And yet, it moves ― 端緒、伝言の扉
第63話 残証act.3―another,side story「陽はまた昇る」
陸橋に立ち、彼岸のキャンパスが緑に広がる。
ほんの3時間ほど前にも美代と歩いていた。
あのときは入試書類を受けとる期待と不安が隣で笑って明るんだ。
けれど今この橋を進む鼓動はいつもより速くて、それでも意識は澄みわたる。
“Je te donne la recherche” 探し物を君に贈る
大学図書館に納められる祖父の遺作小説には自著サインがあった。
そこに添えられたフランス語「recherche」の意味をずっと考えている。
まだ見つけていない答え、そのヒントが今から行く場所で見つかるかもしれない。
そんな想いに真直ぐ見つめて橋を渡る隣、明朗な瞳が笑いかけてくれた。
「仏語の部屋に行くのって俺、追試のとき以来だよ、」
「手塚が追試って意外だよね、ずっと首席なのに、」
英語はよく出来る手塚なのに、フランス語が苦手なのは意外だな?
そう笑いかけた隣はTシャツの肩を軽くぶつけると、明るく笑ってくれた。
「先月の飲み会で言ったろ?俺は仏語ボッコボコすぎて先生に顔、覚えられてるって。アレって追試の所為なんだよ、」
「あ…そっか、追試の常連ってこと?」
「何度も言うなって、黒歴史なんだからさ、」
笑いあって橋を渡り、向うのキャンパスに二人降り立った。
いつも図書館へ通う道を友達と歩く、その風景にも緊張が昇りそうになる。
やはり祖父の痕跡に直接ふれることに竦みそう、それでも隣の友達との会話に解かれる。
「湯原、9月の演習ってやっぱり参加できない?」
「ん、仕事があるんだ。感想とかまた教えてくれる?」
「おう、またレジュメとかのコピー渡すよ。あと院試の過去問、今度コピー貰うから湯原にも渡すな?」
「ん、ありがとう。いつもごめんね?…あ、帰りに本屋とか行く?対訳本の良いのって英訳の勉強になるから、」
「それ助かる、時間の余裕あったら一緒して?」
並んで話しながら歩く足元、並木の梢豊かに緑陰をゆらす。
午後の木洩陽きらめくキャンパスは陽射しが強くて、けれど風は幾らか涼しい。
きっと森の泉から風は吹く、その奥には大切にしている古いベンチが今日も鎮まっている。
あのベンチに自分の祖父母も憩っていたかもしれない?そんな想像とまだ見ぬ俤に周太は心笑んだ。
―お祖父さん、お祖母さん、今から研究室に行くんだよ?
東大の仏文科の教授をされていたわ、パリ大でも名誉教授よね、晉さん。
研究室は人気が高かったみたい、斗貴子さんは彼の研究室に入って恋に墜ちたのよ。
年の差が15歳あったけれど素敵な恋愛結婚だったわ、学問で結ばれた恋ね?
英二の祖母、顕子が語ってくれた祖父母の物語は綺麗だった。
まだ写真ですら会ったことの無い肉親、それでも確実に二人の命は自分に流れる。
そう想うごと今から行く場所が嬉しい、嬉しく微笑んで周太は友達と話しながら文学部3号館の入口を潜った。
「ここの3階なんだよ、」
指さしてくれる階段を昇り、鼓動が心を静かに叩く。
この階段は祖父たちも歩いた道、そう想うだけで何か温かい。
そして気がついたことに周太は念のため、友達へとお願いした。
「あのね、手塚?先生に俺の名字は言わないで貰って良いかな、」
言ってしまって首筋から熱が逆上せだす。
こんなお願いは普通に考えたら、よく解らず奇妙だろう?
―でも俺のお祖父さんのこと知ってる人だったら、何か気を遣わせそうだし…そういうの悪いよね?
今から尋ねる相手は祖父の後輩にあたる。
青木准教授が学生時代に所属した山岳部OBと言っていたから、祖父の教え子かそのまた教え子だろう。
そんな関係からすれば自分を無料アルバイトで手伝わすことは遠慮が起きやすい。
それは困るから黙っていてほしくて笑いかけた先、友達は気さくに肯った。
「いいよ?じゃあ、先生の前では名前で呼ぶからさ、俺のことも賢弥で良いよ、」
「ん、ありがとう、」
承諾にほっとして微笑んだ足元、3階フロアに辿り着く。
けれど手塚は何も理由を聴かないでいてくれる、その快活な優しさが温かい。
この友人に感謝しながら並んで革靴の踵を響かす廊下、一つの扉の前で足音を止めた。
『文学部人文社会系研究科 フランス語フランス文学研究室』
掲げらえた表札に、鼓動ひとつ想いを敲く。
その隣から日焼した手が軽やかにノックした。
「失礼します、」
「はあい、どうぞ?」
のんびりした返事に手塚は周太へ笑いかけ、慣れたふう扉を開いてくれる。
そこへ広がった書架の空間から微かに甘く重厚な香が微笑んだ。
―あ、うちの書斎と同じ香?
