対話、真実と嘘と秘するもの
第62話 夜秋act.3―side story「陽はまた昇る」
午後22時43分、止んだ雨は水蒸気となって覆いだす。
立ち籠めゆく霧こまやかに視界を塞ぎ、昏い白闇に山は姿を変えてゆく。
もうヘッドライトの照域は1mを切った、予想どおりの天候変化に英二は立ち止まった。
「原さん、霧が晴れるまで止まりましょう、」
「ああ、」
頷いて原はトランジスターメガホンを切り、尾根の整地を始めた。
よく馴れた手並みを眺めながら英二は、後藤へ無線を繋いだ。
「宮田です、水根山下の分岐から榧ノ木へ戻る中間点にて、視界1mを切りました。ここで休止します、」
「お疲れさん、こっちも座ったとこだよ。山井や岩崎たちもだ、どこも霧に巻かれてなあ。いつ頃に晴れると思うかい?」
後藤の声に英二は空を仰ぎ、瞳を細めた。
ヘッドライトは水蒸気に遮られ梢に届かない、風はゆるまり霧の流れも遅く徐々に気温は下がっていく。
まだ暫く時は掛かりそうだ、その判断に無線機の向こうへと困りながら答えた。
「午前1時を過ぎれば晴れ始めると思います、ただ気温の低下が心配です、」
冷たい霧と気温低下、この天候に後藤の体調が気遣われる。
肺の病に湿度と低温は優しくない、その心配に後藤は笑ってくれた。
「やっぱり2時間は懸るか、このままビバークの方が良さそうだなあ。俺たちは焚火でも始めるよ、遭難者に光が見えるかもしれんしな、」
いかなる山でも公式には焚火の肯定がされない、けれど緊急的に野営するビバークでは許される。
濃霧に巻かれた今は緊急時だ、この焚火に2つの効果をみて英二は微笑んだ。
「俺たちも焚火します、熊避けにも必要なので。後藤さん、よく体を乾かして冷えないようにして下さいね、」
「ああ、そうするよ。吉村にも言われてるからなあ、お?山井たちから連絡らしいぞ、」
無線機の向こうで話し声が起ち、呆れたような声が笑っている。
もしかすると遭難者発見だろうか?期待と耳傾けると後藤が教えてくれた。
「いま山井たちが遭難者の位置確認したぞ、鷹ノ巣南面の林を歩き回っていたらしい。呼びかけの最中からさっきまでな、」
呼びかけの最中も歩きまわっていた?
その予想外な解答に思わず訊き直した。
「救助要請した後も、ご本人たちで歩いて、場所を移動していたってことですか?」
「そうなんだよ、ペンライトを頼りに動いてたらしいよ。道理でなかなか見つからんはずだよなあ?」
呆れながらも安堵した声が無線機の向こう笑っている。
下手に歩きまわられたら追いかけっこと同じだ、困りながらも英二は笑ってしまった。
「3時間以上ずっと俺たち、追いかけっこの鬼をしていたんですね?」
「全くそのとおりだよ、行動不能って呼びだされた筈なんだがなあ?国村が居たら大変だったぞ、なあ?」
明るい声が笑うよう、光一が居たら確実に怒っている。
その役目も自分が手本にすべきかもしれない、そんな想いに英二は微笑んだ。
「そんなに動けるなら自力で下山しろって怒鳴るでしょうね?たぶん暗闇が不安で、縋る気持ちから動き回ったのだと理解は出来ます。
けれど装備も不十分な初心者が夜歩きまわることは危険です、熊の生息地でもありますし。国村ほどではなくても注意は必要と思います、」
夜の山は野生獣たちが往還し、下手な出遭いかたをすれば事故になる。
その危惧も光一を尚更に怒らせるだろう、そう思案した向こうで後藤も頷いてくれた。
「ああ、きちんと言わなきゃいけないよ。しかしまさかなあ、勝手に動き回られてるとは思わんかったよ?雨の時はじっとしてたらしいがね、」
「それくらい元気があるなら良かったですけど、夏でも雨や霧の疲労凍死は怖いです。その方達も、無事にビバーク出来そうですか?」
