萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

春浅夜秋、めぐらす物語

2013-03-05 22:03:37 | お知らせ他
夜の秋、晩夏に冬を想い



こんばんわ、陽光が春めいてきた神奈川です、

いま第62話「夜秋1」加筆校正が終わりました。
第61話から約一週間の金曜日、青梅署診察室からスタートです。
このあと短編UPを予定しています。

写真は凍結した秩父湖です。
夕刻の薄暮に蒼い湖面は雪に覆われて、山蔭の黒と空の青に呼応します。
自然の色彩感覚ってすごいな、といつもながら思ってしまう。

取り急ぎ、
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第62話 夜秋act.1―side story「陽はまた昇る」

2013-03-05 20:41:04 | 陽はまた昇るside story
生命、その辿るべき物語に 



第62話 夜秋act.1―side story「陽はまた昇る」

The Clouds that gather round the setting sun
Do take a sober colouring from an eye That hath kept watch o’er man’s mortality;
Another race hath been,and other palms are won.
Thanks to the human heart by which we live. Thanks to its tenderness,its joys,and fears,
To me the meanest flower that blows can give Thoughts that do often lie too deep for tears.

沈みゆく陽をかこむ雲達に、
謹厳な色彩を読みとる瞳は、人の死すべき運命を見つめた瞳
時の歩みを経、もうひとつの掌に勝ちとれた
生きるにおける人の想いへの感謝 やさしき温もり、歓び、そして恐怖への感謝
慎ましやかに綻ぶ花すらも、私には涙より深く心響かせる


青梅署警察医の診察室、窓の黄昏に一節の詩が浮ぶ。
山ヤの警察官になってから幾度、この部屋で検案所で山で口遊んだろう?
去年の10月から10ヶ月間を見つめ続けた山の現場、そこで何人もの心と尊厳に出会った。
そのときに何時も自分を学ばせてくれた人への感謝は、今も手元の一杯に少しでも返したい。
そんな願いに湯を注いでいく芳香は、ゆるやかに白衣の腕から白い天井をめぐり昇ってゆく。

「佳い香ですね、昼のと違うかな?」

穏やかな声に振り向くと、菓子箱を持った白衣姿が微笑んでくれる。
秋からこの夏まで季節一巡に見てきた笑顔が嬉しい、この恩師へと英二は綺麗に笑った。

「はい、新しいのを開けました。前のは昼の分で最後だったんです、」
「そうでしたか、前のも佳い香でしたけどこれも良いですね。どこで買ってきたんですか?」

話しながらいつもの小皿に菓子を出す、こんな吉村医師の笑顔は自分の日常になっている。
けれど2週間後には今を懐かしむ、そんな想い微笑みながら英二は答えた。

「青山の店です。墓参りの時に湯原の母と食事したんですけど、そこで見つけて。先生のお好みに合うと良いんですけど、」
「きっと好みです、香が好きですから。さっきの資料はチェック、どのくらいですか?」
「5分の4まで終わっています、あと30分あれば出来る予定です、」

なにげない会話と淹れるコーヒーから、一週間ほど前の時間が香ってくる。
あの日の美幸はいつに増して笑顔が透けるよう綺麗で、また不安が起きてしまう。

―もう盆は終わったんだ、でもお母さんは元気だ、大丈夫。周太も無事なんだ、

心に言い聞かせながらカップ二つをサイドテーブルに置き、いつもの椅子に腰下す。
こんなふう美幸を心配したくなるのは、後藤のカルテと咳が気になる所為かもしれない?
どちらも漠然の不安たちに、つい白衣の腕を組んだ英二に穏やかな微笑が訊いてくれた。

「なにか心配事のある顔ですね、どうしました?」
「あ、すみません、」

仮にも上司の前で腕組んでしまった、その失礼に英二は腕を解いた。
普段どおりに膝で軽く手を組んで座りなおす、そんな様子に吉村医師は笑ってくれた。

「そんな畏まらなくて良いですよ?ここは警察署で職場でもありますが、寛いでもらうスペースだとも私は思っています。
寛げなかったら心と体を癒す目的は果せませんからね?それが私の医者としての仕事でもあるし、一人の人間として願うことです、」

穏やかな笑顔の言葉は、どこまでも篤実が温かい。
あらためて尊敬と信頼に素直なまま、英二は微笑んだ。

「ありがとうございます、いつもお気遣いさせてすみません、」
「それも私が好きでしてる事ですよ?おせっかい序でです、嫌じゃなかったら宮田くんの心配事を聴かせてください、」