ほんの一瞬、けれど懐かしい香が心に届いた。
そして実感が響きだす、この場所は祖父の夢と信念が現実に生きていた。
―お祖父さん、ここに居たんだね?
ひとり呟く想いがめぐって、泣きたくなる。
けれど涙は深く溜めて微笑んだ隣、手塚が書架の向こうへと声かけてくれた。
「田嶋教授、手塚です。青木先生からの助っ人を連れてきましたよ、」
「おっ、来てくれたか?地獄で仏だよ、」
気さくな返事が聞えて、奥から腕まくりしたワイシャツ姿が顔を出した。
ネクタイ緩めた笑顔は髪もくしゃくしゃに無頓着で、浅黒い日焼貌に無精髭が馴染んでいる。
そんな風貌は熟練クライマーとしては相応しくて、けれど文学者と言うには意外で周太は驚いた。
―ワンゲルのOBって聴いてたけど、でもフランス文学の先生なんだよね?
同じよう文学と山を愛した父は逞しい体躯でも、穏やかに繊細な雰囲気があった。
顕子が話してくれた祖父も似たような感じで、けれど祖父の後輩であろう田嶋は全く違う。
なんだか予想外な姿に瞳ひとつ瞬いて、途惑いながらも微笑んでお辞儀した周太を教授は拝んだ。
「急にすまんなあ、ちょっと詩を翻訳してほしいんだ、英語と日本語で、」
もう話しながら周太の肩を抱きこんで、通路に積んだ本を避けながら窓際へ連れて行く。
明るい光ふる書斎机は書類と本が山積みされて、その立派な要塞化にまた目が大きくさせられる。
まるで本のバリケードみたい?そう見ている向こうで田嶋は一冊のハードカバーを発掘して周太に手渡した。
「この付箋貼ってあるとこだよ、1時間以内で仕上げてもらえるかな?うわっ、」
話す声に書斎机の上、バリケードが崩壊した。
ハードカバーもペーパーバックも文庫本も床に墜ち、アルファベットの紙が宙を舞う。
午後の光きらめく埃が雪のよう降ってゆく、その光景に呆気とられながら周太は咳込んだ。
―なんでこんな片付けがなって無いの?
咳込みながら心で呆れ声が起きてしまう。
きっと祖父はこんなふうには研究室を使っていない、それは父の几帳面さや家の空気に解かる。
それなのに後輩の男はこんなふう?あんまり予想外すぎて途惑い噎せる隣から、友達が笑い出した。
「田嶋先生、あいかわらずマジ酷いですね、ここは。大丈夫か、周太?」
可笑しそうに笑いながら手塚は辺りを払い、周太の背をさすってくれる。
咳込みながらもポケットを探り、いつもの飴を口に入れ落着くと周太は微笑んだ。
「ん、大丈夫。ありがとう、」
「ごめんな、こんなとこ連れてきちゃってさ。田嶋教授って片づけ方法が独特なんだ、」
呆れ顔で笑う手塚の言葉は容赦ない。
こんなふう言って大丈夫?すこし心配で見た山崩れの向こう、けれど仏文教授は大笑いで応えてくれた。
「あっはっは、本当にすまんなあ、二人とも。これでも秩序ある積み方なんだが、たまに雪崩が起きるんだよ?山と同じだな、」
悪びれない笑顔ほころばせながら田嶋は窓を開いてくれた。
緑薫る風ふきこんで息つける、ほっとした周太に教授はパソコンデスクを示してくれた。
「君はココで作業してくれ、ペンとか付箋や紙も好きに遣ってくれな。手塚、悪いが片づけ手伝ってくれるか?」
「仕方ないですね?ちょっと内線借りますよ、青木先生に遅くなるって言わないと、」
気さくに笑って手塚はサイドテーブルの電話をとった。
その様子を見ながら周太も落ちた本を拾い始めると、田嶋は笑って言ってくれた。
「君は片づけはイイよ、それより翻訳を頼むよ?どうしても1時間で仕上げてほしいんだ、明日の学習会で使うのに印刷があるんだよ、」
そんなに急な仕事だったんだ?