「霧で見えないらしいが山井たちが近くにいるからな、まず大丈夫だろうよ。おまえさんこそ今夜、良い機会になるんじゃないかい?」
業務連絡の締めに上司らしい気遣いが笑ってくれる。
もう異動前から後藤は、原と英二が上手くやっていけるのか心配と期待をしてくれた。
その言葉に笑って英二は東の尾根へ顔を向けて、敬愛する上司へと返事した。
「はい、折角なのでそうさせて頂きます。教わりたいこともありますし、」
「そうするといい、山で焚火囲むのは良いもんだ。じゃあ朝にまたな、」
「はい、また行動開始の時にご連絡します、」
笑いあって無線を切ると尾根は車座に均されて、焚き木が器用に組まれてある。
その傍ら屈みこんだ原の手元から朱色の光は起きて、すぐに小さな火は炎に育つ。
濃霧に重たい空気のなか雨濡れた山でも素早い点火ができる、その技能が原にはある。
インターハイの山岳部入賞者らしい手並みに感心しながら、英二は報告と予定に微笑んだ。
「原さん、遭難者の居場所が確認出来たそうです。鷹ノ巣山南面の林で山井さん達が傍にいます、全員でビバークして明朝に撤収です、」
「了解、」
報告に顔を上げ頷くと原はザックを下し、乾いた倒木に腰を据えた。
焚火に目配りしながらテルモスの水を飲む、そんな様子はさすが慣れている。
その斜向かいに英二も座って、ザックから包みを出すと原に渡した。
「握飯です、3つとも梅干しですが、」
「あ、どうも、」
ちょっと驚いたよう瞬いて、けれど素直に受けとってくれる。
グローブを外し包みを開きながら低い声は訊いてきた。
「これ、どうしたんだ?」
「寮の食堂から差入です、着替えに戻った時に頂きました。藤岡と大野さんにも渡してあります、」
笑いかけ説明しながら合掌すると、英二はひとつ頬張った。
いつもながら旨い塩加減に微笑んだ向かい、精悍な瞳が笑んだ。
「あんたって好かれるな、」
これは褒め言葉だ、そう目で笑って原は握飯をかじった。
その口許が「旨い」と笑ってくれる、こんな寡黙なりの表現が原は男っぽくていい。
今まで自分の周囲に居なかったタイプだな、そんな観察と握飯を呑みこむと低い声が尋ねた。
「無線で追いかけっこって言ってたな、遭難者は歩き回っていたのか?」
「はい、ペンライトを頼りに歩けたそうです、」
正直に事実を告げて笑いかける、その先で凛々しい眉が顰められた。
いくらか難しい貌のまま握飯ひとくち齧って、飲みこむと原は呆れたよう微笑んだ。
「困ったもんだな、だから国村さんは怒鳴り屋なのか、」
後藤との会話に「そんなに動けるなら自力で下山しろって怒鳴るでしょうね?」と自分は答えた。
そこから原は察して納得したらしい、この同僚の理解に英二は笑いかけた。
「はい、国村は山が好きな分だけ厳しいんです、」
厳しく美しい山っ子、そんな自分のパートナーが懐かしくなる。
今頃、第七機動隊の寮で周太と救急法を勉強中だろうか?そう想い馳せる焚火の前で原が笑った。
「そういうの良いな、」
短い言葉、けれど同じ山ヤの共感が笑っている。
愛嬌の笑顔ほころばせ、朱色きらめく炎を見ながら原は口を開いた。
「国村さんのクライミング、前に合同訓練で見たんだ。きれいなフォームで凄い速かった、マジで見惚れたよ、」
いつもの一本調子は率直な憧憬がにじんで明るい。
同じ山ヤとして才能を敬愛する、その素直な朴訥へと英二は微笑んだ。
「国村は本当にすごいって俺も思います、アイガーもマッターホルンも綺麗に登っていました、」
「そうだろうな、」
相槌と握飯を口にして笑う、その笑顔がすこし苦い。
いま北壁を話題にした所為だろうか?考えながら英二は握飯を呑みこんだ。
食べ終えてテルモスの水を飲み、いつものオレンジの飴を口に入れると香の記憶が笑った。
―…俺の好きにして良いって英二、言ったよね?ね、痛い?