マグカップに口付けながら訊いてくれる、その穏やかな眼差しにほっとする。
この一週間も忙しくて吉村医師とゆっくり話せなかった、その間に考えたことへ英二は口を開いた。

「墓参りの時、湯原の母がいつもより綺麗に笑うよう見えたんです、それが不安になります。母は最近、休みも取っていないようで、
見た目は相変わらず若くて元気ですし、食事もしっかり摂ってくれます。でも疲れが溜まっているかもしれないって、気になっていて。
あの日は盆の前で湯原の父たちを迎えに行きました、そういうことも意識にあるから余計に母のことも気に懸るのかもしれませんが、」

周太の父、馨は妻の美幸を今も愛している。
もう亡くなって14年を過ぎる、それでも家の書斎に馨の残り香は温かい。
そして美幸も変わらず書斎机に花を生ける、そんな夫婦の深い想いは惹きあうようで、不安になる。

―お母さんは本当は追いかけたかったんだ、馨さんが亡くなった時。でも周太の為に馨さんの為に生きてる、

周太は馨の宝物、それが馨の日記帳から解る。
その想いは美幸も同じ、そして夫への想いがあるから尚更に大切にしたい。
そうした二人の想いを2カ月前、英二の懺悔を聴いた美幸は話してくれた。

―…どうか生きて幸せになって下さい、絶対に生きて子供を生んで、幸せに育ててほしい… 
  あのとき約束をくれたから、だから私はあのひとが亡くなっても生きて周太を育ててきたの

周太を身籠り馨と結婚した頃、美幸は心中を選ぼうとした。
ようやく得た幸福も恋愛も離したくない、馨の悩みを救いたい、そう願い彼女は睡眠薬を買った。
それでも馨が願ったことは「子供の誕生と幸せな笑顔」だった、だから彼女は今も生きて笑っている。
そんな美幸の生き方は美しい、けれど息子の無事と幸せを確信してしまったら美幸はどうするだろう?
そう考えてしまった一週間の想いに、そっとマグカップを両手にくるみながら吉村は言ってくれた。

「そんなふうに心配なのはね、家族として想えてる証拠かもしれません。私も盆が来るたび、よく御岳の両親を同じように心配しました、」

盆が来るたびに、吉村の両親を心配する。
その言葉に一週間前、雅樹の墓前で聴いた言葉が想われて英二は尋ねた。

「雅樹さんが亡くなられてから、ですか?」
「そうです。私の両親はね、雅樹をとても愛していましたから、」

寂しげでも温かい笑顔の言葉は、懐かしさと愛惜に充ちている。
この言葉だけで雅樹が吉村家にはどういう存在なのか解ってしまう、そして憧憬がまた篤くなる。
本当に雅樹のよう自分も生きてみたい、その想い素直なまま英二は微笑んだ。

「俺も雅樹さんみたいに家族を大切にしたいです、俺には高望みかもしれませんけど、」
「君なら出来るよ、大丈夫、」

明るんだ笑顔で頷いてくれる、その温もりが嬉しい。
ひとくちコーヒーを啜りこんで息つくと、吉村医師は真直ぐ英二の瞳を見つめ言ってくれた。

「でもね、これだけは雅樹の真似をしないで下さい。宮田くん、君は遭難死などしたら駄目だ。ちゃんと齢を重ねて長く人生を全うしなさい、」

万感の想い、その全てが言葉に温かい。
温かくて、心を真直ぐ響かせ瞳に熱を起こしてしまう。
こういう言葉を贈ってくれる人が実の親だったら、そんな願いごと英二は綺麗に笑った。

「はい、俺は遭難死は絶対にしません。だって先生、色んな人と俺は約束してるんです。ちゃんと爺さんになるまで生きます、」

最初に約束した相手は、美幸だった。
周太の天寿を全うさせて欲しい、周太より一秒でも長く生きて見守ってほしい。
そう彼女は約束を願ってくれた、同じよう周太本人にも自分から約束している。
そして光一とも生涯のアンザイレンパートナーとして、共に生きる約束をした。

―光一のこと、雅樹さんの代わり全ては出来ないってもう解ってる。それでも約束なんだ、

アイガーの夜は一瞬のアルペングリューエンと同じだった、そう納得している。
もう恋愛に抱きあうことは無い、それでも、いちばん大切にしたい約束は永遠に変らない。
この全てを吉村医師には何も語れない、けれど想いの真実は伝えたくて声に変えた。