また無頓着な計画性に首傾げた前、なんでもない貌で田嶋は笑った。
「急がせてすまんなあ、でも本当は訳文を作ってあったんだよ?だけどデータ保存がドッカいってしまってな、頼むよ、」
素直に謝って手を合わせ拝んでくれる、そんな様子はなんだか憎めない。
くしゃくしゃ髪の貌は快活で若く見えて、けれど教授なら父と年齢は変らないだろうか?
そこには父のもう1つの人生と祖父が想われて、今この部屋で手伝えることが嬉しくて周太は綺麗に笑った。
「はい、解かりました。辞書もお借りして良いですか?」
「もちろん使ってくれ、手前の本棚の上から3段目に一通りあるから。データ保存はデスクトップに頼むよ、」
教えてくれる笑顔は楽しげで自由に明るい、その雰囲気は父とは全く違う。
それでも学問の夢に生きる誇りは同じはず、そんな共通点に微笑んで周太は辞書を選ぶと席に着いた。
そして渡された本の表題を見て、懐かしいタイトルと著者名に周太は微笑んだ。
Pierre de Ronsard『Les Amours』
幼い日、父が読み聞かせてくれた詩集と同じ本。
そう気がついて見直した装丁は、書斎にある本とよく似ている。
もしかして祖父が選んで研究室に置いたのだろうか?そんな思案に発行日と出版元のページを披いて見る。
その日付たちからも推測は当たりそうで、嬉しい気持ちごと記憶すると付箋が示すページを披いた。
Ciel,air et vents,plains et monts decouverts,
Tertres fourchus et forets verdoyantes,
Rivages tors et sources ondoyantes,
Taillis rases et vous,bocages verts,
Antres moussus a demi-front ouverts,
Pres,boutons,fleurs et herbes rousoyantes,
Coteaux vineux et plages blondoyantes,
Gatine,Loir,et vous mes tristes vers
Puisqu'au partir,ronge de soin et d'ire,
A ce bel œil adieu je n'ai su dire,
Qui pres et loin me detient en emoi,
Je vous suppli',ciel,air,vents,monts et plaines,
Taillis,forets,rivages et fontaines
Antres,pres,fleurs,dites-le-lui pour moi.
―この詩、雪の奥多摩に行った朝の、
幼い記憶が蘇えり、静かに心を温める。
まだ9歳だった早春の朝、初めて母が留守にする日に父が朗読してくれた。
初めに和訳を詠んで、それから原語で読み聞かせてくれる。それが父の外国詩を教えるお決まりだった。
あの日も同じようこの詩をよんでくれた、その後に車で雪道を走り奥多摩へ連れて行ってくれた。
あのとき初めてアイゼン履いて雪の森を歩き野うさぎの足跡を追い、そして山桜の下で光一と出会った。
―あの桜は雅樹さんの場所なんだね、だから光一、あのときも毎日ここに来るって言ったんでしょう?
懐かしい雪の日の記憶が今、前にする詩から煌めきだす。
そして語りだす父の声から詩は母国語に謳われて、よどみなく指はキーボードを敲いた。
空よ、大気と風よ、見遥かす平原と山嶺よ
連なりゆく丘、青い森よ、
弧をえがく川岸よ、湧きいずる泉よ
刈られた林よ、緑の草叢よ
苔に姿のぞかす岩の隠家よ
緑野よ、蕾よ花よ、露に濡れた草よ
葡萄の丘、 金色の麦畑、
ガチーヌの森よ ロワールの川よ そして哀しき私の詩よ
心残りのままに私は旅立ってゆく、
傍近くとも遠くとも 私の心とらえる美しい瞳に、
さよならは言えなかったから
空よ 大気よ 風よ 山よ、遥かな草原よ、
林よ、森よ、岸辺よ、沸きいずる泉よ
岩屋よ、牧場よ、花たちよ、あのひとへ私の想いを伝えてほしい
一息に日本語を打ちこんで、そのまま英訳を作ってゆく。
それから辞書で正誤チェックをするとデータ保存し、印刷をかけ周太は立ち上がった。
そこだけは本に埋もれていないプリンターから用紙を取り、目を通しながら窓の席に戻る。
読み直しながら誤字脱字を確認して、英文のスペルチェックも終えると立ちあがり微笑んだ。
「田嶋先生、お待たせいたしました。チェックお願い出来ますか?」
「もう出来たのかい?」
書斎机のバリケードから驚いたよう声上がって、本の山から癖毛頭が現われた。
また髪型がひどくなった?そんな様子に笑いそうになりながら周太は訳文を手渡した。
「はい、日本語と英語でよろしかったですか?」
「もう2ヶ国語でやってくれたんだ、速いなあ、」
頭を書きながら田嶋は受けとり、紙面へ視線を奔らせてくれる。
その明敏な眼差しは学者だと感じさせられて、賞賛と見つめる向かい教授は微笑んだ。
「どっちも綺麗な訳文だ、私のよりずっと巧いよ。しかも速いな、もしかして帰国子女なのかい?」
「いいえ、外国には一度しか行ったことないです、」
褒められて気恥ずかしくなりながら、一度だけの海外行きを想いだす。
大学4年の時に研究発表で一度だけ渡米した、それが留学のチャンスも自分にくれている。