先週末に逢ったとき周太は優しく笑って、英二の頬を抓ってくれた。
あんなことは誰にもされた事が無い、あの初めては痛くてひどく幸せだった。
―また逢ったときに周太、つねって笑ってくれるかな?
抓られた左頬そっと掌ふれて、つい考えた事に笑ってしまう。
恋人に抓られて喜ぶ自分は、幾らかマゾっ気があるのだろうか?
けれど、もし他の誰かに同じことをされたら自分は必ず怒るだろう。
―だから俺、限定マゾってことだ?
心裡に結論つぶやいて、可笑しくて独り笑ってしまう。
こんな馬鹿を考えることも幸せで嬉しい、けれど自分の弱さに失う所だった。
そうなれば自分は生きられないと思う、けれどアイガーの夜を後悔していない、本当は光一への想いも消せない。
こういう自分の身勝手さに呆れたまま一週間が経つ、それでも今、口のなか転がすオレンジの香に伴侶の記憶は温かい。
―…ありがとう、逢いに来てくれて嬉しかった
嬉しかった、そう言われて心がふるえた。
もう逢いたくないと拒絶される、そう覚悟してあのとき逢いに行った。
それでも本当は離したくなくて、再会の瞬間に謝罪して懺悔してしまった。
あの瞳を見た瞬間に跪いて縋りたかった、攫っても閉じこめても離せないと想った。
こんな自分勝手すぎる恋愛と感情を周太は解っている、それでも拒絶しないで微笑んでくれる。
―そういう周太だから安らげるんだ、俺は…そこが光一への気持ちと全然違う、
この違いに気付けたのは、あの夜があったから。
そう想うけれど傷つけたことも失ったことも、周太と光一ふたりに対してある。
こんな愚かな自分に呆れながら、それでも全てを呑んで微笑むと英二は小さい瓶2つ出した。
「原さん、」
呼びかけて振向いた先輩に、ぽんと1つ軽く投げる。
すぐ受けとった手の中を見た原の貌は、焚火の灯を前に笑った。
「ブランデーかよ、持ち歩いてんのか?」
ゆれる炎に小瓶の銘柄を笑って、意外そうな眼差しを向けてくれる。
その目に笑いかけて英二は、瓶の蓋を手元に開きながら正直に答えた。
「気付け用にですけどね、少量なら効果がありますから、」
アルコールは俗に言われる体温上昇の効果は一過性な為に期待出来ない。
けれど脳内のドーパミン増加から精神を高揚させるため、気付け薬には遣える。
その目的で常備はしてあるけれど、実際に山で開栓することは今が初めてだ。それも愉快で英二は小瓶を掲げ微笑んだ。
「ゆっくり飲んで下さいね、山は回りが早いので、」
「ああ、」
かすかに笑って原も小瓶に口付け、ほっと息吐いた。
英二も少し舐めるよう口にして、ふっと甘い熱が舌に広がっていく。
久しぶりの味と香に微笑んだ斜め隣から、低い声がすこし笑った。
「あんた、意外なところが多いな、」
意外だ、そう原が言う時はいつも笑ってくれる。
この辺りから色々と聴いてみたくて、綺麗に笑って問いかけた。
「俺のどんなところを、意外だって思うんですか?」
「まず、酒だな、」
手の小瓶を焚火に翳し、精悍な瞳が笑う。
