい。
けれど、ここ数日の原は英二に対して時おり途惑うような素振をする。
それも吉村医師に相談してみたいと思いながら、しそびれた。
―自分で聴いてみるしかないな、ここは山だし、
山で焚火を囲んだら、原の重たい口も開かれやすいだろう。
そんな話の切り出し方を考えながらも五感を山に空に向け、昏い道を踏みしめ登っていく。
登山靴の下はザレ場の急登で踏み跡も無い、ここを夜間に進むのは通った経験者でなければ難しい。
後藤が自分をこのルートに配備したいのは当然だ?そう微笑んだ後ろ話しかけてきた。
「よくルートが解かるな、まだ一年で、」
低いけれど夜陰にも透る声はぶっきらぼうでも、どこか温かい。
幾らか一本調子なトーンは原らしくて何か良い、前方を向いたまま英二は微笑んだ。
「俺の指導係は厳しいんです、お蔭で一年でもなんとかなってます、」
「ふん、国村さんか、」
頷く気配に背後のヘッドライトもゆれて深い木立に光ゆれる。
辿っていく尾根は痩せて狭い、ここを夜間に歩くのはライト無しでは危険だ。
けれど今回の遭難者も照明器具を持っていない、その事実に軽くため息吐いた後ろ原が訊いた。
「ライトが無い登山者、奥多摩は多いんだろ?」
「はい、三品のうち皆さん持っているのは水くらいです、」
水筒、雨具、照明器具、この3つは軽ハイキングでも必携とされ山の三品とも言う。
けれど奥多摩のハイカーは水以外を持たないケースが多い、それが遭難に繋がってしまう。
この現実は警視庁の山岳レンジャーである以上は当然知っている、その通りに原も言ってきた。
「地図も無い、ライトも雨具も無い。もう登る前から遭難してるな、」
これを遭難と言うならさ、登る前から遭難しているよ。
そう去年の秋も同じ台詞を聴いた、それが初めてこの廃道を登った時だった。
あの後も強盗事件の時に辿っている、どちらも光一が先頭でリードして登った。
そして今は自分が先頭を登っていく、そんな時間経過と経験値に過去はもう、遠い。
それでも確かに存在していた過去の自分を思い、着実に登山靴を運びながら英二は笑った。
「一年半前の俺も、登る前からのクチでした、」
一年半前の自分は世界を何も知らなかった。
高級住宅街と便利な都市部だけが自分の世界だった、笑顔ひとつで全てが誤魔化せると思っていた。
ただ人間的都合しか知らない、それが昔の自分でいる。この事実に笑った背中を可笑しそうな声がノックした。
「ふっ、顔だけならそんな感じだな、」
「やっぱり俺、顔が問題ですか?」
こんな山中でも顔を言われるんだな?
この馴れてしまった指摘に今は、衒いなく笑えてしまう。
そんな自分になれた事も可笑しくて笑って、けれど後ろは率直に言ってくれた。
「いや、今の面構えは悪くない。この辺からトラメガやるか?」
褒め言葉と業務連絡を交えてくれる。
そんな原らしい態度が何か嬉しくて、微笑んで英二は頷いた。
「はい、呼びかけお願いします、」
「おう、」
頷き、歩きながら原はトランジスターメガホンをセットしてくれる。
その慣れた手つきを見ながら無線を繋ぎ、岩崎へと連絡した。
「宮田です、これからノボリ尾根にて呼びかけを始めます、」
「了解、30秒間隔で頼む。その合間に榧ノ木尾根もやるよ、」
「解かりました、それで副隊長に報告しますね、」
「頼んだよ、」
無線を切って、すぐにまた後藤副隊長に繋ぐ。
榧ノ木尾根との伝達事項を報告する傍ら、原と岩崎の呼びかけは始まった。
15秒ごと雨降谷を挟んだ声は谺していく、その共鳴に求める応答を探しながら無線も会話する。
「副隊長、遭難者からの反応はありますか?」
「おう、いま携帯が繋がったよ。どちらも大きく聞こえるそうだ、」
「じゃあ雨降谷か、榧ノ木山から水根山の間でしょうか?応答は聞えないので、風向きから山頂方向だと思います、」
「その辺の可能性が高いな?あとは入奥沢かもしらん、浅間尾根の山井たちにやらせてみよう。原と岩崎は一旦停止だ、」
「はい、岩崎さんへの連絡を原さんにお願いします、」
話す無線の向こう、他の話し声が2つ聞こえてくる。
それを聴きながら英二もジェスチャーで停止を告げ、原はトラメガを切って無線を繋いだ。
今度は左手の尾根から呼び声が響きだす、この同じタイミングに後藤が教えてくれた。
「宮田、この呼びかけも聞こえるらしいぞ、どう考えるかい?」
「水根沢林道と榧ノ木尾根が交差する、あの辺りで尾根に近い仕事道ではないでしょうか、」
後藤の問いに脳内に登山図を眺め答えて、原に山頂方面を指し示す。
その応答に無線の向こう、楽しげに後藤が笑ってくれた。
「良い判断だ、それで頼むよ?ちょいと風が湿ってきたな、雨に警戒しろよ?」
「はい、ありがとうございます。では水根山に向かいます、」
無線を切って見上げた空は、星の数が減っている。
これだとスコールのよう突然降りだすかもしれない、この観天望気に英二は振向いた。
「原さん、じきに降るかもしれません、その後たぶん霧が出ます、」
「おう、急ごう、」
短い返答にヘッドライトの下、精悍な目が少し笑ってくれる。
英二の観天望気を信じた、そんな目に微笑んで歩きだす道は木の香が先刻より濃い。
嗅覚にも湿度の変化を計りながら登る耳元、虫の羽音が掠めて草いきれ蒸れあがる。
滲みだす汗にも大気の重さを感じながら速めていく足に、背後の足音も離れず遅れない。
―雨の前に、場所だけでも特定したいけど、
遭難者の居場所だけでも今夜中に確認したい。
この暗さでは疲労した初心者の下山は難しいだろう、それでも場所がわかれば声掛けが出来る。
近くに救助隊がいる、そう解るだけで精神的に救われて頑張れるはず。そんな想いにも念のため無線を繋いだ。
「宮田です、遭難者の方は雨を避けられる場所にいますか?あと5分ほどで降りだしそうです、」
夏でも雨から低体温症を惹き起すことがある。
おそらく遭難者は彷徨で心身とも消耗した、そこに雨うたれたら弱い。
その心配に問いかけた向こう、頼もしい声が応えてくれた。
「ビニールシートをかぶれって言ってあるよ。よく木が繁った場所らしいから平気だろう、お蔭で展望が効かんから位置確認できんがな、」
「よかった、ありがとうございます、」
やっぱり後藤は気を配ってくれてある。
いつもながらの信頼に笑った向こう、明るいトーンが言ってくれた。
「こっちこそだよ、俺も雨降りの心構えが出来たよ。後は霧かもしれん、足許に注意で無理するなよ?」
「はい、気を付けます、」
感謝しながら通話を終えて無線をしまい、ウエストからレインスーツの上着を解いて着こんだ。
その後ろで着終えた原は空を仰ぎ、ヘッドライト照らした梢から雫が横切った。
「雨だ、」
午後20時半、降りだす山の雨かわして緩やかな尾根に着いた。
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