けれど母にも無断で留学は断ってしまった、その秘密に傷みながらも微笑んだ肩を大きな手が優しく掴んだ。
「君、ウチの研究室においで?これだけ出来るんならウチの大学ぐらい受かるだろう、外大も良いけどココも良いぞ。東京の高校かな?」
また高校生に間違われている。
どうやら青木准教授も周太のプロフィールは話していないらしい。
この状況に途惑っていると、堆い本の山から快活な声が笑ってくれた。
「ダメですよ田嶋先生、ウチの研究室に決っていますから。それに周太は高校生じゃないですよ?」
「なんだ、ウチの学生だったのかい?でも初顔だなあ、フランス語選択してないのかい?こんなに出来るのに、」
日焼顔ほころばせ、教授は髪をくしゃくしゃに掻いている。
どうも田嶋の髪型はこの癖も原因らしい?そんな憎めない学者に周太は微笑んだ。
「僕、青木先生の聴講生なんです。社会人で仕事しています、」
「そうだったのか、」
髪をかき混ぜながら感心したよう周太を眺めてくれる。
なんだか気恥ずかしくて首筋に熱が昇って、また赤くなりそうで困っていると田嶋は訊いてくれた。
「そういえば青木がバイト代はダメだって言ってたな、もしかして公務員かな?」
「はい、」
素直に頷いた前、教授は納得したよう微笑んだ。
あらためて周太と向かいあってくれると笑って田嶋は訊いてくれた。
「そうか、講義を手伝ってくれる語学が得意な聴講生って君のことか。だから青木はタイミングが良いって、さっきも言ったんだ?」
「はい、僕のことだと思います、」
笑って答えながら、教員たち二人の大らかさに楽しくなる。
どうやら二人は名前も飛ばして「語学が得意な聴講生」しか情報を通わせていない。
それでも互いに良しとしているのは信頼感があるのだろう、その絆が温かで微笑んだ前で田嶋は提案してくれた。
「ここにある中で好きな本を選んでくれないかな?こんなに出来るのにタダは申し訳ないからな、1冊なんでも進呈するよ、」
この研究室の本には、たぶん祖父が選んだものが多くある。
それを1冊貰えるのなら嬉しい、けれど甘えて良いのか解らなくて周太は訊いてみた。
「あの、すごく嬉しいんですけど申し訳ないです。それに研究室の本は大学の備品ではありませんか?」
「その心配なら無用だよ、私物の本から選んで貰えばいいからな。こっちの本棚がそうだよ、」
気さくに笑って田嶋は周太を手招いてくれる。
それでも申し訳なくて途惑っていると、書類をファイルしながら手塚が笑った。
「遠慮しても無駄だよ?黙ってると田嶋先生、どんどん勝手に選んで押しつけてくるからさ。好きなの選びな?」
「そうだよ、私は言いだしたら聴かないからね、おいで?」
田嶋も笑って促してくれる。
その気さくな雰囲気に周太は書架へと歩み寄った。
そして見た先の背表紙に、鼓動が大きく意識を打ちこんだ。
『La chronique de la maison』Susumu Yuhara
大学から記念出版された祖父の著作が、目の前にある。
これは元から発行部数も少なくて、現存は個人所有か図書館の貴重書扱いで入手は難しい。
自分でも大学図書館で寄贈本を一度閲覧したけれど、本当は何度も読んでみたいと思っていた。
けれど貴重書は土曜閉架の書庫に納められ聴講ついでに読めない、でも、この研究室にも置いてある。
「あの、田嶋先生。この本、お借りしても良いですか?」
出てしまった言葉に自分で驚いてしまう。
けれど祖父の本をきちんと読んでみたい、その願いに言葉を続けた。
「この本は貴重書だって知っています、だから他の本も頂かなくて良いです。一度だけでも貸して頂けませんか?」
祖父が書いた唯一の小説を、もう一度読んでみたい。
学者だった祖父は研究書なら数多く著している、けれど小説はこの一作品しかない。
きっと研究書よりも小説の方が祖父の肉声に近づける、そんな願い見つめた先で教授は笑ってくれた。
「この本のことかな、あげるよ?」
さらりと笑って大きな手は書架の一冊を出し、そのまま周太に手渡した。
【引用詩文:Pierre de Ronsard『Les Amours』Ciel, air, et vents, plains et monts découverts】
(to be continued)
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第63話 残証act.3―another,side story「陽はまた昇る」
陸橋に立ち、彼岸のキャンパスが緑に広がる。
ほんの3時間ほど前にも美代と歩いていた。
あのときは入試書類を受けとる期待と不安が隣で笑って明るんだ。
けれど今この橋を進む鼓動はいつもより速くて、それでも意識は澄みわたる。
“Je te donne la recherche” 探し物を君に贈る
大学図書館に納められる祖父の遺作小説には自著サインがあった。
そこに添えられたフランス語「recherche」の意味をずっと考えている。
まだ見つけていない答え、そのヒントが今から行く場所で見つかるかもしれない。
そんな想いに真直ぐ見つめて橋を渡る隣、明朗な瞳が笑いかけてくれた。
「仏語の部屋に行くのって俺、追試のとき以来だよ、」
「手塚が追試って意外だよね、ずっと首席なのに、」
英語はよく出来る手塚なのに、フランス語が苦手なのは意外だな?