山の炎ゆれる貌が原は似合っている、そんな感想と微笑んだ先で低い声は続けた。
「寮の屋上で酒は飲むし、今も飲んでる、単なる優等生タイプじゃなくて意外だよ。あと、あんたって意外にドジるだろ?」
優等生タイプじゃなくて意外、意外にドジる。
これは吉村医師も指摘してくれた事だ、可笑しく楽しくて英二は笑った。
「よく噎せたりすることですか?」
「それもある、」
ひとこと言って、日焼顔が軽く首傾げこんだ。
焚火を透かすよう精悍な目が真直ぐ見つめてくる、その眼差しは微かに途惑う。
この一週間ほど原が時おりする表情を今も見て、聴いてみたいまま綺麗に笑いかけた。
「原さん、先週の土曜から俺に言いたいことがありませんか?」
「え、」
かすかな驚きこぼして、精悍な目がすこし大きくなる。
やっぱり土曜に何か原因があった、確信に微笑んで英二は問いかけた。
「先週の土曜日に秀介の勉強をみた後からです、原さん、俺に対して線引きしてますよね?何か俺が失礼な事をしたのなら教えて下さい、」
「いや、失礼な事は無い、」
はっきり否定して少し笑ってくれる、けれど困った空気は変わらない。
ゆっくり流れていく厚い霧に火影ゆらぐ、その陰翳に原はため息ひとつで口を開いた。
「あのときデートしてきたんだろって俺は訊いた、あんたは肯定したよ。でも2年坊主は『しゅうた』とあんたが会ってたって言ったんだ。
それから考えこんでるよ、『しゅうた』って女の名前があるのか、犬とか動物なのか、やっぱり人間の男なのか。いわゆる詮索ってヤツだよ、」
そんなこと1週間も考え込んでいたんだ?
しかも寡黙な原が長く一息に喋った、それくらい懸案事項なのだろうな?
そう思った途端に可笑しくて笑ってしまう、けれど笑いごとでは済まない。
この「詮索」への解答は自身と周囲の今後を決定する「答え」になる、決して安易に出来ない。
―選択肢は二つだ、嘘か真実か?
真実を選ぶなら、周太がデートの相手で恋人だとカミングアウトする。
それは同性愛の偏見に直面するリスクが高い、その痛みを周太にも負わせるかもしれない。
英二の立場、職務、階級に関わる全員、光一をはじめ後藤副隊長に吉村医師、父まで連座させる可能性がある。
もし嘘を選ぶなら周太は大切な友達だと言えばいい、それで体面は保てるだろう。
けれど原は本心から納得は出来ない、それくらい思慮もある男だと2週間で解かっている。
なにより、男同士の恋愛は日陰者なのだと自ら認めて貶めることになる、それは自分自身が赦せない。
偏見のリスクに今の自分が、その責任全てを負う事が出来るのか?
同性愛は偏見の対象だと自認して「嘘」に誇り捨てる選択が出来るのか?
この選択を今、ここで自分だけでしなくてはいけない。
いま周太に赦しを乞えない、光一の許可も得られない、美幸にも後藤にも吉村にも誰にも相談できない。
それでも自分は今ここで独り「正解」を見極めるしかない、そんな想いに英二は隊服の胸元を右掌にそっと掴んだ。
―馨さん、今、全てを懸けて馬鹿をやっても、赦してくれますか?