「こんなこと言ったら烏滸がましいですけれど、先生、俺ね?雅樹さんの一部分が俺の中でも生きてくれてるって、信じてるんです。
俺は本当は根暗です、でも北鎌尾根から帰ってきてから心の一ヶ所が明るいんです。そして光一のこと、よく考えるようになりました。
北壁でもハーケンやカラビナを冷たく感じませんでした。毎日の訓練でも感じる時があります、だから俺は、遭難死はきっとしません、」

Do take a sober colouring from an eye 
That hath kept watch o’er man’s mortality;
Another race hath been,and other palms are won.
Thanks to the human heart by which we live.

この詩にこもる意義は、雅樹の死と生を透し深まっていく。
こんなふうに生きることを、人の心を想うことを自分は忘れたくない。
もし忘れたら最も忌嫌する存在と自分は同じになってしまう、だからこそ「雅樹」を想いたい。
これは自分の意志で夢で覚悟だ、そう想うまま笑いかけた真中で吉村医師は幸せに笑ってくれた。

「君にそう言ってもらうと本当に嬉しいです、なんだか雅樹の弟みたいに想えて、つい頼りたくなりますよ?今日も手伝って頂いて、」
「そういうの照れますね?でも嬉しいです、俺が出来ることなら言って頼ってください、」

こういうのは素直に嬉しくて、そして「弟」という言葉に懐かしい記憶が瞳を披く。
もう17年前になる冬の日、あのとき触れあった人は兄のようで思い出すたび慕わしい。

―…努力することも人を援けることも出来る強い優しい男は、かっこいいよ?そういうの僕は憧れるんだ
  努力はね、自分は出来るんだって信じられる強い気持ちが必要だろ?そうやって逃げないで頑張れる人って立派だって思う

そんな言葉と綺麗な笑顔を贈ってくれた、あのとき貰った絆創膏ケースは今も胸ポケットにある。
もう顔も朧にしか思い出せないけれど感謝は変らない、あの優しい人は今頃どうしているだろう?
そんな想いとコーヒーを啜りこんで、マグカップをテーブルに置くと吉村医師が笑いかけてくれた。

「後藤さんとの富士登山は、日にちが決ったんですか?」
「はい、28の夜に発って29早朝からの予定です。閉山後の方が良いだろうからって、この日になりました、」

夏の富士は混雑する、けれど閉山後ならば一般ハイカーは登らない。
その方が自分たちにとって訓練にもしやすいだろう、そう後藤と考えて日取りを決めてある。
まだ見たことのない夏富士を想いめぐらせて、その前で吉村もカップをテーブルに置き静かに言った。

「宮田くん、話しておきたいことがあります。後藤さんのことです、」

これだけで話の内容が解ってしまう。
美幸のこと同様に気懸りな現実に、英二は覚悟と微笑んだ。

「Verbot der Zigarette、のことですか?」
「やっぱり気づかれていたんですね、」

ロマンスグレーは切長い目を笑ませて、すこし安堵したよう微笑んでくれる。
きっと英二に切りだすことを少し悩んでくれていた、その配慮に笑いかけた向こう医師は口を開いた。

「肺気腫が疑われます。後藤さんは長く喫煙者で50代です、発症例として珍しくはありません、」

肺気腫は肺胞の組織を破壊されて起きる肺機能の低下で、主に煙草や大気中に含まれる汚染物質が原因となる。
また肺に強い負担を掛ける管楽器奏者にも見られることから一種の職業病とも言われ、山ヤにとってもダメージが大きい。
この病名にカルテの単語から覚悟した現実が傷む、小さな溜息を呑みこんで既存の知識から英二は尋ねた。

「確かに最近、副隊長はトレーニングの後に咳こむことが多いです。肺気腫は呼吸の吐き出しが上手くいかなくなる、その発症でしょうか?」
「そうだと思います。空気を吸う方は出来ると思いますが、息継ぎや深呼吸が増えていませんか?」
「はい、越沢でも登りきった後は休憩時間が長くなったと思います、」
「そうでしょうね、酸素の吸収量は低下しているはずですから、」