そう笑いかけた隣はTシャツの肩を軽くぶつけると、明るく笑ってくれた。
「先月の飲み会で言ったろ?俺は仏語ボッコボコすぎて先生に顔、覚えられてるって。アレって追試の所為なんだよ、」
「あ…そっか、追試の常連ってこと?」
「何度も言うなって、黒歴史なんだからさ、」
笑いあって橋を渡り、向うのキャンパスに二人降り立った。
いつも図書館へ通う道を友達と歩く、その風景にも緊張が昇りそうになる。
やはり祖父の痕跡に直接ふれることに竦みそう、それでも隣の友達との会話に解かれる。
「湯原、9月の演習ってやっぱり参加できない?」
「ん、仕事があるんだ。感想とかまた教えてくれる?」
「おう、またレジュメとかのコピー渡すよ。あと院試の過去問、今度コピー貰うから湯原にも渡すな?」
「ん、ありがとう。いつもごめんね?…あ、帰りに本屋とか行く?対訳本の良いのって英訳の勉強になるから、」
「それ助かる、時間の余裕あったら一緒して?」
並んで話しながら歩く足元、並木の梢豊かに緑陰をゆらす。
午後の木洩陽きらめくキャンパスは陽射しが強くて、けれど風は幾らか涼しい。
きっと森の泉から風は吹く、その奥には大切にしている古いベンチが今日も鎮まっている。
あのベンチに自分の祖父母も憩っていたかもしれない?そんな想像とまだ見ぬ俤に周太は心笑んだ。
―お祖父さん、お祖母さん、今から研究室に行くんだよ?
東大の仏文科の教授をされていたわ、パリ大でも名誉教授よね、晉さん。
研究室は人気が高かったみたい、斗貴子さんは彼の研究室に入って恋に墜ちたのよ。
年の差が15歳あったけれど素敵な恋愛結婚だったわ、学問で結ばれた恋ね?
英二の祖母、顕子が語ってくれた祖父母の物語は綺麗だった。
まだ写真ですら会ったことの無い肉親、それでも確実に二人の命は自分に流れる。
そう想うごと今から行く場所が嬉しい、嬉しく微笑んで周太は友達と話しながら文学部3号館の入口を潜った。
「ここの3階なんだよ、」
指さしてくれる階段を昇り、鼓動が心を静かに叩く。
この階段は祖父たちも歩いた道、そう想うだけで何か温かい。
そして気がついたことに周太は念のため、友達へとお願いした。
「あのね、手塚?先生に俺の名字は言わないで貰って良いかな、」
言ってしまって首筋から熱が逆上せだす。
こんなお願いは普通に考えたら、よく解らず奇妙だろう?
―でも俺のお祖父さんのこと知ってる人だったら、何か気を遣わせそうだし…そういうの悪いよね?
今から尋ねる相手は祖父の後輩にあたる。
青木准教授が学生時代に所属した山岳部OBと言っていたから、祖父の教え子かそのまた教え子だろう。
そんな関係からすれば自分を無料アルバイトで手伝わすことは遠慮が起きやすい。
それは困るから黙っていてほしくて笑いかけた先、友達は気さくに肯った。
「いいよ?じゃあ、先生の前では名前で呼ぶからさ、俺のことも賢弥で良いよ、」
「ん、ありがとう、」
承諾にほっとして微笑んだ足元、3階フロアに辿り着く。
けれど手塚は何も理由を聴かないでいてくれる、その快活な優しさが温かい。
この友人に感謝しながら並んで革靴の踵を響かす廊下、一つの扉の前で足音を止めた。
『文学部人文社会系研究科 フランス語フランス文学研究室』
掲げらえた表札に、鼓動ひとつ想いを敲く。
その隣から日焼した手が軽やかにノックした。
「失礼します、」
「はあい、どうぞ?」
のんびりした返事に手塚は周太へ笑いかけ、慣れたふう扉を開いてくれる。
そこへ広がった書架の空間から微かに甘く重厚な香が微笑んだ。
―あ、うちの書斎と同じ香?