レインスーツと隊服と化繊のTシャツ、3枚の布越しに堅く確かな輪郭をなぞり心に俤を想う。
この合鍵で書斎机の抽斗は13年を超えて開き、馨の日記帳と今の運命が自分に贈られた。
紺青色の表紙に秘めた苦悩と幸福の過去たち、あの全てに導かれ今この自分は此処にある。
だから誰より馨に赦しを祈りたい、そう微笑んで英二は右掌を披き質問へ綺麗に笑った。
「周太は俺の大切な人だよ、瞳と笑顔が綺麗な男なんだ、」
真直ぐな想い、そのままに笑った唇にブランデーほろ苦く、けれどオレンジの香は温かい。
(to be continued)
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第62話 夜秋act.3―side story「陽はまた昇る」
午後22時43分、止んだ雨は水蒸気となって覆いだす。
立ち籠めゆく霧こまやかに視界を塞ぎ、昏い白闇に山は姿を変えてゆく。
もうヘッドライトの照域は1mを切った、予想どおりの天候変化に英二は立ち止まった。
「原さん、霧が晴れるまで止まりましょう、」
「ああ、」
頷いて原はトランジスターメガホンを切り、尾根の整地を始めた。
よく馴れた手並みを眺めながら英二は、後藤へ無線を繋いだ。
「宮田です、水根山下の分岐から榧ノ木へ戻る中間点にて、視界1mを切りました。ここで休止します、」
「お疲れさん、こっちも座ったとこだよ。山井や岩崎たちもだ、どこも霧に巻かれてなあ。いつ頃に晴れると思うかい?」
後藤の声に英二は空を仰ぎ、瞳を細めた。
ヘッドライトは水蒸気に遮られ梢に届かない、風はゆるまり霧の流れも遅く徐々に気温は下がっていく。
まだ暫く時は掛かりそうだ、その判断に無線機の向こうへと困りながら答えた。
「午前1時を過ぎれば晴れ始めると思います、ただ気温の低下が心配です、」
冷たい霧と気温低下、この天候に後藤の体調が気遣われる。
肺の病に湿度と低温は優しくない、その心配に後藤は笑ってくれた。
「やっぱり2時間は懸るか、このままビバークの方が良さそうだなあ。俺たちは焚火でも始めるよ、遭難者に光が見えるかもしれんしな、」
いかなる山でも公式には焚火の肯定がされない、けれど緊急的に野営するビバークでは許される。
濃霧に巻かれた今は緊急時だ、この焚火に2つの効果をみて英二は微笑んだ。
「俺たちも焚火します、熊避けにも必要なので。後藤さん、よく体を乾かして冷えないようにして下さいね、」
「ああ、そうするよ。吉村にも言われてるからなあ、お?山井たちから連絡らしいぞ、」
無線機の向こうで話し声が起ち、呆れたような声が笑っている。
もしかすると遭難者発見だろうか?期待と耳傾けると後藤が教えてくれた。
「いま山井たちが遭難者の位置確認したぞ、鷹ノ巣南面の林を歩き回っていたらしい。呼びかけの最中からさっきまでな、」
呼びかけの最中も歩きまわっていた?
その予想外な解答に思わず訊き直した。
「救助要請した後も、ご本人たちで歩いて、場所を移動していたってことですか?」
「そうなんだよ、ペンライトを頼りに動いてたらしいよ。道理でなかなか見つからんはずだよなあ?」
呆れながらも安堵した声が無線機の向こう笑っている。
下手に歩きまわられたら追いかけっこと同じだ、困りながらも英二は笑ってしまった。
「3時間以上ずっと俺たち、追いかけっこの鬼をしていたんですね?」
「全くそのとおりだよ、行動不能って呼びだされた筈なんだがなあ?国村が居たら大変だったぞ、なあ?」
明るい声が笑うよう、光一が居たら確実に怒っている。
その役目も自分が手本にすべきかもしれない、そんな想いに英二は微笑んだ。
「そんなに動けるなら自力で下山しろって怒鳴るでしょうね?たぶん暗闇が不安で、縋る気持ちから動き回ったのだと理解は出来ます。
けれど装備も不十分な初心者が夜歩きまわることは危険です、熊の生息地でもありますし。国村ほどではなくても注意は必要と思います、」
夜の山は野生獣たちが往還し、下手な出遭いかたをすれば事故になる。
その危惧も光一を尚更に怒らせるだろう、そう思案した向こうで後藤も頷いてくれた。