答えてくれるトーンは落着いている、けれど哀惜が優しい。
山岳救助隊副隊長の後藤と吉村医師は同じ青梅署の同僚であり、それ以前からの旧友でもある。
なにより山ヤ仲間として優れたクライマーを惜しむ、その気持ちを噛みしめるよう医師は述べ始めた。

「肺気腫は肺胞の破壊で肺組織の柔軟性が失われます、そのために吐き出すことが難しくて肺は呼気に膨らんだ状態から戻れません。
そうなると胸部が迫出して横隔膜や心臓を圧迫して、悪化すると体つきも樽状に変化します。でも後藤さんの体型は殆ど変化していません。
まだ痰も出ていないようです、気管支炎の併発も現段階では見られません。この段階で維持が出来るならレスキューは続けられると思います、」

まだ今なら間に合う、けれどそれは「山岳レスキューは」と限定している。
この言葉が示す現実は吉村医師の表情でも解かってしまう、その理解に英二は尋ねた。

「肺気腫の治療は現状維持と症状の改善で、元通りの回復は出来ませんよね、壊れた肺胞組織の再生方法は未だありませんから。
もう酸素吸収量も以前通りには戻らない、当然VO2maxも低下します。もう高難度のクライミングは、後藤さんは出来ないのでしょうか?」

日本最高の山ヤの警察官、国内ファイナリストクライマー、アルパインクライミングの猛者。
どれも後藤への賞賛を示す言葉たち、けれど侵された病魔に全ては覆されていく。
そうカルテの単語から覚悟していた、それでも医師に確認する瞬間は、辛い。

―でも受けとめろ、泣くな、

自分に言い聞かせて1つの呼吸に覚悟を肚落す。
いま吉村医師が話してくれるのは、後藤を支える信頼が自分にあると認めるからだろう。
そう解るから今は泣きたくない、泣くなら独りの時にすればいい。この想い微笑んだ正面から、吉村医師は告げた。

「はい、おそらく冬富士も登れないでしょう。夏の滝谷が限界だと思って下さい、」
「わかりました、」

微笑んで言葉を受けとめ、ただ呑みこむ。
事実を呑んでしまえば肚も決まる、この覚悟に微笑んで英二は可能性を問い始めた。

「内科治療と外科治療がありますよね、どちらの方が登山への可能性は残りますか?」
「内科は気管支拡張剤や去痰剤の投与になりますが、肺機能の維持が目的で根治治療は望めません。外科は根治が狙えます、」
「手術で根治した場合、VO2maxは戻せなくても他で登山の力を補うことは出来ますか?手術のダメージにもよると思いますが、」
「ある程度を補うなら、SpO2の能力次第で可能性もあるでしょう。もし手術なら最小限のダメージに抑える方法を遣います、」

方法を遣う、そう告げた声は穏やかな覚悟に温かい。
このトーンに英二は信頼のまま尋ねた。

「先生、もし後藤さんが手術を選んだら、執刀医は先生が務めて下さるんですか?」
「はい、そのつもりです。ですからこれを、」

答えながら微笑んで白衣姿は椅子を回し、机の隅からファイルを取った。
そのまま英二に手渡すと、長い指でページを開いて医師は微笑んだ。

「肺気腫の症例と外科手術の事例をまとめてみました、執刀経験は御岳に戻ってからも何度かあります。それからね、このページですけど、」

穏やかな声と一緒に長い指はページを繰り、詳細な資料が現われる。
印刷された文字に図表、ボールペンの端正な筆跡が充ちる紙面を示し吉村は教えてくれた。

「登山の運動生理学についてまとめた資料です、肺気腫の治療と予後の可能性やトレーニングも書かれています。どれも雅樹の研究です、
雅樹はね、自分と国村くんのお父さんを被験体にして高地での人体について研究していました。どれも現場に役立つ内容で、ありがたいです、」

語る貌は愛惜にも明るい、そこには同じ山ヤの医師として息子を認める誇りがある。
生と死に別たれても父子は医学と山で繋がりあう、そんな姿への素直な賞賛に英二は微笑んだ。