ほんの一瞬、けれど懐かしい香が心に届いた。
そして実感が響きだす、この場所は祖父の夢と信念が現実に生きていた。
―お祖父さん、ここに居たんだね?
ひとり呟く想いがめぐって、泣きたくなる。
けれど涙は深く溜めて微笑んだ隣、手塚が書架の向こうへと声かけてくれた。
「田嶋教授、手塚です。青木先生からの助っ人を連れてきましたよ、」
「おっ、来てくれたか?地獄で仏だよ、」
気さくな返事が聞えて、奥から腕まくりしたワイシャツ姿が顔を出した。
ネクタイ緩めた笑顔は髪もくしゃくしゃに無頓着で、浅黒い日焼貌に無精髭が馴染んでいる。
そんな風貌は熟練クライマーとしては相応しくて、けれど文学者と言うには意外で周太は驚いた。
―ワンゲルのOBって聴いてたけど、でもフランス文学の先生なんだよね?
同じよう文学と山を愛した父は逞しい体躯でも、穏やかに繊細な雰囲気があった。
顕子が話してくれた祖父も似たような感じで、けれど祖父の後輩であろう田嶋は全く違う。
なんだか予想外な姿に瞳ひとつ瞬いて、途惑いながらも微笑んでお辞儀した周太を教授は拝んだ。
「急にすまんなあ、ちょっと詩を翻訳してほしいんだ、英語と日本語で、」
もう話しながら周太の肩を抱きこんで、通路に積んだ本を避けながら窓際へ連れて行く。
明るい光ふる書斎机は書類と本が山積みされて、その立派な要塞化にまた目が大きくさせられる。
まるで本のバリケードみたい?そう見ている向こうで田嶋は一冊のハードカバーを発掘して周太に手渡した。
「この付箋貼ってあるとこだよ、1時間以内で仕上げてもらえるかな?うわっ、」
話す声に書斎机の上、バリケードが崩壊した。
ハードカバーもペーパーバックも文庫本も床に墜ち、アルファベットの紙が宙を舞う。
午後の光きらめく埃が雪のよう降ってゆく、その光景に呆気とられながら周太は咳込んだ。
―なんでこんな片付けがなって無いの?
咳込みながら心で呆れ声が起きてしまう。
きっと祖父はこんなふうには研究室を使っていない、それは父の几帳面さや家の空気に解かる。
それなのに後輩の男はこんなふう?あんまり予想外すぎて途惑い噎せる隣から、友達が笑い出した。
「田嶋先生、あいかわらずマジ酷いですね、ここは。大丈夫か、周太?」
可笑しそうに笑いながら手塚は辺りを払い、周太の背をさすってくれる。
咳込みながらもポケットを探り、いつもの飴を口に入れ落着くと周太は微笑んだ。
「ん、大丈夫。ありがとう、」
「ごめんな、こんなとこ連れてきちゃってさ。田嶋教授って片づけ方法が独特なんだ、」
呆れ顔で笑う手塚の言葉は容赦ない。
こんなふう言って大丈夫?すこし心配で見た山崩れの向こう、けれど仏文教授は大笑いで応えてくれた。
「あっはっは、本当にすまんなあ、二人とも。これでも秩序ある積み方なんだが、たまに雪崩が起きるんだよ?山と同じだな、」
悪びれない笑顔ほころばせながら田嶋は窓を開いてくれた。
緑薫る風ふきこんで息つける、ほっとした周太に教授はパソコンデスクを示してくれた。
「君はココで作業してくれ、ペンとか付箋や紙も好きに遣ってくれな。手塚、悪いが片づけ手伝ってくれるか?」
「仕方ないですね?ちょっと内線借りますよ、青木先生に遅くなるって言わないと、」
気さくに笑って手塚はサイドテーブルの電話をとった。
その様子を見ながら周太も落ちた本を拾い始めると、田嶋は笑って言ってくれた。
「君は片づけはイイよ、それより翻訳を頼むよ?どうしても1時間で仕上げてほしいんだ、明日の学習会で使うのに印刷があるんだよ、」
そんなに急な仕事だったんだ?
また無頓着な計画性に首傾げた前、なんでもない貌で田嶋は笑った。
「急がせてすまんなあ、でも本当は訳文を作ってあったんだよ?だけどデータ保存がドッカいってしまってな、頼むよ、」
素直に謝って手を合わせ拝んでくれる、そんな様子はなんだか憎めない。
くしゃくしゃ髪の貌は快活で若く見えて、けれど教授なら父と年齢は変らないだろうか?