「ああ、きちんと言わなきゃいけないよ。しかしまさかなあ、勝手に動き回られてるとは思わんかったよ?雨の時はじっとしてたらしいがね、」
「それくらい元気があるなら良かったですけど、夏でも雨や霧の疲労凍死は怖いです。その方達も、無事にビバーク出来そうですか?」
「霧で見えないらしいが山井たちが近くにいるからな、まず大丈夫だろうよ。おまえさんこそ今夜、良い機会になるんじゃないかい?」
業務連絡の締めに上司らしい気遣いが笑ってくれる。
もう異動前から後藤は、原と英二が上手くやっていけるのか心配と期待をしてくれた。
その言葉に笑って英二は東の尾根へ顔を向けて、敬愛する上司へと返事した。
「はい、折角なのでそうさせて頂きます。教わりたいこともありますし、」
「そうするといい、山で焚火囲むのは良いもんだ。じゃあ朝にまたな、」
「はい、また行動開始の時にご連絡します、」
笑いあって無線を切ると尾根は車座に均されて、焚き木が器用に組まれてある。
その傍ら屈みこんだ原の手元から朱色の光は起きて、すぐに小さな火は炎に育つ。
濃霧に重たい空気のなか雨濡れた山でも素早い点火ができる、その技能が原にはある。
インターハイの山岳部入賞者らしい手並みに感心しながら、英二は報告と予定に微笑んだ。
「原さん、遭難者の居場所が確認出来たそうです。鷹ノ巣山南面の林で山井さん達が傍にいます、全員でビバークして明朝に撤収です、」
「了解、」
報告に顔を上げ頷くと原はザックを下し、乾いた倒木に腰を据えた。
焚火に目配りしながらテルモスの水を飲む、そんな様子はさすが慣れている。
その斜向かいに英二も座って、ザックから包みを出すと原に渡した。
「握飯です、3つとも梅干しですが、」
「あ、どうも、」
ちょっと驚いたよう瞬いて、けれど素直に受けとってくれる。
グローブを外し包みを開きながら低い声は訊いてきた。
「これ、どうしたんだ?」
「寮の食堂から差入です、着替えに戻った時に頂きました。藤岡と大野さんにも渡してあります、」
笑いかけ説明しながら合掌すると、英二はひとつ頬張った。
いつもながら旨い塩加減に微笑んだ向かい、精悍な瞳が笑んだ。
「あんたって好かれるな、」
これは褒め言葉だ、そう目で笑って原は握飯をかじった。
その口許が「旨い」と笑ってくれる、こんな寡黙なりの表現が原は男っぽくていい。
今まで自分の周囲に居なかったタイプだな、そんな観察と握飯を呑みこむと低い声が尋ねた。
「無線で追いかけっこって言ってたな、遭難者は歩き回っていたのか?」
「はい、ペンライトを頼りに歩けたそうです、」
正直に事実を告げて笑いかける、その先で凛々しい眉が顰められた。
いくらか難しい貌のまま握飯ひとくち齧って、飲みこむと原は呆れたよう微笑んだ。
「困ったもんだな、だから国村さんは怒鳴り屋なのか、」
後藤との会話に「そんなに動けるなら自力で下山しろって怒鳴るでしょうね?」と自分は答えた。
そこから原は察して納得したらしい、この同僚の理解に英二は笑いかけた。
「はい、国村は山が好きな分だけ厳しいんです、」
厳しく美しい山っ子、そんな自分のパートナーが懐かしくなる。
今頃、第七機動隊の寮で周太と救急法を勉強中だろうか?そう想い馳せる焚火の前で原が笑った。
「そういうの良いな、」
短い言葉、けれど同じ山ヤの共感が笑っている。
愛嬌の笑顔ほころばせ、朱色きらめく炎を見ながら原は口を開いた。
「国村さんのクライミング、前に合同訓練で見たんだ。きれいなフォームで凄い速かった、マジで見惚れたよ、」
いつもの一本調子は率直な憧憬がにじんで明るい。
同じ山ヤとして才能を敬愛する、その素直な朴訥へと英二は微笑んだ。
「国村は本当にすごいって俺も思います、アイガーもマッターホルンも綺麗に登っていました、」
「そうだろうな、」
相槌と握飯を口にして笑う、その笑顔がすこし苦い。
いま北壁を話題にした所為だろうか?考えながら英二は握飯を呑みこんだ。
食べ終えてテルモスの水を飲み、いつものオレンジの飴を口に入れると香の記憶が笑った。
―…俺の好きにして良いって英二、言ったよね?ね、痛い?