「後藤さんも安心してますね、先生と雅樹さんに任せられるなら、」

後藤は山ヤとして医学生として雅樹を嘱望していた。
その雅樹の研究が後藤を生かす、そんな廻りの温もりに吉村医師も笑ってくれた。

「ありがとうございます、そう言って頂くのは本当に嬉しいんです。私にも雅樹にもね、」

本当に嬉しい、そうロマンスグレーの笑顔ほころぶ。
この笑顔を雅樹も喜んでいる、そう感じながら英二は率直に尋ねた。

「先生、今この話を俺にしてくれたのは富士登山があるからですよね?注意点や準備を教えて下さい、」

言いながらワイシャツの胸ポケットから手帳をだし、ペンを片手にページを開く。
その前で吉村もファイルのページを眺めながら説明を始めてくれた。

「まず歩く速度に気を付けて下さい、標高と斜度でATも変動します。とにかく疲労を押えて肺の負担を軽くすることを心掛けて下さい。
酸素の摂取が劣る状態ですから低酸素症も気を付けて下さい、順化のスピードも前とは違う可能性があります、無理は絶対に禁物です、」

話してくれる内容をメモし、対応を考えていく。
タイムスケジュールも組み直した方が良い、酸素ボンベも必要だろう。
そして何時でも下山する心構えがお互い必要だ、そんな思案に手を動かし溜息を呑む。

―今回が富士のピークハントは最後になるかもしれないって、たぶん後藤さんは覚悟してる。でも嫌だ、

今回がラスト、そんなことは嫌だ。
なんとか次へと繋げてあげたい、そう願うままペンを奔らせる。
何が自分には出来るのだろう?考えながらメモが終わり手帳を仕舞うと吉村医師が微笑んだ。

「でも良かったです、後藤さん、」
「え、」

何が良かったのだろう?
解らないまま目で問うた先、ロマンスグレーは笑ってくれた。

「宮田くんが一緒だから良かったです。今回の後藤さんの富士登山はね、もし君が一緒じゃなければ私もOK出来ませんでした。
だけど後藤さんでしょう?きっと手術するのでも内科治療でもね、今回が最後かもしれないって単独でも富士山に登ったと思うんです、」

自分が一緒だから良かった、そんな信頼は温かくて幸せだ。
自分はここが居場所、そう想える幸せに英二は綺麗に笑った。

「先生、最高の富士登山をしてきますね?次も一緒に登りたいって思えたら後藤さん、治療も頑張れると思うんです、」
「そうだね、きっとそうだよ?」

穏やかな笑顔で吉村はファイルを閉じ、そっとデスクに置いた。
机上の写真立に笑いかけて振り向くと、真直ぐ英二の瞳を見つめて言ってくれた。

「宮田くん、後藤さんの夢を叶えてあげて下さい。君にしかお願い出来ないことだから、」
「はい、」

短い言葉で頷いて、英二はテーブルのマグカップ2つ手にとった。
どちらも空になっている、それに時刻からも予想して英二は微笑んだ。

「先生、もう一杯いかがですか?たぶん藤岡たちも直に来ると思います、」
「ええ、お願いします、」

嬉しそうに頷いてくれる笑顔の後ろ、窓の黄昏は黄金あざやかになる。
ゆるやかに照らしていく夏の陽に微笑んで、ふと吉村医師は訊いてくれた。

「藤岡くん達ってことは、彼も初参加ですか?」

指摘通り、今夕は初参加者がいる。
それが楽しくて英二は流しに立ちながら、明るく笑った。

「はい、初参加してくれます、」
「それは良かった。赴任されてもう2週間以上になりますね、お茶に来るのならだいぶ馴染まれたのかな?」

吉村も楽しそうに笑って、また菓子箱から小皿に取り分けてくれる。
さっきと違う茶菓子に微笑んで、英二は相談してみたかったことに口を開いた。

「はい、だいぶ馴染んでくれたと思うんですけど。でも、たまに態度が変なんですよね?」
「おや、どう変なんですか?」

どういうことだろう?
そう眼差しが英二に問いかけて、けれどノックが響いた。

「噂をすれば、ですね?」

可笑しそうに吉村が笑ってくれて、つい一緒に笑ってしまう。
そんな診察室へとがらり扉は開かれて、人の好い笑顔と声が入ってきた。

「失礼します、先生、原さんも誘ってきましたよ、」

いつもの明快なトーンで藤岡は笑い、後ろの男を引っ張りこんだ。
制服を引っ張られるまま登山靴は踏みこんで、日焼顔は照れくさげに少し笑った。

「吉村先生、ご一緒しても良いですか?」
「もちろんです、」

楽しげな笑顔で迎えてくれる、そんな吉村に原の顔は安堵ほころんだ。





【引用詩:William Wordsworth「Intimations of Immortality from Recollections of Early Childhood」XI】

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