そこには父のもう1つの人生と祖父が想われて、今この部屋で手伝えることが嬉しくて周太は綺麗に笑った。
「はい、解かりました。辞書もお借りして良いですか?」
「もちろん使ってくれ、手前の本棚の上から3段目に一通りあるから。データ保存はデスクトップに頼むよ、」
教えてくれる笑顔は楽しげで自由に明るい、その雰囲気は父とは全く違う。
それでも学問の夢に生きる誇りは同じはず、そんな共通点に微笑んで周太は辞書を選ぶと席に着いた。
そして渡された本の表題を見て、懐かしいタイトルと著者名に周太は微笑んだ。
Pierre de Ronsard『Les Amours』
幼い日、父が読み聞かせてくれた詩集と同じ本。
そう気がついて見直した装丁は、書斎にある本とよく似ている。
もしかして祖父が選んで研究室に置いたのだろうか?そんな思案に発行日と出版元のページを披いて見る。
その日付たちからも推測は当たりそうで、嬉しい気持ちごと記憶すると付箋が示すページを披いた。
Ciel,air et vents,plains et monts decouverts,
Tertres fourchus et forets verdoyantes,
Rivages tors et sources ondoyantes,
Taillis rases et vous,bocages verts,
Antres moussus a demi-front ouverts,
Pres,boutons,fleurs et herbes rousoyantes,
Coteaux vineux et plages blondoyantes,
Gatine,Loir,et vous mes tristes vers
Puisqu'au partir,ronge de soin et d'ire,
A ce bel œil adieu je n'ai su dire,
Qui pres et loin me detient en emoi,
Je vous suppli',ciel,air,vents,monts et plaines,
Taillis,forets,rivages et fontaines
Antres,pres,fleurs,dites-le-lui pour moi.
―この詩、雪の奥多摩に行った朝の、
幼い記憶が蘇えり、静かに心を温める。
まだ9歳だった早春の朝、初めて母が留守にする日に父が朗読してくれた。
初めに和訳を詠んで、それから原語で読み聞かせてくれる。それが父の外国詩を教えるお決まりだった。
あの日も同じようこの詩をよんでくれた、その後に車で雪道を走り奥多摩へ連れて行ってくれた。
あのとき初めてアイゼン履いて雪の森を歩き野うさぎの足跡を追い、そして山桜の下で光一と出会った。
―あの桜は雅樹さんの場所なんだね、だから光一、あのときも毎日ここに来るって言ったんでしょう?
懐かしい雪の日の記憶が今、前にする詩から煌めきだす。
そして語りだす父の声から詩は母国語に謳われて、よどみなく指はキーボードを敲いた。
空よ、大気と風よ、見遥かす平原と山嶺よ
連なりゆく丘、青い森よ、
弧をえがく川岸よ、湧きいずる泉よ
刈られた林よ、緑の草叢よ
苔に姿のぞかす岩の隠家よ
緑野よ、蕾よ花よ、露に濡れた草よ
葡萄の丘、 金色の麦畑、
ガチーヌの森よ ロワールの川よ そして哀しき私の詩よ
心残りのままに私は旅立ってゆく、
傍近くとも遠くとも 私の心とらえる美しい瞳に、
さよならは言えなかったから
空よ 大気よ 風よ 山よ、遥かな草原よ、
林よ、森よ、岸辺よ、沸きいずる泉よ
岩屋よ、牧場よ、花たちよ、あのひとへ私の想いを伝えてほしい
一息に日本語を打ちこんで、そのまま英訳を作ってゆく。
それから辞書で正誤チェックをするとデータ保存し、印刷をかけ周太は立ち上がった。
そこだけは本に埋もれていないプリンターから用紙を取り、目を通しながら窓の席に戻る。
読み直しながら誤字脱字を確認して、英文のスペルチェックも終えると立ちあがり微笑んだ。
「田嶋先生、お待たせいたしました。チェックお願い出来ますか?」
「もう出来たのかい?」
書斎机のバリケードから驚いたよう声上がって、本の山から癖毛頭が現われた。
また髪型がひどくなった?そんな様子に笑いそうになりながら周太は訳文を手渡した。
「はい、日本語と英語でよろしかったですか?」
「もう2ヶ国語でやってくれたんだ、速いなあ、」
頭を書きながら田嶋は受けとり、紙面へ視線を奔らせてくれる。
その明敏な眼差しは学者だと感じさせられて、賞賛と見つめる向かい教授は微笑んだ。