先週末に逢ったとき周太は優しく笑って、英二の頬を抓ってくれた。
あんなことは誰にもされた事が無い、あの初めては痛くてひどく幸せだった。
―また逢ったときに周太、つねって笑ってくれるかな?
抓られた左頬そっと掌ふれて、つい考えた事に笑ってしまう。
恋人に抓られて喜ぶ自分は、幾らかマゾっ気があるのだろうか?
けれど、もし他の誰かに同じことをされたら自分は必ず怒るだろう。
―だから俺、限定マゾってことだ?
心裡に結論つぶやいて、可笑しくて独り笑ってしまう。
こんな馬鹿を考えることも幸せで嬉しい、けれど自分の弱さに失う所だった。
そうなれば自分は生きられないと思う、けれどアイガーの夜を後悔していない、本当は光一への想いも消せない。
こういう自分の身勝手さに呆れたまま一週間が経つ、それでも今、口のなか転がすオレンジの香に伴侶の記憶は温かい。
―…ありがとう、逢いに来てくれて嬉しかった
嬉しかった、そう言われて心がふるえた。
もう逢いたくないと拒絶される、そう覚悟してあのとき逢いに行った。
それでも本当は離したくなくて、再会の瞬間に謝罪して懺悔してしまった。
あの瞳を見た瞬間に跪いて縋りたかった、攫っても閉じこめても離せないと想った。
こんな自分勝手すぎる恋愛と感情を周太は解っている、それでも拒絶しないで微笑んでくれる。
―そういう周太だから安らげるんだ、俺は…そこが光一への気持ちと全然違う、
この違いに気付けたのは、あの夜があったから。
そう想うけれど傷つけたことも失ったことも、周太と光一ふたりに対してある。
こんな愚かな自分に呆れながら、それでも全てを呑んで微笑むと英二は小さい瓶2つ出した。
「原さん、」
呼びかけて振向いた先輩に、ぽんと1つ軽く投げる。
すぐ受けとった手の中を見た原の貌は、焚火の灯を前に笑った。
「ブランデーかよ、持ち歩いてんのか?」
ゆれる炎に小瓶の銘柄を笑って、意外そうな眼差しを向けてくれる。
その目に笑いかけて英二は、瓶の蓋を手元に開きながら正直に答えた。
「気付け用にですけどね、少量なら効果がありますから、」
アルコールは俗に言われる体温上昇の効果は一過性な為に期待出来ない。
けれど脳内のドーパミン増加から精神を高揚させるため、気付け薬には遣える。
その目的で常備はしてあるけれど、実際に山で開栓することは今が初めてだ。それも愉快で英二は小瓶を掲げ微笑んだ。
「ゆっくり飲んで下さいね、山は回りが早いので、」
「ああ、」
かすかに笑って原も小瓶に口付け、ほっと息吐いた。
英二も少し舐めるよう口にして、ふっと甘い熱が舌に広がっていく。
久しぶりの味と香に微笑んだ斜め隣から、低い声がすこし笑った。
「あんた、意外なところが多いな、」
意外だ、そう原が言う時はいつも笑ってくれる。
この辺りから色々と聴いてみたくて、綺麗に笑って問いかけた。
「俺のどんなところを、意外だって思うんですか?」
「まず、酒だな、」
手の小瓶を焚火に翳し、精悍な瞳が笑う。
山の炎ゆれる貌が原は似合っている、そんな感想と微笑んだ先で低い声は続けた。
「寮の屋上で酒は飲むし、今も飲んでる、単なる優等生タイプじゃなくて意外だよ。あと、あんたって意外にドジるだろ?」
優等生タイプじゃなくて意外、意外にドジる。
これは吉村医師も指摘してくれた事だ、可笑しく楽しくて英二は笑った。
「よく噎せたりすることですか?」