「どっちも綺麗な訳文だ、私のよりずっと巧いよ。しかも速いな、もしかして帰国子女なのかい?」
「いいえ、外国には一度しか行ったことないです、」
褒められて気恥ずかしくなりながら、一度だけの海外行きを想いだす。
大学4年の時に研究発表で一度だけ渡米した、それが留学のチャンスも自分にくれている。
けれど母にも無断で留学は断ってしまった、その秘密に傷みながらも微笑んだ肩を大きな手が優しく掴んだ。
「君、ウチの研究室においで?これだけ出来るんならウチの大学ぐらい受かるだろう、外大も良いけどココも良いぞ。東京の高校かな?」
また高校生に間違われている。
どうやら青木准教授も周太のプロフィールは話していないらしい。
この状況に途惑っていると、堆い本の山から快活な声が笑ってくれた。
「ダメですよ田嶋先生、ウチの研究室に決っていますから。それに周太は高校生じゃないですよ?」
「なんだ、ウチの学生だったのかい?でも初顔だなあ、フランス語選択してないのかい?こんなに出来るのに、」
日焼顔ほころばせ、教授は髪をくしゃくしゃに掻いている。
どうも田嶋の髪型はこの癖も原因らしい?そんな憎めない学者に周太は微笑んだ。
「僕、青木先生の聴講生なんです。社会人で仕事しています、」
「そうだったのか、」
髪をかき混ぜながら感心したよう周太を眺めてくれる。
なんだか気恥ずかしくて首筋に熱が昇って、また赤くなりそうで困っていると田嶋は訊いてくれた。
「そういえば青木がバイト代はダメだって言ってたな、もしかして公務員かな?」
「はい、」
素直に頷いた前、教授は納得したよう微笑んだ。
あらためて周太と向かいあってくれると笑って田嶋は訊いてくれた。
「そうか、講義を手伝ってくれる語学が得意な聴講生って君のことか。だから青木はタイミングが良いって、さっきも言ったんだ?」
「はい、僕のことだと思います、」
笑って答えながら、教員たち二人の大らかさに楽しくなる。
どうやら二人は名前も飛ばして「語学が得意な聴講生」しか情報を通わせていない。
それでも互いに良しとしているのは信頼感があるのだろう、その絆が温かで微笑んだ前で田嶋は提案してくれた。
「ここにある中で好きな本を選んでくれないかな?こんなに出来るのにタダは申し訳ないからな、1冊なんでも進呈するよ、」
この研究室の本には、たぶん祖父が選んだものが多くある。
それを1冊貰えるのなら嬉しい、けれど甘えて良いのか解らなくて周太は訊いてみた。
「あの、すごく嬉しいんですけど申し訳ないです。それに研究室の本は大学の備品ではありませんか?」
「その心配なら無用だよ、私物の本から選んで貰えばいいからな。こっちの本棚がそうだよ、」
気さくに笑って田嶋は周太を手招いてくれる。
それでも申し訳なくて途惑っていると、書類をファイルしながら手塚が笑った。
「遠慮しても無駄だよ?黙ってると田嶋先生、どんどん勝手に選んで押しつけてくるからさ。好きなの選びな?」
「そうだよ、私は言いだしたら聴かないからね、おいで?」
田嶋も笑って促してくれる。
その気さくな雰囲気に周太は書架へと歩み寄った。
そして見た先の背表紙に、鼓動が大きく意識を打ちこんだ。
『La chronique de la maison』Susumu Yuhara
大学から記念出版された祖父の著作が、目の前にある。
これは元から発行部数も少なくて、現存は個人所有か図書館の貴重書扱いで入手は難しい。
自分でも大学図書館で寄贈本を一度閲覧したけれど、本当は何度も読んでみたいと思っていた。
けれど貴重書は土曜閉架の書庫に納められ聴講ついでに読めない、でも、この研究室にも置いてある。
「あの、田嶋先生。この本、お借りしても良いですか?」
出てしまった言葉に自分で驚いてしまう。
けれど祖父の本をきちんと読んでみたい、その願いに言葉を続けた。
「この本は貴重書だって知っています、だから他の本も頂かなくて良いです。一度だけでも貸して頂けませんか?」
祖父が書いた唯一の小説を、もう一度読んでみたい。
学者だった祖父は研究書なら数多く著している、けれど小説はこの一作品しかない。
きっと研究書よりも小説の方が祖父の肉声に近づける、そんな願い見つめた先で教授は笑ってくれた。
「この本のことかな、あげるよ?」
さらりと笑って大きな手は書架の一冊を出し、そのまま周太に手渡した。
【引用詩文:Pierre de Ronsard『Les Amours』Ciel, air, et vents, plains et monts découverts】
(to be continued)
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