「それもある、」
ひとこと言って、日焼顔が軽く首傾げこんだ。
焚火を透かすよう精悍な目が真直ぐ見つめてくる、その眼差しは微かに途惑う。
この一週間ほど原が時おりする表情を今も見て、聴いてみたいまま綺麗に笑いかけた。
「原さん、先週の土曜から俺に言いたいことがありませんか?」
「え、」
かすかな驚きこぼして、精悍な目がすこし大きくなる。
やっぱり土曜に何か原因があった、確信に微笑んで英二は問いかけた。
「先週の土曜日に秀介の勉強をみた後からです、原さん、俺に対して線引きしてますよね?何か俺が失礼な事をしたのなら教えて下さい、」
「いや、失礼な事は無い、」
はっきり否定して少し笑ってくれる、けれど困った空気は変わらない。
ゆっくり流れていく厚い霧に火影ゆらぐ、その陰翳に原はため息ひとつで口を開いた。
「あのときデートしてきたんだろって俺は訊いた、あんたは肯定したよ。でも2年坊主は『しゅうた』とあんたが会ってたって言ったんだ。
それから考えこんでるよ、『しゅうた』って女の名前があるのか、犬とか動物なのか、やっぱり人間の男なのか。いわゆる詮索ってヤツだよ、」
そんなこと1週間も考え込んでいたんだ?
しかも寡黙な原が長く一息に喋った、それくらい懸案事項なのだろうな?
そう思った途端に可笑しくて笑ってしまう、けれど笑いごとでは済まない。
この「詮索」への解答は自身と周囲の今後を決定する「答え」になる、決して安易に出来ない。
―選択肢は二つだ、嘘か真実か?
真実を選ぶなら、周太がデートの相手で恋人だとカミングアウトする。
それは同性愛の偏見に直面するリスクが高い、その痛みを周太にも負わせるかもしれない。
英二の立場、職務、階級に関わる全員、光一をはじめ後藤副隊長に吉村医師、父まで連座させる可能性がある。
もし嘘を選ぶなら周太は大切な友達だと言えばいい、それで体面は保てるだろう。
けれど原は本心から納得は出来ない、それくらい思慮もある男だと2週間で解かっている。
なにより、男同士の恋愛は日陰者なのだと自ら認めて貶めることになる、それは自分自身が赦せない。
偏見のリスクに今の自分が、その責任全てを負う事が出来るのか?
同性愛は偏見の対象だと自認して「嘘」に誇り捨てる選択が出来るのか?
この選択を今、ここで自分だけでしなくてはいけない。
いま周太に赦しを乞えない、光一の許可も得られない、美幸にも後藤にも吉村にも誰にも相談できない。
それでも自分は今ここで独り「正解」を見極めるしかない、そんな想いに英二は隊服の胸元を右掌にそっと掴んだ。
―馨さん、今、全てを懸けて馬鹿をやっても、赦してくれますか?
レインスーツと隊服と化繊のTシャツ、3枚の布越しに堅く確かな輪郭をなぞり心に俤を想う。
この合鍵で書斎机の抽斗は13年を超えて開き、馨の日記帳と今の運命が自分に贈られた。
紺青色の表紙に秘めた苦悩と幸福の過去たち、あの全てに導かれ今この自分は此処にある。
だから誰より馨に赦しを祈りたい、そう微笑んで英二は右掌を披き質問へ綺麗に笑った。
「周太は俺の大切な人だよ、瞳と笑顔が綺麗な男なんだ、」
真直ぐな想い、そのままに笑った唇にブランデーほろ苦く、けれどオレンジの香は温かい。
(to be continued)
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